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第十章 分かたれる道
121話 ふるさとの風
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わたくしことヘルマン・グリスは三たび、絶体絶命の危機に陥っていた。どうにも戦闘行動に出ようとすると敵に捕まるのが自分の体質らしい……なんて諦めを付けたくなるほど、困っていた。
パーティルの郊外で戦闘となったのはトレンティアの正規軍人四名。我らが若き王子ヨハン殿下と、その仲間ティガルによって呆気なくそれを制圧したのは喜ぶべきことだった……しかし敵はそれだけではなかった。
どういう事情かは皆目見当もつかないが、トレンティア軍に味方をするズミ人の一団、彼らの奇襲を受けてティガルは負傷し……、その後のことは分からない。
ズミ人相手に攻撃をしかけていいものかと迷っている間に彼らに腕を掴まれ、俺はあっという間に引きずり込まれてしまったのだ。
「トレンティア兵か! ここは俺達に任せておけ!」
そんな頼もしい声掛けとともに後ろへと引っ張られ、負傷がないかとか何だとか言われながら揉まれている間、俺は何も、言葉すら言えないでいた。
戦闘は長引くことなく、一団は他の負傷した兵士を連れて引き下がることになったらしい。俺に為す術はなにもなかった。
あれよあれよと言う間に状況は動き、ヨハン達が仕留め損なったトレンティア兵が、俺の顔を見て顔をしかめる。
「お前誰だ!?」
もともと兵装を着ていないこともあって、パーティルの兵士でないことはすぐに見抜かれてしまい、あっという間に拘束される。
話を聞かせてもらおう、なんて言って引き摺られ、連れられたのは……ああ、懐かしいなんて言葉で片付けるにはあまりにも皮肉! パーティルの中に構えた、トレンティア軍の本拠地ではないか。
負傷した兵士二人はすぐに治療室へ担ぎ込まれ、俺はズミ人達に引っ張られて砦の奥へ入っていく。かつて将軍アンデル・デニングが座した司令官室の椅子の上には……、なぜだ? 小洒落たトレンティアのドレスを身に纏った、それは美しい女が座っていた。
「失礼します、オルエッタ殿! パーティル郊外でトレンティア兵が襲撃を受けました! 我々は近くにいたので戦闘に気付いてすぐに駆け付けたんですが……、力及ばず、二名の兵士が殉職を」
報告するのはズミ人の戦士だ。その騒々しさを聞いて、椅子に座っていた貴族の女はかっと目を見開いて立ち上がった。
……まだ二十代だろうか、着ているドレスからして貴族だろうということは分かるが、髪はズミ人のようにゆったりと流し、その白い顔の上に光る青い瞳は……、ああ、端的にひどい美人だ!
「二名の兵士は負傷し、今治療を受けています。一名は軽症だったのですぐにこちらへ来ると思いますが……、それで、この男はそこで捕まえた謎のトレンティア人です。事情を知っているかと思って連れてきたのですが」
そう言って縛られた俺を指さした。俺はただわなわなと目を震わせてその貴族の女……オルエッタと呼ばれていたか、彼女の美貌を見上げていた。
周辺では騒ぎを聞きつけて、他の駐屯兵が集まってくる気配がある。この状況で自分はどうするべきなのか、そう迷っていられる時間も長くなかった。
周りにいるのは紛うことなき敵、そして既に武器は取り上げられ、拘束された俺一人。がむしゃらに歯向かったって死ぬだけだ。生き延びなければならない!
そして生き延びるために活用できることといえば、気が動転していたってすぐに分かる。イグノール殿下の部下ですなんて言った時には、それもまた死ぬだけなのだから。
「パ……、パーティル守備部隊九班……一等兵ヘルマン・グリスです! 長らくズミ人に捕らえられ、捕虜として連行されていましたあ!」
そう威勢よく俺は名乗った。途端に周囲にはどよめきが走る。それを聞いてやっと、オルエッタは口を開いた。
「尋問はこちらでします。ズミの皆様は下がってくださって大丈夫ですわ。あなた方の心遣いに感謝いたします」
そう、涼しげにさえ聞こえる美しい声で言ったのを聞いて、ズミ人達は威勢よく返事をして、言われるままに引き下がっていった。彼らが去ると、そこには俺も含めて金髪の者だけが残る。
そして周囲に集まってきていた兵士のうちの一人が俺の顔を覗き込む。
「ヘルマン・グリス? 本当にお前か!? とっくに死んだものと思っていたが……」
俺がこの部隊を離れたのはちょうど半年ほど前のことだ、あの時と違って少人数になったとはいえ、まだ顔を憶えてくれている者はいる。
ああ……俺にそう声をかけてくる男を、俺も憶えいている。確か俺より三年ぐらい先輩の、エリック・ブラウンではないか!
