社畜リーマン、ポンコツヒューマノイドのお陰でQOL爆上がり

ふた

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家族と友達

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 帰路の途中にある実家に着いたのは、夕食時を過ぎた頃だった。事前に連絡していた為、母は玄関の引き戸を開けながら、刻まれたほうれい線をますます深くしてコハクを眺め、「あんたが子どもの時より可愛らしい」と鷹揚に笑った。促されながらたたきに上がり、コハクの手を引き居間に顔を出すと、焼酎の入ったグラスを手にテレビを観る父と祖父がいた。
「久しぶりだな。おお、それが流行りのロボットが?童っこだな」
 祖父が濃い石鹼の香りを纏いながら、コハクに近付き舐めるように全身を見る。コハクは居心地悪そうに目線を逸らした。
 壁いっぱいに並ぶ本棚と戸棚には民俗学の本や家族のアルバム、大きさの違う封筒、何かの明細書、額縁に入った賞状、一週間分小分けにされた内服薬、コハクの目にはどう移っているのかと思うほどものに溢れている。
「夕飯食ってきたが?何か食え」
「いや、途中そば屋寄って来た。コハクの充電だけするわ」
「コハクが。いい名前だな」
 父の無言の視線と、祖父にあちこちを見られることに堪えられなくなった様子のコハクは、俺のTシャツの裾を掴んで、密かにメッセージを送ってくる。父も祖父も早寝だ。そろそろ
「光矢もう寝た?」
「わがらね。部屋さいるべ。明日ばあちゃんとプールさ行ぐって言ってたから早ぐ寝たがもしれねえし」
「コハク会わせたら寝なくなるかね?」
 曇りガラスの嵌った引き戸をガラガラと開けて部屋に入ってきた母が、歯を食いしばりながら顔の前で虫を払うように手を振る。
「駄目よあんた。あかりに怒られるよ。興奮させたら絶対寝ないからね」
 出産してから常識的な母親に変貌を遂げた、以前怠け者の権化だった妹に叱られるのはごめんだ。へえへえと返事をしてコハクの背を押す。三人の前に舞い出てしまったコハクは、上目遣い祖父と母を、また座ったままグラスを傾ける父を見回し、弱弱しく頭を下げた。
「お世話に……なります」
 初めて声を聞いた母が、花が咲いたよう両手で口を覆い目を見開く。
「何ったら可愛い」
 やだあ、お父さん聞いた?女の子だべか?男の子だべか?
 年甲斐もなくはしゃぐミーハーな母が父の背をバシバシ叩くので、父は口から焼酎を溢れさせ、布巾で口元を拭った。祖父はいまだ物珍しそうな視線を向け、首を傾げている。コハクは再び俺の背後に戻って、家族の様子をじっと覗いていた。
「俺の部屋空いてる?」
 誰ともなく話し掛ける。母が「空いてるよ。布団敷いてあるから使って」と、コハクを見ながら笑顔で言った。
 居間を出て、学生の頃自室として使っていた部屋に向かうべく階段を上がる。二階には増築して妹家族が住むスペースがあり、そちらを配慮し忍び足で歩くが、築六十年のこの家屋はあちらこちらが軋む。辿り着いたドアを開け、中に入ると、シングルの布団が一組敷かれていた。思わず渋い顔になる。ヒューマノイドの大きさを伝えなかった俺が悪いのか。悔いながら立ち尽くしていると、二人だけになって一番にコハクが呟いた。
「あなたの家族は訛っているね」
 そして糸の切れた操り人形のように布団に倒れ込んだ。その横に胡坐をかいて、鞄から取り出したケーブルをコハクの項に刺し、反対側をタンスに隠れていたコンセントジャックに繋げる。
「田舎だからな」
「蝉とカエルが鳴いてる」
「うるさいだろ」
「ううん、夏ってこういうものなんだろ。悪くないよ」
 コハクを見下ろすと、長い髪が顔に掛かっていて、その隙間から見える目が、握った自分の手の平の中を覗いていた。
「これはとても好き」
