サーシェ

天山敬法

文字の大きさ
76 / 172
第七章 かけがえのないもの

76話 初めて出会った日のことを、憶えていますか

しおりを挟む
 妙に気持ちのいい風に当てられて目を覚ました。
 全身にまとわりつくような倦怠感は、血門に何かが干渉してきた時のあの感じに似ている……。
 怪我がある様子はない。体が重いだけで動きはする。ゆっくりと寝台から起き上がった。ここは……いつか訪れたことがある、オーデルの施療所だ。
 ぐるりと辺りを見回すと、大部屋の中に人影は数える程度しかおらず、なぜか壁に開いた大穴から暗い光が入り込んできていた。
 起き上がった僕の気配を聞いて、静かに駆け寄ってきたのはジュリだった。彼女が屈み込んでいた元の位置を見ると、包帯でぐるぐる巻きになっている様子のアルドの姿もある。
「ヨン、大丈夫ですか?」
 ジュリは小声で言いながら、少しやつれた顔を向けてきた。
「僕は平気だ、父さんは」
 その姿を見てすぐにでも駆け寄りたかったが、恐らく眠っているのだろう。怪我人の近くであまり大きな音を立てるのも躊躇われた。
 ジュリはほっと息をつきながら、やつれた顔でも笑顔を浮かべた。
「命はとりとめました。これから継続的に術を施せば回復に向かっていくと思います。……ありがとうございます、本当に」
 どこか押し殺すような、思い詰めたような、そんな感情が滲んだ声で言って……ジュリは僕の手を両手で握った。それを握り返し、僕も大きく息をつく。……父は、助かったらしい。
 僕が礼を言われるようなことなのかは……いまいち実感が湧かない。あの時は頭が真っ白になったみたいで、何も分からなかった。
 だけど僕が施した回復魔術は、どうやらすさまじい効能を発揮したらしい。あんな死体も同然の状態から助かるなんて、そんなことがあるものだろうか。自分でやったことながらに信じられないような思いさえする。
 それが“血門術”の威力だということか。初めて使ったその力のあまりにもの効力の高さに、愕然とすらする。
 僕も相当に血を使っただろう、魔力切れの倦怠感と一緒になってよく分からないが、まだ頭がふらつく感じがする。
 しかしどこかぼんやりとしたそんな頭の中でも、ああ、どうしてもちらついてしまう。あの集中を研ぎ澄ました意識の中で、響くように告げられた言葉は、否応もなく僕の胸に焼き付いたようだった。“血門”を開く、その鍵となる呪文が。
 思い出すとまだ胸がざわざわする。思わず頭を押さえた。そんな僕にジュリは心配そうな顔を向けてくる。
「あなたも相当に消耗しているでしょう。一応回復の施術はしましたが、まだ寝ていた方が……」
 そう言って、彼女はその柔らかい手で僕の頬を撫でてきた。ざわついていた胸の感覚が一挙に全身にかけめぐり、人肌に触れたその皮膚をびりと焼いたようにさえ感じられた。
 反射的に、僕は身を捩っていた。手と手が、弾け合うようにぶつかる。
 はたと気付いた時には、怯えるようなジュリの顔があった。……僕は思わず、彼女の手を払い除けていたのだ。
「……ヨン?」
 ドクドクと、鼓動がうるさいぐらいに鳴っている。何か言いようのない不安が全身を蝕んでいる。……触られるのが怖い。
「ごめん、ちょっと今は」
 なんとか呟いた声は強張っていた。……体の中にある“血門”、今までも、その得体の知れない魔術を感じる度に悪寒を覚えていた。それが今は一層に強い……そんな感覚だ。あるだけで気味が悪いのに、ついにそれを開いてしまったのだから。
 アルドを助けるために必要なことだった。後悔するようなことじゃない。だけど……、その気分の悪さは言いようがなかった。その門に刻まれていた“名前”は、まるで全く知らない他人のもの……。
 目を見開いてそれに恐怖する僕に、ジュリは何も言葉を言えないでいた。
 今は彼女のぬくもりを欲する気持ちさえ起こらない。……そうして向き合っていても、余計彼女を悲しませてしまうような、そんな気がした。
 僕はふらつく体で床に立ち上がった。飛んだり跳ねたりは厳しいだろうが、やはり体は動く。いたたまれなくなって、僕は無言で歩き出した。
「ヨン、どこへ」
 ジュリは不安そうなままそう聞いてきた。……どこへ行くかは特に考えていなかった。
「ちょっと散歩」
 そんな適当な返事をして僕はとにかくそこから飛び出した。……施療所の壁の一部が崩れ落ちている事情は気になったが、目下騒ぎになっている様子はないことだけ確かめて、詳しい話を聞くのは後にすることにした。
 この気分の悪さの中、今は何もしたくない……。

