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第五章 聖樹の都
34話 トレンティアへの旅
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敵国トレンティアの地へ赴くことへ決めた一行は、パーティルから帰国するロードとその召使いというていで出発することになる。
敵国の地で一体どんな行軍が待っているのだろうかと想像を膨らませたが……聞けばトレンティアの国内には、ズミ人に対して無条件に攻撃をしてくるような者は無いらしい。
実際侵略を受けているズミとは違って、トレンティアの地にズミの軍隊が足を踏み入れたことはないので、まさか攻撃的なズミ人が国土に入ってくるとは誰も思っていないのだ。
トレンティアの市民達にとっては戦争なんて既に終わったものとさえ思っているらしく、軍に無関係な民間人を装えば顔を隠さなくても一応の行動はできる……という話だ。当然それはトレンティア貴族であるロードが保証する限りでという限定的な範囲ではあるのだろうけど。
しかし出立に当たって困ったのはフェリアの扱いだった。パウルとジュリの努力の成果があったのか、ウィルに会いに行こうとしてそわそわするような様子はいつの間にかなくなっていたが、彼女をトレンティアまで連れて行くのはさすがに躊躇われた。
パウルの目的はトレンティアでの魔法の……学会というやつに接触することらしく、そこでフェリアの存在を知られるわけにはいかない。もしバレたらその場で一同もろともに捕まって回収されてしまう……という事情のため、やはりフェリアはズミに置いていくという判断をせざるをえなかった。
「……あなたがこの人形を手放したくないという事情なのであれば、私とて隠し立てしてまで国へ連れて行くことはできません」
ロードもそう語る。当然のようにパウルはフェリアを手放すつもりはない。
「ズミに置いては行くが、その間は人目につかないような場所で保管しときたいんだ。そういう場所を貸してくれないか」
「できなくはありませんが……」
もったいぶった口ぶりのロードに、パウルは愛想よく笑顔を浮かべた。
「分かった、一個借りだ。トレンティアに着けばロード様の仕事を俺も手伝おう。なに任せてくれ、魔法の知識についてはそこらのボンクラ軍人より役に立つぞ」
そんな機嫌をとって、余計な仕事を任されやしないだろうな、なんて危ぶみながらも、僕が口出しできることではない。渋そうな顔でロードが了解したのを見届けた。
しかしフェリアを置いていくのはパーティルにではない。ロードが手配してくれるという保管場所までは同行することになる。
そしてパーティルを出発する一行の馬車には、パウルと僕とジュリとフェリアという元の四人に、ロードと、その部下であるティファという顔ぶれが揃った。
その他にも外交官の移動に伴って護衛につくトレンティアの軍人が数名合流する予定で、郊外に停めた馬車の脇でそれを待っている時に。
珍しく外でフードを下ろしているパウルが、びしと僕を指さした。
「そういえばヨン、お前は俺と違ってレジスタンスでその名前を出してるだろ。万一そこから足がついちゃいけねえ、トレンティアにいる間だけでも名前を変えとけ」
パウルの言葉を聞いて、一同の視線がなんとなく僕に向く。僕は肩を竦めて見せた。名乗りを変えろなんて突然言われても、ピンとは思い浮かばない。
前に変えた時も気の利いたものは思いつかなくて、ずっと「変わった名前だな」なんて言われ続ける羽目になっているぐらいだし。
「偽名……ってかむしろ本名でいいんじゃねえの、この際。見た目からして混血なんだから、トレンティアで友好なふりするならトレンティア人らしい名前のほうが都合いいだろう」
パウルは呆れたような顔で更に言ってきた。ええ……と僕は愚痴っぽいため息をつく。
ほう? なんて興味深そうな相槌を打ったのはロードだった。パウルとは違って、彼は僕の元の名前を知らない。
仕方なく、ため息と共に僕は名乗った。
「ヨハン。それが僕の生まれた時の名前だ。トレンティア人の名前だと聞いたから、忌々しくて故郷を出るときに変えたんだよ」
へえ、とロードは短い相槌を打っただけだった。パウルは気の抜けたような、ぼんやりとした調子で言った。
「つか、その名前はどうやって分かったんだよ。生みの親と連絡はとれてたのか?」
「いや……、よく知らないけど、生みの親が養父に、赤ん坊だった僕を預ける時に伝えたらしい。それで、そのままそれっきり引き取りにこなかった、ってさ」
幼い頃に父から聞いた話をなんとなくの記憶で言う。昔から自分を捨てた生みの親の話なんて聞きたくもなくて、あまり僕から養父に詳しく問いただすこともなかった。
「……ヨンさんの年齢から考えて、生まれた頃は黒い森の整備も途上で両国を行き来できる人間は今以上に限られていたと思います。……まあ、事情を想像することは簡単ですが、ヨンさんにとっては触れられたくもないのでは……」
ロードがそんな気遣いをしたのを聞いて、パウルはばつが悪そうに口を尖らせた。
「まあ、名前に関しては別にそれでもいいよ。今更拘る気ないし」
僕は素っ気なくそう言った。レジスタンス兵として戦う時にトレンティア人の名前をしているのは忌々しかったが、潜入のためにそれらしいふりをする、と言われると不思議と抵抗感もないものだ。
ふむ、なんて言ってパウルは腕を組んだ。
「しかし苗字もないと不自然だ。お前のその、養父というのには苗字なかったのか?」
そう聞かれて、記憶の中の父の名前を掘り起こす。
「アルド・ファル・テーディル……。が、父の名前だ」
「ファル・テーディル? えと、なんだっけ、ズミ人って母方の家名を入れるんだっけ? ってことはどうなるんだ」
パウルがそう悩んだところを横からジュリが口を挟む。
「たぶんファルが母方で、テーディルが父方の家名を表してるんでしょうね。お母さんの血筋……となるとヨンは分からないですし、テーディルだけでいいのでは。そもそも両親両家の名前を継ぐのはいわゆる貴族階級の習慣です。ヨンが貴族というのも変ですし……」
「ふむふむ。それじゃヨハン・テーディル。これでいこう。いい具合に混血っぽくなった」
勝手に名前が決まったのを僕は無表情で見ていた。ロードがまた気遣うような視線をちらりと向けてくるが、構わない、と言外に言いながら小さく首を振る。
ヨハン・テーディル。慣れない自分の名前を、馴染ませるように胸中で呟く。これから名乗る機会があるかもしれないから、ちゃんと憶えておかないといけない。
……何か、少しだけ胸が浮くような心地がした。育ての親であるアルドには血の繋がった本当の家族もいたものだから、その家名を僕が名乗ることは許されなかったのだが……、今になって、勝手にではあるが、彼の家名を名乗れることに、少しだけ。
「偽名を名乗るからには、皆も僕を呼ぶ時は気をつけてくれよ。癖でヨンと呼ばないで、ヨハンと……」
そう言うと、パウルもジュリも真剣な顔で頷いた。
「もちろん任せとけ、ヨハン」
「分かりました、ヨハン!」
口を揃えて呼んでくる。……何か、くすぐったくて仕方がないな。
そんな光景を、今まで黙って見ていたティファがにんまりと笑顔を浮かべて言った。
「……ほんと、あなた達仲いいわねえ……」
隣でロードも小さく笑った。
「そうですね。我々も負けてはいられませんよ、ティファ」
やだあ、なんて言って笑ってティファはロードの肩を叩いた。トレンティアの上流貴族であるロードと、娼婦をしているティファ……、両者の身分の差は明白だが、レジスタンスの上官と部下と言うにしても気心が知れているらしい。
そんな平和にさえ思える空気も、やがて合流したトレンティア兵の物々しい雰囲気にすぐに覆い隠されてしまったが。
護衛だという軍人は三人いた。うち一人が馬車馬の手綱を握り、他の二人はそれぞれ自分の馬に騎乗してついてくるらしい。三人とも帯剣はしているが、鎧を着ている様子はない。
自分の馬に乗っている軍人のうち一人の顔を見て、パウルの表情がぴしりと強張った。おや、と言って驚いた声を上げたのはロードもだった。
「これはクラウス・フォス・カディアル殿ではありませんか。もうお怪我はよいのですか」
