ショートホラー

ぷーさん

文字の大きさ
2 / 5

鏡像の浸蝕

しおりを挟む

梅雨入り前の蒸し暑い平日午後。新宿駅から少し離れた裏通りに「カフェ・ミロワール」はひっそりと佇んでいた。
店名の「ミロワール」はフランス語で「鏡」を意味し、店内は趣向を凝らした鏡で彩られている。特に窓際の席の後ろには、金色の装飾が施された大きなアンティーク調の鏡が、まるで別世界を映し出すように掛けられていた。百年以上の歴史を持つその鏡は、表面に微かな曇りが浮かび、時折光を歪ませるように見えた。

午後3時、ランチタイムを過ぎた店内は閑散としていた。レンガ造りの壁と木の温もりが感じられるインテリア、柔らかな照明が都会の喧騒を忘れさせる。スピーカーからはビル・エヴァンスのピアノが静かに流れ、心地よい沈黙を埋めていた。
テラス席では老紳士が新聞を広げ、奥のソファでは若いカップルがひそひそと語り合っている。窓の外では人々が忙しなく行き交い、高層ビルが初夏の陽光を反射していた。

______

ユウキとアカリは窓際の席、あの大きな鏡の前のテーブルに腰掛けていた。カフェラテとアイスティー、半分だけ食べられたチーズケーキがテーブルの上に置かれている。二人の背後には、鏡が静かに彼らの姿を映していた。
ユウキはネクタイを緩め、ジャケットを椅子の背もたれに掛けていた。アカリはベージュのブラウスに黒のスカート姿で、仕事帰りらしい雰囲気だが、リラックスした表情を浮かべている。二人は大学からの友人で、月に一度、こうして近況を語り合うのが習慣だった。
 
「でさ、部長がさ、『この企画書、誰が作ったんだ?』って、めっちゃ真剣な顔で聞いてきたわけよ!」
ユウキは身振り手振りを交え、いつものように明るく話していた。彼の声は少し大きめで、時折近くの客が振り返るほどだった。
「俺、ビビって『すみません、僕です』って言ったら…」
アカリは微笑みながら相槌を打っていたが、ふと視線が背後の鏡へ向いた。カフェに入った時から、鏡の反射が一瞬遅れるような、奇妙な感覚があった。彼女の表情が微かに固まる。
「……ねぇ、ユウキ。ちょっと見て」
アカリの声には、普段にない緊張感が混じっていた。
「ん?何?」ユウキはスプーンを置き、不満げに返事をした。彼は話の腰を折られるのが好きではなかった。
「この鏡、なんか変じゃない?私の髪の分け目、いつも左なのに、右に見える気がする」
アカリは前髪を触りながら、不安げに鏡を見つめた。彼女は几帳面で、髪型はいつも同じだった。
ユウキは面倒くさそうに鏡をチラッと見た。窓からの光が反射し、一瞬眩しく感じられる。
「別に?鏡って反転するもんだろ。化粧薄いから変に見えるんじゃない?」
彼はカフェラテを飲んだ。
「そうかな……」アカリは納得できない様子で鏡を見続けた。鏡の中の自分の目が、ほんの一瞬、自分の視線とずれるように感じた。まるで、別の誰かがこちらを見ているようだった。

_____
 
「で、話を戻すと」
ユウキは気を取り直し、話を続けた。
「部長が書類見て、めっちゃ笑顔で『これ、素晴らしい企画だ』って!これ昇進フラグじゃね?」彼は両手を広げ、テーブル上のスプーンが少し動いた。
アカリはユウキの話を聞きながらも、鏡から視線を離せなかった。彼女の直感は鋭く、些細な変化にも敏感だった。今、鏡の中の自分が、ユウキを見ていないことに気づいた。彼女はユウキを見つめているのに、鏡の中のアカリはテーブルの上に視線を落としている。
スマートフォンの画面が一瞬明るくなり、アカリは息を飲んだ。単なる通知だったが、その光が鏡に反射し、不思議な影を作り出した。
「ユウキ、ちょっと動いてみて」
彼女は小声で言った。
「え?急に何?」ユウキは苛立ちを隠さなかったが、アカリの真剣な表情に「……ほら」と軽く手を振った。

アカリは鏡とユウキを凝視し、息を止めた。鏡の中のユウキの手が、ほんの一瞬遅れて動いた。まるで、別のリズムで動く人形のようだった。
「見て!今の、鏡の中のユウキと、動きがずれてた!」
カフェの音楽がテンポの速い曲に変わり、一瞬の笑い声が聞こえたが、二人の間の空気は凍りついた。
「は?そんなわけないだろ!光の加減だよ!」
ユウキは笑い飛ばそうとしたが、アカリの顔を見て声が小さくなった。彼は理性的で、超常現象など信じないタイプだったが、今、鏡の中の自分のネクタイが、赤いストライプではなく、チェック柄に見えたことに動揺した。
「ねぇ、鏡の中の私、笑ってない?」
アカリの声は震えていた。彼女の手がテーブルで小さく震えている。
ユウキは半信半疑で鏡を見た。そこには確かに「アカリ」がいるが、目の前のアカリが不安げなのに対し、鏡の中のアカリは無表情だが口角が微かに上がっている。そして、その目は……何かを見据えているようだった。

_____

「嘘だろ……?」ユウキの声から余裕が消えた。彼はネクタイを触り、自分の首元を確認したが、確かに赤いストライプのネクタイだった。それなのに、鏡の中ではチェック柄のままだった。
 
