サーシェ

天山敬法

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第八章 帰るべき場所

88話 過ぎ去りし日の少女

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 抜けるような青い空の下で、聖樹はその光を受けて淡く虹色に光る。王城の一番高い所へ登ってその樹を眺めるのは、その城に住む人間だけに許された特権だった。
 朝起きるとメイドが既に支度をしていて、されるがままに髪を梳かれ、二人がかりで服を着せられ、鏡の前に座って髪を結われながら、顔を洗って軽く化粧をして。流れるように進行するいつもの所作の中、窓の外から見える青空を横目で見ていた。
 食事は一人でとることも多かったが、時々は家族と同じ卓に呼ばれることもあった。その時に揃う家族の面々も、父と母の他、きょうだい達の顔ぶれはまちまちだった。兄がいることは多かった。
「おはよう、グロリア。見たかい? 今日は湖が逆さまになったみたいに美しい青空だ。トレントも祝福している」
 うっとりと目を細めて言う大好きな兄様。その王女顔負けに手入れのされた美しい金髪、きりと引き締まった目尻、だけど鋭さの欠片もない穏やかで慈しみに満ちた微笑み、そよ風のように柔らかい声が紡ぐ唄うような祝福の言葉。どんなおとぎ話になってこんな美しい王子はいないだろう。
 食卓に兄様がいるということは、その護衛の少年もぴたりと彼に伴っている。その顔を見るのも皆で食事を取る時のひそかな私の楽しみだった。
「おはようございます、パウル兄様。今日は日の高いうちに塔に登りましょう?」
「朝一番からその話? すっかりあの場所が気に入ったみたいだね。私は午後から学会に顔出しの予定があってその準備が……」
「まあ、また学会ですの? お勉強がお好きですのね兄様は」
「真似をしろとは言わないけど、君ももう少しは魔法学を学んだ方がいいと思うよ、グロリア。大人しすぎるよりはお転婆なぐらいがいいけどね……」
「その言い方は失礼でなくって? わたしだってシニン系統の魔道文字は全て諳んじていますのよ」
「それは戦闘魔術の訓練じゃないか? まあ、カディアル家に嫁ぐのなら大事な教養には違いないかもしれないけどねえ? ジャック」
 兄様が悪戯っぽく護衛に笑いかけると、彼は無表情のまま少しだけ眉を寄せて目を逸らした。
「御冗談を……姫君に武術の作法など不要です」
「でもまあ、確かに良い天気だ。ジャック、悪いけど食事が終わればライナスを呼び出してくれ。準備は彼に任せて、たまには可愛い妹と時間を過ごすことにしよう。父上、構いませんか」
 兄様はそう切り替えて、食卓の奥にいる父王へと声をかける。年若くしてすっかり自分の予定を仕切って見せる王太子に、父もそう多く口出しすることはない。彼は苦笑いを浮かべながらも頷いていた。
「ジャック、もちろん君も付き合いなよ」
「仰せのままに」
 ジャックは眉一つ動かさずにそう答える。それを見て私はにやりと笑って見せるのだ。
「クラウス様がいらっしゃるのでしたら、剣の稽古をつけていただきたいわ。兄様とわたくしの分も持ってきてくださる?」
 私がそう口を挟めば、兄様もジャックも呆れたように眉を寄せる。
「ですから姫君に武術など不要だと……。殿下からももう少し言って差し上げてくださいませんか」
「私は女性の自主性は尊重する方針でね……。だけどグロリア、せめて剣じゃなくて魔法にしないか? 君のその美しい手が筋肉で太るのを見るのは忍びない」
「そういう問題ではないでしょう、まったく……」
 私達のそんなやりとりを、父も母も半分呆れて眺めていた。穏やかで美しい、幼い頃の日々……。
 瞼の裏で眺めていたそれは、やがて砂塵を伴った血の臭いの中に沈んでいく。

 どれほど眠っていただろうか。物音を聞いて目を覚ますと、暗い視界の中にはくすんだ木造の天井が映る。夜なのだろう、部屋の中をぼんやりと照らしているのは魔法の懐中灯一つだけのようだ。
 少しだけ首を動かして周囲を見回すと、傍らには眠っているのだろうか、座り込んだまま目を閉じているジャックの姿があった。
