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第八章 帰るべき場所
95話 再び会う世界
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その戦いが去った後、私達は揃いも揃って疲労困憊だった。
フェリアとウィルという魔道人形を相手取って、魔力の節約なんて一切言っていられなかったのだ。命があっただけでも奇跡的とさえ思える。
……本当に生きているのか。そんなことを思ってじっと自分の両手を見つめる。まだ腕の付け根に残った鈍い痛みが、激しく生を主張しているようだった。
しかし当然魔力はほとんど底をついた。血門術によって失われた血は、多少はヨハンの回復魔術に巻き込まれたことで回復したようだ。しかし歩けば頭がふらつく程には貧血だ。
腕の傷も、グロリアのために持っていた治療薬の余りでなんとか応急処置は施したものの、まだずっと肉の奥が引っかかっているように痛む。
目の前に広がる景色は、かつての王宮の庭園……今は廃墟と化し、その上で勝者の風格を現していたのはただ勇壮な自然ばかりだった。
しかしその風景をも一瞬でまっ黒焦げにしてしまったのはウィルの魔術……、割れた地面の奥まで真っ黒だ。
そんな惨状を、既に太陽が沈んだ濃藍の空の上から大きな月の光がゆったりと見下ろしている。
ひと気のない廃墟の中とはいえ、こんな派手な戦闘を起こしたのだ、近辺に張っていたトレンティア、ズミ両軍の目に止まってもおかしくはない。
その視線から逃れるようにして私達は王宮跡の柱の陰に身を寄せたが、それ以上は動けないほど誰もかもが疲れ果てていた。
私は言わずともがな、ジャックとてウィルとの斬りあいには当然無茶苦茶な量の魔力を放出したらしく、今は膝を立てて座り込んだ姿勢でぐったりと項垂れている。ぴくりとも動かないところを見るに、そのまま眠っているのかも知れない。
グロリアなんてもともとの怪我が全治していないくせに、一丁前に出てきて魔術を振るっていたから、疲れたことだろう。
……女性の自主性は尊重するのがモットーではあるが、さすがにあの戦いの中で血門も持たないのに飛び込んでくるお転婆はいかがなものかと思う……。今は同じくジャックの隣で、その身に寄り添うようにして膝を抱えている。
そして私達の絶体絶命の危機、その局面に助けに来たかと思えばヨハンもすぐに倒れてしまった。
……思い起こせばジャックの報告では、今日の内にトレンティア軍と交戦して、思う存分魔剣を振るいまくっていたという話だ、そこからの連戦で乗り込んでくるなんて、やはり血の気が多いなんてものじゃない。このバカ息子が、と胸中でだけ悪態をついてやる。
壮絶な戦いのさなかにあった私達の元へ駆け付けて、ヨハンがやったことは……、よりによってこの私の攻撃魔術の陣を横から盗んでまで起こした、巨大な回復魔術だった。
血を失っていた私も、そしてウィルの攻撃を受けていたジャックも、その場でたちまちに癒えてしまった、ただそれだけだった。彼は魔剣を一振りもしなかった。そのたった一回の回復魔術に彼は残っていた魔力を全部使ってしまったと言うのだ。
なあ、助けに来て咄嗟にやることがそれなのか。そんなことを思って私は、あどけない顔で寝落ちてしまった我が子の顔を覗き込む。
柱に預けていた背は見るうちにずるずると床の上にずり落ちていっている。見かねてそっとその背に手を回すが、魔力を使い果たして深く眠っているのだろう、体に触れても目を覚ます様子はなかった。
そのまま自分の腕の中に抱いて一緒に眠ってしまおうか、なんて気持ちも起こってくるが……、さすがにもう十六にもなる息子への接し方ではないか、なんて思い直す。冷静になってその体を床の上に横たえてやるだけで手を離した。
力尽きた人形の片付けもせねばならなかったが……いかんせん誰もが疲れ果てている。夜も更けていくことだし、どうか一晩だけでも休ませてほしい。
誰にともなくそう許しを請うて、しかしその人形の体が間違っても人目に触れないよう、瓦礫の陰へと押し込める作業だけは力を振り絞る。
それだけに疲れていたものだから、その人影が顔も分かるほど近くまで、ひっそりと近付いてきたことに私は全く気付けなかった。
闇夜に紛れるようにして忍び寄っていた足音を聞いて、私は思わず、繕いもせずに驚きの声を上げる。
「うわあ!」
私の声に驚いたのは相手も同じだった。そして膝を立てて座り込んでいたジャックもびくりと反応して魔剣の柄を握ったのが分かった。
「うわ、待って! 敵じゃない!」
そんな間抜けな声を上げた来訪者は、たった一人のズミ人だった。
その出で立ちは鎧も着ず、目立った武器を持っている様子すらない……、夏用の薄着だけを着た、場違いな程の一般市民がそこにいた。目を白黒させてよく見ると、知った顔だった。
当分床屋に行くのを怠っているのか、というほど不精に伸びた髪はしかし手入れはしているのか変につややかな……、線の細い美青年、と言うには少し歳を食った男。名前をリョドルと言った。
それを確かめて、今にも剣を抜こうとしていたジャックへ手だけで制止をかける。
「……なんでお前がこんな所にいるんだ」
呆れたような声をかけると、リョドルはむずかゆそうに唸りながら目を泳がせた。
「いや、まあ、実は。ここに大事なものを置いているものだから、戦火に巻き込まれやしないかとハラハラして、ヨハンに無理を言って偵察兵に混ぜてもらっていたんだよ。来てみればなんかすごい戦いしてたみたいだけど、終わったと思っていいのかい?」
彼ののんきな声を聞いているとそれだけで気が抜ける。私はがくりと項垂れてため息をついた。
「たぶん、一旦はな。まだトレンティア兵が近くにうろついてる危険はあるから油断はできない、まだ戦地だ。よくもこんな所へ出てきたな。よほど大事なへそくりを隠していたのか?」
「まあ、そうだね。君こそ、なんか部隊で揉めて出てったって聞いたけどこんな所まで来ていたのか。トレンティア軍に移ったって感じではなさそうだね」
相変わらずのうのうとした調子で言う男の顔を、私はじっと睨みつけた。
……この王都ラズミルで、崩壊以前は神官だか薬師だかをやっていたらしい……恐らく特殊な立場の者だったのだろう。しかもたった今決着を付けたミョーネに近しいところにいたはずだ。
その彼がよりによって今この場に現れたことにはどうしても意味を感じ取ってしまう。
「私としては君がどっちの国の味方だろうと、大した関心はないけどね。ラズミルの王宮に来るのも随分と久しぶりだろう? 道が分からないなら案内してやるから来なよ」
リョドルはそんなことを言ってふいと歩き出した。思わず、はあ? なんて乱暴な相槌が零れる。
「観光案内なら後にしてくれ、俺は疲れた……」
私は床に下ろした腰を上げもせず言った。
へそくりの位置でも教えてくれるつもりなのかもしれないが、生憎自分は疲れ果てている。金銀財宝があろうとズミの魔道書庫があろうと動く気にはならない。
リョドルはそんな私の疲労具合を気付きもしないのか、きょとんとした顔で振り向いた。
「後にって……、ミョーネの墓参りのために来たんじゃなかったのか? まあ、疲れて立てもしないなら無理にとは言わないけど」
その言葉を聞いて、思わず表情が凍った。……ミョーネの、墓参り?