 コハクの甘い瞳に、海を閉じ込めたようなシーグラスの色が混ざっている。飽きずに見つめながら、胎児のように体を丸めたコハクの瞼が徐々に下がっていくのを眺める。手の届く距離にある扇風機のスイッチを押し、畳まれているタオルケットを腹に掛けてやると、やがて完全目の上に蓋がされ、動かなくなった。
 照明を消し、物音を立てないように部屋を出て、風呂場に向かった。脱衣所で、脱いだ服や足の指の間から砂が落ちて、明日の朝母が文句を言ってくる顔が思い浮かんだ。湯に浸かるとどっと疲労感が押し寄せてきて、思いのほか自分もはしゃいでいたことを自覚した。海と遊ぶコハクはただの美しい子どもだった。荷物も運ばないし一人で足も洗えない手のかかる子どもだけど、互いにそれをそういうものだと許容できるくらいには、信頼関係が出来上がっている、と思っている。風呂に顔を付けると、皮膚が過剰に反応してヒリヒリと痛んだ。そういえば夏とはこういうものだった。明日には痛みが落ち着き、焦げ跡だけが残っていることだろう。
 風呂から上がりたての火照った体で部屋に戻ると、扇風機は回っているのに、逃げ場のない熱でサウナのようになっていた。コハクの頬に触れると、室温のわりに熱を持っておらず、安堵して隣に全身を放った。
 予想通りの窮屈さに、布団の真ん中に寝ているコハクを端に寄せようかと思ったが、暗闇の中に溶ける寝顔を見たらその気が失せて、半身をカーペットの上に置くことで我慢することにした。
 潮風を浴びて、よりガサガサになった髪を梳いてやる。起きたら軽く洗ってやるか。段違いに騒がしくなるであろう明日の朝を目指して瞼を下ろす。清潔になったばかりなのに汗が吹き出して、しかしそれを拭う前に意識が遠退いた。


 頬を抓られ意識が浮上し、開いたカーテンから差し込む日差しに目を瞑り直した。気のせいか、ドアの外から太鼓を叩くような音がする。連打だ。フルコンボだドン。
 いや、気のせいではない。ついでに叩いているのは太鼓ではなくこの部屋の薄いドアだ。
「何だ、うるせえな」
 目を擦り体を起こすと、膝をついていたコハクが「何とかしてよ」とドアの方を指差した。
「ずっとああなんだ」
 ドンドンドンドン、の合間に聞こえる雄叫びには心当たりがあった。意を決して立ち上がり、ドアを開けると、唐突に下腹部に鈍痛がして、息が止まった。視線を下げると、俺の腹に頭をねじ込ませた甥の光矢が、笑みを浮かべて俺を見上げた。
「おじちゃん!ロボット見せて!」
 光矢の快活な声に次いで、背後で物音が聞こえた。しずしずと振り返ると、コハクが残骸と化した古の学習机の椅子に踵をぶつけていた。光矢の一直線上に現れてしまったコハクが目の前の幼稚園児から目線を逸らさず、行き止まりの先に後退しようと足だけを動かしていた。熊に遭遇した時の行動だそれは。
「あれがロボット?すごい!本物?」
 瞳を輝かせる六歳児が、コハクに向かって突進するのを阻止する俊敏さを持ち得なかった俺は、憐れみの視線を向けながら、コハクが学習机の上に体を倒されるのを見ていた。
「硬い!本物だ!俺光矢!おねえちゃん名前は?」
 畳みかけられてコハクが圧倒されている。引き剝がすのもナンセンスな気がして成り行きを見守ることにした。普段子どもと関わることのないコハクがどう対応するかということに少なからず興味があった。腕組みをして傍観を決めた俺を恨みがましい顔で見て、圧し掛かられたままのコハクが小さな口を開いた。
「コハク。……きみは元気過ぎるね」
「コハクって言うんだ!」
「僕はきみにとって楽しい存在じゃない」
「俺は五歳。ゲームできるんだ!サッカーもできる!コハクは何歳?何して遊んでる?」
 会話が噛み合っていない。コハクは興奮しきった光矢から視線を逸らし、両手で幼い体を押し退けた。光矢と並ぶと、小さいと思っていたコハクも頼りがいがあるように見える。コハクは光矢を真正面に捉えて目を伏せた。
「年齢は……知らない。僕もゲームは出来るよ」
