サーシェ

天山敬法

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第四章 叛逆の同志

25話 秘伝の茶

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 春の訪れを告げるように、今日も雨が降っている。
 雨除けの外套を頭から被ると、視界は暗く狭く限られる。それでも、懸命に水たまりを踏んで足を急がせる。懐に握りしめたこの紙切れを早く届けなければならない。
 湿気を帯びた空気は、外套の内側で蒸れた汗と一緒に髪を肌に張り付かせる。決して快い感触ではないけれど、私は、その雨の匂いが好きだった。……大好きな人との出会いの日を思い出すから。
 だけど雨はやがて上がる。空を見上げれば晴れ間が近付いてくるのが分かった。昼前には雨は止むと彼から聞いていた、今日もその予言は気持ちいいぐらいに的中した。
 雨除けを脱ぐと、爽やかな空気が顔を撫でて心地よかった。道行く途中には、見知った顔の人間とすれ違うことも多かった。その度に、今日も元気に笑顔を振りまいて。
「ごめんね、ゆっくり話したいんだけど、ちょっと今日は約束があって。また今度!」
 そう爽やかな声で躱しながら、私は軽やかにステップを踏むように、目的地まで足を運んだ。
 屋敷がいくつも連なった一角の、作業小屋に入って戸を閉める。布と糸を積んだ箱をかき分けて隠し扉を開けると、光のない暗い通路が続いている。
 うきうきとした足取りでそこをくぐり抜けると、すっかり見慣れた華やかな部屋の景色が目に入った。
 耳を澄ませて気配を窺ったが、誰かが話している様子はない……、とても静かだった。
「ラファエル? いないの?」
 名前を呼びながら部屋の奥へと進む。普段は応接間になっている机の上には、書類が何枚か散っている様子があった。
 そしてその机の手前の長椅子に、沈むように彼の姿があった。私の声を聞いて、彼はのそりと頭を持ち上げた。
「ん……、ああ、ティファ? 今何時……?」
 珍しく、昼間から疲れているようだ。椅子の後ろ側に立って、その顔を上からひょいと覗き込んだ。
「今さっき雨があがったところ」
 そう言って両手を無防備な男の頬に添える。ラファエルはごしごしと目を擦りながら、背筋を伸ばした。
「居眠りなんて珍しい。疲れてるの?」
 そう言って、私は無遠慮に彼の隣に腰掛けた。ラファエルは自分の金髪を撫でながらぼんやりと答える。
「うん……、天気のせいかな、今日はなんだか疲れる……」
「あなた雨が苦手なの? 初めて聞いたけど」
「僕もそんな自覚はないけど」
 まだ疲れがとれないのか、その顔はやっぱりぼんやりとしている。いつもは一寸の抜け目もない風に身を正してる貴公子のそんな顔には、つい胸がときめいてしまう。
「雨の日は体の調子を崩す人が多いとは聞く」
「“水の魔道”の専門家、レイン・クラネルト家の公子様でも?」
 悪戯に聞いてやると、ラファエルもむすっと口を尖らせた。
「それより、これ。あなたの大切な友達からのお手紙よ」
 私は大事に懐にしまっていたその紙を手渡す。ラファエルは……相変わらず表情の起伏は薄いけど、わずかにその目に光が灯ったのが分かった。
 彼は丸めた羊皮紙を黙って受け取り、中を検める。書いてある文字は私には読めないけど、でも、何が書いてあるのかは予想がついた。
 目を通して、やがてラファエルはふ、と笑みを浮かべた。ようやく、いつもの調子を取り戻してきたな。
「いよいよ作戦が始まる?」
 私は椅子の上で膝をかかえ、両手で頬を支えるようにして笑顔を作ってやる。ラファエルが美しい笑顔を浮かべる、それだけで……後は言うまでもない。
「まあことを急くといけないからね。とりあえず彼ら……、ヨンとレーンに連絡を取る準備を頼むよ」
「今すぐにでも行けるわよ。……宿まで行けばジュリにも会えるかな?」
 そう言った声には思わず浮ついた感情が乗る。しかしラファエルは仕方なさそうに笑って首を振った。
「残念だけど今日のうち……というかもうすぐに来客の予定があるから、その後だね」
「あら、それは残念」
 私が肩を竦めて見せると、ラファエルの冷たい色の目がすっと細まった。
「そんなに彼らに会いたい?」
 隣に座った私の腰に手を回し、ぐっと抱き寄せるようにして、耳元で囁いてくる。宝石みたいに光る美しいその瞳を覗き込んで、私はやっぱり悪戯に笑ってやる。
「なに、妬いてるの?」
「うん」