リョドルは近くの瓦礫の陰で寝ているフェリアに気付いてもいないだろうか、気付いたとしても魔道人形などを見て何を思うだろうか。
……いやそもそも、あの人形の存在をこの男は知っているのだろうか。考えてみれば晩年のミョーネを知っているはずのこの男には聞きたいことがいくらでもある。
だけど、確かにそうだな、なんて言葉は口には出さない。私は重たい腰をゆっくりと上げた。
「……いや、行く」
そう呟くように言うと、リョドルは何を言うでもなく頷いた。
後ろでは同じく疲れ切った様子で、しかしなおも気丈に立ち上がったジャックがびしと背筋を伸ばした。そのまま当然のように私達に伴ってこようとするのを見て、リョドルが気まずそうに振り向いた。
「あ……、申し訳ないけどパウルだけで」
「なぜだ」
当然ジャックは不服そうで、ぎろりと眼光で刺すようにリョドルを見下ろす。
疲労のあまりに血走った目の軍人に睨まれてリョドルの顔は青ざめたが、しかしおどおどとしながらも答えた。
「王族の霊廟は特別で、家族しか入っちゃいけない決まりなんで……。まあ、家族が認めた者ならいいことになってるから、パウルが良いと言うのであれば構わないけど……」
そう語ったのを聞いて、私はジャックと顔を見合わせた。
墓場に立ち入る者に資格が問われる理由はよく分からないが、もともと私達は外国人である。そこには理解の及ばない宗教的な文脈があるのだろう。
この地にきて、ズミ人である妻の墓に参るのだ、その文化を軽んじるようなことは避けたほうがいいだろう……。
「私だけで行ってくる。お前はグロリアとヨハンを見といてやってくれ」
そう短く命令をすると、当然彼はびしりと背筋を伸ばして頷いた。彼も疲れているのだ、主人の妻の墓参りにまで護衛で付き合わせては悪いという気持ちもあった。
そう話をつけ、私は先に歩くリョドルの背中を追って進み始める。
ラズミルの王宮の敷地に入るのは初めてではないが、大昔にトレンティアの王子として接待を受けただけである。今や廃墟と化したこの宮殿を見ても、どこが何の区画なのかさっぱり見当もつかなかった。
吹きさらしになった建物の中にもびしりと苔や雑草がむしていて、どこから庭なのかも判然としないが、ともかくそんな宮殿と庭園の曖昧な道を進んだ先に、その霊廟というものはあった。
私とてズミに来てから十年以上も経っている、墓地の風景ぐらいは見慣れたつもりでいたが、王族の墓というのは庶民のものとは全く違うらしい。
トレンティアでは王族だろうと貴族だろうと、せいぜい敷地や墓石の格が違うぐらいだが、ズミのそれは……、墓そのものが一つの宮殿のような建築物の様相だ。
「これが墓?」
私は気の抜けた感想を言った。
当然住居ではないから、宮殿と言っても建物は小さい。中に入り込めるのはせいぜい大人が五人程度というところだろうか。
しかし壁も天井も全てが石造りで頑丈に囲まれ、そこにズミらしい文様やら、たぶん神か何かなのだろう人物を象ったレリーフなどが……、やはり蔦に覆われてはいたが、施されている。
それが歴代の王族の人数分あるのか、さすがに複数人纏まって祀られているのかはさだかではないが、周辺には大小の違いこそあれ、似たような建物が並んでいる様子だった。
その中にも倒壊したまま打ち捨てられているものもあるし、その隙間に草木が生え放題なので夜だと全域の広さはいまいち分からない。
リョドルはひとつの宮殿の手前で立ち止まって頷いた。全部が石造りのものだから、たまたま火の玉が直撃したというもの以外は焼けることもなく残っているのだろう、ミョーネの墓も幸いに無事らしい。
「ああ、ミョーネの墓だよ。さあ殿下、どうぞ中へ」
仰々しく言うのは皮肉なのかはたまた真面目なのかは分からないが、それは無視しても、私は思わず顔をしかめてしまう。
ほとんど密閉されているような石造りの建物の中だ、夜でなくても中は真っ暗だろう。こんな狭くて暗い場所に入らねばならないとは、ズミの墓参りは難儀である。
仕方なくジャックから借りている魔法の懐中灯に明かりを付け、背の低い入口からやや背中を丸めて中を覗き込んだ。
「そんなあかあかと明かりを……」
リョドルが戸惑ったように言ってくる。中に入る前に振り向いて私はため息をつく。
「明かりも駄目なのか? 俺は外国人なんだ、勝手が分からん。お前案内しろよ」
「ええ……? いや、普通は燭台をひとつだけ持ち込むんだけど、今は蝋燭なんてないし……無明が嫌ならまあ、それでもいいよ。案内しろって言われても私だって彼女の家族ではないんだから、さすがに中には入れないし」
戸惑っているままの声を背中に聞きながら、ともかく私は中の様子を見渡した。
……ひとことで言えば伽藍洞だ。何も置物がない中、石造りの床や壁に薄く彫刻がなされているだけだった。
その彫刻もほとんどがズミの古代文字が並んでいるだけで、現代語ならともかく古語になるとさすがに私にも読めない。床には何か四角い図形がいくつか書かれているが、それも何を意味するのか分からない。
恐る恐る中に足を踏み入れると、入口よりは高い天井の下で背中を伸ばすことができた。
しかし何も無いその空間の中で佇んでみたところで何が何だか分からない。墓、と言われてもいまいちピンとこなかった。遺骨は地面の下なのだろうか。
きっとここで祈りの言葉を言うのが正しいのだろう、アミュテュス・サーシェ、と。だけど十年以上この国で暮らした私にも、その祈りの言葉はすらりとは出てこない。
……それは私にとっては、傭兵として渡ってきた戦場で、絶命していく敵を見送るときに皮肉って飛ばす憎悪の言葉でしかなかった。
他でもなくズミを侵略した国の王子が、死者を心から悼んでアミュテュスの名前など口にできるものだろうか。だからと言って神聖なるトレントの名前を呼ぶには……あまりに皮肉が過ぎる。つい先程刃を交えた、フェリアの口から出てきた彼女の言葉がまたふつふつと蘇ってきては私を苛んでいく。
……自分はここにいるべきじゃない。祈りの言葉さえ口に出ない不甲斐ない夫を、彼女はきっと許さない……。私は静かに入口の外を振り向いた。
「家族が認めたらいいんだろ、入れよ、リョドル」
縋るように、後ろに控えている神官を呼んだ。しかし彼は大人しく従うこともしないらしい。
「いいんだろ、って……、君、霊廟に立ち入ることの意味を理解してもないだろう」
そんな渋そうな返事だけが返ってきた。私は足元に視線を落として、沈んでいく感情をだらりと吐き出すように息をついた。
「ああ、分からん。だから俺だってたぶん、ここに入るべき人間じゃないんだ。……教えてくれよ、リョドル。お前はズミ人だし、神官だろ、きっと死者を慰める言葉だって知ってるだろう。それに、それまでどんな経緯があったにせよ……、最期にミョーネの近くにいたのは俺じゃなくてお前だった、んだろ。だから……」
自分でも纏まらない言葉は、途切れ途切れに零れていくようだった。自分自身から零れ出た言葉に押されるように、何か分厚いものが胸からこみ上げてくる。
……このリョドルという男がミョーネとどれほど深く関わっていたのかは、夫としてはあまり想像したくはないことだった。だけど彼はミョーネの“病気”の治療に当たっていたというのだ、恐らく彼女の晩年まで、その様子を見ていたことは確かなのだろう。
リョドルは返事をしなかったが、やがて数秒してからため息ひとつ、のそりと同じように中へ入ってきた。
私の方へは視線を向けず、私と横並びになって正面を向いて、壁に刻まれた古代文字を見つめたようだ。
やがて静かにその場に両膝をついて蹲った。その胸の上に自身の両手の平を交差させて当てる仕草は、何か特別な礼拝なのだろう。
