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第7話:子どもを返せぇっ!
しおりを挟むまた、夜が来た。
空は厚い雲に覆われて、辺りは真っ暗だ。
小麦畑一帯は、ぽつり、ぽつりと時雨れている。
雨は苦手だ……、と、ディーナは思う。
濡れると体が冷えるし、周りの臭いがまばらになって、全ての感覚が鈍る。
そんな不快感に加えて、思い出される苦い記憶……。
母親は、ディーナと違って、ただの人間だった。
父親が、人間とは別の種族、魔獣フェンリルだったのだと、ディーナは聞いている。
自分を生んでくれた母親は、毎日何かに怯えるように暮らしていた。
そして、いつの事だったか、はっきりとは覚えていないのだが……。
雨が降りしきる寒い日の事、母親に、ここで待っていろと、告げられて……、ディーナは一人、見知らぬ場所に置き去りにされた。
ディーナはずっと待っていた、何日も何日も、待っていた。
だが、迎えなど来るはずもなく、近くを通った孤児院の者に拾われたのだった。
雨が降ると、いつもあの時の事を思い出す。
だから、雨は苦手だ……。
しかしながら、今夜はいつもよりも、少し気持ちが楽だった。
隣に立つペチェが、明るく笑いかけてくれるからだ。
ペチェは雨が好きなようで、両手を広げて、嬉しそうに、全身に雨を浴びている。
「ディーナさん。雨は天からの恵みです。雨のおかげで、植物は育つのです」
そんな風に、考えた事もなかったな……。
辺りは真っ暗闇だというのに、なぜかそこにいるペチェの存在だけは、ディーナには白く輝いて見えるのだった。
そして、その目に見えぬ光に引き寄せられたものがもう一つ……。
スレーンの森の木々の陰に隠れて、じっと二人を見つめていた。
ディーナの耳が、それをいち早く察知した。
草を踏みしめる、大きな足音。
押し殺しているのだろう、それでも荒い息遣い。
雨の臭いに混じっているのは、明らかに獣人のものとは違う、野生の獣臭。
「……ペチェ、こっちへ来い」
少し離れた場所にいたペチェの腕を引いて、自らの背に隠すディーナ。
只ならぬ気配をペチェも感じ取ったらしい、じっと息を潜める。
ズシャリ、ズシャリと、雨に濡れた地面を踏み分けて、木々の間から姿を現した巨大な魔物。
深緑色の体毛に覆われたその体は、ディーナの四倍はありそうだ。
その四肢の先にある蹄は太く、いきり立っているかのように草を何度も踏みしめる。
額に角がないところを見ると雌のようだが、その体格は雄とさほど大差がない。
何よりも恐怖を掻きたてるのは、顔の左右に二つずつある、四つの瞳。
それらは決して死角を作るまいと、ギョロギョロと四方八方に蠢いている。
「グモォォ~!」
威嚇しているかの如く、声を上げたそれは、間違いなくミドヌーだ。
草食魔獣のミドヌーは、牛と象の中間に当たるような魔物で、背中には二つの大きな瘤がある。
急所は胴の内側、四肢の間にある心臓。
そこを拳で一突きすれば、衝撃で心臓が止まり、死に至るはずだ。
そのためには、ミドヌーの前足を折って動きを鈍くさせてから、横から蹴りを入れて押し倒し、最後に上に跨って拳を振り下ろす、それしかない。
幸い、今のところは一頭のみ……、いけるっ!