 聞こえた物音は、扉が開いた音だった。そちらを見ると、ローブについたフードをすっぽりと被って顔を隠した男が、ちょうど部屋に入ってきた姿がある。
 床の上に横たわっている私を見下ろす彼の青い目と、それを下から見上げた私の視線が重なったのが分かった。
「グロリア、調子はどうだ? 痛みは?」
 その声を聞いて兄だと分かる。私はぼうっとした眼差しで彼を見つめた。腹の真ん中にずしりとした痛みは残っているが、それを答えるために息を吸うのも億劫だった。
 パウルの声を聞いて、ジャックもすうと目を開いたのが分かった。
「まあ、顔色を見た感じ大事はなさそうだな。とりあえず、しばらく何も口に入れてないだろう? 食料と、あと薬を持ってきた。痛むかもしれないが少し体を起こすぞ……」
 持ってきた荷物を開けてから、パウルはそっと丁寧な手つきで私の体を支えにかかる。それによりかかりながら、痛む体をなんとかゆっくりと起こした。
 彼の腕に、その温もりに手を触れた瞬間、胸の中にどっと熱いものがこみ上げてきて、思わずその胸に飛び込むように顔を埋めた。
「にい、さま……」
 呼びかけた声は自分でも驚くほどにか細い。その背をパウルは抱きしめて、無理をするな、と優しく囁きかけてくる。
「……まったく、ズミで会うたびにお前は怪我をしているな。もう少しどうにか……ならないか。命があるだけ感謝しよう。神聖なるトレントの加護に……」
 呆れたように言う言葉は、しかし穏やかだ。そのひとつひとつを飲み込んでから、私はどっと息をついた。……確かに命があるだけで奇跡的だ。
「……自分でも今度こそ死んだと思ったわ。ええ、生きてるの? 兄様が助けてくださったの? というかジャックまでどうして……、そもそもここはどこ……」
 状況を掴めないまま、私の口からはしどろもどろに言葉がこぼれ出ていく。パウルは私の背を支えたまま、仕方無さそうにため息をついた。
「私達が見つけた時には既にお前は重症だったが……、今はズミ軍にジャックともども投降している。腕のいい治療師がいてお前はかろうじて助かった。ここにいれば刺客もそうそう近付けはしないだろう……」
 パウルの語った内容にはさすがに驚いて、しかし大声を上げる体力もなく私はただ唖然とした。
「ズミ軍に投降……? ジ、ジャックまで?」
 黙って座っているだけのジャックも、少し苦そうに目を細めた。動かないなと思ったらどうやら腕を拘束されているらしい。
 ……フォス・カディアルの騎士のそんな体たらくを目の当たりにして、私はかける言葉も失ってしまう。それも私の命を救うため……。
「幸いこの軍の指揮官は話が分かる男だ。私も以前からここに籍を置いているから……ただちに殺されることはないだろう。後のことは正直何も分からんが、とにかく今はお前の怪我の治癒が最優先だ」
 告げられた状況は次第に重くのしかかっている。……ああ、とうとうこんな事態にまでなってしまったか、と。
 もう王室のことも国のことも、家族のことさえ望みはしない。ただ死にたくない、生きていたいというだけのことがどうしてこうも難しいのだろうか。
 パウルに背中を支えられながら、差し出された水やパンをとにかく口に運ぶ。そうしている間に、ジャックが重たく口を開いた。
「……いい加減に言え。お前はなぜ、いつからズミの反逆者共に加担していた」
 その声にはまだ憎悪が滲んでいる。パウルはそれを見て、無表情のまま静かに息を吐く。
「私がトレンティアで処刑されたのは十五年も前だ。それだけの歳月があれば人はどうにでもなるさ。よりによってギルバートが始めた戦争に、私が愛国心を発揮する義理などないことぐらい分かるだろう」
「神聖なるトレントを敵にしてでも、か」
 ジャックはなおも問う。二人は重く問答を続けた。
「トレントを害しているのはギルバートの方だ。こともあろうに戦争に聖樹のマナを使うなんて……トレントの血族の風上にも置けない逆賊が……」
「そう思うならばなぜ俺を助けた」
 言葉を被せるようにして言ったジャックの声に、パウルの目はしんと冷めていく。
「……助けるつもりなんてなかったさ。オーデルで会うと分かったその時から……、お前のことは殺すつもりでいた。ズミの兵士として武器をとった瞬間からさすがに覚悟は決めていた……だがジャック、グロリアを盾にするのは卑怯じゃないか?」