何を言うでもない彼に促されるような気がして、私も床に座り込んだ。リョドルのように両膝を床につける仕草はなんとなく気恥ずかしくて、雑に片膝を立ててしまったが……。
「アミュテュス・サーシェ。……今あなたと共にあることを心から喜びます。神々の慈しみと、甚深なるその導きと、あなたと、あなたの愛する人々の優しさに、心から感謝を捧げます。サーシェ、永遠なる慈しみの光に洗われたあなたの魂が、どうかこの愚かな身を赦してくださいますよう……」
リョドルの祈りは独り言のように静かだった。その言葉の意味は分かっても、こめられた思いの深さをトレンティア人である私が理解することはきっとない。
彼はそこでぐっと息を呑むようにして言葉を切り、ほうと安心したようなため息をついた。
「……本当なら、ヨハンにも来てもらった方が彼女は喜んだかもしれないけど」
ふと声色を軽くして言う。私達はお互い目も合わせず、うねうねと線が撥ねているばかりの古代文字を見つめていた。
そこに漂った空気は切なげで、でもどこか温かくも感じられた。釣られるようにして私も軽口を叩く。
「あいつも育ちは田舎の村だからな、こんな所の作法なんて知っているとは思えない」
「そうだね。それに君とミョーネの間柄を思えば……、子どもに聞かれたくない話もあるんじゃないかなと思って。まさか部外者である私が招かれるなんてミョーネもびっくりだろうが」
そう自虐っぽく笑うリョドルに、私はやっと視線を向けた。
言葉はなかなか出てこなくて、ただ募ったもどかしい思いは眉間の皺に寄せられていく。
「部外者って……。なあいい加減聞いてもいいか? お前はミョーネと……、その……、どういう関係……」
思い切って口を開いたはいいものの、やはり言葉は引っかかる。リョドルはどこか楽しそうにさえなって薄く微笑んだ。
「どうって、前にも言った通りさ。幼馴染みで、彼女がトレンティアから帰ってきてからは病気の治療をしていた。元はと言えば実家の関係の付き合いだったけど、子どもの頃から変わり者で煙たがられていた私のことを、彼女は気にせず接してくれたからね、親戚付き合いの中でも特に仲は良かったよ」
昔を懐かしんでうっとりと言うが、実家といえば当然、ミョーネは王家である。そんな気軽なものではなさそうだが……。
じっとりと怪しむように睨んでいる私に構わず、リョドルは静かに続ける。
「それに、君もさすがに知っていると思うけど……、ミョーネは君に嫁ぐ前に一度別の貴族と離婚しているだろ。私もわけありでずっと未婚だったものだから、結婚だの子作りだのに縛られずに自由に生きていけたらと、つらさを分かち合って意気投合したものさ……」
私はリョドルからふいと視線を逸らした。ミョーネが私よりも前に誰かと結婚をしていたという話は……結婚した後にだが、聞いた。そして子どもができなかったために離婚になった、とも。
それを語る時のミョーネは本当に苦しそうで……、子どもを産めないという烙印が彼女にとってどれだけつらいものだったのかと、それを分かったからこそ、危険を承知で私達は魔術でそれを乗り越えようとしたのではないか。
ああ、結婚だの子作りだのに縛られずに生きていけたら、私だってミョーネの後に正妃を娶る必要なんてなかったのだ、それができたらどんなによかっただろうと……、今更夢を見たって栓のないことではあるが。
「だけとパウル、君との夫婦生活は……、苦しいことも多かったみたいだけど、それでも幸せなことでもあったのだと、私は信じているよ。ズミに帰ってきてからも、時々ふっと懐かしげに君のことを思い出していた。息苦しい異国の生活の中で、パウルの愛だけが私の救いだった、と……」
私を慰めるつもりで言っているのだろうか、リョドルは穏やかな顔で言う。
それはさっきもフェリアの口を通して聞いたことだ。……だからこそ、私が彼女を裏切った、その事実に彼女は耐えかねたのだと言う。
私はリョドルから顔を逸らして、ふんと吐いた息は思わず皮肉っぽくなった。
「何を言ったって事実は変わらん。ミョーネは俺の元から逃げ出して……、ここを生きる場所に選んだんだ。そしてその傍にいたのは俺じゃなくて、お前だったわけだろ」
リョドルは何を思ったのだろうか、すぐに返事はしなかった。
数秒待ってみて、だんだん怖くなってきて、私は恐る恐るもう一度その顔に視線を向けた。リョドルは目を丸くして私を凝視していた。
「パウル……、ああ、もしかして君……、やきもちを妬いているのか?」
そうあっけらかんとした声で、平然と言ってのけたのには思わずしかめっ面を向けてやる。
「身も蓋もない言い方をするな! ……分かってる、俺だってあいつとは違う女を後から娶ったんだからな、先に裏切ったのは俺の方さ。そんな俺に愛想尽かして実家に帰ったんだ、その先で男の一人や二人いたって文句言える筋合いはないが、な……」
そう言いながら睨みつけたリョドルの顔は……、自分と比べると歳上か歳下かはぱっと分からない。どちらにしてもあまり変わらなさそうだ。
その年齢になってもなお、まだ美貌とも言うべき艷やかで端正な顔立ちをしている。若かりし頃はさぞ、絶世の美女だったミョーネに負けず劣らず美青年だったことだろう。こんなのが近くにいれば……なんていつかジュリが呟いた通りだ。
リョドルはそのズミ人特有の美しい黒髪をさらりと傾けて、また楽しそうに笑った。
「そう思うのに私を彼女の霊廟に入れたのかい? とんでもない男だな君は」
「だからその霊廟がどうのこうのは分かんねえって。分からんが……、まあ、ミョーネが本当に愛したのがお前だったのなら、それでもいいよ。……俺じゃあいつを幸せにできなかったんだ、ここに入る資格がないのは本来なら俺の方さ」
そう語ったのはほとんど自分に言い聞かせるためだった。
……ミョーネとの間に子どもを授かることは人体魔術を駆使してでも叶えたい夢だった。だけどそれでもやっと、あれだけの時間と研究をかけて、授かれたのはたったの一人だけだ。他の妃を迎えることは、王太子のつとめとしてやむを得ないと思っていた。
当然ミョーネに引け目のようなものは感じていたが、それでも、お飾りの妃との間にお互い愛情らしいものはなかったし、ミョーネへの愛は何一つ変わらないのだと、それを示し続ければきっと続いていくと……、無邪気に信じていたのだ。
それがどれほど彼女を苦しめていたのか、考えも及ばずにいた男に……、本当なら愛していたなどという言葉を嘯くことすら許されないだろう。
そんな私の胸中を嘲笑うかのように、リョドルは一層楽しそうに笑い声を上げた。
いい加減に腹が立って、やっぱり追い出してやろうかな、なんて思い上がった矢先に彼は語った。
「はは……、君は、いい男だと思っていたが本当にいい男だな。ミョーネが惚れるだけあるよ。だけど残念ながら? 私とミョーネにそういう関係は一切無いよ」
「はあ?」
思わず私は眉をひそめた。
幼馴染みで特に仲が良くて、トレンティアから帰った時分にはまだお互いに若かっただろう、年若いしかも美男美女が、二人きりで魔道を研鑽し病気の治療までして、そんな関係がないなんて話が、
いや、そうだと言われればそうなのかもしれないが……、なんて急に冷静な気分にもなってきた。リョドルはくすくすと美しく笑った。
「そういうことにしといても面白いけど、さすがにそこまで卑屈になられると可哀想だからね……。実を言えばそういう意味では私は女性に全く興味がなくてね。ミョーネもそれを分かっていたし、子どもの頃から本当に……お互いに姉妹のような存在だったと……私はそう思っているよ」
そう言った声の最後は少しだけ切なげで、私は思わず顔をしかめたまま返事に迷ってしまった。……そうだと言われれば、そうなのかもしれない。
