サーシェ

天山敬法

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第五章 聖樹の都

36話 青い目に映る空

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 異国で出会う初めての経験は、何も物珍しい建築や文化の観光だけとは限らない。
 髪や目の色の違いで起こる“異国人”という眼差し……、僕だってズミにいる間も、目の色に関してはその摩擦に悩まされてきた経験はある。だけど当然、紛うことなき異国であるトレンティアの地ではそれは一層顕著だ。
 いわんやジュリにとっては初めての経験になるはずだ、戸惑うのも当然だろう。浮かれたり怯えたりと忙しいジュリを傍らに、一行の馬車は東へと旅を進めていく。
 途中、広大な農業地域を通り、いくつかの石壁を潜り、川を越え、背の高い建物が並ぶ都市を通り過ぎ……、やがてある日の道中、パウルがおもむろに声を上げた。
「ああ……」
 それは感嘆の声らしかった。その青い目がくっきりと開いて、何かに見惚れるように遠くに視線をやっているその様子は、らしくなかった。
 何だろうと思ってその先を追った。なんとなく、ジュリもロードも同じようにしてそちらを見やる。
 遠目にも分かるほど大きな都市が見える。横一線に見える白い壁の向こうに、点々と覗く三角屋根の群れ。その中に一段と背の高い建物……、いや、建物だろうか?
 白っぽくて背が高い、遠目からではそれだけしか分からない……だけどなぜか直感した。あれは建物ではない、夏の重たい雲のように空へ腕を広げている……巨大な樹木。
「帰ってきたんだなあ……」
 パウルはそうぼやいた。その感嘆の声に滲んでいる感情が何であるかは……言うまでもないだろう。トレンティアに入国したばかりの時は何も感じない、なんて言っていたが、その樹を見てやっと実感したというところか。
 僕はただ呆気にとられるようにそれを見つめていた。こうしていざ自分の目で見てみると、敵国だという実感すらどこか薄れてくる……、それはただ雄大に静かに佇む、物言わぬ神秘だった。こんな景色が同じ世界にあるのかと、そんな驚きさえ覚える。
 その樹を取り囲むように町が広がっているのだろうか、その町を囲む白い壁の周りに更に、広く農園が広がっている。その隙間を通って馬車はいよいよトレンティアの王都へ近付いていく。
 巨大な門の脇で一度馬車を止め、そこに詰めている軍人か、役人か……にロードは馬車上から挨拶と名乗りの声をかけていた。
 そして御者が荷物から大きな革の布を取り出したかと思うと、馬車の天井から吊り下げるようにして座席を覆い隠してしまった。途端に座席の中が暗くなる。そうして目隠しをされてから馬車は街の中へ入るようだった。
「なんで隠すんだこれ」
 僕が不服を露わにして言う。せっかくだから王都の景色がどんなものか見ておこうと思っていたのに、これではほとんど見えない。
「高貴な貴族は庶民の前でみだりに顔を出さない。……っていうことになってるんだよ、一応。せめて王都の中でぐらいは律儀にしきたりを守ろうってことだろ。要人であれば治安上の理由もある」
 パウルがのんきな声で言うと、ロードはどこかバツが悪そうに顔をしかめたが、何も言わなかった。
 外の景色を見たがってそわそわとしている僕とジュリに視線をやり、パウルはにやりと笑った。
「高貴な貴族じゃない者共は、まあちらっとめくって外覗くぐらいはいいんじゃないか」
 そう言われて、僕はロードの顔を窺ったが……彼は「好きにしろ」とでも言いたげに無関心な風をしていたので、言葉に甘えてちらりとだけ革のカーテンをめくった。目をすぐ近くまで寄せると、その狭い窓からでも町並みがさっと見渡せる。
 三階も四階もあるだろう高く積み重なった建物が所狭しと立ち並ぶ町……。道は黒い色の石畳で舗装され、街路という街路にはまるで全部が庭園かのように花壇が整えられ、鉄製の街灯が立っている。いわずともがな大都会である。