「ブラウン殿! まだこちらにおられたんですね! ああ、再び会えてよかった……、神聖なるトレントへ感謝を!」
そう俺は本物の感動を口にする。涙さえ浮かんできそうだった。ブラウンも仕方なさそうに乾いた笑みを浮かべ、拘束されたままの俺の背中をばしばしと叩いた。
「ああ、本当にお前というやつは……悪運が強いな! オルエッタ様、彼は確かに間違いなくパーティルの守備部隊の隊員です。半年前の戦闘の際に行方知れずになっていました」
そう言ってオルエッタの方を見た。彼女はどこか呆れたような表情を浮かべている。
「分かりました、とりあえず拘束は解いてやりなさい。もう夕刻ですが、取り急ぎ話を聞かせてほしいですわ。よろしくて?」
それは俺に向かって聞いたのだろう、たぶん。しどろもどろに頷く。手を後ろで縛っていた縄はすぐにブラウンが切ってくれた。
……拘束を解かれた。ひとまず殺されることはなさそうだ。いや、それどころか俺は彼らの信用を得てすらいる。それもそうだろう、何一つ嘘は言っていないのだから。
突然の状況に急に感情が高ぶっていく……、もしかしてこの状況、俺は敵地へ潜入工作をしているのでは!?
ヨハンはこの地からトレンティア兵を排除する任務を負っている。謎のズミ人達の介入があるにせよ、あの冷血の魔剣士がそれを違えることはないだろう。であればそのうちここにも彼は押しかけて来てくれるはずだ。
それまでの間……、ここで帰還した兵士のふりをしていれば死なずには済むだろう。もののついでに、あわよくば、自分は敵軍の状況を調べておこう。……完璧な計画だ!
そう胸の内で勝利のポーズを取ってみせた俺に、オルエッタは軽やかで美しい声を掛けてくる。
「グリスと言うのですね、始めまして。わたくしはリナ・オルエッタ・カディアル。夫と共にこのズミの地へ来て、軍のお手伝いをさせていただいておりますの。お見知りおきくださいませ」
戦地たる外国まで来て、その貴婦人の名乗りを聞くのはまるで異国情緒だ。
女性までこんなところに来ているなんて、さすがカディアル家というところだろうか。……いや、それにしても不可解だ。
呆気にとられてその顔を見つめている俺に、オルエッタは構わず言葉を続ける。
「半年ぶりの帰還とのことですが、詳しくお話を聞かせてくださいな。あなたはここでの戦闘でズミ人に捕えられて攫われたと?」
「は、はい。ズミのレジスタンス部隊に捕えられ、恥ずかしながら……彼らの元で働かされていました。ジンク地方の森の集落でしばらく働き、その後北へ……オーデルへ連れられ、そのままラズミルまでも……」
上手い嘘は言えない。隠さねばならないことだけは喋らないように気を付けて、俺はありのままのことを語る。オルエッタの目はすぐに驚きに見開かれた。
「ラズミルへ? それがどうして再びパーティルへ来たのです。あなたを連れていたズミ人は何者ですか」
「ラズミルに駐在していたズミ軍の兵士です。ここへ来た目的は……知りません。ですが元パーティルの守備兵だった俺なら、街の地理も明るいだろうと言って連れてこられ……」
そう語ったのは嘘だった。彼の目的はこのトレンティア本部をぶっ潰すことだと知っているし、俺が連れてこられたのは地理に明るいからではなく、彼の父君から言いつけられての目付役である。しかし怪しい嘘ではないはずだ、たぶん。
「ラズミルから来たというのであればあなたは貴重な情報源になるでしょう、改めてゆっくりとお話を聞かせていただきたいですわ。こんな所ではなんです、あなたも疲れていることでしょうし、今日は休みなさい。ではブラウン殿、彼のことは頼みましたよ」