「姉妹?」
恐る恐る聞き返すと、しかしリョドルは真面目なようだった。どこか遠い目で、霊廟の壁の古代文字を見つめている。
「ああ……彼女は、私を女として接してくれる本当に数少ない友人だった。せめて、心だけでも救ってやりたかった……」
まだうっとりとした様子で緩く笑みを浮かべながら、リョドルはミョーネのことを思い出しているようだった。
……再度、同じ問答になるのかもしれない、そう思いながらもやっぱり私は尋ねる。
「……結局ミョーネは何の病気だったんだ」
しかし存外にリョドルはすぐに頷いた。
「ああ……、君になら言うけど……、子どもを孕むためにいろいろと魔術を施したのだろう、それが中毒のような作用になって身体を蝕んでいた……そういう状態だった。あの魔術を施したのは君なんだろう、分かっていたんじゃないか、あんな無理なことをすれば、母体の寿命を縮める結果になることぐらい……」
そう言われれば当然心当たりはある。人体魔術は危険の多い禁術だ……、ものによってはただちに命に影響が出るものだって珍しくない。
当然、その危険も承知の上で、ほかでもないミョーネ自身がその施術を望んでいた……。
「そして彼女自身もそれを悔やんでなどいなかった。自分の身を犠牲にしてでも君の子を産みたかったんだ。……まあ、黙っていたのはその、そんな話をヨハンには聞かせたくなくてね。私がやっていた治療は苦痛を緩和して、ほんの少しの延命にはなるかもしれない、というぐらいの気休めの施術だけだ。それ以外のことは何もできなかった……」
リョドルの声は少しだけ切なげで、しかし淡々としていた。私はむずむずと眉を動かして、更に彼、いや彼女の胸の内へと踏み込んでいく。
「じゃあ、あの“心を癒やす薬”はなんだったんだ」
その薬は、こうして手向ける機会もあろうかと懐にしまっていた。
あの時もリョドルはてっきりミョーネの恋人なのだと思っていたから……、面白くはなかったが、ミョーネが愛した男の想いなら、代わりに届けてやらねばならないかと、そう思ったのだ。
しかし悲しきかな、他でもないミョーネの人格を模した魔道人形に胸ぐらを締め上げられた時に、その腕力の餌食となって薬瓶ごと粉々になってしまったが……。
リョドルは正面の魔道文字を見つめたまま、ぼんやりと言った。
「ミョーネは……、トレンティアで窮屈な思いをしていたのだろう、そこから逃げるようにズミへ帰ってきて、だけど父王に命じられてずっと王宮に幽閉されていた。身を削ってまで産んだ息子とも引き裂かれ、それは死んだと誰かから聞かされたようなんだ。誰かは分からないけど、子どもを産めるはずがないと思われていた王女が産んだ子どもなんて、いなかったことにしたい人間がいたのだろうね。それですっかり精神が参っちゃったみたいで、……端的に言って彼女の心は病んでいた」
彼女の視線が追っている遠い日のミョーネの姿が、瞼を閉じれば同じように浮かんでくるような気がした。
トレンティアで寂しい思いをし、たったひとつの希望だったはずの夫にも裏切られ……、それで逃げ帰った先の故郷でも、幸せに過ごせる日々はなかったというのだろうか。
「孤独な世界に塞ぎ込んでいく中で、彼女は一層魔道の研究に打ち込んでいった。あの執念は……、正直言って正気とは思えなかったね。そしてその狂気の果てに生み出されたのが魔道人形だった。人形の研究に打ち込む彼女には、私の言葉も届かなかった……」
その狂気の果てに、あのフェリアが、ウィルがいた……。ああ、およそまともな精神でできることじゃない、その直感は彼らのコードを垣間見た私にもあったが……。
リョドルの声はやがて、その悲しみの色を深めていく。
「肉体の限界はどうしようもなかった。それは彼女自身が選んだ結果だ。だけどせめて心を……救えたのなら、あんな悲劇を起こすことはなかったんじゃないかと……。そのために私も色んな調薬を試したけど、やっぱり一時的な鎮静剤じゃ何も変わらなくて、もっと根本から癒やすような……そんなものがあればと……」
リョドルは苦しげに言って、そのか細い手で、自身の膝の上に拳を握った。きっと、一緒に苦しんだのだろう。
「だけど何もできなかった。あの孤独の中から結局出られないまま、誰の言葉も届かないまま、いくつもの命を犠牲にして、そして何も報われないままに死んでいった、そんな姿に見えた……。それだけが心残りだった……それだけのことさ」
彼女の声はやがて少しだけ自虐っぽい色に掠れて行った。その視線をもう一度追って、私は目の前に広がるズミの古代文字を仰ぐ。
「……もしかして君も見たことがあるかな、フェリアという名前の魔道人形……あれにはミョーネそっくりの人格が作り出されていて……」
奇しくも、それとの決着をつけたばかりだ。妙にどきりとして私は返事もできなかった。
「……もしも君があの人形に会って何かを言われたとしても……、真に受けてはいけないよ。あれはミョーネの人格を真似しているだけで本物ではないし……、何より、あれを作った時のミョーネもまた正気じゃなかったのだから……」
その言葉は、まるで胸にざわついていた不安の真ん中を貫くように通っていった。
……ああ、そんなこと分かっている、魔道人形を扱う人体魔術を代々担ってきたエルフィンズ家の嫡子だったのだ、そんなことは誰よりも……分かっているはずだ。
確かめるように私は答える。
「ああ、よくできた人形だったが、所詮は人形だ。……死んだ人間の言葉を語ることなんて誰にもできない、どんな思いで死んでいったのかなんて分からない。だけど死んだからにはアミュテュスの国とやらに行ったんだろう、それだけでいいじゃないか」
私はその薬瓶を抱えていた胸元をまさぐるように手を当てて俯いた。フェリアに服を破られてしまったので、今ははしたなく胸の素肌がむき出しになっている。
……あの瞬間に、例の薬はフェリアに砕かれてしまったが……その中身は、どうなったのだろう。少しでも、彼女に届いただろうか。
俯いた私とは入れ違いになるみたいに、リョドルの顔が霊廟の壁を見上げた。
「ああ、そうだね……。薬があれば助けられたのかなんて、やっぱり思い上がりなのかもしれない。全てを救えるのは、きっと神様だけだ。……アミュテュスの国へと旅立てば、深い慈しみの光に癒やされ、その魂は何一つ穢れのないものへと清められる。きっともう、全ての苦しみから解放されていることだろう」
その神官は神の国を静かに語る。あの美しい月の向こうの世界の話を。
「だけどミョーネは生前も……多くの苦しみに揉まれながらも、それでもきっと幸せな出会いがあったことを私は信じるよ。他でもないパウルと、ヨハンと、いつかラコールミルの泉を共に超えていく日を、彼女は安らかな気持ちで待っていることだろう」
その美しい情景を思い浮かべる彼女の言葉を、しかしやはり異国人である私には理解しきることもできない。
真剣に祈っているその声に水を差すような気がして少し躊躇したが、だけど自分の名前を出されては気にもなるので尋ねてみる。
「ラコ……? なんだそれ」
私の質問の仕方が間抜けだったせいだろう、リョドルはがくりと力が抜けたように首を傾げてしまった。
「ああ……、ラコールミルはアミュテュスの国の呼び名のひとつだ。死者はまずその入口にある泉で身を清める。文献によってはそこで生前の功罪を測られて地獄へ行ったり天国へ行ったりすると説かれてもいるんだけど……、別のところでは、生前に特に強い絆を育んだ者同士で待ち合わせをして一緒に泉を超えていくとも説かれている。ラコールミルの泉を共に超える、というのはズミ人にとっては最上級の信頼を表すのさ。少し専門的な言い回しではあるけど……」