その名前を聞いて、思わず僕もつんのめりそうになったが……平静を装った。
僕も彼の名前を、何度か聞いていたから記憶していた。あのパーティルの夜戦の中で剣を交え、僕の腹に穴を開けたという魔剣士ではないか。
確か呼び名をクラウスというその男は……、戦った時は夜だったので顔などもよく見ていなかったが、三十歳前後と見える顔立ちだ。
軍人には珍しく髪を短く刈らずに、少し長くなっている前髪を洒落たふうに靡かせているが、その表情はいかにも厳格に引き締まった、覇気あふれる風貌である。
「問題ありません。ではロード殿、サダナムまでご同行いたします。足元にお気をつけて」
その印象に違わぬ、低くハッキリとした声でロードに言った。その後ろに控えている僕達召使いには一瞥すらよこさない。……この際、顔をまじまじと検められないのは幸いだが。
言われるがままにロードは馬車に乗り込む。そのあと手招きを受けて、召使い一同である僕達の一行も乗り込んだ。
荷馬車のように幌をかけた中は、さすが貴族の移動に使うだけあって小洒落た装飾の座席が二つ設けられていた。
ロードは迷いなくそれに座ったが、ティファなどは脇の床に座り込む。僕はなんとなくジュリと顔を見合わせて、ティファと並んで床に座った。フェリアも当然隅にちょこんと座る。
空いたもう一つの座席には、遠慮する素振りもなくパウルがどかと腰掛けていた。ロードはそれを呆れたような顔で見ていたが、何も小言は言わなかった。
「クラウス殿自ら護衛していただけるとは心強いですが、良いのですか? こちらの方で任務があったとお聞きしていますが」
幌越しに、ロードはクラウスと会話をする。顔は見えないが、クラウスの声はきっと同じ表情をしてそうだと想像がつく、重く淡々とした調子だった。
「その予定だったのですが、また別で急用が入りましてね。ちょうどサダナムまで引き返すところだったのです」
「それはまた慌ただしい……。さすがフォス・カディアルの騎士殿は引っ張りだこ、ということですか」
「まったく、余計な公務を増やさないでいただきたいのですがね……」
クラウスは全く感情のこもらない声で愚痴を言った。ロードの表情は冷めていて、口元に手を当てて何かを考えているような様子だ。相手に顔が見えないのをいいことに、その怪しい素振りが幌の内側ではむき出しだ。
……隣のパウルは引きつった顔のままだ。まさかあそこまで至近で命のやり取りをした相手とこんな形で会うとは思ってなかったのだ……、たぶん僕も同じような顔をしている。夜戦だったからバレることはないと、思うけど……。
「クラウス殿の手を借りたいのはどこの部隊も同じでしょう。パーティルの戦いでもご活躍されたと聞き及んでおります」
探りを入れるつもりか、ロードは白々しく言った。
「やめてください、あのような不覚……。私がもっと早く到着していればデニング殿を死なせることもなかったと思うと……、己の至らなさに憤るばかりです」
声に少しだけ怨念がこもったのを感じた。そのデニングを殺したのが誰であるかということを思えば……、いや、顔が見えなくてよかった。肝が冷える。
「そのうえ敵兵に不覚をとって傷まで負いました。あの卑劣なズミのゲリラ兵共に……」
更に声に憎悪が滲む。気迫だけで殺されそうである。涼しげな顔をしているロードはよほど肝が太いのだろう。さすが貴族だ。
「クラウス殿が生きて帰られただけでも喜ばしいことです。一度は講和の締結まで譲りましたが、大局を見ればこの国がいずれ我々の王の元に降ることは変わりません。どうか御身をお大事に」
幌の内側でロードは微笑みさえ浮かべて見せた。対してクラウスは一体どんな顔をしているのだろうか。
「……ズミの兵力を甘く見て、あまり油断はなされないほうが良いでしょう、ロード殿。貴公のズミ人好きは相変わらずのようですが……」
その声には皮肉が混ざっているように感じた。恐らく、今召使いだと言って連れているのがほとんど黒髪の人間だからだろう。ロードはまだ微笑んでいた。
「彼らは私と、私の父や兄弟たちの古くからの友人です。当然武力によってわが国に歯向かう者達は看過できませんが……、戦前よりズミとの外交を任ぜられてきた我が家の事情は、フォス・カディアル家のご当主もよくご存知でいてくださると思いますよ」
ロードの声色は穏やかながらに気丈な風だ。それにクラウスの返事は無かった。ごとごとと、馬車が揺れる音だけがしばらく続く。
トレンティアの軍人などに囲まれていては、僕達も世間話をする気分にはならなかった。
馬車の足は速いが、それでも最初の目的地までは二回ほどの宿泊を挟んだ。野宿ではなく、経由した村落の、ささやかながらに宿屋ではある。
パーティルのような大きな町ではなくて出入りも自由にできたものだから、僕は宿に落ち着いた後は久しぶりに狩りに出かけたりもした。……極力、同行の軍人とは顔を合わせないように……。
仕留めた獲物を担いで宿屋に帰る時、ちょうど西の森の奥に日が沈んでいくのを見た。すっかり春めいて、ところどころには鮮やかな花の色を纏う新緑の木々の影、その奥から明るく差す茜色。
細く線を引くような雲のまだらを背景に、羽ばたいていく鳥の群れ、東に伸びていく平野にも青々と茂る若草、放牧された牛がそれを食む姿、通り抜けていく大きな風。煽られてなびく前髪に構いもせず、僕は青い目を細めて故郷の景色を眺めた。
ここから西に少し逸れて北上すれば、僕が育った村もある。今は寄り道をすることもないけど、そこから吹いてくる風に思いを馳せるぐらいは許されてもいいだろう。父は……アルドは変わらず生きているだろうか。
そして吹き抜けていく風の先、ここからはまだ見えない、黒い森の先へ……、僕はこの国の地を離れ、異国へ向かおうとしている。
憎き敵国へ……今は剣を振りに行くわけではない。だけどきっと故郷を取り戻す戦いに繋がると信じて。
二回の宿泊を挟み、まだ日が高いうちに到着した町の名前はサダナムと言った。通称ズミの入口……、いやその名の通り、実際的にトレンティアとの国境の関となっている町だ。
当然の流れとして、トレンティア軍がこの国土に踏み入った時に真っ先に占領された町である。そこでは原住民が生活している中に食い込むように、トレンティアの軍事施設が建設され、町全体が城塞の体に作り変えられつつある。
馬車が街道を進んでいく時、ジュリが幌の端を少し持ち上げて物珍しそうに外の景色を眺めていた。
横目でなんとなく僕もそれを見ていると、街道をすれ違った家族連れの子どもの中に、黒髪に青い目を持つ者がいるのがたまたま目に入った。ここでは、僕のような者も既に珍しくない。
「さすが国境、既にトレンティアの人達がこんなにいるんですね」
ジュリはそう呟いた。ロードは居眠りをしているのか、座席に座ったまま目を閉じて俯いている。パウルは退屈そうに頭の後ろで手を組んでいたが、何も喋らない。なんとなく相槌を打つように会話に入ったのはティファだった。
「といってもまあ、ほとんど軍人さんしかいないわよ。戦争状態にあろうがなかろうが、国境に黒い森が横たわってる限りは人も物も渡る量に限りがある。二つの国が混ざり合うような未来があったとしても、ずっと先のことでしょうね」
「ティファはサダナムに来たことがあったんですか」
「まあ仕事でちょっとだけ。ロードが行く場所には大概わたしも仕事に行くことになるんだもの」
そう語る声はどこか得意げである。クラウスとの会話から察するに、ロードは戦前から家ぐるみでズミへ外交に来ていたらしいから、僕達が思っているよりずっと広い交友関係を既にこの国で築いているのかもしれない。
詳しい事情は当然分からないが、今に至ってズミのレジスタンスに加担する理由もそのあたりにあるのだろうか。
やがて馬車が停まり、一行は高いレンガ造りの建物の元に降ろされた。軍の施設なのか何なのかは分からないが、一旦そこに入るらしい。その玄関口で、びしりと背筋を伸ばしたクラウスが挨拶をした。
「では我々はここで失礼いたします。ロード殿、ご帰国の道中どうかお気を付けて」
「ご苦労様でした、クラウス殿。神聖なるトレント、勇猛なるフォスのご加護があなた様を守りますように。ご武運をお祈りいたします」
ロードも穏やかに微笑んでその軍人らを見送った。