 そんなことを言い合うのも戯れだ。彼の肩の上に首をしなだれかけて、私は“彼ら”の姿を思い起こした。
「そうね……あの子達のことは、知れば知るほど、興味が出てきちゃうわ。でもレーンはちょっと怖いわね。名前を呼んだだけで睨みつけてくるのよ」
 ラファエルも私の額に唇を寄せて、その髪をしっとりと愛おしんでいる様子だ。
「トレンティア人は名前を大事にするからね。大切な名前は大切な人だけに呼んでもらうものだ。僕だって……僕をラファエルと呼ぶのは君だけだよ」
「またそんな調子のいいこと言って。他の女の子にも言ってるんでしょ?」
「信じてもらえないとは悲しいな」
 ラファエルはその言葉とは裏腹に、楽しそうに笑っている。私だって笑ってやる。
 頭の上からかかる甘い声を、耳だけで楽しんで目を瞑った。彼の目が笑っていなくても分からない。
「この手紙に彼らのことも書いてあったよ。レーン……、彼は確かに、少なくとも一年以上前からズミ人に味方をしていた、れっきとしたレジスタンス隊員のようだ。数え切れないほどの同胞を屠った冷酷非道な魔術師……。確かに、怖い人かもしれないね」
 その言葉を聞きながら、以前この場所で会ったレーンの姿を思い出した。
 確かに金色の髪と青い目を持ったトレンティア人。だけどその輝きはラファエルとは到底違った。暗くて挑発的な笑み、隠しもしない侮蔑の眼差し、品性のかけらもない言葉遣い。
 ズミで見るトレンティア人はほとんどが、固い軍規を遵守する兵士だったから、トレンティア人にもあんな野蛮な人がいるんだと意外にさえ思った。
「同胞を屠った、ねえ。でもトレンティア人にだって素敵な人はいるし、ズミ人にも悪党はいるわ。自分の敵なら倒すだけ……それが同胞かどうかなんて、関係ないんじゃない? わたしはそう思うけど」
「それは僕も同感だ。レーンにとってはお金だけが目的、らしいけど……彼はそのために敵を選ばない。ますます優秀な人材だと確信したよ」
 そう楽しそうに言う声には含みがある。優秀とは皮肉な言い方ね、なんて口は挟まないでいてあげる。
「ヨンくんの方は?」
 話の続きを催促する。手元で羊皮紙をめくる音が聞こえた。
「ヨン……、彼の経歴もある程度は遡れるんだけど、意外と背景が分からない。ヒューグ、サガン、ヘラムス……、所属した部隊名はいくつも上がっているけど、あの若さで……。生まれた時からレジスタンスにいるんじゃないかと疑うほどだ。あの眼球が作り物でないのならトレンティア人の親を持っているはずだけど、分かる範囲の経歴にそれらしい繋がりはない。本当に捨て子なのかもしれない」
 淡々と言うラファエルの声に、へえ、と軽やかな相槌を打つ。意外な気もしたけど、分かるような気もした。隠し事が上手なタイプには見えなかったから。
「あの子、戦士としてはきっと一流なんでしょうね。でも感情を隠すのは下手だわ。正直に生きてきた子……、そんな感じがする」
 ふ、とラファエルから笑いが漏れた。
「もしかすると本当に作り物だったりしてね」
「なあに? それ」
 冗談めかして言うと、ラファエルは声を凄ませた。
「昔、トレンティアには魔道人形なんてものがあってね。見た目は人間と何一つ変わらない、だけど人の心がない魔法仕掛けの人形……」
 子ども騙しの怪談だと分かる、冗談めかした凄みだった。だというのに、一瞬ぞっとした。その言葉がヨンの姿と重なって、まるで真実味があるような気が、一瞬だけでも、してしまった。
 まさか、と笑い飛ばす。いつか娼館の部屋に二人で入った時、私に剣を突きつけてきた彼の青い瞳を思い出した。……さすがに作り物なんかじゃない。
 ラファエルが手に持っていた紙を机の上に投げる様子が聞こえた。その手は私の髪の上に移動する。
「それはそうと、もうじき客人がくる予定だ。そろそろ片付けないと」
 私も目を開けて、仕事の雰囲気を纏い始めたラファエルの横顔を見やった。
「わたしは外しといた方がいいお客?」
「いや……、別に構わないよ。トレンティアの軍人ではあるけど、他愛のない挨拶にくるだけさ。用件と言えば、とびきり美味しい秘伝のお茶を飲んでもらうぐらいだね」
 相変わらず楽しそうに言う。私は何気ない仕草で立ち上がった。
 彼の祖国で摘んだという自慢の茶葉で、おいしいお茶を淹れるのは私の仕事だ。準備はしっかりしておこう。そう思って台所へ向かいかけた私の手を、名残惜しむようにラファエルが掴んだ。
 彼も椅子から立ち上がり、後ろからゆるく私を抱く。何を言うでもなく、振り向いて見つめ合った。