そうくどくどと説明をされると妙に味気がないが、理解はした。はあ、と私はまた間抜けな相槌を打つ。
「月の向こうの泉で俺を待ってるってか? 困ったな、俺はトレントの血族だから死んだ後も聖樹の風となってこの大地に吹いていなくちゃいけない……」
なんとなくトレンティアの神話で対抗してみたが、異国間の宗教の違いは如何ともしがたい。リョドルもその問題は解決できないようで、黙って眉間に皺を寄せてしまった。
どちらにせよまだ先の話だ、なんて、つい先刻には人形を道連れにして死のうとまで思ったのに、都合よく話を先延ばしにしておく。
結局私は死ねなかった。他でもないヨハンにその術を奪われた。まだ彼のために生きろと、きっと本物のミョーネはそう望んでいるのだろう。
フェリアとウィルという魔道人形を相手取って、魔力の節約なんて一切言っていられなかったのだ。命があっただけでも奇跡的とさえ思える。
……本当に生きているのか。そんなことを思ってじっと自分の両手を見つめる。まだ腕の付け根に残った鈍い痛みが、激しく生を主張しているようだった。
しかし当然魔力はほとんど底をついた。血門術によって失われた血は、多少はヨハンの回復魔術に巻き込まれたことで回復したようだ。しかし歩けば頭がふらつく程には貧血だ。
腕の傷も、グロリアのために持っていた治療薬の余りでなんとか応急処置は施したものの、まだずっと肉の奥が引っかかっているように痛む。
目の前に広がる景色は、かつての王宮の庭園……今は廃墟と化し、その上で勝者の風格を現していたのはただ勇壮な自然ばかりだった。
しかしその風景をも一瞬でまっ黒焦げにしてしまったのはウィルの魔術……、割れた地面の奥まで真っ黒だ。
そんな惨状を、既に太陽が沈んだ濃藍の空の上から大きな月の光がゆったりと見下ろしている。
ひと気のない廃墟の中とはいえ、こんな派手な戦闘を起こしたのだ、近辺に張っていたトレンティア、ズミ両軍の目に止まってもおかしくはない。
その視線から逃れるようにして私達は王宮跡の柱の陰に身を寄せたが、それ以上は動けないほど誰もかもが疲れ果てていた。
私は言わずともがな、ジャックとてウィルとの斬りあいには当然無茶苦茶な量の魔力を放出したらしく、今は膝を立てて座り込んだ姿勢でぐったりと項垂れている。ぴくりとも動かないところを見るに、そのまま眠っているのかも知れない。
グロリアなんてもともとの怪我が全治していないくせに、一丁前に出てきて魔術を振るっていたから、疲れたことだろう。
……女性の自主性は尊重するのがモットーではあるが、さすがにあの戦いの中で血門も持たないのに飛び込んでくるお転婆はいかがなものかと思う……。今は同じくジャックの隣で、その身に寄り添うようにして膝を抱えている。
そして私達の絶体絶命の危機、その局面に助けに来たかと思えばヨハンもすぐに倒れてしまった。
……思い起こせばジャックの報告では、今日の内にトレンティア軍と交戦して、思う存分魔剣を振るいまくっていたという話だ、そこからの連戦で乗り込んでくるなんて、やはり血の気が多いなんてものじゃない。このバカ息子が、と胸中でだけ悪態をついてやる。
壮絶な戦いのさなかにあった私達の元へ駆け付けて、ヨハンがやったことは……、よりによってこの私の攻撃魔術の陣を横から盗んでまで起こした、巨大な回復魔術だった。
血を失っていた私も、そしてウィルの攻撃を受けていたジャックも、その場でたちまちに癒えてしまった、ただそれだけだった。彼は魔剣を一振りもしなかった。そのたった一回の回復魔術に彼は残っていた魔力を全部使ってしまったと言うのだ。
なあ、助けに来て咄嗟にやることがそれなのか。そんなことを思って私は、あどけない顔で寝落ちてしまった我が子の顔を覗き込む。
柱に預けていた背は見るうちにずるずると床の上にずり落ちていっている。見かねてそっとその背に手を回すが、魔力を使い果たして深く眠っているのだろう、体に触れても目を覚ます様子はなかった。
そのまま自分の腕の中に抱いて一緒に眠ってしまおうか、なんて気持ちも起こってくるが……、さすがにもう十六にもなる息子への接し方ではないか、なんて思い直す。冷静になってその体を床の上に横たえてやるだけで手を離した。
力尽きた人形の片付けもせねばならなかったが……いかんせん誰もが疲れ果てている。夜も更けていくことだし、どうか一晩だけでも休ませてほしい。
誰にともなくそう許しを請うて、しかしその人形の体が間違っても人目に触れないよう、瓦礫の陰へと押し込める作業だけは力を振り絞る。
それだけに疲れていたものだから、その人影が顔も分かるほど近くまで、ひっそりと近付いてきたことに私は全く気付けなかった。
闇夜に紛れるようにして忍び寄っていた足音を聞いて、私は思わず、繕いもせずに驚きの声を上げる。
「うわあ!」
私の声に驚いたのは相手も同じだった。そして膝を立てて座り込んでいたジャックもびくりと反応して魔剣の柄を握ったのが分かった。
「うわ、待って! 敵じゃない!」
そんな間抜けな声を上げた来訪者は、たった一人のズミ人だった。
その出で立ちは鎧も着ず、目立った武器を持っている様子すらない……、夏用の薄着だけを着た、場違いな程の一般市民がそこにいた。目を白黒させてよく見ると、知った顔だった。
当分床屋に行くのを怠っているのか、というほど不精に伸びた髪はしかし手入れはしているのか変につややかな……、線の細い美青年、と言うには少し歳を食った男。名前をリョドルと言った。
それを確かめて、今にも剣を抜こうとしていたジャックへ手だけで制止をかける。
「……なんでお前がこんな所にいるんだ」
呆れたような声をかけると、リョドルはむずかゆそうに唸りながら目を泳がせた。
「いや、まあ、実は。ここに大事なものを置いているものだから、戦火に巻き込まれやしないかとハラハラして、ヨハンに無理を言って偵察兵に混ぜてもらっていたんだよ。来てみればなんかすごい戦いしてたみたいだけど、終わったと思っていいのかい?」
彼ののんきな声を聞いているとそれだけで気が抜ける。私はがくりと項垂れてため息をついた。
「たぶん、一旦はな。まだトレンティア兵が近くにうろついてる危険はあるから油断はできない、まだ戦地だ。よくもこんな所へ出てきたな。よほど大事なへそくりを隠していたのか?」
「まあ、そうだね。君こそ、なんか部隊で揉めて出てったって聞いたけどこんな所まで来ていたのか。トレンティア軍に移ったって感じではなさそうだね」
相変わらずのうのうとした調子で言う男の顔を、私はじっと睨みつけた。
……この王都ラズミルで、崩壊以前は神官だか薬師だかをやっていたらしい……恐らく特殊な立場の者だったのだろう。しかもたった今決着を付けたミョーネに近しいところにいたはずだ。
その彼がよりによって今この場に現れたことにはどうしても意味を感じ取ってしまう。
「私としては君がどっちの国の味方だろうと、大した関心はないけどね。ラズミルの王宮に来るのも随分と久しぶりだろう? 道が分からないなら案内してやるから来なよ」
リョドルはそんなことを言ってふいと歩き出した。思わず、はあ? なんて乱暴な相槌が零れる。
「観光案内なら後にしてくれ、俺は疲れた……」
私は床に下ろした腰を上げもせず言った。
へそくりの位置でも教えてくれるつもりなのかもしれないが、生憎自分は疲れ果てている。金銀財宝があろうとズミの魔道書庫があろうと動く気にはならない。
リョドルはそんな私の疲労具合を気付きもしないのか、きょとんとした顔で振り向いた。
「後にって……、ミョーネの墓参りのために来たんじゃなかったのか? まあ、疲れて立てもしないなら無理にとは言わないけど」
その言葉を聞いて、思わず表情が凍った。……ミョーネの、墓参り?