建物の中は広々としているが、ひと気はあまりない。食堂らしい空間を横目に通り過ぎ、資材や書類が押し込まれた一室に入ると忙しない様子で荷造りの作業をしてるトレンティア人が二人ほどいた。ロードの姿を見るなり無言で敬礼をしている。
「準備はできてる? ……結構。少し休んだらすぐに森へ行くから馬の手配を。ティファ、ラザルによろしく」
ロードがきびきびと部下達に指示を飛ばしているのを、僕達はただ黙って見ていた。そこへティファが歩いてきてフェリアの手を引く。
「それじゃあ行きましょう。また後で」
いたって軽やかに、あたかもまたすぐ後に会うような手振りでティファは挨拶を済ませ、フェリアを連れて行った。……彼女はここで僕達と別れることになる。
分かってはいるが、素知らぬふりをする。隠し事の慣れないジュリがそわそわとその姿を見送っていた。
その手がうろうろと、フェリアを引き留めようとするように空を彷徨う。
「ジュリ」
そんな怪しい素振りをするな、という意図を込めてその名前を呼ぶと、びくりとしてこちらを振り向いた。
フェリアが魔道人形であることは彼女も重々わかっているはずだが、それでもそうと知らなかった幼少のころから人形と共に時間を過ごしてきたジュリにとって、フェリアはただの人形ではない。今まで同行するなかでも、まるで親しい友人、いや姉妹かのように仲睦まじく過ごしている光景が日常的だった。
僕達とてトレンティアに永住するつもりは毛頭ない。だけど一時的とはいえ、そのフェリアと別れるジュリには……寂しいという思いが起こっているのだろうか。
黒い森へ向かう馬の手配が済むまで、食堂らしい部屋の席で休むことになった。ロードなどは迎えの者がきて別室へ誘われていたが、構うな、と一言であしらっていた。
クラウス達がいなくなったといっても、周囲には時々トレンティアの兵士が動いているのが目に入る。あまり込み入った話もできず、世間話をする。
「何か飲みますか? 黒い森に入る前にお酒はお勧めしませんが。お茶でも」
ロードに促され、パウルが少し考える素振りを見せた。
「トレンティアのじゃなく、ズミのお茶があれば飲みたいですね。しばらくは飲めなくなるかもしれませんし、たまには」
そういやに爽やかに、声も表情も作っているのは、既にロードの召使いという演技に入っているからだ。……分かってはいるが、いざその様を見ると可笑しくて仕方がないな。
すぐにロードが手を叩くと、使用人らしいトレンティア人がすっ飛んできた。
「ズミの茶が飲みたい。ついでだから使用人の分も」
端的に指示をする。使用人がすっ飛んでいく。……分かってはいるが、やはり身分の高い人間の振る舞いというのは見ていて奇妙なものだな。
今まで当たり前に飲んできた茶の味を、確かにしばらく飲めなくなるのか、なんて感慨とともにじっくり味わったあと、僕達は黒い森へ続く道へと向かった。
黒い森が遠目に見え始めた頃、入口の手前の野営地で一度馬車を停める。そこには同じく森を通る人々が集まり、準備をする姿があった。当然かもしれないが金髪の者ばかり……、この場で黒い髪をしているのは僕とジュリだけのようだ。
東の方を見ると、その名の通り黒い木々が茂っている様子が見える。昼間だというのにまるで世界が切り取られてるみたいに、墨で塗ったような漆黒のそれは……、本当に木なのかも怪しい。でこぼことした形の異界と言った方が感覚的には近い気がする。
僕とて黒い森を通る経験はもちろんないし、猛毒の霧が立ち込めるという森を通るのにどんな手続が必要なのかも知らない。サダナムは幼い頃に立ち寄ることもあった町だが、ここからは僕にとっても未知の場所だ。
見知らぬ場所、それもあの恐ろしげな黒い森を通るとなるとどうしても落ち着かない心地にはなるが……、不安なのは同行しているジュリも同じで、僕よりもずっと怯えている様子だった。
現にトレンティア人がズミにいるのだから黒い森を渡ることが可能だということは事実として把握しているが……、そうは言ってもやはり、そんな場所本当に通れるのか、なんて疑いたくなる気持ちも起こってくる。
パウルは少なくとも一度はこの森を通ってズミに来ているはずである。何を思っているのか、落ち着いた表情のままぼうっと森の方を眺めていた。
「施術を」
そんなふうに声をかけられ、十数人が並んでいる様子の行列に入れられたかと思えば、トレンティア人の魔道士が一人ひとりの体に魔術をかけている。見知らぬ人間に魔法をかけられる気味の悪さに耐えながら、僕達もそれに倣った。
やがて並べられた馬車に荷物や人が乗り込んでいく……いや、馬車のように見えるが馬が繋がれていない。
当然馬だって毒の霧に入れば死んでしまうから繋がないのだろうが、では誰がどうやってその車を動かすのか、傍目に見た限りでは謎である。どうせ魔法なのだろうとは思うが。
その車にも魔術をかける魔道士の姿がいくつかあった。たぶん、毒の霧を防ぐような魔術なのだろう。
ロード様はやはり特別扱いらしく、別の車に入れられた。彼の口利きによって僕達もそこに入る。頑丈な造りの車の荷台は、貴族用らしい座席があるのは同じだが、そこに体を入れるとぞくりと魔力の感触が全身を通る。ここまで魔法漬けにされると、さすがに気分が悪い。
外の景色は一寸も見えないほど綿密に、分厚い革造りの幌が閉じられる。昼間だというのに密室に閉じ込められたように暗くなる。……すぐに荷台の中にあった魔法の燭台に光が灯った。
あとはただ揺られるだけらしい。黒い森の景色は当然見えない。どこから森に入ったのはも分からないまま、僕達はただ、魔力にまみれた気味の悪い車の中で時間を過ごした。
そんな荷台の中をぐるりと見回して、パウルはぼんやりと言った。
「大層な魔術だなあ。俺が渡った時はこんなに保護術も厚くなかったぞ」
今回は一つしかなかった貴族の座席に座ったロードは、涼しい顔でじっと目を伏せている。
「十年前と言ってましたっけ? その頃のことは私もよく知りませんが……、実際移動中の事故で亡くなる者も多かったと聞きますよ」
「そう言えばそうだったな。ま、いい時代になったもんだ」
パウルはのんきに言う。僕は黙っていたが、隣を見るとやはり不安そうにそわそわしているジュリがいる。
「嬢ちゃんと……ヨハン、お前ら気分は悪くないか? ズミ人は特に体が魔力負けして酷く酔うらしいが」
パウルに声をかけられ、ジュリはふるふると首を縦に振った。緊張しているだけなのか、魔力に酔っているのかはいまいち分からないが……。
僕もそれなりに気分は悪いが、まあ我慢できる程度ではある。適当に相槌を打った。
ジュリは不安そうな顔のまま幌の方を見つめ、ぽつりと言った。
「……黒い森はやっぱり、魔道人形でも耐えれないんでしょうかね」
すぐに答える者はなかった。パウルもロードも真顔のまま数秒考えていたようだ。
「まあ……、人間よりは長持ちするぐらいじゃないか……?」
パウルにも分からないらしい。その答えは曖昧だった。
魔力の気分の悪さと退屈に耐えながら揺られる道は嫌に長く感じられた。いや、実際長かった。午前中に森に入ったその車の幌がやっと開け放された時、その向こうからは夕焼けの色が差し込んできていた。
まだ魔力漬けの荷台の上からではあるが、外の空気を吸えたというだけで開放感を感じる。一同は揃って大きく深呼吸をした。
「わあ!」
同時に歓声を上げたのはジュリだ。僕も声こそ上げないが、そこに広がった景色……、初めて見る異国の景色を、しっかりと目を開いて眺めた。
夕焼けの色に染まっているのはほとんどが、低い木がところどころに茂っている程度の草原の景色だ。遠くには山がある。遠目にははっきりと分からないが、目を凝らせば人里だろうかという茶色もある。
そんな歓声を上げるほど代わり映えのある景色ではないが……、それでも黒い森を抜けたというだけで感慨がある。……ここが、トレンティア王国か、と。
魔法の力で動く自動車は、他にも同じように通ってきた車が合わせて十台程度はある。来る前と同じような野営地に車が停まり、そこで普通の馬車へと人や物の詰め替えが行われた。
「うわあ!」
更にジュリが歓声を上げたのは、そこに鉄でできた馬車があったからだ。他には、形こそ確かにズミでは見慣れないが木造の馬車ばかりの中、一台だけどんと大きな鉄の馬車がある。