 深く眠っていたせいで時刻はよく分からなかった。空を見上げるとどんよりと暗く曇っていて、太陽は低い位置にあるようだった。
 だるい体でゆっくりと道を歩く、その中でもまた嫌なことを思い出しながら考え事をしてしまう。自分の力で、他でもない父の命を救ったのだ。もっと達成感のようなものに満ちていてもいいだろうに、なんて自分自身で呆れて見せる。
 僕の命を狙った魔道人形、あれは一体何だったのだろうか。彼に父を傷付けられて逆上した僕は、その報復とばかりに彼の父、ガロンを殺した。
 不戦を言いつけられたばかりだったが、反省する気は当然ない。……これで、あの魔道人形をめぐる騒動は果たして終わったのだろうか。
 考え始めると気になってくる。やっぱりもう少しジュリから話を聞いておくべきだったかな、なんて悔やむ気持ちは少しだけあった。
 足は何気なく自宅へ向かっていた。その敷地を囲っていた石塀は魔法による戦闘で崩れ、庭は荒れ、木造の住居部分の壁は崩落して中に雨風が吹き込むままの状態だ。
 ……またしばらく、住む場所は変えなければなさそうである。見た所本棟の方まで被害が及んでいないのは幸いだっただろうか。
 崩れた石塀の内側に入ると、壁のなくなった廊下の床に腰掛けて、ぼうっと空を眺めている男の姿が目に入った。
 彼も僕に気付き、ゆらりと片手を上げて挨拶をしてくる。今はその長い金髪を、風に吹かれるままに流しているパウルだった。その姿を見て、また胸の奥に痛みが疼くような気がした。
 僕は足を止めてそちらをじっと見つめていた。……彼は知っていた。僕の体の中にある血門の存在も、そしてそれを開く言葉……僕の“本当の名前”も。
 そこにはずっとわからないままでいた僕の出生の秘密が、全て明かされていることも容易に想像がついた。だけどその現実を知るのが……異様に怖かった。
 まだなおその言葉は頭の中にはっきりと残っている。トレンティア人の長い名前なんて、大抵はすぐ忘れてしまうものなのだけど、その名前だけはたったの一度で焼き付いた。ヨハン・アルティーヴァ・トレント・エルフィンズ。それが僕の名前である。
 やがて僕はゆっくりとパウルの方へ歩いた。彼は雲の向こうに隠れた太陽を見つめて眩しそうに目を細めながら、しかし口元は緩く微笑んでいた。
 彼からその現実を聞くのは異様に怖かった。だけど同時に、それを暴きたいという突き動かすような衝動もあった。
 知りたいけど、知りたくない。そんな奇妙な矛盾に蝕まれたまま、ただ僕はそちらへ歩いた。……見ないことにしていても現実は何も変わらない。
 彼の隣に腰掛けると、パウルは細くため息をついた。
「もう体は大丈夫か? 相当消耗しただろ」
 平然とした様子で聞いてくる。特に視線は合わせずに、ああ、とだけ短い返事をした。
「……あそこまで重症だった先生を、本当に助けちまうとは驚いた。やっぱお前は魔法の天才だ」
「血門術とかいうものを使ったからだろう」
「……どうだ、初めて血門を開いた感想は」