 ……ズミの王都には僕は訪れたこともないのだが、それより先にトレンティアの都に足を踏み入れることになるとは、皮肉だななんて思った。
 建物は石造りやレンガ造りのものが目立つ。しかしこれまでのトレンティアの町並みと違って、レンガの赤色は弱く、くすんだ暗い色のものが多い。木造の建物も散見されるが、中には炭みたいに黒い……あれは塗料で塗ってあるのだろうか……と疑うようなものがある。
 道の石畳の色も暗い。王都といえばもっと華やかなものを想像していたが、街全体が示し合わせたように黒を纏っている、重々しい景観をしていた。
 そしてその黒い町並みが引き立てるように、当然道行く人の髪は明るい金色だ。カーテンをめくって覗いている僕の方を振り向くものはない。その馬車の様相だけで貴族のものだと分かるのだろう、皆慌てた様子で道を開けていく。
 そんな街中を進むことしばらく、次第に立ち並ぶ建物の密度が低くなっていき、庭園らしい草花に彩られた空間が目立つようになる。建物に阻まれていた陽の光が行き届き、空が広く感じられた。
 庭園に囲まれて、時々ある建物はどれも大きな屋敷と見える。それがいくつか連なっているような区画は、貴族の居住区というところだろうか。石畳を進み、大きな鉄の門を潜って、やっと馬車は停まった。
「長旅お疲れ様でした」
 ロードは美しい笑顔を浮かべ、さっと馬車から降り立った。御者もいそいそと馬車にかけた革のカーテンを取り除く。
 途端に視界は明るくなり、ロードに導かれるようにして馬車から降り立ち、そして思わず空を仰いだ。……トレントが、近い。
 空を突き刺すように聳え立つ巨木は、それでもまだここから距離があるようで、空の色の中にくすんで……淡く虹色の空気を纏っている。
 その幹も、生い茂る葉も、普通に生えている木よりもずっと白味がかっているようだ。高く広く枝を広げている樹木は太陽の光を遮っているはずなのに、空は変に明るかった。
 白い葉は太陽の光を透かしている透明色なのだろうか、それともその樹木自体が光っているのだろうか。遠目にははっきりと分からない。
 太陽だけが照らしていた今までの世界とは、まるで違う空がある。端的に言葉で表すなら、そんな実感。……これが、トレント。
 それを初めて見上げたその時、それがズミの王都を攻撃するために使われたのだとか、そんなことはどこか思考の遠くに霞んでさえいた。
 唖然としてその樹を見上げているのは当然僕だけではない。ジュリも……、そしてパウルも。きっとその眼差しにこもっている想いは、僕達ズミ人とは違うのだろうけど。
 馬車を停めた美しい庭園の奥に、レンガ造りの大きな邸宅が堂々と構えている。主の帰りを受けて、その奥から使用人らしい男女が五人ほどぞろぞろと姿を現した。
「おかえりなさいませ、ラファエル様。遠国からご無事に帰られましたこと、使用人一同心から喜び申し上げます」
 代表の老人がそう言って深々とロードに頭を下げた。……分かってはいたけど、本当に上流貴族なんだな。
 そんな使用人たちに向かって、ロードは力強い微笑みを浮かべた。
「出迎えてくれてありがとう。彼らは仕事の関係で雇った助手だ。王都に滞在する間この屋敷に泊めるから、急ぎ準備を頼む。部屋は二階のものでいい」
 てきぱきとロードが指示をすると、使用人は紹介された僕達に視線を向けることさえなく、きりとした仕草でロードに向かって礼をしていた。
「かしこまりました」
 そして使用人はきびきびとした足取りで屋敷へと引き返す。ロードもゆるりと歩き出した。
「私の個人邸です。どうぞ気兼ねなくお上がりください」
 そう言って僕達を手招きした。僕はトレントの景色に圧倒されたせいか、自分の鼓動がいやに速く打つのを感じていた。平静を装って歩き出す。
 傍らのジュリは見るからに緊張した様子で、ぎくしゃくと体を動かして一緒に歩き出した。
 パウルも、気が付けばトレントから視線を逸らし――作った表情なのだろうか、穏やかな微笑を浮かべて静かに歩いていた。