オルエッタは睫毛の長いぱちりとした目を細めて、まるでこちらの腹の底を探るような視線になって言った。……そんな風に感じるのは、嘘をついている後ろめたさからくる気のせい、かもしれない。
いや、どちらにしても確かに、俺がラズミルから来たのであればトレンティア軍として聞きたい話は山ほどあるだろう。
じっくりと尋問されるに違いない……下手なことを喋ってしまわないように気を付けないと、と今から明日のことを思って唾を飲み込んだ。
やっぱり、ラズミルから来たなんてのも隠したほうが良かったのだろうか。上手い嘘のつき方は分からない……。
言いつけられたブラウンは仕方なさそうにため息をついた。
「敵に捕まっていたとはいえ、報告と帰還の義務を怠って半年も消えていたんだ。本当なら厳罰も免れない立場なんだぞ、司令官がオルエッタ様でよかったな。寝床は本部の宿直部屋で我慢しろよ」
ブラウンの言うその言葉ももっともだった。これがデニングが指揮しているままの軍だったなら当然厳罰対象だ。除名処分を受けて無理矢理国へ帰らされたかもしれない。
尋問を受けるのは快くないが、ラズミルの情報を持っているという理由でここに留められるならそれもまた僥倖というものだ。
そうでなくとも、このオルエッタという女性なら俺を厳しく罰することもないかもしれない。いくらカディアル家の者と言っても、普通は女性が軍の司令官になれるはずはないのだから。
夫とともに、と言っているからカディアルの騎士の誰かの妻なのだろう。それがどうして司令官扱いになっているのか、経緯はよく分からないが。
しかし誰だかは知らないが、その夫というのが出てきたら危うい。いや、今回のような重大事件が起こったのだ、これから出てくる可能性は十分にある。
そうなれば俺の身はどうなってしまうのだろう? 想像をすると途端に怖くなってきた。果たして、ヨハン様が助けに来てくれるまで俺の命はもつのだろうか……。
不安になったところで、今はトレンティア軍の言いなりになるしかない。拘束は解かれたもののブラウンに連れられるまま、俺は軍の宿直室へと閉じ込められることになる。
しかしその部屋に俺を押し込んだ後も、ブラウンはすぐに立ち去る気配を見せなかった。何やら棚の中からぶどう酒の瓶を取り出してきた。
俺が目を輝かせたのが分かったのだろう、ブラウンはまた呆れたように笑って、木のコップを出してきてくれた。食器はズミ風だ。
「再会を祝して」
そう軽く言って俺達はぶどう酒のコップをぶつけ合う。喉へ流し込んだその風味は、ああ、本当に味わうのはいつぶりだろう。
いい酒か悪い酒かももはや分からない、ただその香りと味がじわりと胃を温め、かっと熱の昇った頭からぼろりと涙が零れた。……イグノール殿下も飲みたいと言っていた、故郷の酒の味だ。
「よくもまあ敵国の地ではぐれて生きて帰ったもんだ」
何も言えずにただ涙を流す俺を見て、ブラウンは穏やかな声をかけてきた。
ああ、自分でもそう思う。あの時初めてティガルに捕まった時も、そこから逃げ出して今度は殿下達に捕まった時も、自分は死ぬのかもしれない、きっと死ぬのだろう、そう思っていた。
生きてこの場所へ戻ってきたことは、本当に奇跡的なことだった。
そして今、俺はかつての友と顔を合わせて故郷の酒を飲んでいる。その途端に、オーデルでの戦いもラズミルでの日々も、全部がまるで夢だったかのように遠のくのを感じた。俺は今、どこにいる?