 最後だけ少し口調を軽くした彼の言葉は、ジャックの騎士としてのプライドを著しく刺したことだろう。彼はただ険悪な目でパウルを睨み返した。
「……まあ、お前の言うことは正しいよ、ジャック。覚悟を決めたというのなら、妹ごとあの場でお前を斬り殺すべきだった。筋が通っていないのは私の方さ。それは今の状況でも言えることだが……」
 薄く笑みを浮かべながらパウルは言う。……こうしてじっくりと言葉を交わすのは本当にそうだ、十五年以上ぶりになる。変わり果てた兄の姿を見て、今は深く嘆くだけのものもない。
 大好きな兄様、美しい金髪も今はただ乱暴に束ねられているだけで……、きりと引き締まった目尻は変わっていないけど、そこに浮かぶ表情は深く淀んだ感情を抱いている。そよ風のように柔らかい声はそれでいて殺意の言葉を紡ぎ、他でもない故国の民の血をその身に浴びている……。
「お前が望むのなら、この場で殺してやってもいい。敵に降ってまで生きながらえるよりもと望む高潔な騎士ならばな……、せめて私の手で逝かせてやるのが情けというものだろう」
 平然と言うその言葉は、だけど本気ではないはずだ。ジャックは険悪な顔で彼を睨んだまま黙っていたが、やがてふいと視線を逸らしてしまう。
「私とて既に陛下を裏切っているも同然だ。筋は通らんな、お互い様に」
 吐き捨てるように言う。……変わり果てたのも、お互い様なのだろう。パウルはころりと表情を軽くした。
「それなんだが……、私にも状況を教えてくれ。ガブリエルの聖血の儀の時、今もなおもしぶとく父上を支持する一派というのが反乱を起こしたことは聞いている。グロリア、その容疑はお前も被っているのだろう? それがどうしてズミで暗殺を狙われたりしているんだ。それをドミニクのジジイ……あいや、フォス・カディアル家はどういう姿勢で受け取っている?」
 そんなことを言い出した彼に、驚いて視線を向けたのは私もジャックも同じだった。今までずっと死んだものと思っていたのが突然ズミで見つかったのだ、死人のように生きていたのかと思えば、存外に新しい話も把握しているらしい。
 眉間を押さえながら私が口を開いた。
「父様を支持する一派、と言われているけどそれもほとんど方便よ。実質的な指導者はデボン家で……エレオンやヘルフェンとの対立は兄様がいた頃のものがそのまま続いていると思ってもらっていいわ」
「まあそんなところだろうとは想像していたが……。それでお前はギルバートとデボンの間で揉まれまくっていたと……」
「腹立たしいけどその通りね。聖血の儀に反乱を実行するなんて、私だって直前まで聞いていなかったわ。止めようにも止められないし、既に情報はヘルフェンに漏れていたみたいだから勝ち目もないし、処刑される未来しか見えなかったから全部投げ捨てて逃げてやったのよ。だけど私がズミに渡ったって話もすぐバレちゃって、まあ真っ先に私を捕まえてくれたのがジャックだったのがまだ幸いだったかしらね」
 ため息交じりに言うと、ジャックも気だるく口を開いた。
「エレアノール様の暗殺を指示したのが陛下本人なのか、ヘルフェンの筋の者かははっきりしていない。妙な話だが、エレアノール様がズミに渡ったことが私に伝わったのは、軍の司令部を通してではない、弟からの私信だった。そこからクラネルト家に協力を仰いで、エレアノール様の居場所を突き止めた」
 パウルがぱちと視線を上げる。
「クラネルトっていうとラファエル・ロードか。あいつは本当に目ざといからな……ズミの各地に現地民で構成された独自の私兵を抱えていて、ズミでの情報を掴むことについては本軍よりもよっぽど早いだろうさ。恐らくあいつが見つけなければ、グロリアがこっちに逃げてきたこと自体公にしないまま、どさくさに紛れて消すつもりだったんじゃないのか?」
「……だとすれば、ズミ戦線が膠着している状況でカディアル家を刺激したくないという意図があったのだろう。だが私が把握してしまった以上、表向きにはエレアノール様は正式に軍で保護し、本国へ帰ってからその容疑を審議にかけられるのが筋になる。私は身内としてその責任を負って……だが国へ帰せば処刑されるのも目に見えていたからな、軍の任務を口実にしてエレアノール様を従軍させてお守りしていた。父上にも根回しは依頼しているが……」