リョドルは近くの瓦礫の陰で寝ているフェリアに気付いてもいないだろうか、気付いたとしても魔道人形などを見て何を思うだろうか。
……いやそもそも、あの人形の存在をこの男は知っているのだろうか。考えてみれば晩年のミョーネを知っているはずのこの男には聞きたいことがいくらでもある。
だけど、確かにそうだな、なんて言葉は口には出さない。私は重たい腰をゆっくりと上げた。
「……いや、行く」
そう呟くように言うと、リョドルは何を言うでもなく頷いた。
後ろでは同じく疲れ切った様子で、しかしなおも気丈に立ち上がったジャックがびしと背筋を伸ばした。そのまま当然のように私達に伴ってこようとするのを見て、リョドルが気まずそうに振り向いた。
「あ……、申し訳ないけどパウルだけで」
「なぜだ」
当然ジャックは不服そうで、ぎろりと眼光で刺すようにリョドルを見下ろす。
疲労のあまりに血走った目の軍人に睨まれてリョドルの顔は青ざめたが、しかしおどおどとしながらも答えた。
「王族の霊廟は特別で、家族しか入っちゃいけない決まりなんで……。まあ、家族が認めた者ならいいことになってるから、パウルが良いと言うのであれば構わないけど……」
そう語ったのを聞いて、私はジャックと顔を見合わせた。
墓場に立ち入る者に資格が問われる理由はよく分からないが、もともと私達は外国人である。そこには理解の及ばない宗教的な文脈があるのだろう。
この地にきて、ズミ人である妻の墓に参るのだ、その文化を軽んじるようなことは避けたほうがいいだろう……。
「私だけで行ってくる。お前はグロリアとヨハンを見といてやってくれ」
そう短く命令をすると、当然彼はびしりと背筋を伸ばして頷いた。彼も疲れているのだ、主人の妻の墓参りにまで護衛で付き合わせては悪いという気持ちもあった。
そう話をつけ、私は先に歩くリョドルの背中を追って進み始める。
ラズミルの王宮の敷地に入るのは初めてではないが、大昔にトレンティアの王子として接待を受けただけである。今や廃墟と化したこの宮殿を見ても、どこが何の区画なのかさっぱり見当もつかなかった。
吹きさらしになった建物の中にもびしりと苔や雑草がむしていて、どこから庭なのかも判然としないが、ともかくそんな宮殿と庭園の曖昧な道を進んだ先に、その霊廟というものはあった。
私とてズミに来てから十年以上も経っている、墓地の風景ぐらいは見慣れたつもりでいたが、王族の墓というのは庶民のものとは全く違うらしい。
トレンティアでは王族だろうと貴族だろうと、せいぜい敷地や墓石の格が違うぐらいだが、ズミのそれは……、墓そのものが一つの宮殿のような建築物の様相だ。
「これが墓?」
私は気の抜けた感想を言った。
当然住居ではないから、宮殿と言っても建物は小さい。中に入り込めるのはせいぜい大人が五人程度というところだろうか。
しかし壁も天井も全てが石造りで頑丈に囲まれ、そこにズミらしい文様やら、たぶん神か何かなのだろう人物を象ったレリーフなどが……、やはり蔦に覆われてはいたが、施されている。
それが歴代の王族の人数分あるのか、さすがに複数人纏まって祀られているのかはさだかではないが、周辺には大小の違いこそあれ、似たような建物が並んでいる様子だった。
その中にも倒壊したまま打ち捨てられているものもあるし、その隙間に草木が生え放題なので夜だと全域の広さはいまいち分からない。
リョドルはひとつの宮殿の手前で立ち止まって頷いた。全部が石造りのものだから、たまたま火の玉が直撃したというもの以外は焼けることもなく残っているのだろう、ミョーネの墓も幸いに無事らしい。
「ああ、ミョーネの墓だよ。さあ殿下、どうぞ中へ」
仰々しく言うのは皮肉なのかはたまた真面目なのかは分からないが、それは無視しても、私は思わず顔をしかめてしまう。
ほとんど密閉されているような石造りの建物の中だ、夜でなくても中は真っ暗だろう。こんな狭くて暗い場所に入らねばならないとは、ズミの墓参りは難儀である。
仕方なくジャックから借りている魔法の懐中灯に明かりを付け、背の低い入口からやや背中を丸めて中を覗き込んだ。
「そんなあかあかと明かりを……」
リョドルが戸惑ったように言ってくる。中に入る前に振り向いて私はため息をつく。
「明かりも駄目なのか? 俺は外国人なんだ、勝手が分からん。お前案内しろよ」
「ええ……? いや、普通は燭台をひとつだけ持ち込むんだけど、今は蝋燭なんてないし……無明が嫌ならまあ、それでもいいよ。案内しろって言われても私だって彼女の家族ではないんだから、さすがに中には入れないし」
戸惑っているままの声を背中に聞きながら、ともかく私は中の様子を見渡した。
……ひとことで言えば伽藍洞だ。何も置物がない中、石造りの床や壁に薄く彫刻がなされているだけだった。
その彫刻もほとんどがズミの古代文字が並んでいるだけで、現代語ならともかく古語になるとさすがに私にも読めない。床には何か四角い図形がいくつか書かれているが、それも何を意味するのか分からない。
恐る恐る中に足を踏み入れると、入口よりは高い天井の下で背中を伸ばすことができた。
しかし何も無いその空間の中で佇んでみたところで何が何だか分からない。墓、と言われてもいまいちピンとこなかった。遺骨は地面の下なのだろうか。
きっとここで祈りの言葉を言うのが正しいのだろう、アミュテュス・サーシェ、と。だけど十年以上この国で暮らした私にも、その祈りの言葉はすらりとは出てこない。
……それは私にとっては、傭兵として渡ってきた戦場で、絶命していく敵を見送るときに皮肉って飛ばす憎悪の言葉でしかなかった。
他でもなくズミを侵略した国の王子が、死者を心から悼んでアミュテュスの名前など口にできるものだろうか。だからと言って神聖なるトレントの名前を呼ぶには……あまりに皮肉が過ぎる。つい先程刃を交えた、フェリアの口から出てきた彼女の言葉がまたふつふつと蘇ってきては私を苛んでいく。
……自分はここにいるべきじゃない。祈りの言葉さえ口に出ない不甲斐ない夫を、彼女はきっと許さない……。私は静かに入口の外を振り向いた。
「家族が認めたらいいんだろ、入れよ、リョドル」
縋るように、後ろに控えている神官を呼んだ。しかし彼は大人しく従うこともしないらしい。
「いいんだろ、って……、君、霊廟に立ち入ることの意味を理解してもないだろう」
そんな渋そうな返事だけが返ってきた。私は足元に視線を落として、沈んでいく感情をだらりと吐き出すように息をついた。
「ああ、分からん。だから俺だってたぶん、ここに入るべき人間じゃないんだ。……教えてくれよ、リョドル。お前はズミ人だし、神官だろ、きっと死者を慰める言葉だって知ってるだろう。それに、それまでどんな経緯があったにせよ……、最期にミョーネの近くにいたのは俺じゃなくてお前だった、んだろ。だから……」
自分でも纏まらない言葉は、途切れ途切れに零れていくようだった。自分自身から零れ出た言葉に押されるように、何か分厚いものが胸からこみ上げてくる。
……このリョドルという男がミョーネとどれほど深く関わっていたのかは、夫としてはあまり想像したくはないことだった。だけど彼はミョーネの“病気”の治療に当たっていたというのだ、恐らく彼女の晩年まで、その様子を見ていたことは確かなのだろう。
リョドルは返事をしなかったが、やがて数秒してからため息ひとつ、のそりと同じように中へ入ってきた。
私の方へは視線を向けず、私と横並びになって正面を向いて、壁に刻まれた古代文字を見つめたようだ。
やがて静かにその場に両膝をついて蹲った。その胸の上に自身の両手の平を交差させて当てる仕草は、何か特別な礼拝なのだろう。
何を言うでもない彼に促されるような気がして、私も床に座り込んだ。リョドルのように両膝を床につける仕草はなんとなく気恥ずかしくて、雑に片膝を立ててしまったが……。