屋根も鉄製でくっついていて、荷台に乗り込む扉と階段がついていて、中には寝具みたいなふわふわした素材の長椅子がはめ込まれていて、その柱にも天井にも、鉄細工の草花を象ったレリーフが施されている。
「どうぞ乗ってください」
そう手招きしたのはロードだった。どうやらこれはロード様の馬車らしい。僕達は目を丸くしながら鉄の馬車に乗り込んだ。荷台の壁は転落しないようにだけというほどの最低限な格子しかなく、椅子に座ると風が体を撫でていく。
「はあ~~~」
ジュリの歓声はもう言葉にもなっていない。ふわふわの長椅子に腰を沈め、目をまんまるにして揺られている。
「驚くのは分かるけど、もう少し落ち着きなよ……」
作った声ながらに呆れて見せたのはパウルだ。僕はあまり感情を顔に出す性格ではないけど、それでもこの馬車には確かに驚いてしまう。もともとトレンティアに憧れらしいものを抱いていたジュリなどは感極まっていることだろう。
しかしこの馬車は、森を通った車と違って魔法で動くわけではないらしい。馬の手綱を握る御者がいた。灰色の服を来た御者はロードの部下なのだろう。当然金髪の男だ。
そこから王都とやらまでどれほどの距離があるのかは知らないが、日も暮れる頃なので最寄りの町まで行くらしい。やがて草原の中に茂っていた低い木の森の向こうに、集落が姿を現した。
「ふぁあ~~」
例によって変な歓声を上げるジュリを見て、パウルは困り果てたように目を押さえた。
「……ヨハン。少しこのお嬢さんを鎮めてくれないか」
「なんで僕が……」
僕は愚痴を言いながらも、浮かれ立っているジュリに視線を向けた。
「ジュリ、少し落ち着けって。入国したばっかりでそんなはしゃいでたら体力持たないぞ」
僕に言われて、ジュリはすぐに表情を引き締めて背筋を伸ばした。……いっときは収まっても、どうせまたすぐに街の風景を見て取り乱すんだろう。
それを抑止せんがため、僕は隣に座っていたジュリの手首をぎゅっと握った。ぎゃあ、なんて品のない悲鳴を上げてジュリは肩を跳ねさせたが、離してはやらない。
「ヨヨ、ヨン……」
「ヨハン」
慌てて僕の名前を呼んでくるので、ぴしりと言う。ジュリは目を白黒させながら口をぱくぱくとさせた。……ここまで表情豊かなのは見ていると楽しくなってしまう。
本当なら女性の手に不躾に触るなんて良くないことなのだろうが……、景色を見ているだけでおおはしゃぎしているのでは下手に目立つし困る。まだ僕の接触に慌ててくれていた方がマシだろう……。
そんなことを思いながらもジュリの反応を楽しんでしまうのは……、少し悪いかもしれない。
「……分かりました。もう騒がないから手を離して……」
そんな弱々しい声で懇願してくるのを聞いて、僕はやっとジュリの手首から手を離した。それだけでぐったり疲れてしまったように、ジュリは大人しくなった。
向かい合った長椅子のうち、正面に座っていたトレンティア人二人はそんな僕達を前にしてもまるで興味がなさそうに、顔を横に向けて流れていく景色を眺めていた。
ジュリが大人しくなったのを確かめて、僕も小さなため息ひとつ、彼女から顔を逸らす。
「どうですか、十年ぶりに見る故国の景色は」
ロードの関心はパウルにあったらしい。パウルも何気なしにロードに振り向き、気味の悪い愛想笑いを浮かべた。
「どうって……、別になんとも……」
「素っ気ないですねえ……」
ロードに呆れられ、パウルは仕方なさそうにはにかんだ。
「ええ、自分でも驚くぐらい……、なんとも思いませんね。改めて見ると、ズミの景色とそこまで変わらない」
いつもの不遜さのない作った表情を浮かべているだけで、その言葉も全部嘘くさく聞こえた。本当のところはどう思っているのだろうか……。
空の夕焼け色が次第に紺色に変わっていく頃、馬車は街の中へと入っていた。
立ち並ぶ背の低い家屋の多くは、赤みの強いレンガと白っぽい漆喰のまだら模様で妙に華やかに見える。
道は石で舗装されてる様子もなく多くの轍が浮いていて……、街の広がりこそそれなりにあるようだが、背の高い建物や木がないせいか、いやに空が広く感じられる町だった。
日暮れ時ということもあって往来の人は少ないが、それぞれの家屋の中やその庭で生活をしている人の気配を感じる。時々視界に移る市民は、髪の色も当然、服の形や色も見慣れない……やはり異国なのだな、と感じ入る。
それは向こうから見ても同じだろう。時々馬車とすれ違う者があると皆が皆一様に振り向いて、馬車の上にいる僕やジュリの黒髪を物珍しげに見ているようだった。
しっかり宿の手配は事前に済ましていたようで、宿屋らしい大きめな家屋の前に馬車を停めると、奥から二人のトレンティア人、中年の男女が出てきて深々とロードに礼をして見せた。
一言二言のやりとりを彼らと済まし、ロードはさっさと中に入っていく。僕達もそれに続いた。
屋内は天井が高く、窓が多い。パーティルにあったロードの屋敷の間取りとやはり雰囲気が似ている。
丸い机、磁器の花瓶に活けられた見慣れない豪華な花、見たことのない文様が彫られた梁、蝋燭に見せかけた魔法の燭台……、僕達の興味を引くものはいくらでもあった。
ジュリもそわそわとして屋内の装飾を見ていたが、声を上げたり飛んだり跳ねたりする様子はないようだ。
「申し訳ありませんがあなた達は一つ部屋で。食事は後ほど宿の者が持っていきますので部屋で過ごしていてください」
ロード様から直々の案内を受け、僕達はベッドが三つ窮屈に並べられた部屋に落ち着いた。壁にくっつけるみたいに小机が置かれてはいるが、床に荷物を下ろすとベッドの他に居場所がないぐらい窮屈だ。
仕方なくさっさと外套や靴を脱いでベッドの上に上がった。布団に詰められている綿がいやにごつごつとしていて分厚い。重たくて眠りづらそうだ……なんて思った。
閉塞感に追われて、パウルは自然な成り行きで木の窓を開けた。
「わあ」
緊張が抜けたのか、またジュリが歓声を上げた。だけどその視線の先、窓の外にあるのは……見慣れたものだった。
綺麗に弧を描いた三日月の光が、部屋の中にさっと差し込んだ。何を言うでもなくそれを見上げるジュリの瞳は、既に興奮しているような様子もなく、うっとりとその光に酔いしれるように揺れている。
月を見上げて何を思っているのだろうか、なんて想像をするのも野暮というものだろうか。僕はなんとなく意地を張って、その月影には横目を向けるだけだった。
パウルはベッドの上に仰向けに寝転がり、組んだ腕を頭の後ろに回して、逆さまに月を見上げていた。照らされた表情はどこか満足そうだ。
「な、別に変わらんだろ」
そう楽しそうに言った声に、なんとなく誰も返事はしなかった。
やがてロードの案内通り、宿の人間らしいトレンティア人の中年女性が食事を持ってきた。ズミで見るトレンティア人は男ばかりだから、金髪の女性なんて見るのも初めてだ。
お互い珍しいのだろう、女性も無遠慮に僕の頭をじろじろ見ながら、特に何を言うでもなく食事を置き、去っていった。
とってつけたような小さな机に皿を置いて、僕達はめいめいにトレンティアでの最初の晩餐をとった。
……パンが乾いた枝みたいな食感なのは気になったが、ズミで食べても不味いパンはこういうものだ。国の違いなのか、たまたま不味いパンなのかはいまいち分からない。いちいち異国情緒に思いを巡らすのも面倒に思えてきた。
しかし添えられていた果物は、水気も甘みも多くて美味だった。小粒の実が枝にたくさんひっついている形の赤紫色の果物だ。
ここに至ってはしゃぎだしたのはパウルだった。食事と一緒に出された酒に舞い上がったらしい。
「ああ、トレンティアのぶどう酒の味! こればっかりは郷愁ってやつにかられるねえ」
そんなウキウキしている様にジュリも興味を惹かれたらしく、そわそわと瓶に視線をやった。
「そんなに美味しいんですか」
「いや不味いね、これは安物だ」
くだらないやりとりを交わしながら、ジュリもその酒を飲んだようだった。反応を見るに、やっぱり不味いらしい。
酒飲み二人が騒いでいる間に、僕はひとりで果物の粒をひたすら摘んでいた。窓の外からは月の光がもの言いたげに覗いている。