 玄関を通り抜けると大きな柱が立つ広間があり、正面の奥には白い石造りの洒落た螺旋階段が上へと続いている。やはり天井は高く、壁に広く磨り硝子がはめられていて外の光をふんだんに取り込む造りになっていた。
 左右の壁には木造の重々しい扉がいくつかある。興味深くそれを眺めていると、そのうちの一つが開いて奥から人が飛び出してきた。
「ラファエル様! おかえりなさいませ!」
 それは眩しい笑顔を浮かべて、見るからに喜びに満ちた様子で小走りに、屋敷の主へと近付いた……女性だった。
 銀色の糸で華やかに模様を縫ったドレスを纏い、金色の髪はしっかりと編み込まれていて、その頭にも花を模した簪が散りばめられている……その豪奢な装いに飾られているのは、しかしあどけないと言っていいほどに年若い少女。ジュリと同じぐらいか、少し歳下かというところではないだろうか。
 彼女にロードが向き直ると、何か言葉を交わすよりも早く、そこに辿り着いた少女はロードの体に抱きついた。ロードもそれを腕に受け流してくるりと体を回し、その場でステップを踏んで見せた。
「おっと……、お転婆が過ぎるのではありませんか、マリアンヌ殿下」
 ロードは美しい笑顔で浮かべながら、しかし彼女に言った「殿下」という言葉は冗談めかした調子だった。少女は一瞬きょとんと目を瞬かせて、すぐに僕達の方に視線をやった。
「あらまあ、お客様がいらしてたのね。やだ、わたくしったら、ごめんなさい」
 慌てて少女はロードから離れ、ドレスの裾を軽く持ち上げて礼をして見せた。僕とジュリは唖然としたまま突っ立てることしかできないが、パウルは片腕を胸に当て、もう片方の手を腰の後ろに回して深々と礼をした。
 ロードはいつもの美しい作り笑顔を浮かべている。
「妻が失礼をいたしました。……マリアンヌ様、私は客人とお話がございますので、また晩餐に」
 そして少女の方に向き直ってそう言うと、彼女の手をとってその甲に軽く口づけをした。
「はい」と少女も明るく頷いて、やがてまたさっと元の扉の奥に消えていった。あれがロードの妻らしい。
 やがてロードに導かれ、応接間らしい部屋に通される。パーティルにあった屋敷と比べても更に豪華な調度品が整えられていた。
 部屋の入口の脇に立っていた使用人に向かって、綺麗な笑顔のままでロードはさらりと言う。
「仕事の話だ、外せ」
 はい、と一言返事をして使用人は部屋の外に出て、その重い扉を閉めた。その後ロードに促されて一同は椅子に座る。パーティルの屋敷と違って長椅子ではなく、一人ずつごてごてとした装飾の椅子があった。机を挟んだ正面にロードも座った。
「さて、ようやく落ち着けましたね。調子はいかがですか」
 人払いをした気配を感じて安心したのか、パウルは作っていた笑顔を途端に崩して乱暴なため息をついた。
「やっぱり貴族の家ってのは居るだけで疲れるな。ヨハン、ジュリ、お前ら大丈夫か? 肩凝って骨折してないか」
 仏頂面のまま、そんな冗談を言いながら背中を叩いてくる。僕はハッと息を吐いた。次から次へと現れる景色に圧倒されるばかりで、体に入れている力になど意識が向いてなかった。
 なんだか悔しい心地がして、僕は負けじと肩を回して体をほぐした。ジュリはまだ目を白黒させて固まっている。
「私も慣れたものだと思っていましたが、ズミでの行動に馴染んでしまうとやはり、こちらでの堅苦しさには嫌気が差しますね」
 本気か冗談か、ロードは楽しそうに笑いながらそんな軽口を叩いた。パウルはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
 そして続けて部屋の扉の方に視線を向けて、ぼんやりという。
「今の細君は……、もしかしてイザベラ嬢か?」
 ロードは途端に笑顔を消して呆れた表情を浮かべた。
「嬢ってあなた……。ええ、マリアンヌ・イザベラ様で間違いはありませんが」
「おおっと、これは失礼した。イザベラ姫とお呼びするべきだったな。ふーん、クラネルトに嫁入りしたんだ」