「じゃあ一緒にやろうよ!俺部屋から取ってくる!マリカーやったことある?」
「うん」
 話がまとまったところで階下から叫ぶ声が聞こえた。
「光矢ー!ごはん出来たよー!お兄ちゃんも!」
 あかりのよく通る声が二階のあちこちを震わせて、光矢は慣れた様子で返事を返し、「ごはん食べたらやろうね!」と明度の高い笑顔を浮かべてコハクの手を握った。
「……うん」
 コハクが頷いたのを確認して、光矢は落雷のような足音を轟かせながら階段を下りて行った。嵐の過ぎ去った部屋の中で、コハクが戸口に寄り掛かっていた俺を見る。
「子どもって警戒心がないね」
「なつっこくて可愛いだろ」
「何されるか分からないから恐いよ」
「だんだん慣れてくるさ」
 コハクをダイニングへ誘うと、いそいそと俺の鞄からゲーム機を出してソフトの入れ替え作業を始めたので、一人階下へ向かった。光矢が騒いでいるのが聞こえる。高齢化が進む農家ばかりの田舎で、ヒューマノイドを持っている家は少ない。光矢が喜ぶのも当然だ。保育士とはこのような気持ちで子どもたちを見守っているのだろうか。ムードメーカーが部屋の隅にいる子の手を引く姿が思い浮かぶ。胸に湯たんぽを放り込まれた気持ちになりながら喧騒に足を踏み入れた。



 食事を終えた光矢が、居間で大人しくしていたコハクに自慢げにゲーム機を見せる。コハクも照らし合わせるように手元のそれを掲げ、互いに真剣な顔つきで膝を突き合わせ始めたのを廊下越しに見て、あかりは肺がぼろりと出そうな溜息を吐いた。
「お兄ちゃんの子、人間と変わらないじゃん」
 目玉焼きの黄身を潰して白米の上に乗せながら、「あれじゃあ光矢と同レベルだよな」と笑みを浮かべると、再びあかりが溜息をつく。
「放っておくと何時間でもやってるんだから、私が出勤したらお兄ちゃんが責任もって止めてよね。二時間が限度だからね!」
 へえへえと返事をして、空になった食器をそのままに立ち上がったあかりが、ダイニングを出て行く姿を見送る。押し殺すような笑い声に気付き、母の方を見ると、皺の増えた指で居間を指差した。
「あれやってるとみんな体が動くんだねえ。あんなに集中しちゃってさ」
 車のハンドルのようにゲーム機を握り、体を左右に傾ける様子は、さながらF1レーサーのようで、見ていて愉快で滑稽だった。しかし本人たちは恐ろしいくらい本気なのが分かり、光矢が負けて大泣きしたり、コハクが一言も喋らなくなったりしないといいなと予想出来る未来を心配した。
 二時間程度が経ち、飽きずに続けていた何度目かのレースが終わったタイミングを見計らって、グラスに入ったサイダーとチョコパイを座卓に置き、二人に声を掛けた。予想よりもすっぱりとスリープモードにして、光矢はおやつに齧りつき、コハクは充電ケーブルに繋がれた。
「どっちが勝ったんだ?」
 俺の問いに二人は顔を見合わせ、「引き分けだった」と声を揃えた。
 光矢はチョコパイで手を汚しつつ、コハクの項を見て、丸みのある頬を持ち上げた。
「充電するんだ」
「まあ、機械だし」
「何かかっこいい」
「サッカー出来る方がかっこいいよ」
「じゃあ今度はサッカーやろ。上手になるように俺が教えてやる」
 言って、光矢がサイダーの炭酸をものともせず一気に飲み始めるので、慌ててコハクの頭に手を乗せ、「まだ充電しなきゃいけないし、髪洗ってやりたいからサッカーは待っててな」と制した。コハクは恨めしそうに俺を見上げたが、首を横に振って見せた。
 シンクに食器を置いた光矢は、その足で一人庭に出て、サッカーボールを蹴り始めた。その姿を窓からじっと見つめるコハクの腕を取り、風呂場に連れて行く。湯の入っていないバスタブの中に座らせ、縁に首を凭れさせて、目を瞑っているように言った。
「顔に掛けないでよ」
 素直に瞼を下ろした顔にタオルを掛けて、シャワーから湯を出した。シャンプーとリンスで髪を洗いあげた後、ついでに手足も洗ってやった。バスタオルで髪を拭き、扇風機の回る居間でドライヤーの熱風を当ててやる。