 パウルは冗談めかしたように聞いてくる。いつもの彼と同じ調子だ。それにはなんとなく安心した。態度には、フンと鼻を鳴らしながらそっぽを向いたが。
「気色が悪い」
 端的に言うと、パウルは乾いた笑いを飛ばした。
「だよな。俺も最初はそうだったよ。慣れると忘れちまうが、土台人体魔術なんて人の摂理に反した恐ろしい魔法であることに違いない。血門も然り……、魔道人形も然り。俺達トレンティア人はそこを都合よく忘れてるってわけだ……」
 何に思いを馳せているのか、その彼の視線の先は僕には見えない。
「人間、嫌なことは見ずに、都合よく忘れるってことも生きていくうえでは必要なことだ。だけど俺は……、俺達はそれを忘れちゃいけない。エルフィンズ家が王冠と共に担ってきた使命はそれだった。この恐ろしい魔術の正しい番人であること……。分かるか、ヨハン」
 淡々と語って聞かせてくる、当然僕は視線を向けてやらない。
「分かるかよ」
 そう吐き捨てた。何がエルフィンズ家の使命だ、トレンティアの王家の話など僕には知ったことじゃない。そうまくし立てたい気持ちさえ起こってくる。
 だけど僕達は既に知ってしまっている、その魔術が既に僕の体の中にあること、その血が僕に流れていることを。だからパウルはそれを僕に聞かせているのだ。
「……いつから……」
 駆り立てられるように、僕は言葉を零していた。そんな僕の顔をパウルが無言で横から見てくるのを感じる。
「いつから、お前は知っていたんだ、僕の正体を。……僕の生い立ちを、お前はどこまで知っている。僕は何者なんだ」
 その核心に触れる問いをやっと絞り出す、それだけで体の中の何かが削られていくような痛みを感じた。
「いつからって……、最初からさ。お前と初めて会った時から全部分かってた。……このパウル・イグノールとズミの王女ミョーネ・アルティーヴァの間に生まれ、トレント・エルフィンズ家の男子として……その聖血を受けた継承者。分からないわけがないだろう、この私自らの手で、あの聖樹の麓で、お前にその血門を刻んだのだからな」
 その現実をいやにはっきりと、これでもかというほど彼ははっきりと口にする。ああ、今からでも嘘だと言ってほしい、そんな気持ちすら起こってきた。
 僕の名前についたトレント・エルフィンズという家名は確かに血門術の中でパウルも名乗っていた、同じものだ。そしてアルティーヴァ、ズミの神の名を頂いたその名前は……、そうだ、父と母、両親の家名を継ぐのはズミの貴族階級の習わしだったな。
 奇妙にも両国の神の名を頂いた、その歪な名前はこの戦争の中であまりに皮肉な響きを纏っている。
 嘘みたいなその事実は、しかし他でもなくその名によって血門が開かれた、その実感が否応もなく裏付ける。嫌な感情に胸の中を焼かれるように痛む。どうしてこんなにも痛むのか、その理由すら自分では分からない。
 目の前の男にどんな顔を、言葉を向けたらいいのかも分からない。この怒りにも似た激情をぶつけてしまうこと……それ以外の何をできるというのだろうか。