「まさか、あれ、俺たちじゃないとか?」
ユウキは冗談のつもりで言ったが、自分の言葉に背筋が冷えた。彼は科学的な説明を試みた。
「いや、きっと光の反射とか、疲れてるだけだろ……」
「でも、鏡の中の私、私たちを見てる」
アカリの唇は乾き、手の震えが止まらない。
「ユウキ、試してみて。目を閉じてみて」
ユウキは「バカバカしい」と呟きながら、目を閉じた。しかし、鏡を覗く直前に、鏡の中の自分が目を開けたままこちらを見ている気がして、慌てて目を開けた。
アカリは目を閉じ、睫毛が頬に影を落とす。ユウキは鏡を見た。鏡の中のアカリは、目を開けたまま、ゆっくりとこちらを凝視していた。その目は虚ろで、しかしどこか「興味」を帯びているようだった。
「……アカリ!目を開けろ!」
ユウキは声を上げ、隣の老紳士が眉をひそめた。
アカリが目を開けると、鏡の中のアカリは依然として冷たい視線で二人を見つめていた。
「何!?何!?」彼女の声は震えていた。
外の空が曇り、カフェの光が暗くなった。鏡の中の光が揺らぎ、アカリのブラウスがベージュから淡いブルーに変わっていることにユウキが気づいた。それは、カフェの壁の色と不気味に一致していた。
「私の服、色が違う……私、こんな服、持ってた?」
アカリはブラウスを掴み、混乱した。
ユウキは自分のネクタイを触り、チェック柄に見えた鏡の映像を思い出した。「鏡が……俺たちを、変えてるのか?」

_____
 
カフェの空気が重く感じられた。窓の外では人々が普通に歩き、車が行き交う。時計は3時15分を指している。しかし、時間が止まったように感じられた。
「聞こえる……」アカリが呟いた。鏡の中のアカリが、ゆっくりと口を開いている。
「『お前たちは、もう、ここじゃない』……そう、言ってる気がする……」
「何!?」ユウキは焦り、鏡に近づいた。鏡の表面が、ほんの一瞬、水面のように揺らいだ。
ユウキは周囲を見渡し、助けを求めた。
「誰か!この鏡、おかしいんだ!」
若い店員が近づいてきた。
「お客様、何か?」
彼女は困惑した顔で鏡を見た。
「特に……普通の鏡ですが?」
アカリの手が震え、彼女は呟いた。
「私たちが座ってるこの椅子、ほんとに私たちのもの?」
ユウキは恐る恐る鏡を見た。そこには、彼らが座るテーブルと椅子が映っていたが、誰も座っていない。テーブルの上には、誰も手をつけていないカフェラテ、アイスティー、チーズケーキが置かれていた。そして、鏡の奥、入り口付近に立つユウキとアカリの姿が映っている。彼らは哀しげにこちらを見つめていた。
 
アカリは鏡に手を伸ばした。指先が鏡の表面に触れると、水面のような波紋が広がり、カフェの光が歪んだ。
鏡の中のユウキが口を開く。その動きは、現実のユウキと同期していない。
「なんで…」ユウキの声は震えていた。
店員が再び近づき、心配そうに尋ねた。
「お客様、大丈夫ですか?」
ユウキとアカリは、まるで操られるように席を立ち、出口へ向かった。ユウキのジャケットとアカリのハンドバッグがテーブルに残された。鏡の中では、先ほどまで入り口にいた二人がテーブルに座り、笑顔で会話を続けている。
カフェの扉を開け、外に出る。ガラスに映る彼らの姿は、どこか透明で、背景が透けて見えた。
鏡の中では、ユウキとアカリが新しいケーキとコーヒーを楽しんでいる。鏡の中のユウキが出口を見るが、そこには何もない。ただ、微かな違和感が漂う。

_____

「ねぇ、ユウキ」
鏡の中のアカリがケーキを食べながら言う。
「なんか、変な気がしない?」
「何が?」鏡の中のユウキは首を傾げ、どこか冷たい笑みを浮かべた。
カフェの外、新宿の雑踏にユウキとアカリの姿は消えていた。彼らの足跡はアスファルトに一瞬残り、すぐに消えた。
数日後、店員が忘れ物BOXのジャケットとハンドバッグを片付けながら呟いた。
「あの二人、どこに行ったんだろう……」

大きな鏡には、静かなカフェの光景が映っている。そして、次の梅雨入り前の蒸し暑い平日午後、再び窓際の席に、ユウキとアカリそっくりの男女が座り、同じように会話を始める。
「でさ、部長がさ、『この企画書、誰が作ったんだ?』って、めっちゃ真剣な顔で聞いてきたわけよ!」
男は身振り手振りを交え、明るく話していた。彼の声は少し大きめで、時折近くの客が振り返るほどだった。
「俺、ビビって『すみません、僕です』って言ったら…」
彼らの背後には、あの大きな鏡が静かに彼らの姿を映していた。鏡の表面には微かな曇りが浮かび、時折光を歪ませるように見えた。
鏡の中のユウキとアカリは、ほんの一瞬、悲しげな目でこちらを見つめた後、再び笑顔で会話を続ける。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【1話完結】5分で人の怖さにゾッとする話

風上すちこ
ホラー
5分程度で読める1話完結のショートショートを載せていきます。主に、ヒトコワなホラー話です。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...