「まあこっちもこっちで大変だったがな。お前がいなくなった後……、三月の中頃にまた大規模な戦闘があった。その戦いで仲間が大勢死んだよ。ライアンも、パウルも、アレックスも、あの戦いで死んじまった……」
ブラウンは遠くに視線をやって切なげに語った。……みんな、俺も知ってる名前だ。そしてきっと彼らを殺した者達のことをも、俺は既に知っている。
俺達は兵士だ。敵国の地まで踏み入って戦った、その果てに死んでいった命に、今更「なぜ」などと嘆くことはない。分かりきっていたことだ、死ぬことも、殺すことも……。
それなのにこの涙の中でどうしようもなく渦巻くものは何なのだろう、もう、分からなくなってしまった……。
「何人の仲間が死んだのだろう」
俺はそう呟いた。俺が言う“仲間”が一体誰のことを言っているのか、それすらも分からないままで。
さあ、とブラウンは小さな声で言った。それでも俺は口にせずにはおれなかった。
「……何人、殺したんだろう」
捕虜という身分で許されていた戦争からの離脱、そして穏やかにさえ思えたラズミルでの日々……。黒髪の仲間、尊敬するイグノール殿下、その混血の王子……。その中で忘れようとしてもこびりついた記憶が、この街へ来て一層鮮やかに蘇る。
何人殺したかなんて数えてない。ブラウンも同じなのだろう、さあな、と同じように呟くのが聞こえた。
「ヘルマン、まだ泣き崩れるのは早いぞ。戦争は終わっていない、今日も二人の仲間が殺された、お前も見たんだろう。三月以降この町で戦いは起こっていなかった、だがそれが今日破られたんだ。俺達は兵士だ、安穏とはしていられない……これからまた戦いが始まる」
そう語りながら彼はまた酒瓶をコップの上で傾けた。
その酒とともに言葉を受け取り、そしてこの喉の奥へと飲み込んでいく……、ああ、兵士とはかくあるべきなのだろう。つらい思いをしているのは自分だけではない。
だけど力強い相槌も、不敵な笑顔も到底ひねり出すことができない。俺に兵士は向いてない……いつかヨハンに言われた通りだ。
「分かってる、分かってるよ……」
涙に濡れた声で言ったのは、どうしようもなく下手くそな嘘だった。だけど俺が今更どれだけ泣き叫んだって戦いは収まらないだろう。既に戦闘は起こってしまった、既に人が死んでいる。
やっと視線を上げる、涙で滲んだその中で、しかしブラウンの表情も張り詰めているのが分かった。
今日突然切って落とされた戦いの火蓋、それに受けた衝撃はきっと彼の方がずっと強い。ここパーティルでは、三月以降戦闘も起こってないと言うのだから。
そんな友の顔を見て、俺は目を閉じた。今はただ、同じ気持ちの同胞とこの酒を分け合う、それだけでいい。難しいことも苦しいことも全部、全部明日になってから考えよう。
今はただ、懐かしい故郷の景色に思いを馳せよう。……あの方が生まれ育った大地を覆う、あの美しい空を……。
パーティルの郊外で戦闘となったのはトレンティアの正規軍人四名。我らが若き王子ヨハン殿下と、その仲間ティガルによって呆気なくそれを制圧したのは喜ぶべきことだった……しかし敵はそれだけではなかった。
どういう事情かは皆目見当もつかないが、トレンティア軍に味方をするズミ人の一団、彼らの奇襲を受けてティガルは負傷し……、その後のことは分からない。
ズミ人相手に攻撃をしかけていいものかと迷っている間に彼らに腕を掴まれ、俺はあっという間に引きずり込まれてしまったのだ。
「トレンティア兵か! ここは俺達に任せておけ!」
そんな頼もしい声掛けとともに後ろへと引っ張られ、負傷がないかとか何だとか言われながら揉まれている間、俺は何も、言葉すら言えないでいた。
戦闘は長引くことなく、一団は他の負傷した兵士を連れて引き下がることになったらしい。俺に為す術はなにもなかった。
あれよあれよと言う間に状況は動き、ヨハン達が仕留め損なったトレンティア兵が、俺の顔を見て顔をしかめる。
「お前誰だ!?」
もともと兵装を着ていないこともあって、パーティルの兵士でないことはすぐに見抜かれてしまい、あっという間に拘束される。
話を聞かせてもらおう、なんて言って引き摺られ、連れられたのは……ああ、懐かしいなんて言葉で片付けるにはあまりにも皮肉! パーティルの中に構えた、トレンティア軍の本拠地ではないか。
負傷した兵士二人はすぐに治療室へ担ぎ込まれ、俺はズミ人達に引っ張られて砦の奥へ入っていく。かつて将軍アンデル・デニングが座した司令官室の椅子の上には……、なぜだ? 小洒落たトレンティアのドレスを身に纏った、それは美しい女が座っていた。
「失礼します、オルエッタ殿! パーティル郊外でトレンティア兵が襲撃を受けました! 我々は近くにいたので戦闘に気付いてすぐに駆け付けたんですが……、力及ばず、二名の兵士が殉職を」
報告するのはズミ人の戦士だ。その騒々しさを聞いて、椅子に座っていた貴族の女はかっと目を見開いて立ち上がった。
……まだ二十代だろうか、着ているドレスからして貴族だろうということは分かるが、髪はズミ人のようにゆったりと流し、その白い顔の上に光る青い瞳は……、ああ、端的にひどい美人だ!