「きれいになった?」
 ドライヤーの音に紛れた声で問われ、肯定すると、コハクの口角が上がったような気がした。
 髪が乾ききってから、充電を再開した。手持無沙汰になったところに、母が「コハクちゃん、もう一回顔見せで」と寄って来て、密かにコハクを観察していた父と祖父も、その後ろにくっついて来た。コハクは正座しながら母の瞳を見つめ、父と祖父の熱い視線を横顔で受け止めた。
「ほんっどに綺麗な顔だなあ。燈一の嫁になるなんて勿体ない」
 母が冗談ではない様子で呟くと、父が「まだ子どもだべ?」と首を傾げ、祖父が「んだ、燈一の子どもにすっぺ」と名案を思いついたように言った。田舎者ゆえにロボットに対して少なからず偏見があるものと思っていたが、杞憂だったようだ。コハクは家族に大層気に入られ、しかも取り込まれようとしている。コハクは昨晩より落ち着いた様子で、事の成り行きを見守っていた。
「ロボットでもいいんか?」
 俺が誰にともなく尋ねると、祖父がコハクの肩を叩いて笑った。
「子どもなんかみんな一緒だ。光矢も喜ぶべ」
 祖父の言葉を聞いたコハクが、手の平を握ったのに気付き、腹の奥が絞られる感覚に襲われた。眉一つすら動かないコハクの顔に前髪が掛かり、影が出来る。その絵が、コハクの密かな戸惑いと不安を表しているように見えた。
「またすぐ遊びに来るよ。お盆とか」
「んだんだ、皆喜ぶがら」
 安心したように微笑む父と祖父が立ち上がり、母がコハクの頭を撫でて去っていく。各々の背が見えなくなってから、コハクは俯いていた顔をゆっくりと上げた。
「皆、優しい。どうして?」
 声に抑揚はないが、やはりコハクが泣き出してしまうのではないかと思った。家事ができない上に人慣れしていないヒューマノイドは、様々なタイプの人間に関わられることに免疫が無く、情報処理が追いつかないのかもしれない。俺は腰を上げてコハクの背を叩いた。
「ジジババばっかりの田舎だから、子どもが珍しくて可愛がりたいんだ。さあ、光矢のとこ行ってやるか。昼前にはここを出るからな」
 促されるようにコハクも立ち上がって、自分の右手を開いては閉じることを繰り返した。
「何か変か?」
「ううん、大丈夫。僕サッカーなんてやったことないよ」
「ボール蹴ってればいいんだよ。本格的にやるわけじゃないから大丈夫だ」
 玄関を出ると光矢は太陽と同じ明度の笑顔を見せて、パスを出してきた。俺が受けて、コハクに渡す。コハクはボールを蹴る動作をして、尻から崩れ落ちた。
「おいおい、大丈夫かよ。そんなに運動神経悪いのか」
 体を支えて起こしてやると、コハクは唇を尖らせて「もう一回」と足を振り上げた。今度はちゃんとボールに当たって、しかし光矢から離れたところに転がって行った。
「俺が教えてあげる!」
 ボールを取りに行って、走って戻って来た光矢がコハクの手を引く。庭の真ん中に棒立ちになったコハクに指南する小さな光矢の方がよっぽど兄貴分の風格があった。
「車に当てるなよー」
 叫んだ声は聞こえているのかいないのか、遠く風に流されて行った。


 案の定光矢は地団太を踏み、コハクの手を離さなかった。
「おじちゃん、またすぐに来るがら。な?」
 宥める母の言葉を跳ね返すような泣き声を上げ、今度はコハクの細い腰に抱きついた。コハクはその様子を感度の低そうなレンズで見つめ、離しも抱き寄せもしないでされるがままになっていた。
「光矢、コハクもお前と遊びたいんだ。でも、今日は帰る。また絶対来るから」
 俺の言葉に鼻をすすり、「絶対?絶対?」と心の底から悲しそうに問うびしょびしょの瞳に、心臓がぎりぎりと痛む。お盆まで約二週間、大人にとってはあっという間の時間だが、子どもにとっては果てしなく遠くの予定なのかもしれない。
「光矢」
 コハクが俺の隣で腰を屈める。
「また来る。約束」
