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頭痛と約束

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 ここ最近いつも頭痛がする。
 夏期休暇が明けて、大勢の職員から土産を貰っても、それに手に付ける食欲が無い。出勤早々、工藤の思い出話が始まったが、反応の薄い俺の様子から何事かを察して、怯える動物のように距離を取った。木野は俺の態度にも普段通りの調子で接して、相変わらず淡々と業務をこなし、遠方の実家に帰省していたという花沢課長は体調を気遣い、納期の迫った案件から俺を外した。
「こう暑いと体調も崩すよねえ。うちの息子も部屋から出られなくなっちゃってな。妻も大変だから息抜きしてほしいんだけど、まあ心配だし傍にいたいよねえ」
 部長がわざわざ俺の傍に来て、間延びした声で話し、去って行った。元々患っている子と比べられることと、上辺だけ理解を示されることに嫌悪感を催し、誰もいないトイレの個室の壁を殴った。
 何度電源スイッチを押しても起動しなくなってしまったコハクをベッドに寝かせたまま出勤し、帰宅する頃に膨れ上がっている期待感は、日々を何度繰り返しても裏切られる。充電し続けても電源ランプは点灯しない。完全に目を閉じたまま、筋硬直をしていない死人のようにだらりとしている。
 コンビニでコンブのおにぎりを一つ買って帰宅した。戸口を超えてコハクの様子を確認し、何も変化がないこと落胆し漏れてしまう溜息に、耳を塞ぎたくなった。
 空腹感で腹痛がするくらいなのに、食事を前にすると手が伸びない。ゴミ袋に囲まれたソファーの上に横になり、降り注ぐ蛍光灯の光が煩くて目を瞑る。目を開けて時計を確認し、再び閉じてを繰り返しているうちに日付が変わる。重しを付けられた罪人のように体を引き摺ってベッドに移動し、コハクの寝顔を見つめていると、知らず涙が零れていて、そうしていると幻のような日が昇る。夏の朝は早かった。太陽を見ると、背後から絶望感が走ってくる。仕事に行かなければという焦燥感を抱えたまま、シャワーを浴びる。温まった体で煙草を吸ってみても頭には靄がかかったままだ。家を出る前にコハクの起動を試みるも、やはり動かない。
「八月八日、月が丘公園」
 暗いトンネルの中で佇む現状で一番の希望は、コハクの残した遺言のような言葉だ。
 隣の市に月が丘という地名があるのは知っていた。二年前に、その地域にある複合商業施設の中庭で行われたワイフェスティバルに、仁と惠介と訪れた記憶は鮮明に残っている。ワインも、牛の丸焼きも美味かったのだ。施設の周りは住宅街になっており、庭でバーベキューをしたり、親子が機嫌良く遊んでいる姿を多く見かけた。
歩いていける距離にスーパーやドラッグストア、コンビニがあり、住みやすそうな地域だと思った覚えがある。 
 月が丘、そのどこかに公園があり、八月八日に何かがある、もしくは起こる。というのは俺のいい加減な予想だ。ヒューマノイドが先のことを予言するのは、記憶した事柄の統計から、高確率で起こるであろう事象を導き出した時だ。コハクにそんな性能が備わっていただろうか。俺が抱く、コハクに対するヒューマノイドとしての期待感は、折り紙の束に入っている銀色くらいのものだった。もはや何かで見た言葉の羅列がクラッシュ寸前に出てきただけという線が一番濃厚だとすら思っている。空の言葉、しかしそんなものに俺は縋っているのだ。気力の湧かない毎日の中で、長い夜を超えて、八月八日が来るのを待っている。