「二名の兵士は負傷し、今治療を受けています。一名は軽症だったのですぐにこちらへ来ると思いますが……、それで、この男はそこで捕まえた謎のトレンティア人です。事情を知っているかと思って連れてきたのですが」
そう言って縛られた俺を指さした。俺はただわなわなと目を震わせてその貴族の女……オルエッタと呼ばれていたか、彼女の美貌を見上げていた。
周辺では騒ぎを聞きつけて、他の駐屯兵が集まってくる気配がある。この状況で自分はどうするべきなのか、そう迷っていられる時間も長くなかった。
周りにいるのは紛うことなき敵、そして既に武器は取り上げられ、拘束された俺一人。がむしゃらに歯向かったって死ぬだけだ。生き延びなければならない!
そして生き延びるために活用できることといえば、気が動転していたってすぐに分かる。イグノール殿下の部下ですなんて言った時には、それもまた死ぬだけなのだから。
「パ……、パーティル守備部隊九班……一等兵ヘルマン・グリスです! 長らくズミ人に捕らえられ、捕虜として連行されていましたあ!」
そう威勢よく俺は名乗った。途端に周囲にはどよめきが走る。それを聞いてやっと、オルエッタは口を開いた。
「尋問はこちらでします。ズミの皆様は下がってくださって大丈夫ですわ。あなた方の心遣いに感謝いたします」
そう、涼しげにさえ聞こえる美しい声で言ったのを聞いて、ズミ人達は威勢よく返事をして、言われるままに引き下がっていった。彼らが去ると、そこには俺も含めて金髪の者だけが残る。
そして周囲に集まってきていた兵士のうちの一人が俺の顔を覗き込む。
「ヘルマン・グリス? 本当にお前か!? とっくに死んだものと思っていたが……」
俺がこの部隊を離れたのはちょうど半年ほど前のことだ、あの時と違って少人数になったとはいえ、まだ顔を憶えてくれている者はいる。
ああ……俺にそう声をかけてくる男を、俺も憶えいている。確か俺より三年ぐらい先輩の、エリック・ブラウンではないか!
「ブラウン殿! まだこちらにおられたんですね! ああ、再び会えてよかった……、神聖なるトレントへ感謝を!」
そう俺は本物の感動を口にする。涙さえ浮かんできそうだった。ブラウンも仕方なさそうに乾いた笑みを浮かべ、拘束されたままの俺の背中をばしばしと叩いた。
「ああ、本当にお前というやつは……悪運が強いな! オルエッタ様、彼は確かに間違いなくパーティルの守備部隊の隊員です。半年前の戦闘の際に行方知れずになっていました」
そう言ってオルエッタの方を見た。彼女はどこか呆れたような表情を浮かべている。
「分かりました、とりあえず拘束は解いてやりなさい。もう夕刻ですが、取り急ぎ話を聞かせてほしいですわ。よろしくて?」
それは俺に向かって聞いたのだろう、たぶん。しどろもどろに頷く。手を後ろで縛っていた縄はすぐにブラウンが切ってくれた。
……拘束を解かれた。ひとまず殺されることはなさそうだ。いや、それどころか俺は彼らの信用を得てすらいる。それもそうだろう、何一つ嘘は言っていないのだから。
突然の状況に急に感情が高ぶっていく……、もしかしてこの状況、俺は敵地へ潜入工作をしているのでは!?
ヨハンはこの地からトレンティア兵を排除する任務を負っている。謎のズミ人達の介入があるにせよ、あの冷血の魔剣士がそれを違えることはないだろう。であればそのうちここにも彼は押しかけて来てくれるはずだ。
それまでの間……、ここで帰還した兵士のふりをしていれば死なずには済むだろう。もののついでに、あわよくば、自分は敵軍の状況を調べておこう。……完璧な計画だ!