 何も言えないままどれほどの時間、息を詰まらせているのだろうか。その短い時間の間に、今までの記憶が爆ぜるように流れていく。この世界で自我を持って目を覚ました、その時からの全ての記憶が。
 故郷の景色、父の顔、村の者達、家、本、弓、それらを触った自分の手、虫、獣、武器、殴られた記憶も、殴った記憶も。そして兵士として渡り歩いた戦場で見た仲間の死、敵の死、自らの殺戮、敗北と勝利、侵略者との戦いの日々……、血と泥にまみれた惨たらしい戦場の上で、あなたと出会った。
 共に戦った、何度も助けられた、時には迷った僕を力強く導いてくれた。いつでもあなたは僕の味方でいてくれた。その力を、気持ちを、いつの間にか僕は心底から信頼していた。
 なのになぜ、と。なぜずっと黙っていた。なぜずっと隠してきた。……なぜ始めから傍にいてくれなかった。なぜ僕を捨てていった?
 その問いは、しかし口に出せば何かが決壊してしまう気がしてどうしても出てこない。今更親なんて言われたって納得ができるはずがない。……分かっている、彼自身だってそれを分かっていたから、今までずっと黙っていたんじゃないか。
「……なあ、ヨハン」
 僕の名前を呼んでくる。ヨハン、それはトレンティアにいる間だけの名乗りのはずだった。だけどズミへ戻ってきても彼はずっと僕をそう呼ぶ。それもそうだろう、この名をつけたのは他でもない彼自身なのだろうから。
「黙ってくれ」
 僕は彼の言葉を遮った。頼むから何も言うなと。パウルからは小さなため息だけが返ってきた。
 沈黙が再び降りる。そうしている間にも日が傾き、空は暗く沈んでいく。やがてパウルはゆっくりと立ち上がったようだった。
 僕は体が重たくて、しばらく腰を持ち上げる気にもならなそうだった。
「連絡だけしておく。知ってるだろうがガロンは死んだ。それからウィルは……また逃げちまった。しかもフェリアと一緒に。恐らく行き先はラズミルだろう。俺はこのままモルズの部隊に合流して任務に入る。その行き先もラズミルだ……また会えるかもしれん」
 パウルは淡々と言った。ウィルがフェリアと一緒に逃げたなどという話は驚いたが、それでも顔を上げる気分にはならない。
「……家、壊れちまったからな。俺は適当に宿を見つけて寝るよ。お前も好きにしろ。ジュリは先生の看病で施療所に泊まり込むはずだから、お前も施療所で寝ててもいいぞ」
 そう言い残して、僕の返事を待たずに歩き出した。どこかへ立ち去っていく彼を僕が呼び止めることもない。
 空は暗くなっていく。まるでそれを急かすみたいに立ち込めた灰色の雲が、やがて水滴を吐き始めた。
 壁が綺麗になくなり、合わせて天井も壊れている廊下にその雨は真っ直ぐ降り掛かってくる。自分の黒い髪が濡れて、そこからぽつりぽつりと雫を落とし始める。
 それに誘われるみたいに、僕の目からも熱い雨が降る。どうして涙が出るのか、自分でも分からない。
 時々、わけもわからず涙が出ることがある。記憶もないはずの昔のこと思い出した時に限って。