「アミュテュス・サーシェ。……今あなたと共にあることを心から喜びます。神々の慈しみと、甚深なるその導きと、あなたと、あなたの愛する人々の優しさに、心から感謝を捧げます。サーシェ、永遠なる慈しみの光に洗われたあなたの魂が、どうかこの愚かな身を赦してくださいますよう……」
リョドルの祈りは独り言のように静かだった。その言葉の意味は分かっても、こめられた思いの深さをトレンティア人である私が理解することはきっとない。
彼はそこでぐっと息を呑むようにして言葉を切り、ほうと安心したようなため息をついた。
「……本当なら、ヨハンにも来てもらった方が彼女は喜んだかもしれないけど」
ふと声色を軽くして言う。私達はお互い目も合わせず、うねうねと線が撥ねているばかりの古代文字を見つめていた。
そこに漂った空気は切なげで、でもどこか温かくも感じられた。釣られるようにして私も軽口を叩く。
「あいつも育ちは田舎の村だからな、こんな所の作法なんて知っているとは思えない」
「そうだね。それに君とミョーネの間柄を思えば……、子どもに聞かれたくない話もあるんじゃないかなと思って。まさか部外者である私が招かれるなんてミョーネもびっくりだろうが」
そう自虐っぽく笑うリョドルに、私はやっと視線を向けた。
言葉はなかなか出てこなくて、ただ募ったもどかしい思いは眉間の皺に寄せられていく。
「部外者って……。なあいい加減聞いてもいいか? お前はミョーネと……、その……、どういう関係……」
思い切って口を開いたはいいものの、やはり言葉は引っかかる。リョドルはどこか楽しそうにさえなって薄く微笑んだ。
「どうって、前にも言った通りさ。幼馴染みで、彼女がトレンティアから帰ってきてからは病気の治療をしていた。元はと言えば実家の関係の付き合いだったけど、子どもの頃から変わり者で煙たがられていた私のことを、彼女は気にせず接してくれたからね、親戚付き合いの中でも特に仲は良かったよ」
昔を懐かしんでうっとりと言うが、実家といえば当然、ミョーネは王家である。そんな気軽なものではなさそうだが……。
じっとりと怪しむように睨んでいる私に構わず、リョドルは静かに続ける。
「それに、君もさすがに知っていると思うけど……、ミョーネは君に嫁ぐ前に一度別の貴族と離婚しているだろ。私もわけありでずっと未婚だったものだから、結婚だの子作りだのに縛られずに自由に生きていけたらと、つらさを分かち合って意気投合したものさ……」
私はリョドルからふいと視線を逸らした。ミョーネが私よりも前に誰かと結婚をしていたという話は……結婚した後にだが、聞いた。そして子どもができなかったために離婚になった、とも。
それを語る時のミョーネは本当に苦しそうで……、子どもを産めないという烙印が彼女にとってどれだけつらいものだったのかと、それを分かったからこそ、危険を承知で私達は魔術でそれを乗り越えようとしたのではないか。
ああ、結婚だの子作りだのに縛られずに生きていけたら、私だってミョーネの後に正妃を娶る必要なんてなかったのだ、それができたらどんなによかっただろうと……、今更夢を見たって栓のないことではあるが。
「だけとパウル、君との夫婦生活は……、苦しいことも多かったみたいだけど、それでも幸せなことでもあったのだと、私は信じているよ。ズミに帰ってきてからも、時々ふっと懐かしげに君のことを思い出していた。息苦しい異国の生活の中で、パウルの愛だけが私の救いだった、と……」
私を慰めるつもりで言っているのだろうか、リョドルは穏やかな顔で言う。
それはさっきもフェリアの口を通して聞いたことだ。……だからこそ、私が彼女を裏切った、その事実に彼女は耐えかねたのだと言う。
私はリョドルから顔を逸らして、ふんと吐いた息は思わず皮肉っぽくなった。
「何を言ったって事実は変わらん。ミョーネは俺の元から逃げ出して……、ここを生きる場所に選んだんだ。そしてその傍にいたのは俺じゃなくて、お前だったわけだろ」
リョドルは何を思ったのだろうか、すぐに返事はしなかった。
数秒待ってみて、だんだん怖くなってきて、私は恐る恐るもう一度その顔に視線を向けた。リョドルは目を丸くして私を凝視していた。
「パウル……、ああ、もしかして君……、やきもちを妬いているのか?」
そうあっけらかんとした声で、平然と言ってのけたのには思わずしかめっ面を向けてやる。
「身も蓋もない言い方をするな! ……分かってる、俺だってあいつとは違う女を後から娶ったんだからな、先に裏切ったのは俺の方さ。そんな俺に愛想尽かして実家に帰ったんだ、その先で男の一人や二人いたって文句言える筋合いはないが、な……」
そう言いながら睨みつけたリョドルの顔は……、自分と比べると歳上か歳下かはぱっと分からない。どちらにしてもあまり変わらなさそうだ。
その年齢になってもなお、まだ美貌とも言うべき艷やかで端正な顔立ちをしている。若かりし頃はさぞ、絶世の美女だったミョーネに負けず劣らず美青年だったことだろう。こんなのが近くにいれば……なんていつかジュリが呟いた通りだ。
リョドルはそのズミ人特有の美しい黒髪をさらりと傾けて、また楽しそうに笑った。
「そう思うのに私を彼女の霊廟に入れたのかい? とんでもない男だな君は」
「だからその霊廟がどうのこうのは分かんねえって。分からんが……、まあ、ミョーネが本当に愛したのがお前だったのなら、それでもいいよ。……俺じゃあいつを幸せにできなかったんだ、ここに入る資格がないのは本来なら俺の方さ」
そう語ったのはほとんど自分に言い聞かせるためだった。
……ミョーネとの間に子どもを授かることは人体魔術を駆使してでも叶えたい夢だった。だけどそれでもやっと、あれだけの時間と研究をかけて、授かれたのはたったの一人だけだ。他の妃を迎えることは、王太子のつとめとしてやむを得ないと思っていた。
当然ミョーネに引け目のようなものは感じていたが、それでも、お飾りの妃との間にお互い愛情らしいものはなかったし、ミョーネへの愛は何一つ変わらないのだと、それを示し続ければきっと続いていくと……、無邪気に信じていたのだ。
それがどれほど彼女を苦しめていたのか、考えも及ばずにいた男に……、本当なら愛していたなどという言葉を嘯くことすら許されないだろう。
そんな私の胸中を嘲笑うかのように、リョドルは一層楽しそうに笑い声を上げた。
いい加減に腹が立って、やっぱり追い出してやろうかな、なんて思い上がった矢先に彼は語った。
「はは……、君は、いい男だと思っていたが本当にいい男だな。ミョーネが惚れるだけあるよ。だけど残念ながら? 私とミョーネにそういう関係は一切無いよ」
「はあ?」
思わず私は眉をひそめた。
幼馴染みで特に仲が良くて、トレンティアから帰った時分にはまだお互いに若かっただろう、年若いしかも美男美女が、二人きりで魔道を研鑽し病気の治療までして、そんな関係がないなんて話が、
いや、そうだと言われればそうなのかもしれないが……、なんて急に冷静な気分にもなってきた。リョドルはくすくすと美しく笑った。
「そういうことにしといても面白いけど、さすがにそこまで卑屈になられると可哀想だからね……。実を言えばそういう意味では私は女性に全く興味がなくてね。ミョーネもそれを分かっていたし、子どもの頃から本当に……お互いに姉妹のような存在だったと……私はそう思っているよ」
そう言った声の最後は少しだけ切なげで、私は思わず顔をしかめたまま返事に迷ってしまった。……そうだと言われれば、そうなのかもしれない。
「姉妹?」
恐る恐る聞き返すと、しかしリョドルは真面目なようだった。どこか遠い目で、霊廟の壁の古代文字を見つめている。
「ああ……彼女は、私を女として接してくれる本当に数少ない友人だった。せめて、心だけでも救ってやりたかった……」
まだうっとりとした様子で緩く笑みを浮かべながら、リョドルはミョーネのことを思い出しているようだった。
……再度、同じ問答になるのかもしれない、そう思いながらもやっぱり私は尋ねる。
「……結局ミョーネは何の病気だったんだ」
しかし存外にリョドルはすぐに頷いた。