ディーナは、全神経を集中させて、ミドヌーに向かって駆け出した。
「ディーナさんっ!?」
ペチェの声がディーナの耳に届くも、それは思考の隙間にも入らない。
今、ディーナの頭の中にあるのは、死して動けなくなったミドヌーの巨体のみ。
それのみを今、生きる目的として、走る。
しかし、ミドヌーも馬鹿ではない。
目の前にいる、狂気剥き出しの人型の生き物に対して、どう対処すればいいのかぐらいは心得ていた。
まずは足を折られるに違いない、そう考えたミドヌーは、自ら足を前に折り曲げて、攻撃を与えられないように姿勢を低くした。
しかしながら、こうしてしまえば攻撃は喰らわないものの、反撃は一切できなくなる。
ミドヌーの理解し難い動きに、ディーナの足が止まる。
戦う意思がない者とは戦えない、それがディーナの本心だ。
だが、これはミドヌーの作戦の一部に過ぎなかった……。
目の前のミドヌーに集中する余り、疎かになっていた周りへの注意力。
それが仇となり、ディーナの目が捉えたものは、左方の森から駆け出してくる三頭のミドヌー。
その動きは巨体に似合わず俊敏で、いっきに間合いを詰めてきた。
雨で足元が悪く、ディーナはその突進を避ける事ができない。
上に跳び上がって、避けるしかないかと判断しかけた、その時だった。
「彼の者を守る盾となれっ!」
ペチェの声が聞こえたかと思うと、三頭のミドヌーの前に、突如として木の根で作られた大きな壁が現れた。
三頭のミドヌーは勢いをそのままに、根の壁に激突した。
その衝撃音を耳に捉えながら、ディーナは目の前に伏したままの雌のミドヌーに目を向ける。
倒すなら今しかない! だが……。
ミドヌーの四つの瞳が、悲しげにディーナを見つめている。
そしてディーナの心に、悲痛な叫びが聞こえてきた。
『子どもを返せ……、子どもを返せ……、子どもを返せぇっ!』
その声が余りに悲しく、余りに猛々しく、ディーナの心を揺さぶる。
しかしディーナは、そんな事には惑わされない。
幾度となく死線を潜り抜けてきたディーナが下した決断は、目の前のミドヌーを仕留める事。
伏したまま動かないミドヌーの体に、側面から強烈な蹴りを入れて転げ倒し、仰向けにひっくり返った所に容赦なく跨って、心臓のある位置に拳を振り下ろした。
メキメキメキと音を立てて、肋骨が折れていく感触が手に伝わる。
ミドヌーの暖かい胴体に、振り下ろした拳が埋まる。
たったの一撃、たった一度の攻撃で、苦しそうに息を吐いたミドヌーは、その後ピクリとも動かなくなった。
「ディーナさんっ!? 大丈夫ですかっ!?」
ペチェが顔を青くして近寄って来た。
根の壁に激突した三頭のミドヌーは、どうやら逃げて行ったようだ。
ディーナの元に残ったのは、一頭の雌のミドヌーの死体と、一筋の迷いだった……。
その夜、仕留められたミドヌーは二頭。
ディーナが仕留めた雌のミドヌーと、カミ―、ウィーダスペアが仕留めた雌の一頭だ。
討伐隊の中には、ミドヌーを目撃した者は他にも何名かいたようが、大方その巨体に恐れおののいて戦わずして戻ってきたのだろう、ばつの悪そうな顔をしている者が多かった。
「いや~、助かりました! これでこの屋敷も救われます!」
まだ日の出前だと言うのに、起きて討伐隊を待っていたドルクは大袈裟な喜び方をした。
「ですが、奴等はまだまだいそうです。明日も引き続き、警備に当たりたいと思います。……で、どうしますか? セレッセの町に伝書鳩を飛ばせば、おそらく明日の昼頃には軍が解体の者を派遣してくれると思いますが……。どうしましょう?」
わざとらしくないように、平然と訊ねるカミー。
「いえいえ、それでは死臭が臭って堪りませんので、私ら使用人で処分致しますです、はい。えっと……、死体はどちらに?」
「あぁ、はい、こっちです」
カミ―に連れられて、ドルクは玄関から屋敷の外へ出て行った。
当然ながら、カミ―はドルクに身分を明かしていない。
さすがに、片田舎の小麦畑の使用人と言えど、国営軍南部隊副隊長という肩書を聞けば、警戒して尻尾を出さないだろう。
「さて……、ここからが本番だぞ、しっかり気を引き締めろ。……ん? どうしたディーナ?」
近くにいたウィーダスが声を掛けてきたが、ディーナはどこか上の空だ。
ディーナには、あのミドヌーの声が引っかかっていた。
本来の姿が魔獣であるディーナには、魔物、ひいては魔獣の声が聞こえる事がある。
それは鳴き声や肉声ではなく、念話とでも呼ぶべき心の声だ。
なぜそういったものが聞こえるのか、本当に聞こえているのかどうかは、ディーナ自身にも定かではない。
しかし、それでもやはり、あのミドヌーの声は、あの悲痛な叫びは、ディーナの中に深く爪跡を残していた。
「……子どもって、言ってましたね」
ハッとして我に返ると、そう言っていたのはペチェだった。
隣に立ち、玄関の外を見つめている。
「お前も、聞こえたか?」
目を見開き、驚いた表情で訊ねるディーナ。
「はい。けれど、真意はわかりません……」
ペチェは、可愛らしい顔に似合わない、眉間に皺を寄せた表情で俯き、何かを考えている。
「そうか……、そう、だったか……」
自分に聞こえていた声は、やはり本当にミドヌーの声だったのだと、ディーナは悟った。
しかし、子どもとはいったい、何の事なのか……。
玄関扉の向こう側、明るくなり始めた空の下で、無残にも死に堕ちた二頭のミドヌーの姿を、ディーナは見つめていた。
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