ミナトは凪に訪れる

七瀬渚

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3.衝撃的な朝(☆)

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 いつもは十五時が私の退勤時間なのだが、今回は一時間長く残っていった。
 でも後片付けや閉店作業などまだ諸々の仕事が残っている店長たちには敵わない。うん、そうだよ。私なんて楽な方。

 とは言え……

「ああ疲れたぁ! ほんっとに疲れたぁ! おばちゃんもう動けませーん!!」

 リビングのテーブルにどかっと突っ伏して一人おどけたりなんかする。人と比べてどうだろうが、本音は本音として確実に存在しているものだ。
 家は好きだ。本音を心置きなく解放できるからな。

「まずはお風呂かなぁ。それから~……ふふふ」

 思わず笑みが溢れた。
 今夜は特に最高なのだ。なんたって明日からは二連休。大好きなレモンサワーとおつまみがあれば至福の時間は約束されたようなもの。何時までとか気にする必要もなし。ああ、なんて素晴らしいのだろう。

 着替えの服を取りにクローゼットへ向かう。その途中で壁掛けのカレンダーが視界に入った。日付を丸く囲んだ赤ペンの印も。

「あっ、そうだった」

 一つ思い出してしまった。いや、思い出さなければまずかったのだけど。
 明後日は町内会の皆さんと海岸のゴミ拾いだ。快く引き受けてしまったんだよなと思い出す。
 別に嫌な訳ではない。でも何か自分らしくない自分を演じているような気分になるときがあるだけだ。

 まぁ人間誰しも建前くらいある。特に大人ならな。世のため人のためと言いながら内心面倒くさいときくらいあるものよ。
 このときもそんなふうに締めくくり、深く考えはしなかった。


 浴室までの道のりは何気に遠い。廊下が長いからだ。

 この家は元々小さめのペンションだったそうで、実は部屋数も使いきれないほどある。
 トイレは一階と二階合わせて二つ。浴室は一つ。そう聞くと広めの一軒家とさほど変わらない印象だけど、ここに一人きりで住むとなるとあまりにも空間を持て余す。

 老けた性格の私だけど肉体は二十二歳。この年齢の女性の暮らし方としては珍しいんじゃないだろうか。

 脱いだ衣類を軽く畳んで脱衣カゴに入れる。夜ともなれば素肌をかすめる隙間風はそこはかとなく冷たい。さっさと入ってしまおう。

 ガラ、と開けたドアの音も、ぽちゃりと滴る雫の音も、広い空間ではよく反響する。湯船に肩まで沈めながらふと思い出していた。
 怖くないか、寂しくないか、そう訊かれたことが何度かあったこと。そうだな。確かに人によっては不気味と思うかも知れない。
 しかし私はすっかり慣れてしまったよ。気楽な一人時間なんて前向きな捉え方が出来るくらいにはね。

 それにこの近所の人は親切な人が多い。食材やお菓子のおすそ分けという口実でよく私の様子を見に来てくれている。お年寄りばかりの町内会の活動に誘ってくれるのもきっと気遣いだ。

 ありがといことだよ、本当に。
 本当に……

「なんでそこまでしてくれるんだろうねぇ」

 小さな独り言は波紋を立てる湯の中へ揺らいで消える。
 変なの……いま一瞬、自分の顔が幼い子どもみたいに見えた。

 気にしてどうする。理由がわからないのは知る必要がないからだ。そうやって何度も考えるのを中断してきた。
 だけど今夜はさすがに難しいみたいだ。


「ねぇ、あなたは誰?」


 思わず問いかけてしまう。触れようと手を伸ばしても湯は自在に形を変えるだけ。鮮明に対象を映し出す鏡になどなりはしないのに。


 四年前。
 昏睡状態から目覚めた私は、まず名前が『樫村かしむら琉夏るか』であることを告げられた。
 院内で筋力を取り戻すためのリハビリを続け、歩行がある程度可能となったタイミングでこの家へ案内された。当時はヘルパーさんも同行していたな。