アミュテュス・サーシェ。黒い森の先に生きる多くの同胞たちが、同じ思いであなたと共にありますように。
自然と零れてきた祈りの文句は、いつもと少しだけ違った。
敵国の地で一体どんな行軍が待っているのだろうかと想像を膨らませたが……聞けばトレンティアの国内には、ズミ人に対して無条件に攻撃をしてくるような者は無いらしい。
実際侵略を受けているズミとは違って、トレンティアの地にズミの軍隊が足を踏み入れたことはないので、まさか攻撃的なズミ人が国土に入ってくるとは誰も思っていないのだ。
トレンティアの市民達にとっては戦争なんて既に終わったものとさえ思っているらしく、軍に無関係な民間人を装えば顔を隠さなくても一応の行動はできる……という話だ。当然それはトレンティア貴族であるロードが保証する限りでという限定的な範囲ではあるのだろうけど。
しかし出立に当たって困ったのはフェリアの扱いだった。パウルとジュリの努力の成果があったのか、ウィルに会いに行こうとしてそわそわするような様子はいつの間にかなくなっていたが、彼女をトレンティアまで連れて行くのはさすがに躊躇われた。
パウルの目的はトレンティアでの魔法の……学会というやつに接触することらしく、そこでフェリアの存在を知られるわけにはいかない。もしバレたらその場で一同もろともに捕まって回収されてしまう……という事情のため、やはりフェリアはズミに置いていくという判断をせざるをえなかった。
「……あなたがこの人形を手放したくないという事情なのであれば、私とて隠し立てしてまで国へ連れて行くことはできません」
ロードもそう語る。当然のようにパウルはフェリアを手放すつもりはない。
「ズミに置いては行くが、その間は人目につかないような場所で保管しときたいんだ。そういう場所を貸してくれないか」
「できなくはありませんが……」
もったいぶった口ぶりのロードに、パウルは愛想よく笑顔を浮かべた。
「分かった、一個借りだ。トレンティアに着けばロード様の仕事を俺も手伝おう。なに任せてくれ、魔法の知識についてはそこらのボンクラ軍人より役に立つぞ」
そんな機嫌をとって、余計な仕事を任されやしないだろうな、なんて危ぶみながらも、僕が口出しできることではない。渋そうな顔でロードが了解したのを見届けた。
しかしフェリアを置いていくのはパーティルにではない。ロードが手配してくれるという保管場所までは同行することになる。
そしてパーティルを出発する一行の馬車には、パウルと僕とジュリとフェリアという元の四人に、ロードと、その部下であるティファという顔ぶれが揃った。
その他にも外交官の移動に伴って護衛につくトレンティアの軍人が数名合流する予定で、郊外に停めた馬車の脇でそれを待っている時に。
珍しく外でフードを下ろしているパウルが、びしと僕を指さした。
「そういえばヨン、お前は俺と違ってレジスタンスでその名前を出してるだろ。万一そこから足がついちゃいけねえ、トレンティアにいる間だけでも名前を変えとけ」
パウルの言葉を聞いて、一同の視線がなんとなく僕に向く。僕は肩を竦めて見せた。名乗りを変えろなんて突然言われても、ピンとは思い浮かばない。
前に変えた時も気の利いたものは思いつかなくて、ずっと「変わった名前だな」なんて言われ続ける羽目になっているぐらいだし。
「偽名……ってかむしろ本名でいいんじゃねえの、この際。見た目からして混血なんだから、トレンティアで友好なふりするならトレンティア人らしい名前のほうが都合いいだろう」
パウルは呆れたような顔で更に言ってきた。ええ……と僕は愚痴っぽいため息をつく。
ほう? なんて興味深そうな相槌を打ったのはロードだった。パウルとは違って、彼は僕の元の名前を知らない。
仕方なく、ため息と共に僕は名乗った。
「ヨハン。それが僕の生まれた時の名前だ。トレンティア人の名前だと聞いたから、忌々しくて故郷を出るときに変えたんだよ」
へえ、とロードは短い相槌を打っただけだった。パウルは気の抜けたような、ぼんやりとした調子で言った。
「つか、その名前はどうやって分かったんだよ。生みの親と連絡はとれてたのか?」
「いや……、よく知らないけど、生みの親が養父に、赤ん坊だった僕を預ける時に伝えたらしい。それで、そのままそれっきり引き取りにこなかった、ってさ」
幼い頃に父から聞いた話をなんとなくの記憶で言う。昔から自分を捨てた生みの親の話なんて聞きたくもなくて、あまり僕から養父に詳しく問いただすこともなかった。
「……ヨンさんの年齢から考えて、生まれた頃は黒い森の整備も途上で両国を行き来できる人間は今以上に限られていたと思います。……まあ、事情を想像することは簡単ですが、ヨンさんにとっては触れられたくもないのでは……」
ロードがそんな気遣いをしたのを聞いて、パウルはばつが悪そうに口を尖らせた。
「まあ、名前に関しては別にそれでもいいよ。今更拘る気ないし」
僕は素っ気なくそう言った。レジスタンス兵として戦う時にトレンティア人の名前をしているのは忌々しかったが、潜入のためにそれらしいふりをする、と言われると不思議と抵抗感もないものだ。
ふむ、なんて言ってパウルは腕を組んだ。
「しかし苗字もないと不自然だ。お前のその、養父というのには苗字なかったのか?」
そう聞かれて、記憶の中の父の名前を掘り起こす。
「アルド・ファル・テーディル……。が、父の名前だ」
「ファル・テーディル? えと、なんだっけ、ズミ人って母方の家名を入れるんだっけ? ってことはどうなるんだ」
パウルがそう悩んだところを横からジュリが口を挟む。
「たぶんファルが母方で、テーディルが父方の家名を表してるんでしょうね。お母さんの血筋……となるとヨンは分からないですし、テーディルだけでいいのでは。そもそも両親両家の名前を継ぐのはいわゆる貴族階級の習慣です。ヨンが貴族というのも変ですし……」
「ふむふむ。それじゃヨハン・テーディル。これでいこう。いい具合に混血っぽくなった」
勝手に名前が決まったのを僕は無表情で見ていた。ロードがまた気遣うような視線をちらりと向けてくるが、構わない、と言外に言いながら小さく首を振る。
ヨハン・テーディル。慣れない自分の名前を、馴染ませるように胸中で呟く。これから名乗る機会があるかもしれないから、ちゃんと憶えておかないといけない。
……何か、少しだけ胸が浮くような心地がした。育ての親であるアルドには血の繋がった本当の家族もいたものだから、その家名を僕が名乗ることは許されなかったのだが……、今になって、勝手にではあるが、彼の家名を名乗れることに、少しだけ。
「偽名を名乗るからには、皆も僕を呼ぶ時は気をつけてくれよ。癖でヨンと呼ばないで、ヨハンと……」
そう言うと、パウルもジュリも真剣な顔で頷いた。
「もちろん任せとけ、ヨハン」
「分かりました、ヨハン!」
口を揃えて呼んでくる。……何か、くすぐったくて仕方がないな。
そんな光景を、今まで黙って見ていたティファがにんまりと笑顔を浮かべて言った。
「……ほんと、あなた達仲いいわねえ……」
隣でロードも小さく笑った。
「そうですね。我々も負けてはいられませんよ、ティファ」
やだあ、なんて言って笑ってティファはロードの肩を叩いた。トレンティアの上流貴族であるロードと、娼婦をしているティファ……、両者の身分の差は明白だが、レジスタンスの上官と部下と言うにしても気心が知れているらしい。
そんな平和にさえ思える空気も、やがて合流したトレンティア兵の物々しい雰囲気にすぐに覆い隠されてしまったが。
護衛だという軍人は三人いた。うち一人が馬車馬の手綱を握り、他の二人はそれぞれ自分の馬に騎乗してついてくるらしい。三人とも帯剣はしているが、鎧を着ている様子はない。
自分の馬に乗っている軍人のうち一人の顔を見て、パウルの表情がぴしりと強張った。おや、と言って驚いた声を上げたのはロードもだった。
「これはクラウス・フォス・カディアル殿ではありませんか。もうお怪我はよいのですか」
その名前を聞いて、思わず僕もつんのめりそうになったが……平静を装った。
僕も彼の名前を、何度か聞いていたから記憶していた。あのパーティルの夜戦の中で剣を交え、僕の腹に穴を開けたという魔剣士ではないか。