「暗殺が迅速には済まず、ジャックと合流されて敵も焦ったみたいね。とうとう王権を介した本軍への圧力がかかって、私に帰国命令が下った、というのが今回の経緯よ。少なくともギルバートも暗殺計画を知ってはいるでしょうね」
 どろどろと渦巻く策謀の意図は、話しているだけでうんざりとしてくる。しかしもはや私達は若くない、そんな言葉に蝕まれていくことに、誰もが慣れきっているようだった。
 なるほどな、と呟いてパウルは床に視線を落とした。そんな彼を、ジャックはじろりと疑うように見つめる。
「やっぱりお前、言ってないことがあるだろう。この十五年間、一体どこでどう過ごしていたんだ。なぜ聖血の儀まで……そんな最近の話まで知っている」
 パウルは肩を竦めて見せた。
「十五年間分だ、当然話せば長くなる。これからはしばらく一緒にいることになるんだろうし、ゆっくりと埋めていこうじゃないか、なあ?」
 歳をとったせいだろうか、それともズミの風土に揉まれて擦れてしまったのだろうか、随分性格も変わったように感じる。
 本当に本物なのだろうか……そんなことをぼんやりと思ってその顔を見つめた。まだその手は私の背を優しく支えている。
 歳はとったものの顔や声は同じだし、何よりトレントの血門術を使っているところを確かにオーデルで見た。偽物ということはない。
 だけど……不思議な感覚だ。オーデルの戦いから何度も夢ではないかと疑うほどに噛み締めた。大好きな兄様は、やっぱり本当に生きていたんだ、と。
 そんな私の顔をパウルも間近から見下ろして、ふと思い出したように神妙な表情を浮かべた。
「それよりも私には言いたいことがある。……グロリア、お前がカディアル家の嫁に行ったという話は聞いたけどな……なんでジャックじゃなくてドミニクなんだ!? 子どもの頃からお前達の婚約はほとんど決まっていたじゃないか!」
 かっと怒りの表情を浮かべたのは、しかしパウルだけでなくジャックもだった。
「お前のせいだろうがイグノール!」
「俺!? 何かした!?」
「お前が王室から逃げ出したせいでエレアノール様の立場がどれほど苦しいものになったのか想像もできないのか!? そのせいで俺達の婚約は破談になったんだ!」
「うっ……、いやしかし、だからってよりによって父親の後妻にならなくてもいいだろ!? 夫婦の予定が義理の親子って……!」
「他でもない陛下のご意向だ、飲まざるを得なかった父上の心中も察して余りある……!」
 途端にぎゃあぎゃあと騒ぎ出した男二人の声に、私は頭が痛むような思いがする。……もはや全ては済んでしまったことだ。
「……まあ、幸か不幸か……、そのせいで同家人には違いないから、ここまで私の命が持ったってわけだけど」
 私がそう言うと、二人とも神妙な顔に戻って静かになった。私とジャックが親子でなければ、刺客から逃れるために従軍したとて、他でもないフォス・カディアルの騎士をここまで近くに侍らせることはできなかっただろう。
 パウルは苦そうに顔をしかめた。
「……じゃあジャック、お前結婚は……?」
 負けじとジャックも顔をしかめる。
「俺だって嫡男なんだ、しないというわけにもいかないだろう……。適当に見繕……いや、ベイリー家の令嬢をもらった」
「酷い言い草だが本当に適当だな。エルフィンズからベイリーに鞍替えとはカディアル家も落ちたもん……いや悪かったって睨むなよ。子どもは?」
「息子が二人いる。今頃はフォリストルで……」
 やがて二人はだらりと覇気を失い、まるで世間話をするように語らい始めた。敵国の地で捕虜の身となりながら交わされる同窓会とは……皮肉なものだ。
「息子二人とは私と同じだな。ベルタスに帰ったらどっちの子が強いか勝負しよう」
「ふざけるな……。というかお前の息子って、ズミの王女との間には一人だけだっただろう、逃げ出した後にまた結婚したのか?」
「え。ああ……、うーん、じゃあそういうことにしとこうかな……」
 のんきに言うパウルを見て、私が呆れて口出しをしてやる。
「ヘルフェンの妃との間にもいたでしょ……。公にもされないまま抹消されたみたいだけど、あの子生きてるの?」
