黎明の花嫁

一色

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9. 呼名

 僕は縁側に腰掛け悩んでいた。

 四季の花々が咲き乱れる幻想的な庭には目も暮れずに、小枝を片手に地面と睨めっこする。土の上に文字を書いては消して、消しては書いてを繰り返しながら低く唸った。

「山神様の……、名前」

 祖父から教わった漢字を幾つか綴るが、納得のいくものは中々ない。

 疲れて空を見上げた時だった。

 そよ風に乗り、桜の花弁が頬を撫でた。


 そうだ。
 出会った山を彩る季節はー……



「春……、はる…………」


 と読む漢字を知っている限り書き出してゆく。
 夢中で考えていると、カリカリと土を削る先に、うるし塗りの下駄が見えた。慌てて顔を上げた先には、思った通りのお方がいる。
 口を開こうとするが、先に声を発したのは彼の方だった。


「蒼よ。朝の事は忘れてくれ」


 そんな台詞に、喉元まで出掛かっていた言葉が詰まる。

「なぜでしょうか……?」
「我らは本来、人の目に見えぬ存在。名を与えるということは、其方が我の存在をに等しいということだ」
「受け入れる?」
「左様だ。だからー……」

 面布に隠された顔の表情を知ることは叶わないが、その声は何処か苦しそうでー……

 気づけば、僕は言葉を紡いでいた。


「それのどこがいけないのでしょう?」


 彼が、息を呑む音がした。
「其方は伝承を聞いたことがないのか?」
 その問いに、僕は首を左右に振った。

 ゆっくりと近づく下駄の音が鳴り響く。

「受け入れると言うことは、切り難い絆を生む。我との間に切れぬ絆ができてしまうということだ。そうなれば、いつか蒼が『帰りたい』と申したとき……」

 腕を伸ばされたかと思えば、温かい陽だまりのような香りに包まれた。


「きっと、其方を手放せぬ」


 抱き締める腕に、僅かに力が籠る。
 けれどその腕は、決して僕を傷つけないように優しく触れるだけであった。
 その声も、腕も、全てがどこか不安げで儚いものに思えてしまう。


 僕は、そっと手を伸ばし……


 広い背中を、抱きしめた。



はる様」



 陽だまりの香りに包まれながら、静かにその名を呼んだ。

みそぎ清められた、壮大な心を表す御言葉です。広い心で、僕を慈しんで下さる貴方様のような……」
「蒼……」
「それに、貴方様と出会えたのも春ですから音を重ねて……」
「蒼……っ!」


「良いのですっ!」


 咎めるような呼び掛けを、大きく遮る。
 情けなく緊張で震えそうになる声で、必死に彼に縋った。

「……良いのです。まだ日は浅く、僕は貴方様の事を何も知らない。けれど、あの村へ帰りたいなどと思うことはありません」


 まだ、出会ったばかりでー……
 僕は、生贄として捧げられた存在でー……


 けれど、僕は知っている。


 あの村にいた誰よりも、貴方が僕を大切にしようとしてくれていることを。


 だからー……


「御名前を呼ぶ事をお許し下さい」


 腕の中で、頭を下げる。
 震える手で、抱き締め続けた。


 次の瞬間ー……


「はっはっは!」


 高らかな笑い声と共に、僕の体は逞しい腕に抱き上げられて宙へと浮いた。

「ひゃぁっ……!」

 小さく悲鳴を上げれば、桜の花弁が舞う中で、彼は嬉しそうに此方を見上げている。

 束の間、見つめ合う。

 すると、彼は笑って言った。


「蒼よ。我は今から『はる』だ。どのように記すのか、文字も教えよ」


 その言葉に嬉しなり、大きく返事をする。


「……はいっ!」


 降ろされた僕は、もう一度小枝を拾い上げて、地面へと文字を記す。
 そこへ風神雷神も小枝を拾ってやってきて、賑やかになるのはまた別のお話。



 この縁側の落書き達は、暫く経った今も尚、消えていない。



 楽しかった日々の儚い名残なごりを、いつまでも残し続けていたー……
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