 すっかり日が沈んだ後、体を雨に濡れるままにして僕は施療所へと戻った。ずぶ濡れになって帰ってきた僕を見てジュリは変な声をあげた。
「何やってるんですか、温かくなってきたとはいえ風邪を引きますよ? とりあえず拭いて」
 この場所にいると、ジュリも治療師としての自覚がいつも以上に強くなるらしい。無駄にきびきびとした動きで世話を焼いてくる。
 布を出してきたので、黙って受け取ろうと思った矢先、ジュリはその布を持ったまま僕の頭を押さえ込んできた。
 そのままごしごしと擦るみたいに髪を拭いてくるので、さすがに驚いて手でそれを拒んだ。
「自分でできる」
 むっとして言うと、ジュリはぱたりと手を止めた。ああ、そっか、なんて気の抜けた声が出た。
 頭を覆っていた布を押しのけてそれをジュリの手から奪おうとすると、ジュリは布で僕の頭を包んだまま、きょとんとこちらを見つめてきた。頭を掴まれていたので、それなりに近い距離だ。
「……ヨン? どうかしたんですか」
 僕の顔をじっと見つめて言ってくる。まだ涙の痕が晴れきっていなかったのだろう。
 僕は気まずくなって目を逸らした。ジュリはなおも、僕の頭から手を離してくれない。
「あの、何かあったのなら言ってください。……アルド先生は助かったんですよ? あなたの手で助けることができたんですよ? それなのにどうして……、そんな悲しそうな顔をするんですか」
 そう聞いてくる様子は彼女も何か必死なようだった。思わずもう一度視線を合わせる。不安そうな、思い詰めたような黒い瞳が少しだけ揺らめいている。
「そうしていつもあなたは黙ってしまう。全然言葉にしてくれない。最初は人間の感情がないんじゃないかと思ってましたよ。……だけど違うでしょう、今までも一人で泣いていたんですか? 一人で抱え込んでいたんですか?」
 一度喋りだすと止まらなくなった、そんな様子でジュリはまくし立てた。
「そういうわけじゃ……」
 僕は思わず否定の言葉を言ったが、自分でもよく分からない。やがてぐっとジュリの切なそうな顔が近付いてくる。
「……お願いです、何かつらいことがあるのなら話してください。私では何の力にもなれなかったとしても……、私はあなたのことが知りたいです。あなたのことが……好きだから……」
 そんな彼女の真っ直ぐな言葉は、聞くと思わず顔が熱くなる。また胸の奥に灯る熱は……だけど今度は痛みじゃない。
 思わず抱きしめたい衝動にまで駆られるが……、生憎ここでは、少ないとはいえ人目がある。他に治療中で滞在してる怪我人と、起きているか寝ているかは分からないけど、他でもない父が。さすがに恥ずかしかった。
 僕は頭を覆っていた布を抱きしめるようにして奪い取り、近くの適当な寝台に腰掛けた。もう夜とはいえ、ジュリの任務は重症の怪我人の看護だ、その場所から動かすわけにもいかないだろう。
「……自分でもよくわからないんだ」
 呟くように言った。ジュリはハッと小さく息を呑んで、やがて恐る恐る、僕の隣へと腰掛けた。
 横並びに座って、せめて片手で彼女の手を握った。自分でも意識しないうちに妙にその手に力が入ってしまう。
 ジュリの手のぬくもりに溶かしていくように、その熱に精一杯身を委ねて、力を抜いていく。心の中にある扉を開いていくように、その言葉を紡ぐのには勇気が必要だった。
「自分を捨てた生みの親のことなんて今更どうでもいいと、自分では思ってたつもりなんだけどね。……思い出そうとすると、なぜか涙が出る」
「生みの……親?」
 夜の静けさの中に隠れるように、僕達が淡々と交わす声は小さかった。
「生みの親が分かったんだ。打ち明けられた、と言ったほうがいいか」
 ジュリは目を丸くして僕を見つめている。魔道人形やアルドの怪我、そんな騒動の中で一体なぜそんな話が突然出てくるのかと、不可解なことだろう。
「パウルが僕の父親だった」
 言葉にしてみるとなんとも呆気なかった。当然ジュリは驚嘆の表情を浮かべて固まった。
 ……言葉にしてみると、ただそれだけの事実だった。それ以上何の説明もしようがない。僕はそれだけを言って結局黙った。