確か呼び名をクラウスというその男は……、戦った時は夜だったので顔などもよく見ていなかったが、三十歳前後と見える顔立ちだ。
軍人には珍しく髪を短く刈らずに、少し長くなっている前髪を洒落たふうに靡かせているが、その表情はいかにも厳格に引き締まった、覇気あふれる風貌である。
「問題ありません。ではロード殿、サダナムまでご同行いたします。足元にお気をつけて」
その印象に違わぬ、低くハッキリとした声でロードに言った。その後ろに控えている僕達召使いには一瞥すらよこさない。……この際、顔をまじまじと検められないのは幸いだが。
言われるがままにロードは馬車に乗り込む。そのあと手招きを受けて、召使い一同である僕達の一行も乗り込んだ。
荷馬車のように幌をかけた中は、さすが貴族の移動に使うだけあって小洒落た装飾の座席が二つ設けられていた。
ロードは迷いなくそれに座ったが、ティファなどは脇の床に座り込む。僕はなんとなくジュリと顔を見合わせて、ティファと並んで床に座った。フェリアも当然隅にちょこんと座る。
空いたもう一つの座席には、遠慮する素振りもなくパウルがどかと腰掛けていた。ロードはそれを呆れたような顔で見ていたが、何も小言は言わなかった。
「クラウス殿自ら護衛していただけるとは心強いですが、良いのですか? こちらの方で任務があったとお聞きしていますが」
幌越しに、ロードはクラウスと会話をする。顔は見えないが、クラウスの声はきっと同じ表情をしてそうだと想像がつく、重く淡々とした調子だった。
「その予定だったのですが、また別で急用が入りましてね。ちょうどサダナムまで引き返すところだったのです」
「それはまた慌ただしい……。さすがフォス・カディアルの騎士殿は引っ張りだこ、ということですか」
「まったく、余計な公務を増やさないでいただきたいのですがね……」
クラウスは全く感情のこもらない声で愚痴を言った。ロードの表情は冷めていて、口元に手を当てて何かを考えているような様子だ。相手に顔が見えないのをいいことに、その怪しい素振りが幌の内側ではむき出しだ。
……隣のパウルは引きつった顔のままだ。まさかあそこまで至近で命のやり取りをした相手とこんな形で会うとは思ってなかったのだ……、たぶん僕も同じような顔をしている。夜戦だったからバレることはないと、思うけど……。
「クラウス殿の手を借りたいのはどこの部隊も同じでしょう。パーティルの戦いでもご活躍されたと聞き及んでおります」
探りを入れるつもりか、ロードは白々しく言った。
「やめてください、あのような不覚……。私がもっと早く到着していればデニング殿を死なせることもなかったと思うと……、己の至らなさに憤るばかりです」
声に少しだけ怨念がこもったのを感じた。そのデニングを殺したのが誰であるかということを思えば……、いや、顔が見えなくてよかった。肝が冷える。
「そのうえ敵兵に不覚をとって傷まで負いました。あの卑劣なズミのゲリラ兵共に……」
更に声に憎悪が滲む。気迫だけで殺されそうである。涼しげな顔をしているロードはよほど肝が太いのだろう。さすが貴族だ。
「クラウス殿が生きて帰られただけでも喜ばしいことです。一度は講和の締結まで譲りましたが、大局を見ればこの国がいずれ我々の王の元に降ることは変わりません。どうか御身をお大事に」
幌の内側でロードは微笑みさえ浮かべて見せた。対してクラウスは一体どんな顔をしているのだろうか。
「……ズミの兵力を甘く見て、あまり油断はなされないほうが良いでしょう、ロード殿。貴公のズミ人好きは相変わらずのようですが……」
その声には皮肉が混ざっているように感じた。恐らく、今召使いだと言って連れているのがほとんど黒髪の人間だからだろう。ロードはまだ微笑んでいた。
「彼らは私と、私の父や兄弟たちの古くからの友人です。当然武力によってわが国に歯向かう者達は看過できませんが……、戦前よりズミとの外交を任ぜられてきた我が家の事情は、フォス・カディアル家のご当主もよくご存知でいてくださると思いますよ」
ロードの声色は穏やかながらに気丈な風だ。それにクラウスの返事は無かった。ごとごとと、馬車が揺れる音だけがしばらく続く。
トレンティアの軍人などに囲まれていては、僕達も世間話をする気分にはならなかった。
馬車の足は速いが、それでも最初の目的地までは二回ほどの宿泊を挟んだ。野宿ではなく、経由した村落の、ささやかながらに宿屋ではある。
パーティルのような大きな町ではなくて出入りも自由にできたものだから、僕は宿に落ち着いた後は久しぶりに狩りに出かけたりもした。……極力、同行の軍人とは顔を合わせないように……。
仕留めた獲物を担いで宿屋に帰る時、ちょうど西の森の奥に日が沈んでいくのを見た。すっかり春めいて、ところどころには鮮やかな花の色を纏う新緑の木々の影、その奥から明るく差す茜色。
細く線を引くような雲のまだらを背景に、羽ばたいていく鳥の群れ、東に伸びていく平野にも青々と茂る若草、放牧された牛がそれを食む姿、通り抜けていく大きな風。煽られてなびく前髪に構いもせず、僕は青い目を細めて故郷の景色を眺めた。
ここから西に少し逸れて北上すれば、僕が育った村もある。今は寄り道をすることもないけど、そこから吹いてくる風に思いを馳せるぐらいは許されてもいいだろう。父は……アルドは変わらず生きているだろうか。
そして吹き抜けていく風の先、ここからはまだ見えない、黒い森の先へ……、僕はこの国の地を離れ、異国へ向かおうとしている。
憎き敵国へ……今は剣を振りに行くわけではない。だけどきっと故郷を取り戻す戦いに繋がると信じて。
二回の宿泊を挟み、まだ日が高いうちに到着した町の名前はサダナムと言った。通称ズミの入口……、いやその名の通り、実際的にトレンティアとの国境の関となっている町だ。
当然の流れとして、トレンティア軍がこの国土に踏み入った時に真っ先に占領された町である。そこでは原住民が生活している中に食い込むように、トレンティアの軍事施設が建設され、町全体が城塞の体に作り変えられつつある。
馬車が街道を進んでいく時、ジュリが幌の端を少し持ち上げて物珍しそうに外の景色を眺めていた。
横目でなんとなく僕もそれを見ていると、街道をすれ違った家族連れの子どもの中に、黒髪に青い目を持つ者がいるのがたまたま目に入った。ここでは、僕のような者も既に珍しくない。
「さすが国境、既にトレンティアの人達がこんなにいるんですね」
ジュリはそう呟いた。ロードは居眠りをしているのか、座席に座ったまま目を閉じて俯いている。パウルは退屈そうに頭の後ろで手を組んでいたが、何も喋らない。なんとなく相槌を打つように会話に入ったのはティファだった。
「といってもまあ、ほとんど軍人さんしかいないわよ。戦争状態にあろうがなかろうが、国境に黒い森が横たわってる限りは人も物も渡る量に限りがある。二つの国が混ざり合うような未来があったとしても、ずっと先のことでしょうね」
「ティファはサダナムに来たことがあったんですか」
「まあ仕事でちょっとだけ。ロードが行く場所には大概わたしも仕事に行くことになるんだもの」
そう語る声はどこか得意げである。クラウスとの会話から察するに、ロードは戦前から家ぐるみでズミへ外交に来ていたらしいから、僕達が思っているよりずっと広い交友関係を既にこの国で築いているのかもしれない。
詳しい事情は当然分からないが、今に至ってズミのレジスタンスに加担する理由もそのあたりにあるのだろうか。
やがて馬車が停まり、一行は高いレンガ造りの建物の元に降ろされた。軍の施設なのか何なのかは分からないが、一旦そこに入るらしい。その玄関口で、びしりと背筋を伸ばしたクラウスが挨拶をした。
「では我々はここで失礼いたします。ロード殿、ご帰国の道中どうかお気を付けて」
「ご苦労様でした、クラウス殿。神聖なるトレント、勇猛なるフォスのご加護があなた様を守りますように。ご武運をお祈りいたします」
ロードも穏やかに微笑んでその軍人らを見送った。
建物の中は広々としているが、ひと気はあまりない。食堂らしい空間を横目に通り過ぎ、資材や書類が押し込まれた一室に入ると忙しない様子で荷造りの作業をしてるトレンティア人が二人ほどいた。ロードの姿を見るなり無言で敬礼をしている。