そう胸の内で勝利のポーズを取ってみせた俺に、オルエッタは軽やかで美しい声を掛けてくる。
「グリスと言うのですね、始めまして。わたくしはリナ・オルエッタ・カディアル。夫と共にこのズミの地へ来て、軍のお手伝いをさせていただいておりますの。お見知りおきくださいませ」
戦地たる外国まで来て、その貴婦人の名乗りを聞くのはまるで異国情緒だ。
女性までこんなところに来ているなんて、さすがカディアル家というところだろうか。……いや、それにしても不可解だ。
呆気にとられてその顔を見つめている俺に、オルエッタは構わず言葉を続ける。
「半年ぶりの帰還とのことですが、詳しくお話を聞かせてくださいな。あなたはここでの戦闘でズミ人に捕えられて攫われたと?」
「は、はい。ズミのレジスタンス部隊に捕えられ、恥ずかしながら……彼らの元で働かされていました。ジンク地方の森の集落でしばらく働き、その後北へ……オーデルへ連れられ、そのままラズミルまでも……」
上手い嘘は言えない。隠さねばならないことだけは喋らないように気を付けて、俺はありのままのことを語る。オルエッタの目はすぐに驚きに見開かれた。
「ラズミルへ? それがどうして再びパーティルへ来たのです。あなたを連れていたズミ人は何者ですか」
「ラズミルに駐在していたズミ軍の兵士です。ここへ来た目的は……知りません。ですが元パーティルの守備兵だった俺なら、街の地理も明るいだろうと言って連れてこられ……」
そう語ったのは嘘だった。彼の目的はこのトレンティア本部をぶっ潰すことだと知っているし、俺が連れてこられたのは地理に明るいからではなく、彼の父君から言いつけられての目付役である。しかし怪しい嘘ではないはずだ、たぶん。
「ラズミルから来たというのであればあなたは貴重な情報源になるでしょう、改めてゆっくりとお話を聞かせていただきたいですわ。こんな所ではなんです、あなたも疲れていることでしょうし、今日は休みなさい。ではブラウン殿、彼のことは頼みましたよ」
オルエッタは睫毛の長いぱちりとした目を細めて、まるでこちらの腹の底を探るような視線になって言った。……そんな風に感じるのは、嘘をついている後ろめたさからくる気のせい、かもしれない。
いや、どちらにしても確かに、俺がラズミルから来たのであればトレンティア軍として聞きたい話は山ほどあるだろう。
じっくりと尋問されるに違いない……下手なことを喋ってしまわないように気を付けないと、と今から明日のことを思って唾を飲み込んだ。
やっぱり、ラズミルから来たなんてのも隠したほうが良かったのだろうか。上手い嘘のつき方は分からない……。
言いつけられたブラウンは仕方なさそうにため息をついた。
「敵に捕まっていたとはいえ、報告と帰還の義務を怠って半年も消えていたんだ。本当なら厳罰も免れない立場なんだぞ、司令官がオルエッタ様でよかったな。寝床は本部の宿直部屋で我慢しろよ」
ブラウンの言うその言葉ももっともだった。これがデニングが指揮しているままの軍だったなら当然厳罰対象だ。除名処分を受けて無理矢理国へ帰らされたかもしれない。
尋問を受けるのは快くないが、ラズミルの情報を持っているという理由でここに留められるならそれもまた僥倖というものだ。
そうでなくとも、このオルエッタという女性なら俺を厳しく罰することもないかもしれない。いくらカディアル家の者と言っても、普通は女性が軍の司令官になれるはずはないのだから。
夫とともに、と言っているからカディアルの騎士の誰かの妻なのだろう。それがどうして司令官扱いになっているのか、経緯はよく分からないが。
しかし誰だかは知らないが、その夫というのが出てきたら危うい。いや、今回のような重大事件が起こったのだ、これから出てくる可能性は十分にある。
そうなれば俺の身はどうなってしまうのだろう? 想像をすると途端に怖くなってきた。果たして、ヨハン様が助けに来てくれるまで俺の命はもつのだろうか……。
不安になったところで、今はトレンティア軍の言いなりになるしかない。拘束は解かれたもののブラウンに連れられるまま、俺は軍の宿直室へと閉じ込められることになる。