 やがて混乱した頭を整理しようとしているのか、ジュリはおどおどと目を泳がせ始めた。
「え……と、ちょっと待ってくださいよ。じゃあヨンのお母様って」
「パウルの妻……、ミョーネ・アルティーヴァ、ということになるな」
「はあ!」
 ジュリは素っ頓狂な声を上げた。思わず、静かにしろ、なんて手振りを僕がする。
「で、でも、あれ? ミョーネ様は子どもができないって」
「そんなの知るかよ。実際僕は混血だし、親でもなきゃ知らないようなことを奴は知っていたし、僕の本当の名前には確かにアルティーヴァという名字が入っている」
 そう説明した声はいやに恨みっぽく、だけど自分でも驚くほどに軽かった。
「……パウルが表向きには処刑されてトレンティアでの身分を追われたのは……十五年前だ。僕は今十六歳で、父さん……アルドから聞いた話だと、僕が預けられた時はまだ乳飲み子だったと……、それはほとんど全部同時期に起こっている。子どもは“できなかったことにされた”んじゃないのか?」
 そう冷静に分析までして見せる。一度言葉にしてみればこんなに呆気ないものかと、自分で喋りながら愕然とすらし始める。今はジュリの方が衝撃が大きいようにさえ見える。
「ヨンが……、ミョーネ様の……息子? でも、じゃあなんでヨンは先生のところに預けられたんです? トレンティアでもなく、かといってズミの王宮でもなく……」
 わなわなと声を震わせてジュリは言う。僕はため息をついた。
「……知らないよ。ズミの王家に戻ったのなら、トレンティアの王子と作った子どもなんて邪魔だったんだろ……」
 吐き捨てるように言って、ふと脳裏に、いつかアルドから聞いた話を思い出した。ヨハン、ヨハン、必ず迎えに来るから待っててねと……、女性はそう必死に言っていたと。
 真実が何であったかなんて今更分かりようがない。だけどやっぱり、なぜ、なんて言葉がとめどなく溢れてくる。また目からぼろぼろと涙が零れてきた。
 それはもはや感情の発露ですらない、ただ親のことを思うと、それだけで勝手に出てくるんだ。一緒にこみ上げてくるものは何の言葉も当てはまらない。
「ヨン」
 驚いた様子でジュリが僕の顔を覗きこみ、僕の手を握る力を強めた。
「ごめんなさい、つらいことを聞いて……。思い出させてしまいましたね。ごめんなさい……」
 ジュリは苦しげに言う。僕は力無く首を振った。拭いもしない涙が顎を伝って、雨水のように散っていく。
「そんなんじゃ、ない。思い出してなんかない。思い出せないんだ。自分でも、わけが……」
 生みの親が誰だかなんて、今の僕には何の関係もない。乳飲み子のうちに預けられ、そこから一人で僕を育ててくれたのはアルドだ、彼の他に親なんていらない。これは僕の感情なんかじゃない……。だけどどうしてもその声は涙で乱れていく。
 ジュリはやがて寝台の上に膝立ちになって、僕の体を上から覆いかぶさるみたいにして抱き絞めてきた。その顔がすぐ横にくっついて、僕の涙が彼女の頬をも濡らしていく。
「ちょっと、ジュリ。さすがにここ、人いるし」
 焦って僕はそれを押し返そうとするが、ジュリは力いっぱいに僕を抱きしめたまま離さない。泣きじゃくる僕を慰めようと、そう思ってくれているのだろう。
 ……だけど涙は勝手に出るだけで、本当にそんなんじゃないんだ……なんて、言っても信じてくれないだろうか。
 次第に胸の痛みなんかよりも恥ずかしさが増していく。ジュリの体を両手でわしと掴み、少し強引にその体を離させた。顔同士が少しだけ離れて、間近に必死のジュリの顔が映る。
「……大丈夫だから。というか君の任務は父さんの看護だろ、患者から目を離すなよ」
 そう小言まで言うが、まだジュリは名残惜しそうに僕の頬を撫で、その涙を拭っていった。その手が頬に触れる、その感触にびりと痺れるような刺激は既に走らない。
 まだ彼女の体温に身を委ねていたい気持ちはあったけど、それ以上に恥ずかしくて僕は身を捩ってその腕から逃れた。仕方なく、という風にジュリも体を離す。当然、彼女のその気遣いは……嬉しかった。