「準備はできてる? ……結構。少し休んだらすぐに森へ行くから馬の手配を。ティファ、ラザルによろしく」
ロードがきびきびと部下達に指示を飛ばしているのを、僕達はただ黙って見ていた。そこへティファが歩いてきてフェリアの手を引く。
「それじゃあ行きましょう。また後で」
いたって軽やかに、あたかもまたすぐ後に会うような手振りでティファは挨拶を済ませ、フェリアを連れて行った。……彼女はここで僕達と別れることになる。
分かってはいるが、素知らぬふりをする。隠し事の慣れないジュリがそわそわとその姿を見送っていた。
その手がうろうろと、フェリアを引き留めようとするように空を彷徨う。
「ジュリ」
そんな怪しい素振りをするな、という意図を込めてその名前を呼ぶと、びくりとしてこちらを振り向いた。
フェリアが魔道人形であることは彼女も重々わかっているはずだが、それでもそうと知らなかった幼少のころから人形と共に時間を過ごしてきたジュリにとって、フェリアはただの人形ではない。今まで同行するなかでも、まるで親しい友人、いや姉妹かのように仲睦まじく過ごしている光景が日常的だった。
僕達とてトレンティアに永住するつもりは毛頭ない。だけど一時的とはいえ、そのフェリアと別れるジュリには……寂しいという思いが起こっているのだろうか。
黒い森へ向かう馬の手配が済むまで、食堂らしい部屋の席で休むことになった。ロードなどは迎えの者がきて別室へ誘われていたが、構うな、と一言であしらっていた。
クラウス達がいなくなったといっても、周囲には時々トレンティアの兵士が動いているのが目に入る。あまり込み入った話もできず、世間話をする。
「何か飲みますか? 黒い森に入る前にお酒はお勧めしませんが。お茶でも」
ロードに促され、パウルが少し考える素振りを見せた。
「トレンティアのじゃなく、ズミのお茶があれば飲みたいですね。しばらくは飲めなくなるかもしれませんし、たまには」
そういやに爽やかに、声も表情も作っているのは、既にロードの召使いという演技に入っているからだ。……分かってはいるが、いざその様を見ると可笑しくて仕方がないな。
すぐにロードが手を叩くと、使用人らしいトレンティア人がすっ飛んできた。
「ズミの茶が飲みたい。ついでだから使用人の分も」
端的に指示をする。使用人がすっ飛んでいく。……分かってはいるが、やはり身分の高い人間の振る舞いというのは見ていて奇妙なものだな。
今まで当たり前に飲んできた茶の味を、確かにしばらく飲めなくなるのか、なんて感慨とともにじっくり味わったあと、僕達は黒い森へ続く道へと向かった。
黒い森が遠目に見え始めた頃、入口の手前の野営地で一度馬車を停める。そこには同じく森を通る人々が集まり、準備をする姿があった。当然かもしれないが金髪の者ばかり……、この場で黒い髪をしているのは僕とジュリだけのようだ。
東の方を見ると、その名の通り黒い木々が茂っている様子が見える。昼間だというのにまるで世界が切り取られてるみたいに、墨で塗ったような漆黒のそれは……、本当に木なのかも怪しい。でこぼことした形の異界と言った方が感覚的には近い気がする。
僕とて黒い森を通る経験はもちろんないし、猛毒の霧が立ち込めるという森を通るのにどんな手続が必要なのかも知らない。サダナムは幼い頃に立ち寄ることもあった町だが、ここからは僕にとっても未知の場所だ。
見知らぬ場所、それもあの恐ろしげな黒い森を通るとなるとどうしても落ち着かない心地にはなるが……、不安なのは同行しているジュリも同じで、僕よりもずっと怯えている様子だった。
現にトレンティア人がズミにいるのだから黒い森を渡ることが可能だということは事実として把握しているが……、そうは言ってもやはり、そんな場所本当に通れるのか、なんて疑いたくなる気持ちも起こってくる。
パウルは少なくとも一度はこの森を通ってズミに来ているはずである。何を思っているのか、落ち着いた表情のままぼうっと森の方を眺めていた。
「施術を」
そんなふうに声をかけられ、十数人が並んでいる様子の行列に入れられたかと思えば、トレンティア人の魔道士が一人ひとりの体に魔術をかけている。見知らぬ人間に魔法をかけられる気味の悪さに耐えながら、僕達もそれに倣った。
やがて並べられた馬車に荷物や人が乗り込んでいく……いや、馬車のように見えるが馬が繋がれていない。
当然馬だって毒の霧に入れば死んでしまうから繋がないのだろうが、では誰がどうやってその車を動かすのか、傍目に見た限りでは謎である。どうせ魔法なのだろうとは思うが。
その車にも魔術をかける魔道士の姿がいくつかあった。たぶん、毒の霧を防ぐような魔術なのだろう。
ロード様はやはり特別扱いらしく、別の車に入れられた。彼の口利きによって僕達もそこに入る。頑丈な造りの車の荷台は、貴族用らしい座席があるのは同じだが、そこに体を入れるとぞくりと魔力の感触が全身を通る。ここまで魔法漬けにされると、さすがに気分が悪い。
外の景色は一寸も見えないほど綿密に、分厚い革造りの幌が閉じられる。昼間だというのに密室に閉じ込められたように暗くなる。……すぐに荷台の中にあった魔法の燭台に光が灯った。
あとはただ揺られるだけらしい。黒い森の景色は当然見えない。どこから森に入ったのはも分からないまま、僕達はただ、魔力にまみれた気味の悪い車の中で時間を過ごした。
そんな荷台の中をぐるりと見回して、パウルはぼんやりと言った。
「大層な魔術だなあ。俺が渡った時はこんなに保護術も厚くなかったぞ」
今回は一つしかなかった貴族の座席に座ったロードは、涼しい顔でじっと目を伏せている。
「十年前と言ってましたっけ? その頃のことは私もよく知りませんが……、実際移動中の事故で亡くなる者も多かったと聞きますよ」
「そう言えばそうだったな。ま、いい時代になったもんだ」
パウルはのんきに言う。僕は黙っていたが、隣を見るとやはり不安そうにそわそわしているジュリがいる。
「嬢ちゃんと……ヨハン、お前ら気分は悪くないか? ズミ人は特に体が魔力負けして酷く酔うらしいが」
パウルに声をかけられ、ジュリはふるふると首を縦に振った。緊張しているだけなのか、魔力に酔っているのかはいまいち分からないが……。
僕もそれなりに気分は悪いが、まあ我慢できる程度ではある。適当に相槌を打った。
ジュリは不安そうな顔のまま幌の方を見つめ、ぽつりと言った。
「……黒い森はやっぱり、魔道人形でも耐えれないんでしょうかね」
すぐに答える者はなかった。パウルもロードも真顔のまま数秒考えていたようだ。
「まあ……、人間よりは長持ちするぐらいじゃないか……?」
パウルにも分からないらしい。その答えは曖昧だった。
魔力の気分の悪さと退屈に耐えながら揺られる道は嫌に長く感じられた。いや、実際長かった。午前中に森に入ったその車の幌がやっと開け放された時、その向こうからは夕焼けの色が差し込んできていた。
まだ魔力漬けの荷台の上からではあるが、外の空気を吸えたというだけで開放感を感じる。一同は揃って大きく深呼吸をした。
「わあ!」
同時に歓声を上げたのはジュリだ。僕も声こそ上げないが、そこに広がった景色……、初めて見る異国の景色を、しっかりと目を開いて眺めた。
夕焼けの色に染まっているのはほとんどが、低い木がところどころに茂っている程度の草原の景色だ。遠くには山がある。遠目にははっきりと分からないが、目を凝らせば人里だろうかという茶色もある。
そんな歓声を上げるほど代わり映えのある景色ではないが……、それでも黒い森を抜けたというだけで感慨がある。……ここが、トレンティア王国か、と。
魔法の力で動く自動車は、他にも同じように通ってきた車が合わせて十台程度はある。来る前と同じような野営地に車が停まり、そこで普通の馬車へと人や物の詰め替えが行われた。
「うわあ!」
更にジュリが歓声を上げたのは、そこに鉄でできた馬車があったからだ。他には、形こそ確かにズミでは見慣れないが木造の馬車ばかりの中、一台だけどんと大きな鉄の馬車がある。
屋根も鉄製でくっついていて、荷台に乗り込む扉と階段がついていて、中には寝具みたいなふわふわした素材の長椅子がはめ込まれていて、その柱にも天井にも、鉄細工の草花を象ったレリーフが施されている。