「こないだ調べたらブランドルの孤児院にぶち込まれてたけど、まあ生きてはいた。当然聖血は受けていないし本人も親のことは聞かされてなかったようだが……、私に似て聡明な子だ」
「ふん……だが結局お前が生き場所に選んだのはズミだったということか。ヨンとか名乗っていたな、あれが生きているとは正直思ってもみなかった。しかもあいつはトレントの聖血を受けていると……」
 クラウスが重たく言ったのを聞いて、私はその少年の顔を思い出した。……まさかあの時偶然出会った少年が、よりによって兄の息子だったなんて……いくら混血が珍しいと言ったって思いもよらなかった。本当に奇妙な因縁もあったものだと思う。
 パウルは特に返事もせず、静かな表情で人差し指を口に当てて見せた。
 王位の継承を巡って大問題となる“聖血”の有無については今の王にはデリケートな話題だ。パウル・イグノールが生きていたというだけでも大事件だというのに、更にその元には既に聖血を受けた男子がいるとなると話は余計に面倒になる。
 さすがにこの場所で聞き耳を立てているようなトレンティアの手の者はいないと思うが……。そう思ってちらりと周囲に視線をやると、ジャックもにわかに真剣な表情を浮かべていた。
 すぐに、パウルが人差し指を立てた意味がどうやらそういうことではない、ということに気付く。小さな窓から見える空を見るに、とうに時刻は夜中だ。そんな中、私達だけが閉じこもっている建物の外で小さな物音がする。

 何の音か、は判然としない。人がごそごそと動く音というのが近いだろうが、何か様子がおかしい……そんなことを思わせるのは、パウルとジャックとがぎらりと緊張を張り詰めているからかもしれない。
「グロリア、自分で立てるか」
 パウルは私の耳元に口を寄せて囁いた。その声にただならない気配を感じて、私は頷くしかなった。まだ腹は痛むが、ただちに倒れてしまうような感じはしない。
 私が頷いたのを見て、パウルはそっと私の体から手を離した。すぐに素早い手つきでローブの内側をまさぐり、小さなナイフを取り出した。
 何かと思えば、黙ったままそれでジャックの腕を縛っていたロープを切って解いてしまった。
 ジャックは小さく息を呑んだが、すぐにパウルの意図を悟ったように頷き、外套の内側に隠すように挿していた魔剣の柄を握り締める。
 やがて小さな窓の外から、静かにざわめくような音は近付いてくる。それは小さな音がいくつも重なっているような様子……そしてそれが建物の至近へと近付くにつれ、その緊張感はぞっとするほどに増していった。複数の人間が一斉に動く音だ。
 そして唐突に、緊張がはち切れたように、その来訪者は乱暴に扉を押し開けて入ってきた。
 暗い空を背景に、彼の奥には火の松明を持った者がいるらしい、暗闇に慣れた目には眩しいほどの逆光の中、その男の顔ははっきりとは分からない。ただ、武装をしたズミ人の男らしかった。
 彼は何を言うでもない、ただ全身から溢れ出んばかりの殺気を以て私達に相対する、事実はそれだけで十分だった。
「勇猛なるフォス!」
 ジャックは小声ながらに強く、あるじたる神獣の名を呼ぶ。同時に抜いた魔剣の刀身には既に銀色の魔力の光が迸っていた。
「ジャック、抵抗は構わんが殺すな、ただの一人も!」
 パウルは荒っぽい声で叫んでいた。ジャックが舌打ちをしたのが分かった……次の瞬間には立ち上がった彼が、狭い室内で人間を避けながら苦しそうに剣を振っていた。
 そこに走った魔力の牙は、建物の壁と屋根の隙間の窓の辺りを喰らい、それを破壊し、細かく散った木片でむっと視界が煙る。
 それに敵が怯んでいる間にも、パウルも魔法を展開していた。彼は両手を突き出してソル・サークルを浮かべる。そこに現れた魔導文字の緻密さはこの緊迫した中でも目を疑うほどだ。十五年の間に、相当に戦闘魔術の腕も上がっている。
 そこに発されたのはありきたりな炎魔法とは少し違う……、それを基礎にしながら、岩のような、何か硬いもののイメージが強く混ぜ込まれた魔術のようだった。そしてその方向は押し入ってきた敵とは真逆の、背後。
 硬く鈍い感触の爆炎は私達の背後にあった壁をこれもまた激しく破壊し、そこに嵌められた板材を引き剥がすようにそこに穴が開く。
 そんな騒ぎの中、混乱したように声を上げたのは敵のズミ人らしかった。