しかしその部屋に俺を押し込んだ後も、ブラウンはすぐに立ち去る気配を見せなかった。何やら棚の中からぶどう酒の瓶を取り出してきた。
俺が目を輝かせたのが分かったのだろう、ブラウンはまた呆れたように笑って、木のコップを出してきてくれた。食器はズミ風だ。
「再会を祝して」
そう軽く言って俺達はぶどう酒のコップをぶつけ合う。喉へ流し込んだその風味は、ああ、本当に味わうのはいつぶりだろう。
いい酒か悪い酒かももはや分からない、ただその香りと味がじわりと胃を温め、かっと熱の昇った頭からぼろりと涙が零れた。……イグノール殿下も飲みたいと言っていた、故郷の酒の味だ。
「よくもまあ敵国の地ではぐれて生きて帰ったもんだ」
何も言えずにただ涙を流す俺を見て、ブラウンは穏やかな声をかけてきた。
ああ、自分でもそう思う。あの時初めてティガルに捕まった時も、そこから逃げ出して今度は殿下達に捕まった時も、自分は死ぬのかもしれない、きっと死ぬのだろう、そう思っていた。
生きてこの場所へ戻ってきたことは、本当に奇跡的なことだった。
そして今、俺はかつての友と顔を合わせて故郷の酒を飲んでいる。その途端に、オーデルでの戦いもラズミルでの日々も、全部がまるで夢だったかのように遠のくのを感じた。俺は今、どこにいる?
「まあこっちもこっちで大変だったがな。お前がいなくなった後……、三月の中頃にまた大規模な戦闘があった。その戦いで仲間が大勢死んだよ。ライアンも、パウルも、アレックスも、あの戦いで死んじまった……」
ブラウンは遠くに視線をやって切なげに語った。……みんな、俺も知ってる名前だ。そしてきっと彼らを殺した者達のことをも、俺は既に知っている。
俺達は兵士だ。敵国の地まで踏み入って戦った、その果てに死んでいった命に、今更「なぜ」などと嘆くことはない。分かりきっていたことだ、死ぬことも、殺すことも……。
それなのにこの涙の中でどうしようもなく渦巻くものは何なのだろう、もう、分からなくなってしまった……。
「何人の仲間が死んだのだろう」
俺はそう呟いた。俺が言う“仲間”が一体誰のことを言っているのか、それすらも分からないままで。
さあ、とブラウンは小さな声で言った。それでも俺は口にせずにはおれなかった。
「……何人、殺したんだろう」
捕虜という身分で許されていた戦争からの離脱、そして穏やかにさえ思えたラズミルでの日々……。黒髪の仲間、尊敬するイグノール殿下、その混血の王子……。その中で忘れようとしてもこびりついた記憶が、この街へ来て一層鮮やかに蘇る。
何人殺したかなんて数えてない。ブラウンも同じなのだろう、さあな、と同じように呟くのが聞こえた。
「ヘルマン、まだ泣き崩れるのは早いぞ。戦争は終わっていない、今日も二人の仲間が殺された、お前も見たんだろう。三月以降この町で戦いは起こっていなかった、だがそれが今日破られたんだ。俺達は兵士だ、安穏とはしていられない……これからまた戦いが始まる」
そう語りながら彼はまた酒瓶をコップの上で傾けた。
その酒とともに言葉を受け取り、そしてこの喉の奥へと飲み込んでいく……、ああ、兵士とはかくあるべきなのだろう。つらい思いをしているのは自分だけではない。
だけど力強い相槌も、不敵な笑顔も到底ひねり出すことができない。俺に兵士は向いてない……いつかヨハンに言われた通りだ。
「分かってる、分かってるよ……」
涙に濡れた声で言ったのは、どうしようもなく下手くそな嘘だった。だけど俺が今更どれだけ泣き叫んだって戦いは収まらないだろう。既に戦闘は起こってしまった、既に人が死んでいる。
やっと視線を上げる、涙で滲んだその中で、しかしブラウンの表情も張り詰めているのが分かった。
今日突然切って落とされた戦いの火蓋、それに受けた衝撃はきっと彼の方がずっと強い。ここパーティルでは、三月以降戦闘も起こってないと言うのだから。
そんな友の顔を見て、俺は目を閉じた。今はただ、同じ気持ちの同胞とこの酒を分け合う、それだけでいい。難しいことも苦しいことも全部、全部明日になってから考えよう。
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