「どうぞ乗ってください」
そう手招きしたのはロードだった。どうやらこれはロード様の馬車らしい。僕達は目を丸くしながら鉄の馬車に乗り込んだ。荷台の壁は転落しないようにだけというほどの最低限な格子しかなく、椅子に座ると風が体を撫でていく。
「はあ~~~」
ジュリの歓声はもう言葉にもなっていない。ふわふわの長椅子に腰を沈め、目をまんまるにして揺られている。
「驚くのは分かるけど、もう少し落ち着きなよ……」
作った声ながらに呆れて見せたのはパウルだ。僕はあまり感情を顔に出す性格ではないけど、それでもこの馬車には確かに驚いてしまう。もともとトレンティアに憧れらしいものを抱いていたジュリなどは感極まっていることだろう。
しかしこの馬車は、森を通った車と違って魔法で動くわけではないらしい。馬の手綱を握る御者がいた。灰色の服を来た御者はロードの部下なのだろう。当然金髪の男だ。
そこから王都とやらまでどれほどの距離があるのかは知らないが、日も暮れる頃なので最寄りの町まで行くらしい。やがて草原の中に茂っていた低い木の森の向こうに、集落が姿を現した。
「ふぁあ~~」
例によって変な歓声を上げるジュリを見て、パウルは困り果てたように目を押さえた。
「……ヨハン。少しこのお嬢さんを鎮めてくれないか」
「なんで僕が……」
僕は愚痴を言いながらも、浮かれ立っているジュリに視線を向けた。
「ジュリ、少し落ち着けって。入国したばっかりでそんなはしゃいでたら体力持たないぞ」
僕に言われて、ジュリはすぐに表情を引き締めて背筋を伸ばした。……いっときは収まっても、どうせまたすぐに街の風景を見て取り乱すんだろう。
それを抑止せんがため、僕は隣に座っていたジュリの手首をぎゅっと握った。ぎゃあ、なんて品のない悲鳴を上げてジュリは肩を跳ねさせたが、離してはやらない。
「ヨヨ、ヨン……」
「ヨハン」
慌てて僕の名前を呼んでくるので、ぴしりと言う。ジュリは目を白黒させながら口をぱくぱくとさせた。……ここまで表情豊かなのは見ていると楽しくなってしまう。
本当なら女性の手に不躾に触るなんて良くないことなのだろうが……、景色を見ているだけでおおはしゃぎしているのでは下手に目立つし困る。まだ僕の接触に慌ててくれていた方がマシだろう……。
そんなことを思いながらもジュリの反応を楽しんでしまうのは……、少し悪いかもしれない。
「……分かりました。もう騒がないから手を離して……」
そんな弱々しい声で懇願してくるのを聞いて、僕はやっとジュリの手首から手を離した。それだけでぐったり疲れてしまったように、ジュリは大人しくなった。
向かい合った長椅子のうち、正面に座っていたトレンティア人二人はそんな僕達を前にしてもまるで興味がなさそうに、顔を横に向けて流れていく景色を眺めていた。
ジュリが大人しくなったのを確かめて、僕も小さなため息ひとつ、彼女から顔を逸らす。
「どうですか、十年ぶりに見る故国の景色は」
ロードの関心はパウルにあったらしい。パウルも何気なしにロードに振り向き、気味の悪い愛想笑いを浮かべた。
「どうって……、別になんとも……」
「素っ気ないですねえ……」
ロードに呆れられ、パウルは仕方なさそうにはにかんだ。
「ええ、自分でも驚くぐらい……、なんとも思いませんね。改めて見ると、ズミの景色とそこまで変わらない」
いつもの不遜さのない作った表情を浮かべているだけで、その言葉も全部嘘くさく聞こえた。本当のところはどう思っているのだろうか……。
空の夕焼け色が次第に紺色に変わっていく頃、馬車は街の中へと入っていた。
立ち並ぶ背の低い家屋の多くは、赤みの強いレンガと白っぽい漆喰のまだら模様で妙に華やかに見える。
道は石で舗装されてる様子もなく多くの轍が浮いていて……、街の広がりこそそれなりにあるようだが、背の高い建物や木がないせいか、いやに空が広く感じられる町だった。
日暮れ時ということもあって往来の人は少ないが、それぞれの家屋の中やその庭で生活をしている人の気配を感じる。時々視界に移る市民は、髪の色も当然、服の形や色も見慣れない……やはり異国なのだな、と感じ入る。
それは向こうから見ても同じだろう。時々馬車とすれ違う者があると皆が皆一様に振り向いて、馬車の上にいる僕やジュリの黒髪を物珍しげに見ているようだった。
しっかり宿の手配は事前に済ましていたようで、宿屋らしい大きめな家屋の前に馬車を停めると、奥から二人のトレンティア人、中年の男女が出てきて深々とロードに礼をして見せた。
一言二言のやりとりを彼らと済まし、ロードはさっさと中に入っていく。僕達もそれに続いた。
屋内は天井が高く、窓が多い。パーティルにあったロードの屋敷の間取りとやはり雰囲気が似ている。
丸い机、磁器の花瓶に活けられた見慣れない豪華な花、見たことのない文様が彫られた梁、蝋燭に見せかけた魔法の燭台……、僕達の興味を引くものはいくらでもあった。
ジュリもそわそわとして屋内の装飾を見ていたが、声を上げたり飛んだり跳ねたりする様子はないようだ。
「申し訳ありませんがあなた達は一つ部屋で。食事は後ほど宿の者が持っていきますので部屋で過ごしていてください」
ロード様から直々の案内を受け、僕達はベッドが三つ窮屈に並べられた部屋に落ち着いた。壁にくっつけるみたいに小机が置かれてはいるが、床に荷物を下ろすとベッドの他に居場所がないぐらい窮屈だ。
仕方なくさっさと外套や靴を脱いでベッドの上に上がった。布団に詰められている綿がいやにごつごつとしていて分厚い。重たくて眠りづらそうだ……なんて思った。
閉塞感に追われて、パウルは自然な成り行きで木の窓を開けた。
「わあ」
緊張が抜けたのか、またジュリが歓声を上げた。だけどその視線の先、窓の外にあるのは……見慣れたものだった。
綺麗に弧を描いた三日月の光が、部屋の中にさっと差し込んだ。何を言うでもなくそれを見上げるジュリの瞳は、既に興奮しているような様子もなく、うっとりとその光に酔いしれるように揺れている。
月を見上げて何を思っているのだろうか、なんて想像をするのも野暮というものだろうか。僕はなんとなく意地を張って、その月影には横目を向けるだけだった。
パウルはベッドの上に仰向けに寝転がり、組んだ腕を頭の後ろに回して、逆さまに月を見上げていた。照らされた表情はどこか満足そうだ。
「な、別に変わらんだろ」
そう楽しそうに言った声に、なんとなく誰も返事はしなかった。
やがてロードの案内通り、宿の人間らしいトレンティア人の中年女性が食事を持ってきた。ズミで見るトレンティア人は男ばかりだから、金髪の女性なんて見るのも初めてだ。
お互い珍しいのだろう、女性も無遠慮に僕の頭をじろじろ見ながら、特に何を言うでもなく食事を置き、去っていった。
とってつけたような小さな机に皿を置いて、僕達はめいめいにトレンティアでの最初の晩餐をとった。
……パンが乾いた枝みたいな食感なのは気になったが、ズミで食べても不味いパンはこういうものだ。国の違いなのか、たまたま不味いパンなのかはいまいち分からない。いちいち異国情緒に思いを巡らすのも面倒に思えてきた。
しかし添えられていた果物は、水気も甘みも多くて美味だった。小粒の実が枝にたくさんひっついている形の赤紫色の果物だ。
ここに至ってはしゃぎだしたのはパウルだった。食事と一緒に出された酒に舞い上がったらしい。
「ああ、トレンティアのぶどう酒の味! こればっかりは郷愁ってやつにかられるねえ」
そんなウキウキしている様にジュリも興味を惹かれたらしく、そわそわと瓶に視線をやった。
「そんなに美味しいんですか」
「いや不味いね、これは安物だ」
くだらないやりとりを交わしながら、ジュリもその酒を飲んだようだった。反応を見るに、やっぱり不味いらしい。
酒飲み二人が騒いでいる間に、僕はひとりで果物の粒をひたすら摘んでいた。窓の外からは月の光がもの言いたげに覗いている。
アミュテュス・サーシェ。黒い森の先に生きる多くの同胞たちが、同じ思いであなたと共にありますように。
自然と零れてきた祈りの文句は、いつもと少しだけ違った。
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