「ああ、そりゃあ暑い中連れまわして水の中に入れたら壊れるさ」
 受話口で惠介が微かに笑う気配がして、肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。分かりきっていたことを改めて他人に指摘されると堪らない。脳を無理矢理突かれているようで、眩暈がした。
「現行の防水仕様のものなら兎も角、三十年前の筐体だろ?劣化したシリコンから徐々に水が沁み込んで、クラッシュすることなんて分かりきってる。燈一だってそれくらい分かっただろ?」
 何やってるんだか、易々と障害物を乗り越えるように言葉を紡ぐので、頷くしかなかった。そして惠介に電話して良かったと、早々に思った。惠介は仁と違って俺を正論で殴ることに抵抗がない。仁もものの誤りを遠慮無く指摘するが、不出来に寛大なので、どちらかというと慰めを受けたいときに相談すると、気持ちが楽になる。
 最寄りのコンビニでか恰好ばかりの夕食を購入し、通話をタップすると、それほど待たずに惠介は応じた。フリーランスなので決まった終業時刻はなく、電話の後も仕事をすると言う。
「悪いな、仕事中に。こんなことで」
「いいや、それはいいけど。お前がヘマするなんて珍しい。それに驚いてるよ」
「俺が一番驚いてるよ。いや、確かに分かってたんだよな。でも、大丈夫だといいって、賭けみたいなことしちまった」
 奥歯を噛みしめ、携帯を持つ手に力を込める。吐露すると、後悔がはっきりと形になって見えた。その輪郭をなぞるように言葉を続ける。
「楽しませたいって思ったんだよ。あいついつも面白くなさそうな顔してるから」
 これは懺悔だ。ゴミ山みたいに溜まったものを誰かに聞いてほしかった。
「笑ってたんだ、ちゃんと。ヒューマノイドのくせに、自己管理も出来ないのに。こんなことしたら壊れるって言やよかったのに」
 目頭が熱くなって、眉間を撫でた。惠介はゆっくり息を吸って、「あのさあ」と呆れたような声色を出した。
「燈一、お前がヒューマノイドの面倒見てどうするんだよ。厳しいことを言うが、ロボットは人間の穴を埋めるだけの道具なんだよ。道具はいつか壊れる。仕方ないことだってある。でも、お前の気持ちも理解できるよ。俺もハルが大事だから。そうだな、お前のところは少し特殊だったから、余計に辛いのかもな」
 惠介の辛辣な言葉が同情に変わる頃に、汚い雑巾を絞ったように涙が零れて、流れ出そうになる鼻水を啜った。
「俺がいじめてるみたいだから泣くなよ」
 ふっと笑うように息を吐いて、惠介は俺が鼻をかむのを待っていた。久しぶりに泣いたら、頭と顔の筋肉が
緊張して、頭がガンガンと痛んだ。ティッシュを何度も引き抜く。耳に当てていた携帯をダッシュパネルに置き、スピーカーにした。
「で、月が丘公園で何かあるんだろ。期待して行ってみればいいじゃないか」
「でも、行ったところでコハクが直るわけないじゃない」
「そうかも知れないけどさ、心残りがないようにした方がいいだろ。元々行くつもりだったんだろ?」
 下唇を噛んで黙る。そうだ、体を引き摺ってでも行くつもりだった。しかし期待を裏切られたらどうしようと臆病になっていた。誰かに叱咤してほしかったのだ、俺は。
「ああしておけばよかった、こうしてやればよかった、っていうのはカビみたいに残るぞ。出来ることはやった方がいい。燈一自身の為にも。疑似的に人の死を体験するっていうのは、本物とこうも変わらないんだな。勉強になるよ」
 惠介の冷静な語り口は、俺の発熱した顔面に水を掛けるようだった。今の俺に出来ること。建設的な行動。ひとしきりコハクの動作停止に悲しみを捧げた筈だ。そろそろけじめをつけなくてはいけなかった。
「八月八日に俺が帰ってこなかったら泣いてくれよ」
 俺の言葉を聞いて、惠介は鼻で笑った。
「そしたら警察に連絡するよ」
「惠介のその現実主義なところ好きだわ」
「ありがとう。まあ、どんなにショックを受けても帰って来いよ。そしたら焼肉奢ってやる」
「分かった。そうするよ」
「まじで何かあったら電話するんだぞ」
「了解。何か起こるとは思えねえけども」
 惠介の携帯にキャッチが入って通話を終えた。
 眼球の表面が乾いてから、車を発進させた。フロントガラスから見える電線が交差し合い、あやとりのようだと思った。「約束」と光矢に小指を見せたコハクの姿が浮かんで、薄い空色に消えていく。



 エアコンのついた自室を後にしてエレベーターを下りた。一階で扉が開くと、エントランスは蒸した暑さが広がっていた。外は気休め程度の風が吹き、しかし車の中はサウナのようで、すぐに汗ばんできて何度かティッシュで額を拭いた。こんな日に水に浸かったら気持ちいいのだろう。車を発進させ、焼石のようなハンドルを回しながら、飛沫に囲まれはしゃいでいるコハクの姿を思い浮かべた。明確な行先を持つ車は国道を南下していく。平日の通勤ラッシュを過ぎた時間は車も疎らで思うように進む。三十分もすれば目的の場所へ着く筈だ。
「彼女さんに会いに行くんですか?」
 珍しく有休を使う俺を、ピッチから耳を離した工藤が心配そうに覗き込んで問う。
「まあ、そんなところだ。デートに誘われてんだよ」
「えー最近落ち込んでると思ってたら恋煩いだったんすかあ?」
 心配して損したあ、と工藤は椅子のキャスターを後退させると、「そうなんだってさ」とパソコンに向かう木野に声を掛けた。木野は冷ややかな視線を工藤に向ける。
「良かったですね。大した理由じゃなくて」
「ほんとほんと。大切な人が亡くなったーとかだったら何て慰めようかと思ってました」
 工藤の言葉が密かに胸の中で暴れ、、それとは反対に肩から指先までが脱力して冷えていった。後輩に気を遣わせて、しかも勝手に傷つくなんて、いい大人が何してるんだと情けなさで腹が膨れそうなのに、同じくらい駄々を捏ねる子どものような我儘が降り積もる。もう一度会いたい、という気持ち一心で車を走らせた。絵画のような空の下で何が起こるのか、何も起こらないのか、期待と不安が入り混じる。
 車内が、自室のベッドに寝ているコハクの為につけてきたエアコンと同じ温度になった頃、隣の市との境界を表す看板を通り過ぎた。間も無く公園に到着する。八月八日、月が丘公園。時間の指定はない。住宅街に入る。複合商業施設「ルナヒル」の駐車場の隅に駐車し、携帯で地図を見ながら一戸建ての並ぶ通りを彷徨い、小さな公園を見つけた。滑り台、ブランコ、砂場、その周囲にベンチが存在する。人の姿はなく、今は平日の午前中で、子どもも大人も職場や学校で忙しく過ごしているのだという当然のことを思い出す。とりあえず出入口近くにある、砂場がよく見えるベンチに腰を落ち着けた。背後にそびえる青々とした葉のついた木が傘になり、日差しを遮って全身を優しく迎え入れる。鞄から文庫本を出して、栞を挟めていたページを開く。こんなにのんびりとした時間を過ごすことは随分久しぶりな気した。コハクは喧しくはないが、ああそうか。俺の方がはしゃいでいたんだな。一緒にいることが嬉しくて。
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