「おい、拘束してるって話じゃなかったのか!?」
「魔術師の野郎が解いたんだろう、やっぱり裏切り者だったんだ!」
 そんなやりとりを耳に引っ掛けながら、しかし今はのんびりとしている暇もない。パウルに促され、私達は三人ともが背後に空けた壁の穴から外へ滑り出した。
 複数の人間が襲撃にきている様子だったが、真後ろまでは包囲がなかったらしい、敵は間近にはいない。彼らと距離をとりながら、しかしパウルも一旦はその場に踏みとどまって周囲を窺う。
 私を庇うように手を広げながら立って、小屋の方を振り向いた。それを見て更に手前でジャックも立ち止まる。
「穏やかじゃない訪問だが、俺は何も話を聞いてないぞ! これはモルズの決定か!?」
 パウルはそう暗闇の向こうへ声を投げて問う。
「うるせえ! 隊長がどう言おうがトレンティア人なんか部隊に置いて許せるわけがねえだろ! ここで殺してやる!」
「金髪野郎がでかい顔しやがって! 卑劣な裏切り者!」
 当然、返ってくるのは到底対話にもならない憎悪の言葉ばかりだ。
 しかしジャックの拘束を自ら解き、壁を破壊している時点でパウルにもその気はないのだろう。ふっと零れた息は、どうやら不敵に笑ってさえいる。
「やっぱりまあこうなっちまうか……。逃げるぞ! グロリア、魔法撃てるか!? 矢に備えて防御陣の準備しとけ!」
「逃げるって……ええっ!?」
 思わず叫ぶように上げた返事はしどろもどろになった。
 詳しい状況は分からないが、私とジャックは捕虜となったはずで、しかしパウルはもともとズミ軍で部隊員として戦っていたというのだ、当然立場は違うはずで……それが逃げるというのは、つまりどういうことだ。急なことで頭の整理もつかない。
 混乱している余裕も無い。言われるがままに物理障壁の魔術を空に浮かべた。間一髪、すぐに放ってきていたらしい敵の矢がそれにぶつかって落ちていく。暗がりの中、目視をしてから対応している余裕はない……、防御陣を転々と連ねるようにして張りながら後退しなくてはいけなかった。
「奴ら、私ごと殺す気だ……当然話も通じない、一旦離れるしかないだろう! ヤーナン!」
 その呼びかけに振り向くと、やや離れた茂みに一頭の馬が繋いであるのに気付いた。どうやらパウルの馬らしい、その手綱を取って引き、私へともう片方の手を伸ばしてくる。
 その間にもジャックは一番前に出て魔剣を振る。相手は魔法も使わない、遠距離攻撃は弓矢だけだ。その防御を私が補い、彼は牙の魔術で地面や周囲の木々の枝をやみくものように吹き飛ばして敵を牽制しているらしい。
 パウルは颯爽と馬の背に跨ったが、なおも私に手を伸ばしてくるのを見るに、後ろに乗れということだろう。
 二人乗りはやや不安だったが、迷っている時間もなかった。まったく、国にいたころから励んでいた乗馬の訓練が役に立つ日がくるとは皮肉なことだ。
 私を馬の背の後ろに座らせると、パウルはすぐにその馬を駆けさせた。まだ背後ではジャックが魔剣を振っている様子だが、それは振り返りもせずに置いていく。示し合わせたことは何もないが、まあ、きっと後からついてくるのだろう。
「馬なんてどこで……」
 私は激しく揺れる馬上で兄の背にしがみつきながら呟いた。蹄が地面を叩くたびに、体の中の傷にずしりと響いてきて苦しくて仕方がない。
「トレンティア軍から奪った軍馬だ」
 パウルは短く答えるが、そういうことではない。こんな夜中に突然始まったはずの逃亡劇だというのに、なぜこうも都合よく馬が近くに繋いであるのだ。
 考えてみれば先程パウルは「やっぱりこうなっちまうか」と呟いたのだ。……彼はそれを始めから予測していたというのか。
「恐らくだが彼らも一枚岩じゃない、私の振る舞いに我慢できなくなった連中が隊長の命令も聞かず先走ったのだろう。一度巻けばそうしつこくは追ってこない……と思いたいな」
 パウルの語る声は妙に軽々しく、こんな状況だと言うのにのんきにさえ感じられた。
 二人を乗せた馬は力強く地を駆けている。相手に騎馬兵はいなかったように思うから、距離を引き離すのにもそう時間はかからないだろう。
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