 すぐに彼の手が頭の後ろに回されて、ぐっと引き寄せられる。その力強さに任せるまま、噛みつくような口付けを受け止めた。
 静かに閉じられた瞼の奥、神秘を宿す氷のような瞳にどんな心が揺れているのかは分からない。……ああ、ずっと分からない。
 だけと強引に唇を重ねてくる、その刹那に感じる獣のような情熱、その余韻を引いてうっとりと私を見つめてくる目に……、真心を少しでも期待してしまうのは、愚かな女心というものだろうか。
「今日のお茶は僕が自分で淹れよう。大切な客人だからね」
 私を抱きしめたままそう言った。その声に楽しそうな感情は既に無い、まるで事務的な簡潔な言葉。
 仕事が始まる予感を感じ取って、私も静かに息を整えた。

 やがてラファエル・ロードの屋敷を尋ねてきたのは、鎧を着ていない平服ながらにひと目で軍人と分かるほどの、がっしりとした、確かに軍人然とした騎士だった。金色だったのだろう髪は、老齢のために全部白くなっている。
 ラファエルは自ら玄関に立ち、かの老騎士を出迎えた。
「お忙しいところご足労いただき恐縮です、アンデル・デニング殿」
「ロード・レイン・クラネルト殿。しばらくぶりですな、ご挨拶が遅れたこと、まことに申し訳なく思っております」
「お気になさらないでください、さあどうぞ中へ」
 トレンティア人二人は軽やかに挨拶を交わし、伴って応接間の椅子へと歩いてきた。給仕の服に装った私を見て、騎士は興味深そうな視線を向けてきた。
 ラファエルの目配せを受けて、私はしずしずと台所へ向かう。彼手ずから淹れた紅茶を、美しい茶器と共に客へ差し出さなければならない。
 後ろから、本当に他愛のない世間話をする様子の彼らの会話が聞こえてきた。
「可愛らしいメイドさんですな。使用人は本国からお連れにならなかったのですか」
「皆、黒い森を渡るのが怖いと言いましてね。しかし現地で雇い入れて正解でした。ズミの女性は本当に美しい」
 冗談めかしたラファエルの声に、騎士も柔らかく笑った。そこに軍人らしい張り詰めた空気はない。挨拶にきただけというのも本当なのだろう。
「しかしご用心ください、ズミのゲリラ兵は市民に紛れておりますゆえ……、絶世の美女に寝首をかかれないとも限りませんぞ」
 騎士がおどけて言ってみせた言葉は、奇しくも真実に近い。もしラファエルが“生粋の”トレンティア人だったなら、彼はとっくに謎の腹上死を遂げていたことだろう。
「それは恐ろしい……。ですがそのゲリラ兵も、パーティルにおいてはアンデル・デニング将軍が一掃したと聞き及んでおりますよ。それは見事な戦運びだったとか」
「ハハ……、皆いささか持て囃しすぎですな」
 騎士が控えめに笑った、その口ぶりやラファエルからの呼びかけから察するに、彼がその本人なのだろう。
「ご謙遜を。もしそうでなければ、私がこの町に来ることも叶わなかったでしょう。御礼申し上げます」
「もったいないお言葉を。……とは言っても、まだここより南では不穏な話をよく聞きます。余計な老婆心かとは存じますが、ロード殿ほどの方があまり危険な地に滞在されるのは……、周囲の者も心配するのではありませんかな」
 騎士はやや真面目な声になって言った。ちょうど食器を並べ終え、私は盆を持って彼らの元へ歩いていた。
「お気遣いはありがたく思います。戦前より父が抱えていた仕事の関係で、この町に片付けなければいけないことがありましてね。軍の方々のご迷惑になってもいけませんから、用事が済めばただちに帰国する予定ではありますよ」
 私が机の上に茶器を並べる。釣られるようにして、トレンティア人二人の視線もそこに落ちてくる。特段視線を合わせもせず、彼らは涼しげに談笑していた。
「迷惑などとは滅相もない。ですが、早めにご帰国されるのはよろしいことでしょう。まだイザベラ殿下との婚儀から、落ち着く時間もとられていないのでは?」
 騎士の言葉が私の耳に引っかかる。誰の婚儀って? なんて話に食いつきたくもなるが、当然そういうわけにはいかない。平然とした仕草で、私は給仕を終えた。
 当然ラファエルも素知らぬ顔で、こちらに視線すら向けてこない。
「これはお恥ずかしい話を。今のうちに、ズミの珍しい土産を妻のために見繕わねばいけませんね」
「ハハハ、よろしければ今度、詳しい者を紹介しましょう」
 楽しそうに笑い合う二人の声を背に聞きながら私は踵を返し、部屋の隅に置物みたいに立つ。
 ええ、ラファエルはトレンティアでは大貴族も大貴族、とても高貴な家柄の嫡子。二十代も半ばになる彼に、妻がいない方がおかしいというものだ。別に怒ってなんかないわよ?