 パウルは冗談めかして大仰に呼び直した。どうやら先程の少女のことも彼は知っているようで、その口ぶりはいかにも思わせぶりだ。
 ロードは呆れ顔ながらに、諦めたように息をついた。
「ええ、既に私の妻です。どうやら甘やかされてお育ちになったようで、王女殿下だというのに自由奔放で驚かされます。しかしあなた、よくあのやりとりだけでイザベラ様だと分かりましたね」
「人の名前はよく憶えている方でな。あんな服は王家の女しか着ないだろう、それでマリアンヌと言えば、だ」
 パウルはそう得意げに語って見せる。ロードのじっとりとした視線が彼を睨んだ。
「……お詳しいですね。やっぱりあなた、かなりの階級の……」
「おおっと、昔の話は詮索しない約束だぜ。今はパウル・レーン、しがない脱走兵だ」
 そう言って不敵に笑って見せた。ロードはため息で返す。
 しかしすぐにパウルも笑みを引っ込めて、無気力な声色で切り出した。
「まあいい、とっとと本題に入ろう。ロード、お前が俺にさせたい仕事は何だ」
 ロードもやっと涼しい笑みを取り戻した。
「別に……、何か殊更用事があるわけではありません。あなたが魔道人形を調べたがっているようなので、ついでの機会に恩を売っておこうと思っただけなんですが……。しかしあなたの知識はやはり期待以上だ。この人体魔術の臨時学会を……、探れますか?」
 パウルは不機嫌そうに眉を寄せた。
「もちろんそのつもりで来てはいるが……、言っとくが限定的にはなるぞ。いくらなんでも“禁忌”を扱う王室の学会じゃあ、ロード様の助手だと言い張ったって中には入り込めんからな。論文を読むことができればいいが……、それをどこまで開示するかは奴ら次第でしかない」
「当然、入手しうる限りの情報は私から共有するつもりです。とりあえずご所望だった会議の議員名簿と、開示できる範囲の論文を友人に打診してみましょう」
 テンポよく、二人は話を進めていく。当然僕には既についていけない。
 パウルはそこで、僅かに顔を俯けて、暗い目でロードを睨み上げた。
「……言っちゃなんだが、俺の記憶の限りじゃあクラネルト家は人体魔術に関してはノータッチだっただろ。そんな急に探りを入れて逆に怪しまれないか?」
「パーティルの近辺で目撃された魔道人形の報告に当たっては、私が外交官として携わっています。皮肉ですが彼らの建前と一致する以上、一応の口実は建てられます。……上手くやりますよ」
 お互い飾った様子のない、冷めた真顔同士でそんなやり取りを交わす。
「それじゃあ俺からの要望だが……、図書館に出入りする権限をくれ。国立学会のとまで贅沢は言わんが、少なくとも公共の学術資料室は入らせてほしいね。あとトレンティアとズミの語学辞典があれば……入手してほしい。これは閲覧じゃなくてだ」
「公共資料室であれば簡単ですが、それ以上の学会となると少し調べる必要があります。農学の方面であればクラネルト家の管轄なので可能でしょうけど……、辞典については既に我が家にあります。伊達に戦前から対ズミ外交の先陣を務めてはいませんよ」
 彼らの間で飛び交う言葉を、僕はやっぱり理解できない。分かることは、彼らが学問の話をしているということだけだ。
「まあご多忙だろうとは察するぜ、できる範囲で構わん。ここまで手厚い待遇をしてもらってるんだ、俺達に手伝えることがあったら何でも言ってくれよな」
 パウルはそう言ってからりと笑った。
「今のところは、これからも末永くお付き合いを……とだけ言っておきましょうか」
 ロードは怪しい笑いを浮かべて凄む。「おっかねえな」なんて言ってパウルは楽しそうに笑った。
「今んところの話はこれぐらいでいいだろう。俺は疲れた、早く寝室に連れて行ってくれ」
 パウルはそう不躾に体を伸ばして言った。「分かりましたよ」と肩を竦めてロードも笑った。
「これから私は両親と陛下に挨拶をして、夜会の準備等々もありますので今日のうちは落ち着ける時間はとれないと思います。何かあればこちらから連絡するので、大人しくしていてくださいね」