 この家の持ち主だという老夫婦は、最初の一回しか顔を合わせていない。なんでも私の遠い親戚らしい。とても愛想の良い人たちではあったけれど。


――この家を好きに使ってくれてかまいません。固定電話と電話帳が置いてあるので、私たちだけでなくこの近所の人たちともすぐに連絡がとれます――

――職場はこちら、長谷川さんの経営する惣菜屋でパートとして働いて下さい。体力が充分回復してからで大丈夫ですよ――

――インターネットは使用できません。テレビもローカル放送のみです。本は雑誌以外でお願いします。携帯電話やスマートフォンは無断で持たずにご相談下さいね――

――何故かと思いますよね。それはあなたが記憶喪失だからですよ。強い刺激になってしまう可能性があります。なのでインターネット、全国放送のテレビ、ラジオ、いずれも許可できないと医師からも言われているのです。この町の外にも行ってはいけませんよ。もう一度言いますがこれもあなたの為なのです――


――私たちからお願いしたいのは以上です。ご不便もあると思いますが、町のみんなでサポートしますのでご理解下さいね――


 言っていることは奇妙だったこと、自分が誰かに生活を管理されていること、例え過去の記憶をほとんど失くしていたってなんとなくわかった。

 でも自分が何者なのかと考えていたのは最初のうちだけなんだ。この町での生活が思った以上に快適だったのも大きい。

 しかしそれだけじゃないと認めるよ。
 怖かったんだ。
 自分の正体は知ってはいけないし知られてもいけない、そんな立場の人間なのではないかと想像したんだ。

 例えば犯罪者とかね。当時は少女だったから実名報道されなかったとか。

 そこまでではなくても、かなりタチの悪い不良だったとか。

 仮にそうだとしたら医師や管理人さんのおっしゃる通りだ。思い出さない方が自分にとっても周りにとっても平和と言えるかも知れない。だから治療と言えるようなことも今はしてないんだ。薬すら飲んでないし。

 今から私に出来ることがあるのなら別だけど、きっと何もないのだろう。だから詮索なんてしない。今の生活に感謝して生きていくだけだ。


 お風呂上がり。テレビのローカル放送を流しっぱなしにしたリビングで、氷をいっぱいに入れたグラスに缶のレモンサワーを注ぐ。
 テーブルにいくつか並べたおつまみには残り物のおかずも混じってる。いつも作り過ぎてしまうんだよな。

 もし長谷川さんちのみんなが食べてくれなかったらどうしていたんだろう。そう考えてみたとき、ズキ、と胸が小さく疼いた。
 変な感覚だ。病気は勘弁してくれよ、と思いつつレモンサワーを飲み進めるあたり、私の健康意識は実に雑であった。

「MINATO……かぁ。なんか凄かったな、あの子」

 今夜はろくに頭も回らないくせに、独り言ばかりがぽろぽろと零れる。特に彼女のことはよほど印象的だったのだろう。

「あんな生命力のギラッギラした子でさえ、志半こころざしなかばで命を落としたりするんだね。人間ってわからないなぁ」

 箸の先でおやきをちょいちょいとつつくなんて行儀の悪いことをしていた途中。


――違う。まだ終わってないよ――


――ハルキが迎えに来てくれるもの――


 カラン、と高い音が鳴り響いたとき、やっと我に返った。

 ふとグラスに視線を落とす。ここから鳴ったのはわかっているのだけど。気になるのはその前。

「今の……声は……?」

 私はきっと凄く久しぶりに、自分が一人きりであることを心細く思った。いつの間にか手が小刻みに震えている。
 やだやだ、私らしくもない。ホラー漫画もミステリー小説も平然と読めた私だろうが。
 素早くかぶりを振って心のもやを掻き消そうと試みる。