 騎士が言った彼の妻の名前には……、殿下とつけていたか。つまり国のお姫様ということだ。さすがは大貴族、立派な妻をもらっているのだな……。
 騎士は出された紅茶に静かに口をつけた。ひとくち飲んで、ほう、とうっとりとしたため息を漏らす。
「デニング殿はもうだいぶ長くズミに滞在しておられますよね。本国の茶を飲む機会もあまりないのではありませんか? お口に合えばいいのですけど」
 ラファエルは騎士の表情を見て満足そうだ。トレンティア人の中でも彼は特段、自分の淹れる茶を自慢に思っているらしい。
「いやはや、さすがクラネルト家の……。本国で飲んだとしてもどこより美味なお茶ですよ。これを異国の地で堪能できるとは、私は果報者だ。……ええ、本当に。トレンティアの情景が浮かんでくるようで……懐かしい心地です」
 騎士は目を瞑ってその茶をじっくりと堪能している。その声色を聞くに、本当に感動しているらしい。
「早くズミの情勢も落ち着いて、デニング殿も帰国の目処が立つとよいのですが」
 ラファエルがそう言うと、しかし騎士は慌てたように首を振った。
「いえいえ、それはまだ先の話でしょう。この情勢の中で、我々が帰りたいなどと泣き言を言うわけにはいきません。陛下から預かったこの地の守備任務……、老骨を埋める覚悟で全ういたしますよ」
 穏やかながらに、その言葉には本物の騎士の覚悟がある……、そんなことを思わせる声だった。
 なかなかいい男じゃない。敵じゃなければよかったのに、なんて冗談を胸の内だけで吐く。
「そのお覚悟には心から敬服いたします。しかし我が国の軍の未来は明るい……、ズミの完全制圧とてそう遠い未来ではないと私は思っています。その暁を私は心待ちに……、神聖なるトレントのご加護をと祈る毎日でございますよ」
 ラファエルは美しい笑顔で言って、自分の淹れた紅茶を飲んだ。
 その腹の内では他でもなく祖国への反逆を企んでいるというのに、よくもこんなに美しい嘘をつけるものだと感心する。本当に敵じゃなくてよかった、なんて思う。
「ええ、その日のために我々も全力を尽くしましょう。南部の制圧には手こずっているようですが、聞けば近日にフォス・カディアルの騎士が入るようでしてね。一気に戦況を変えられると期待が高まっているところですよ」
 騎士は何気ない調子でそう語る。ラファエルの目の色が少しだけ変わったのに気付いたのは私だけだろう。
「フォス・カディアルというと、クラウス殿が? それは心強いですね。こちら……パーティルにもいらっしゃるのでしょうか」
「さあ、詳しい話は……」
 ラファエルの問いに、騎士は言葉を濁す。知らないのではなく、軍の外部で話すことを躊躇っているような、そんな気がした。真面目な騎士なのだろう。
「まあ、彼が来たとすればこちらにも顔を出していただけることでしょう。また国から茶葉を取り寄せておかねばなりませんね」
 ラファエルはそう言ってまた美しく笑った。
「ハハ、近くを通ることがあれば私からもクラウス殿に言っておきましょう。戦場へ赴く前に、極上の茶を味わっていくようにと」
 二人の間で一瞬だけ高まって見えた緊張は、また紅茶の湯気にほぐされるようにして温まった。緩やかに、他愛もない談笑は続く。
 しかしやがて騎士が一杯の紅茶を飲み切ると、それが時間の訪れを告げたようだった。
「慌ただしいですが……」
「いえいえ、ご多忙の身であることは存じていますので……」
 二人の紳士は丁重に挨拶を重ね、その場は解散となるらしい。ただ会って茶を飲むだけという挨拶にこうも肩肘張るなんて、やっぱり貴族って窮屈だな、とのんきな感想を覚えた。

 深々と礼をしてから表口から去っていく騎士を見送り、ラファエルは凛とした姿勢で玄関の手前に立っていた。ようやく私はその背に歩み寄ってやる。
「渋くて素敵なおじいちゃんね」
 ラファエルはすぐには振り向かず、まだしばらく、小さくなっていく騎士の背を眺めている。