 会話は終わったらしい。流れのまま椅子から立ち上がると、ロードを先頭に応接間の出口へと向かった。使用人を呼び、僕達を案内させる。そこでロードとは一旦別れるらしい。

 案内されるがまま螺旋階段を上がり、広めの廊下を進んだ先にある扉二つを案内された。二部屋とってくれているらしい。
「何か御用がございましたらお声掛けくださいませ」
 そう言って使用人は深々と礼をする。パウルもすっかり作った態度で小さくお辞儀をした。
「ロード様のお心遣い、痛み入ります」
 そう返事をして、一室の扉を開いて中に入る。二部屋あるのはジュリだけ別室ということだろうが、ジュリは不安そうに僕達について同じ部屋に入ってきた。
 宿部屋というには広い小綺麗な部屋の中に、布団にさえ美しい刺繍が施された大きなベッドが二つ、整然と置かれていた。書斎のような机と椅子もあるし、窓際には白い上品な花瓶に鮮やかな生花が活けられている。
 案内の使用人も去り、三人だけになって、パウルはまた体を伸ばした。「やっと落ち着けるな」なんてぼやいていたが、僕やジュリなどは慣れない部屋の雰囲気になかなか落ち着かない。
 ジュリはそわそわした様子で口を開いた。
「あ、あの。パウルさんは図書館に入れるって言ってましたけど、私は……」
 パウルは欠伸をしながら力の抜けた様子で答える。
「まあそう焦るな。がっかりさせて悪いが、公共の資料室でも外国人が入るのはちょっと難しい。クラネルト家の後ろ盾を使えるなら抜け穴はあるだろうが、それは調べてみないとハッキリ分からんな。なんせ俺が使ってた時から二十年ぐらい経ってる。今どうなってるのかは俺にもよく分からんし、とにかく最初は俺が一人で調べる」
 そう言われ、ジュリはむすっと口を尖らせていた。
「着いたばっかりで何をすりゃいいのか、何ができるのか分からんのは俺も同じだ。何か具体的な仕事を頼むまで少し時間をくれ。それまでの間は退屈だろうが待機、だ。お前もだぞヨハン。先走って勝手に行動するなよ」
 パウルのやや真剣になった目がびしりと僕を睨んでくる。僕も少し顔をしかめたが、反論はしない。
 パウルはおもむろに書斎につけてあった椅子に座り、やがてその真剣な表情を強めた。
「いいか。ここは紛れもない敵国の本拠地だ。そしてお前達は道を歩いてるだけで目立ちまくる外国人だ。くどいようだがくれぐれも慎重に行動しろ」
 それは……言われるまでもない。僕は僅かに顎を引くだけの動作で頷いた。ジュリなどはびしりと背筋を伸ばして強張っているが。
 パウルは真剣な表情のまま続けた。
「クラネルト家の庇護はありがたいばかりだ、最大限利用はさせてもらおう。……だがロードにも完全に気は許すなよ。あいつはあくまでトレンティアの政治家だ、あの腹の底で本当に企んでいることが何なのかは分からん。そして人を口車に乗せることに長けたプロの外交官でもある。一抹の疑いは常に持っておけ」
 その言葉を、僕もできるだけ重く胸に刻む。ロードのあの怪しげな作り笑顔を思い出して、噛み潰すように奥歯に力を入れた。確かに、あんな奴にいいように騙されたくはない。
 しかし人の心を読む術はないし、常に自分達の利害と、彼の思惑を推察し続けて、考えるしかないのだろう。
 ……考え事は苦手だ。だから今まではただ目の前の敵を倒すことだけに集中していた……、でもここからはそうじゃない。それだけの覚悟を、僕だって決めてきたはずだ。
 その重みをぐっと飲み込んでいる僕に、パウルはふいに力の抜けた声で言った。
「そこでまずひとつ提案なんだが……ヨハン」
 無言で睨み返すと、真顔でこちらを見つめていた。
「お前さ、その人相の悪さどうにかした方がよくないか。ここじゃ目を隠す必要も……ていうかむしろ、青い目は出しておいたほうがトレンティア人からの感情も友好的になるだろう」
 そんなことを言い出したので、思わず僕は長い前髪を庇った。青い目を、出すだって?