「あ~、もう! やっぱり疲れてるんだ。そりゃそうだよね、あんな忙しけりゃ。寝よ寝よ」

 残り物のおかずを優先的に口の中に放り込み、忙しなく咀嚼そしゃくしてから、片付けを始めた。片手間にレモンサワーを喉へ流し込む。

 グラスだけ洗いそびれたけど、まぁいいや明日の朝で。
 歯磨きさえも雑に済ませて二階の寝室へと向かった。

「おやすみー!!」

 無駄にでかい声を上げる。酔いが回っているのをいいことに速攻で布団に潜り込んだ。眠気はすぐに訪れた。
 あの声の出処もわからないまま。


 きっと朝起きたら頭が痛くなってるんだろうなぁ。最後の方、一気に飲んじゃったから。

 視界は暗いまま、夢現ゆめうつつにそんなことを考えていた。

 ベッドの上だとわかっているはずなのに、身体が宙に浮いてるようにおぼつかない。普通に考えればお酒のせい。しかし何か違うのだ。言葉では言い表せないけど。


 そうしてどれくらいか経った頃、柔らかい日差しと小鳥の鳴き声で目を覚ました。

「……もう朝か」

 よっこらしょと呟きながら身体を起こす。そこで新たな違和感が。

「あれ、頭痛くないな」

 むしろ気分がスッキリ晴れやかな気さえする。なんだいつの間にお酒に強くなったのだ、私は。これなら朝ごはんも余裕だな。

 今日は休日だから時間もたっぷりある。何を作って食べようか。
 料理好きな私は浮かれた気持ちでベッドから軽やかに降り立った。そのときだ。

 振動を受けてか自分の長い髪がばさりと顔面に覆い被さった。胸元を経て腰まで続くそれを目で追う。

「……は?」

 別に長さは変わっちゃいない。毛量もおそらく。しかしこの色はなんだと目を疑った。

 そんな馬鹿な。だって心当たりがない。

 あ、そうだ。眼鏡。枕元にないということは一階に置いてきてしまったか。我ながら危なっかしいな。
 ようは正確に見えていないんだろうと無理矢理に結論付けて寝室を後にする。ここに姿見はないからだ。

 それでも階段を降りる足取りはぎこちなかった。手すりを掴む手もブレそうだった。
 きっと本当はわかっていたんだ。視力が良くないと言ったって軽い近視だし、自分の髪があんなふうに見えるなんてさすがにあり得ないと。

 でも鏡の前に立てば、やはり見間違いだったのだと確信が持てるはずだ。夢だったとわかるパターンでも良い。
 なんでもいいから納得のいく結果であってくれという切実な思いで脱衣所の鏡を見たのだけど。


「なん、だ、これ……」





 一言で言うならば。
 ド派手な姉ちゃんが目の前にいる。

 頭頂部から水色、青、青紫へのグラデーションとなった髪。両耳の後ろから流れる毛束だけ、ライムグリーン、イエロー、ピンクのグラデーションになっている。全部合わせると六色の髪だ。ほぼレインボーカラーだぞ。インパクトが強すぎるだろう。

 大ぶりなピアスを幾つも装着し、メイクもばっちりきめている。普段の私じゃ考えられないセンスと言っていい。

 しかしその動きも表情も私とシンクロしているときた。

 どうやら私自身……ということになるらしいのだが。
 そんなことあるか!? とても信じられない。大体、美容院に行った覚えさえないのに、何をどうしたら一晩でこのようになるのだ!?

「いやいやいや待て待て待ておかしいおかしいおかしい」

 人間は何故動揺すると同じ言葉を繰り返すのだろうか。
 ともかく私が取るべき行動は何かと考える。ピンとくるのなんて一つしかない。

 寝直す。そうだ。これしかあるまい。

 うん、と納得の頷きをすると、私は真っ直ぐリビングに行き、テレビのリモコンを手にしていた。

「あっ」

 我に返る頃にはもう遅い。ローカル放送の番組が流れ出した。

 ルーティンとは恐るべきものだ。これだけ慌てふためていていたっていつも通りの行動をしてしまうのだから。

 そして私はまたも愕然とすることになる。
 テレビに表示されている日付を目にして。

「四月……三十日……あ、あれ?」

 そんな。昨日は二十八日だったはず。では二十九日は何処にいった?
 でもさすがにテレビが嘘を言っているとは思えない。

 混乱した気持ちのまま視界を巡らす。
 リビングの中は変わってないようで、少し違うようにも見えてくる。
 やがて景色そのものがぐるぐる回り始めたように感じて私はついにしゃがみ込んだ。

 そうだ、日付も大事だけどいま何時だ。
 平静を取り戻そうという意識はかろうじて残っていたようで、再びテレビへ視線を戻した。

 六時四十五分、か。
 ……ん?

 とんでもないことに気が付いた私はがばっと立ち上がる。

「やばい! 町内会のゴミ拾いーー!!」

 あと約一時間でこの状況をなんとかしなければならない。私にとっちゃそちらの方が深刻だった。
 一方で実に私らしい思考であることに、少しばかり安堵していたのだ。
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