 小指を立てて、光矢の目の前に掲げる様子を見て、あっと声を上げそうになった。コハクの大きな瞳に映る光矢の頬に、瞬きと同時に一筋の涙が零れた。
「約束?絶対?」
「うん、約束する。またサッカー教えてよ」
 大人たちはその様子を息を潜めて見守っていた。コハクの小指に、光矢のもっと小さな小指が絡まる。
「ゆーびきーりげーんまーん」
 歌い出す光矢につられて唇を開けたコハクの口が、その歌を口ずさむことは無かった。もしかしたら知らないのかもしれない。コハクが歌うところなど見たことが無かった。光矢の歌が終わると、コハクは深く頷き、
「今度、その歌も教えて」と触れ合う指に力を込めた。体勢を戻したコハクが僅かに唇の端を持ち上げる。光矢もにっと笑って、「いいよ!」とはつらつとした声で答えた。
 穏便に済んだ様子に胸をなでおろした俺は、家族に別れを告げ、車に乗り込んだ。コハクも助手席に乗り、すぐさま窓を空けて光矢に手を振った。
「気つけるんだぞ」
 開けた窓越しに、祖父の焼けた硬い手が俺の肩を叩く。幼い頃、両親は共働きで、農業をやっていた祖父母に面倒を見てもらっていた。今よりもずっと厳しかった祖父は叱る時俺の耳を抓り、それが痛くてとても嫌だったが、座布団を枕に一緒に昼寝をしたこと、昼時にスーパーに連れて行ってもらって菓子を買ってもらったことなど、何気ない思い出が今となっては懐かしく、優しい記憶として蘇る。祖父も、長年連れ添った祖母が亡くなり歳を重ね、随分丸くなった。
 作物と子どもたちを育んできた大きな手が、しわしわにしぼんでしまった事実に少しだけ切なくなる。あと何年元気な姿を見られるのだろう。コハクが言っていた命の目処を再び考えてしまっていることに気付き、祖父の顔を見て笑むことに努めた。
「んじゃ、行くから。暑いから、じいちゃんもちゃんと水分摂ってな。父さんと母さんも」
「おまけみたいねえ」
 母が愉快そうに言うのを聞いて、シフトレバーを引いた。皆、車が外壁の向こうに行くまで手を振っていた。


「楽しかったか?」
 国道に出てから暫くして助手席に声を掛けると、待てども返事は返ってこなかった。充電が足りなかったか、と隣を見ると、コハクは目を伏せて四肢をだらりと下ろしていた。
「おい、電源落ちそうか?」
 問いかけに、コハクは半分だけ目を開き、俺の方にじりじりとフォーカスを合わせて口を開いた。
「クラッシュす、ハチガツヨ……ウカ、ツキ、ガ、カ、コ、エ……」
 言い終わる前にコハクの瞼がすとんと落ちた。急いで路肩に車を停め、細い肩を揺さぶるも、指先一つ動かない。原因が頭の中でぐるぐると巡る。あれもこれもどれも悪かった。思い出と言う綺麗なものが、油絵具を塗ったように黒く染まっていく。連れてきたことをひとしきり後悔していると、コハクが掠れた声で発した言葉を思い出し、唐突に心拍数が上がったのが分かった。
「八月八日、月が丘公園」
 途切れ途切れではあったが聞き取れた。復唱すると、背筋に氷が当てられたように鳥肌が立った。
 日にちは別として、コハクの口から具体的な地名が出てくることは、今まで過ごした日々や言動を思い起こしても不自然なことだった。いや、しかし俺のいない間にテレビでその場所についての報道があり、それを覚えていた可能性もある。真相は分からないが、奥歯に挟まった食べカスのようにひらひらと泳いだ。
 動かなくなったコハクを伴い車を発進させる。通夜のように静かな帰り道を、、法定速度を超過して走った。コハクが膝に乗せていた鞄から煙草を取り出し、窓を空ける。久しぶりに吸った煙草の味は、喉への刺激が強くて噎せた。ふと、コハクの手の中で青く光っているものがあることに気付いたが、見なかったふりをした。
 なかなか家に着かない。子どもの夏休みのように、果てがない。
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