 親のことを考えると、何も憶えていないはずなのに苦しくなる。それはもう、僕が生来持って生まれた呪いのようなものなのかもしれない。そんなことに拘ったところで、今の現実は何一つ変わらないことは分かっている。
 しかし、たとえその度に痛みに打ちひしがれるとしても、せいぜい失うものは目から零れていく水分ぐらいだ。……僕は何も不幸じゃない。
 生みの親のことなんか分からなくても、アルドが本当の子ども同然に僕を大事にしてくれているし、今は志を同じにするレジスタンスの仲間もいる。
 何より僕には可愛い恋人がいる。お互い言葉も体も不器用かもしれないけど、僕の涙を見て必死に慰めようとしてくれる彼女が……。僕は不幸なんかじゃない。
 そう自分に言い聞かせることは、僅かでも慰みになっただろうか。ジュリの様子を見て、僕は笑いさえ浮かべる気分になっていた。
「ありがとう、ジュリ」
 言葉は意識して言うようにする。ジュリは面食らったように目を丸くしたが、やがて恥ずかしそうに目を逸らして、しどろもどろに頷いたようだ。
「もう夜なので休みますよ。寝る前にもう一度施術をしてから……」
 ジュリはそう切り替えて立ち上がった。アルドの体はまだ重症だ、こまめに癒やしの魔法を注ぎ込む必要がある。釣られるようにして僕も立ち上がった。
「僕がやろうか」
「何言ってるんですか、あなたさっきまで魔力切れで倒れてたんですよ、無理しないでください」
「でも僕のほうが瞬間の魔力は高いし」
「また気絶されて要看護の人数が増えたら困りますから」
 そんな問答をして、ジュリは慣れた手つきでその体の下に敷いてある魔法陣に魔力を流し始めた。
 仕方がなく僕はその隣にしゃがみこんで、その様子を見守る。眠っているのだろう父の顔は、今は痛みもないのか穏やかだった。
 やがて微かに上がった魔法の光の中、ふと、アルドの穏やかな顔はゆるく微笑みを浮かべる。
「サーシェ、今夜は雨か。ズミの大地の慈雨たらんことを……」
 突然そう喋ったのだから驚いた。てっきり寝ていると思っていたのに……まさかジュリと仲睦まじくしている様子を見られては……いないだろうな。
 ジュリは施術に集中しているのか、まるで聞かなかったふりでもしているように無言だ。
「……すまない、ヨハン。私もひとつ告白をさせてくれ」
 少し掠れたような声で言う。僕は何と返事をするものかとも迷って黙っていた。
「彼が……パウルさんがお前の実父であることを、私は知らされていた。だけどあなた達二人がきちんと向き合えるようになるまで……余計に関わってはいけないと思った。黙っていてすまない……」
 その言葉は想像以上に核心に触れてきていて、思わず息が詰まる。だけどやっぱり返す言葉は見つからない。
「すぐには飲み込めないこともあると思う。だけど大丈夫……、あなた達は迷いながらも前に進もうとしている、神様はきっと見てくださっている。だから大丈夫……。ミュロス・サーシェ。あなた達の絆が、ラコールミルの泉の果てまでも続いていきますように。アミュテュス・サーシェ……」
 目を閉じたまま、口元だけで呟いた、寝言のような祈りだった。僕は何の返事もできないまま、アルドは安らかな息を立て始める。眠ったのだろうか?
「ラコールミルの泉ってなんだ……」
 やがて僕はそうぼやいた。どうやら神学にも詳しいらしい父が持ち出してくる神話は、時々分からないことがある。その意図が僕に伝わることはない。
 起きていれば教えてくれたのだろうか。何も言わないのを見るに、本当に寝たらしい。
 しばらくしてから、施術を終えたジュリがそっと魔法陣から手離した。そして眠っているアルドの顔を見つめたまま、ぽつりと言った。
「ラコールミルはアミュテュスの国の別名ですね。天国と地獄を分ける関門とも……。そこにある泉で死者はまず身を清めるのだとか」
 さすが貴族育ちの少女は、僕よりも学が深いらしい。はあ、と僕は気の抜けた相槌を打っただけだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