 ジュリもまるで、驚くべき事実に気付いたかのような顔で僕を見つめている。
 ……言ってることは、分かった。この目の色を隠してる長い前髪を短く切れと、恐らく彼はそう言っている。髪の長さなんてずっとそうしてるものだから、トレンティアに来ても意識することさえなかったが……。
 驚いて固まってしまった僕に、パウルはぐっと眉を釣り上げて迫ってくる。
「トレンティアの血を引いてることが傍目に分かんなきゃ、せっかくヨハンと名乗ってる意味だってないだろう。……まさか髪を切るのは嫌だ、なんて女みたいなこと言うつもりじゃあるまいな」
 まるで僕の胸の内を見透かしたみたいに、嫌味っぽい声で言ってくる。女みたいとはお言葉だな、なんて言い返したくなる気持ちもあったが、言葉がつっかえる。
 確かにこの髪を切ってしまうなんてことには、躊躇があった。なぜならずっとそうしてきたのだし、それは僕にとって忌まわしい目の色を隠して、身を守るための行動だったのだから。
 だが言われた言葉を胸の内で繰り返してみれば……、彼の言う事ももっともであった。ここでは目の色を隠す必要もないし、ヨハンと名乗るからには、そうである。
 ごくりと、僕は唾を飲み込んだ。覚悟を決めなければいけないということか。
「……そう、だな」
 僕は重々しく頷いた。そんな僕を見るパウルは呆れ顔である。「よし」なんて一言いって、すぐに部屋の外へ向かっていくではないか。
「使用人さーん! ちょっとハサミ、いや理容師を」
 そんな騒ぎ出すものだから僕はぎょっとしてその背中に掴みかかった。
「やめろ、そんな大袈裟にすることじゃない」
「適当に切ってバカみたいな不格好になったらどうするんだよ。一応はロード様の名前を借りて滞在するんだから身なりには気を使え」
 そんなことを言ってパウルは僕を振りほどく。焦っている間にも使用人がすっ飛んできて用件を聞いた。パウルが短く伝えると、何の疑問もなく使用人は頭を下げて頷いた。
「腕の良い理容師を連れてきてくれるらしい。待っていよう」
 パウルは楽しそうな顔で言う。こいつ絶対面白がってるだろ。
「連れてくるって……ここまで? 理容師を呼び出すのか? いくらなんでも大袈裟だろ」
 そう言った声には思わず焦りが出てしまう。普通なら、髪を切ると言ったって町の床屋に出向くものだ。
 パウルは呆れた顔でため息をついた。
「貴族なんて普通はそんなもんだよ」
「貴族であればズミでもそうでしたね」
 のんきな声でジュリまでそんな相槌を打っている。……そういえば彼女もズミの貴族階級出身であった。
 今更、この中で平民の出が自分しかいないことに気付いて愕然とする。……今まで身分の違いを意識することなんてほとんど無かったが……。
 僕は唖然として何も言えないまま、ただその時を待つしかなかった。やがて呼び出されて来た理容師に髪を弄られながら、明るくなっていく視界を、ただ唖然と。
 異国での経験は、まだ当分僕を振り回して離す様子はない。
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