「……ああ、武芸も人柄も優れているという評判の、トレンティアでも屈指の騎士だ。あのお歳でいつまで前線におられるつもりか……、さっさと引退してほしいところなんだけどね」
 その声色はまるで真剣だ。一緒に笑うところなんだろうか、と迷ってる間にラファエルは静かに言葉を続けた。
「しかしずっと国のために命をかけてきた、その生き方には敵としても敬意を表するべきだろう。……慈愛深きレインよ、どうか死に損ないの老騎士に良き夢を……」
 そう祈って見せた時、こちらには背を向けていて分からないけど、きっとこの上なく美しい笑顔を浮かべたことだろう。
 屋敷の戸を閉めると、ラファエルは素早く、キレのいい足取りで振り向いた。
 かつかつと足音を立てて机に戻る様は、仕事に急かされていると見える。顔色も穏やかながらに真面目な表情を浮かべていた。
「それより、もしフォス・カディアルの騎士が来るとなると面倒だ。ああ、非常に面倒だ。作戦を急がなくちゃいけない」
 そう愚痴っぽく言いながら、脇の棚に片付けていた書類をまたごそごそと机の上に広げ始める。私は小さく息をついて彼の元へ歩み寄った。
「そんなに厄介な人?」
 書類仕事を始めたラファエルの隣にまた腰掛ける。彼はこちらに見向きもしないが、触れた肩の柔らかさだけで受け入れてくれたのが分かった。
「デニングと比べても格段に腕の立つ騎士だ。トレンティアでもほとんど唯一と言っていいほど稀有な、現役の魔剣士……。凡将では百人束になっても勝てない、なんて言われてる奴だ。さすがにデニングやエルフィンズを差し置いて指揮権を握ることはないだろうけど……単騎で兵に混ざるだけでも厄介なことこのうえない」
 書類の文字を睨みながら言う。そんなことを言われると私まで不安になってきてしまうが……しかし実際の戦いに臨んでしまえば、私にできることは無い。
 だから、戦いになる前に何かできることをと考える。
「暗殺しちゃう?」
 そう聞くと、ペンを弄んでいた手をぴたりと止めて、何か考え込み始めた。
 珍しく眉間に皺が寄っている。……殺すべき相手を躊躇う人ではない。どうせまた面倒な政治の関係とかに頭を巡らせているのだろう。
「ひとまずは……保留だ。とりあえず当初の予定で作戦を進める。ティファ、レーンとヨンに連絡を……」
 そうきびきびとした調子で指示をする顔には、疲労が浮き出ている。いつもの彼ならもっと余裕のある笑みを浮かべていただろうに。
 そんな恋人の姿が痛ましくて、私はそっと彼の頬を撫でた。
「ラファエル、疲れた顔をしているわ。今日はもともと調子が悪かったんでしょ? 無理してない?」
 ラファエルは少しだけ驚いた顔をして、やがて細く息を吐いて落ち着いた。すとんと上体をこちらに預けて、私の胸に顔を埋めるように寄せてくる。
 子どもみたいな仕草で甘えてくる彼が可愛らしくて、その金髪を撫でながら私は意地悪を言ってみた。
「……そういえばわたし、あなたに奥さんがいるなんて話初めて聞いたなあ」
 彼はゆっくりと顔を上げて私の目を見た。疲れた色はまだあるけど、微笑みが戻っている。
「隠すつもりもなかったけど、わざわざ言うことでもないだろう?」
「お姫様なんでしょ? 綺麗な人?」
 焼きもちを妬いて見せる。まるで、あたかも普通の恋人同士であるかのように振る舞う、戯れだ。
「君の方がずっと綺麗だよ、ティファ」
 その答えがお約束。ええ、分かっているわ。会話に流されるようにして、私達は軽く唇を重ねた。
 そっと口を離してから、ラファエルは疲れたままの、しかし力強く美しい笑みで言った。
「このままベッドへ入ってしまいたいのは山々だが……、今は時間を大切に使いたい時だ。……仕事を頼めるね?」
 私も笑って頷いた。やっぱりラファエル・ロードはこうでなくっちゃね、なんて思いながら。
「サーシェ、仰せのとおりに」
 大げさにそう言って見せる。ようやく、パーティルの町が動き出す……、その予感に胸を躍らせながら。
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