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第二章

27. 逃避行

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 彼のことは、よく知っていた。
 よく知っていた、筈だった。

 綿菓子のように白く滑らかな肌。
 ミルクティーのように甘そうな髪。
 宝石を詰め込んだようなヘーゼルの瞳。

 それは、どこまでも甘い。
 俺だけの……、王子様。

 けれど、それは幻だったのだろうか。

(そっか……、そうだったんだ……)

 所詮俺は、彼のことを何も知らないんだ。


 俺は、とにかく息を殺して、一人静かに寝室へと戻った。幸いにも背を向けていた早川は気づかなかったようだ。
 暫くして、早川が寝室に戻ってきた。
「蒼大くん」
 静かな、でもハッキリした声だった。
 何やらこちらを覗き込むような気配がするが、俺は咄嗟に寝たフリをする。
「気のせい……か」
 すると、どこか安心したような溜息と共に大きな手が俺の髪を撫でた。いつもなら喜んで受け入れている筈の手からは、やはり慣れない香りがする。
(あなたは、だれ……?)
 心の中で、叫ぶ。
 けれど、それを確かめる勇気が出ない。
 俺は、彼に悟られないように必死に寝たふりをして夜が明けるのを待った。


 そして、一睡もできないまま迎えた早朝。
 重い瞼を開けば、目の前にはいつも通りの早川の寝顔があった。
 優しく俺を抱き寄せる腕も、美しい瞳を隠す長い睫毛も、なにも変わらない。
 でも、微かに香る薔薇の香りだけがいつもと違った。たったそれだけで、昨夜の姿が夢ではないと思い知らされる。

「やっぱり、もう無理なのかな……」

 服は適当なものに着替え、必要最低限の財布とスマホだけはポケットに捩じ込む。

 支度が終わると、俺はそっと玄関のドアを開け、外へと出ていった。


 早朝の街は、静かだった。
 それから俺は、頭を過ぎるミルクティー色を無理矢理追い出し、ひたすら歩いた。
 行く宛なんてないのに、それでも、今だに怠い体を必死に動かす。
 しかし、歩けば歩くほど、彼と一緒に歩いた遊歩道や行きつけのスーパーが目に入ってしまい、その度に胸が締め付けられた。
(全部、嘘だったのかな……)
 そんな景色から少しでも遠くへ行こうとした時だった。

 ポケットのスマホが、着信を告げる。

 それが誰からなんてことは、俺は分かりきっていた。それでも、気づかないフリをして、歩き続けた。
 ようやく日常が動き始めた街並みを眺めながらバスに乗り込み、より遠くまで行こうともがき足掻く。
 とにかく俺は、彼との日常から逃げ出したかったんだ。

 それなのに、何故だろうか。
 何も考えずに歩いていた筈の足は、自然と慣れたところへ向かってしまいー……


「………………まじか」


 辿り着いたのは、早川と初めて外出した時に訪れた、あの大きな書店だった。
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