最弱パーティのナイト・ガイ

フランジュ
ファンタジー
"ファンタジー × バトル × サスペンス" 数百年前、六大英雄と呼ばれる強者達の戦いによって魔王は倒された。 だが魔王の置き土産とも言うべき魔物達は今もなお生き続ける。 ガイ・ガラードと妹のメイアは行方不明になっている兄を探すため旅に出た。 そんな中、ガイはある青年と出会う。 青年の名はクロード。 それは六大英雄の一人と同じ名前だった。 魔王が倒されたはずの世界は、なぜか平和ではない。 このクロードの出会いによって"世界の真実"と"六大英雄"の秘密が明かされていく。 ある章のラストから急激に展開が一変する考察型ファンタジー。

時き継幻想フララジカ

日奈 うさぎ
ファンタジー
少年はひたすら逃げた。突如変わり果てた街で、死を振り撒く異形から。そして逃げた先に待っていたのは絶望では無く、一振りの希望――魔剣――だった。 逃げた先で出会った大男からその希望を託された時、特別ではなかった少年の運命は世界の命運を懸ける程に大きくなっていく。 なれば〝ヒト〟よ知れ、少年の掴む世界の運命を。 銘無き少年は今より、現想神話を紡ぐ英雄とならん。 時き継幻想(ときつげんそう)フララジカ―――世界は緩やかに混ざり合う。 【概要】 主人公・藤咲勇が少女・田中茶奈と出会い、更に多くの人々とも心を交わして成長し、世界を救うまでに至る現代ファンタジー群像劇です。 現代を舞台にしながらも出てくる新しい現象や文化を彼等の目を通してご覧ください。

アガルタ・クライシス ―接点―

来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。 九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。 同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。 不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。 古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。

まずはお嫁さんからお願いします。

桜庭かなめ
恋愛
 高校3年生の長瀬和真のクラスには、有栖川優奈という女子生徒がいる。優奈は成績優秀で容姿端麗、温厚な性格と誰にでも敬語で話すことから、学年や性別を問わず人気を集めている。和真は優奈とはこの2年間で挨拶や、バイト先のドーナッツ屋で接客する程度の関わりだった。  4月の終わり頃。バイト中に店舗の入口前の掃除をしているとき、和真は老齢の男性のスマホを見つける。その男性は優奈の祖父であり、日本有数の企業グループである有栖川グループの会長・有栖川総一郎だった。  総一郎は自分のスマホを見つけてくれた和真をとても気に入り、孫娘の優奈とクラスメイトであること、優奈も和真も18歳であることから優奈との結婚を申し出る。  いきなりの結婚打診に和真は困惑する。ただ、有栖川家の説得や、優奈が和真の印象が良く「結婚していい」「いつかは両親や祖父母のような好き合える夫婦になりたい」と思っていることを知り、和真は結婚を受け入れる。  デート、学校生活、新居での2人での新婚生活などを経て、和真と優奈の距離が近づいていく。交際なしで結婚した高校生の男女が、好き合える夫婦になるまでの温かくて甘いラブコメディ!  ※特別編6が完結しました!(2025.11.25)  ※小説家になろうとカクヨムでも公開しています。  ※お気に入り登録、感想をお待ちしております。

無能扱いされ会社を辞めさせられ、モフモフがさみしさで命の危機に陥るが懸命なナデナデ配信によりバズる~色々あって心と音速の壁を突破するまで~

ぐうのすけ
ファンタジー
大岩翔(オオイワ カケル・20才)は部長の悪知恵により会社を辞めて家に帰った。 玄関を開けるとモフモフ用座布団の上にペットが座って待っているのだが様子がおかしい。 「きゅう、痩せたか?それに元気もない」 ペットをさみしくさせていたと反省したカケルはペットを頭に乗せて大穴(ダンジョン)へと走った。 だが、大穴に向かう途中で小麦粉の大袋を担いだJKとぶつかりそうになる。 「パンを咥えて遅刻遅刻~ではなく原材料を担ぐJKだと!」 この奇妙な出会いによりカケルはヒロイン達と心を通わせ、心に抱えた闇を超え、心と音速の壁を突破する。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

『召喚ニートの異世界草原記』

KAORUwithAI
ファンタジー
ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。  ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。  剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。  ――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。  面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。  そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。  「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。  昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。  ……だから、今度は俺が――。  現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。  少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。  引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。 ※こんな物も召喚して欲しいなって 言うのがあればリクエストして下さい。 出せるか分かりませんがやってみます。

処理中です...