「ああ……、君になら言うけど……、子どもを孕むためにいろいろと魔術を施したのだろう、それが中毒のような作用になって身体を蝕んでいた……そういう状態だった。あの魔術を施したのは君なんだろう、分かっていたんじゃないか、あんな無理なことをすれば、母体の寿命を縮める結果になることぐらい……」
そう言われれば当然心当たりはある。人体魔術は危険の多い禁術だ……、ものによってはただちに命に影響が出るものだって珍しくない。
当然、その危険も承知の上で、ほかでもないミョーネ自身がその施術を望んでいた……。
「そして彼女自身もそれを悔やんでなどいなかった。自分の身を犠牲にしてでも君の子を産みたかったんだ。……まあ、黙っていたのはその、そんな話をヨハンには聞かせたくなくてね。私がやっていた治療は苦痛を緩和して、ほんの少しの延命にはなるかもしれない、というぐらいの気休めの施術だけだ。それ以外のことは何もできなかった……」
リョドルの声は少しだけ切なげで、しかし淡々としていた。私はむずむずと眉を動かして、更に彼、いや彼女の胸の内へと踏み込んでいく。
「じゃあ、あの“心を癒やす薬”はなんだったんだ」
その薬は、こうして手向ける機会もあろうかと懐にしまっていた。
あの時もリョドルはてっきりミョーネの恋人なのだと思っていたから……、面白くはなかったが、ミョーネが愛した男の想いなら、代わりに届けてやらねばならないかと、そう思ったのだ。
しかし悲しきかな、他でもないミョーネの人格を模した魔道人形に胸ぐらを締め上げられた時に、その腕力の餌食となって薬瓶ごと粉々になってしまったが……。
リョドルは正面の魔道文字を見つめたまま、ぼんやりと言った。
「ミョーネは……、トレンティアで窮屈な思いをしていたのだろう、そこから逃げるようにズミへ帰ってきて、だけど父王に命じられてずっと王宮に幽閉されていた。身を削ってまで産んだ息子とも引き裂かれ、それは死んだと誰かから聞かされたようなんだ。誰かは分からないけど、子どもを産めるはずがないと思われていた王女が産んだ子どもなんて、いなかったことにしたい人間がいたのだろうね。それですっかり精神が参っちゃったみたいで、……端的に言って彼女の心は病んでいた」
彼女の視線が追っている遠い日のミョーネの姿が、瞼を閉じれば同じように浮かんでくるような気がした。
トレンティアで寂しい思いをし、たったひとつの希望だったはずの夫にも裏切られ……、それで逃げ帰った先の故郷でも、幸せに過ごせる日々はなかったというのだろうか。
「孤独な世界に塞ぎ込んでいく中で、彼女は一層魔道の研究に打ち込んでいった。あの執念は……、正直言って正気とは思えなかったね。そしてその狂気の果てに生み出されたのが魔道人形だった。人形の研究に打ち込む彼女には、私の言葉も届かなかった……」
その狂気の果てに、あのフェリアが、ウィルがいた……。ああ、およそまともな精神でできることじゃない、その直感は彼らのコードを垣間見た私にもあったが……。
リョドルの声はやがて、その悲しみの色を深めていく。
「肉体の限界はどうしようもなかった。それは彼女自身が選んだ結果だ。だけどせめて心を……救えたのなら、あんな悲劇を起こすことはなかったんじゃないかと……。そのために私も色んな調薬を試したけど、やっぱり一時的な鎮静剤じゃ何も変わらなくて、もっと根本から癒やすような……そんなものがあればと……」
リョドルは苦しげに言って、そのか細い手で、自身の膝の上に拳を握った。きっと、一緒に苦しんだのだろう。
「だけど何もできなかった。あの孤独の中から結局出られないまま、誰の言葉も届かないまま、いくつもの命を犠牲にして、そして何も報われないままに死んでいった、そんな姿に見えた……。それだけが心残りだった……それだけのことさ」
彼女の声はやがて少しだけ自虐っぽい色に掠れて行った。その視線をもう一度追って、私は目の前に広がるズミの古代文字を仰ぐ。
「……もしかして君も見たことがあるかな、フェリアという名前の魔道人形……あれにはミョーネそっくりの人格が作り出されていて……」
奇しくも、それとの決着をつけたばかりだ。妙にどきりとして私は返事もできなかった。
「……もしも君があの人形に会って何かを言われたとしても……、真に受けてはいけないよ。あれはミョーネの人格を真似しているだけで本物ではないし……、何より、あれを作った時のミョーネもまた正気じゃなかったのだから……」
その言葉は、まるで胸にざわついていた不安の真ん中を貫くように通っていった。
……ああ、そんなこと分かっている、魔道人形を扱う人体魔術を代々担ってきたエルフィンズ家の嫡子だったのだ、そんなことは誰よりも……分かっているはずだ。
確かめるように私は答える。
「ああ、よくできた人形だったが、所詮は人形だ。……死んだ人間の言葉を語ることなんて誰にもできない、どんな思いで死んでいったのかなんて分からない。だけど死んだからにはアミュテュスの国とやらに行ったんだろう、それだけでいいじゃないか」
私はその薬瓶を抱えていた胸元をまさぐるように手を当てて俯いた。フェリアに服を破られてしまったので、今ははしたなく胸の素肌がむき出しになっている。
……あの瞬間に、例の薬はフェリアに砕かれてしまったが……その中身は、どうなったのだろう。少しでも、彼女に届いただろうか。
俯いた私とは入れ違いになるみたいに、リョドルの顔が霊廟の壁を見上げた。
「ああ、そうだね……。薬があれば助けられたのかなんて、やっぱり思い上がりなのかもしれない。全てを救えるのは、きっと神様だけだ。……アミュテュスの国へと旅立てば、深い慈しみの光に癒やされ、その魂は何一つ穢れのないものへと清められる。きっともう、全ての苦しみから解放されていることだろう」
その神官は神の国を静かに語る。あの美しい月の向こうの世界の話を。
「だけどミョーネは生前も……多くの苦しみに揉まれながらも、それでもきっと幸せな出会いがあったことを私は信じるよ。他でもないパウルと、ヨハンと、いつかラコールミルの泉を共に超えていく日を、彼女は安らかな気持ちで待っていることだろう」
その美しい情景を思い浮かべる彼女の言葉を、しかしやはり異国人である私には理解しきることもできない。
真剣に祈っているその声に水を差すような気がして少し躊躇したが、だけど自分の名前を出されては気にもなるので尋ねてみる。
「ラコ……? なんだそれ」
私の質問の仕方が間抜けだったせいだろう、リョドルはがくりと力が抜けたように首を傾げてしまった。
「ああ……、ラコールミルはアミュテュスの国の呼び名のひとつだ。死者はまずその入口にある泉で身を清める。文献によってはそこで生前の功罪を測られて地獄へ行ったり天国へ行ったりすると説かれてもいるんだけど……、別のところでは、生前に特に強い絆を育んだ者同士で待ち合わせをして一緒に泉を超えていくとも説かれている。ラコールミルの泉を共に超える、というのはズミ人にとっては最上級の信頼を表すのさ。少し専門的な言い回しではあるけど……」
そうくどくどと説明をされると妙に味気がないが、理解はした。はあ、と私はまた間抜けな相槌を打つ。
「月の向こうの泉で俺を待ってるってか? 困ったな、俺はトレントの血族だから死んだ後も聖樹の風となってこの大地に吹いていなくちゃいけない……」
なんとなくトレンティアの神話で対抗してみたが、異国間の宗教の違いは如何ともしがたい。リョドルもその問題は解決できないようで、黙って眉間に皺を寄せてしまった。
どちらにせよまだ先の話だ、なんて、つい先刻には人形を道連れにして死のうとまで思ったのに、都合よく話を先延ばしにしておく。
結局私は死ねなかった。他でもないヨハンにその術を奪われた。まだ彼のために生きろと、きっと本物のミョーネはそう望んでいるのだろう。
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