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第十一章 ラズミル武闘大会
138話 剣部門 VSヨハン
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休憩時間を過ごしている間にまた空が暗くなってきた気がする。それは単に僕の気が重たくなったせいだけではないだろう。空を見上げるとそこを覆った灰色の雲は、今にも雨粒を落としそうな湿気を帯びていた。
「ひと雨降るかもしれんな。さすがに雨が降ったら試合をする方も観る方も不便だろう、その時点で残った試合があれば明日へ延ばそう」
モルズがパウルとそう相談をしているのが聞こえてきた。
この空模様では決勝戦まで全てを今日中にやるのは難しいかもしれないが、ともかくも雨が降り出すまではと、試合は引き続き行われるようだった。
「それでは二回戦を始める! 一回戦で勝ち上がったのはズミ軍からもイグノール軍からも二名ずつ……果たして勝者は誰になるか! まずはズミ人同士の決着だ! 東、ジル・クロルハ・ルヴァーク! そして西は魔剣将軍ヨハン!」
名前を呼ばれ、僕は重たい視線にぐっと力を入れて上げた。
誰と当たっても油断などできないことは分かりきっていたことだが、彼もまたロダム同様に予選を勝ち上がった剣士だ、当然気は抜けない。
僕と比べれば大柄であることに変わりないが、しかしロダムと比べればその体はまだ人間サイズである。まだまともに剣を交えて戦おうという気分にはなれた。
一回戦では直接の交戦を割け続けて「卑怯な戦い方だ」などと評された、その汚名を晴らすことが少しはできるだろうか。
控え場から肩を並べてステージへ向かう時、ジルはその険しい視線をちらりと僕に向けてきた。
「ヨハン殿、手合わせをするのは初めてですね。どうぞよろしくお願いします」
そう丁寧に挨拶までしてきた。やや驚いて僕も彼に視線を返す。
「ああ、よろしく……」
お互いに感情の乏しい声で挨拶を交わし、僕達はステージの上へ上がって剣を構えた。
既に空からぽつりと水滴が落ちてきたのを感じるが……、まだ気にするほどの程度ではない。
「始めーっ!」
モルズも雨には構わずそう高らかに号令を上げた。静かだったジルの眼差しに途端にかっと力が入り、その構えは迷いなく攻勢の動きに出る。
僕とて体の中で高ぶった熱を、ぐっと飲み込むように奥歯を噛んで、剣を握る手に力を入れた。
素早く、力強い踏み込みと共に剣を振ってくる、その太刀筋のキレの良さはどうにも、力任せに鈍器を振っていたという様子のロダムとはタイプが違う。
僕も精一杯の力を込めてその刀身にぶつけにいくように剣を振った。途端に空中で交わった剣同士は大きく衝突の音を上げ、金属同士が擦れたそこに火花さえ散ったような気がした。
手に跳ね返ってくる力の感触を確かめても、やはり強い。ロダムと比べればまだ……と言っても、僕より大柄なことには変わりない。
その逞しい見た目に違うことなく、鍛錬を怠ってもいないのだろう、筋力は僕より格段に上だ。ただ剣同士で押し合えば不利だということはすぐに悟れた。
身を引きながら攻撃をいなす、しかしジルは余計に攻勢を強めてすかさず二振り目を繰り出してくる、やはり精確で力強い太刀運びだ。
身を捩るだけでは躱しきれず、咄嗟に剣を運んでまたそれを受け止めた、その衝動でまたがくりと体が揺れる……容赦のない、重たい連撃の嵐のようだった。
なんとか刀身を手繰りながらその攻撃を防ぎ、自慢の足で飛び退いて距離を取る、しかしやはりジルは様子を見ることもなく真っ直ぐ猛進してくる……、気が付けばあっという間に僕は防戦だけに追い込まれていた。
ロダムより体格は小さくとも、素早く的確な攻撃だ……躱し続けることが苦しい。
その時になってやっと、最初の一撃を真正面から受け止めてしまったことが下策だったと悔やんだ。ロダムと比べればまだまともに剣を交える気分になれる……なんて思ったのは侮りだっただろうか。
いや、始めから厳しい相手だとは分かっていたはずだ。相手がロダムだろうとジルだろうと、当然クラウスだろうとパウルであってさえ、誰もが僕よりも背も歳も高い男ばかりだ。ほとんどの選手よりも体の小さい僕は、誰と対峙しようとその戦い方が不利なことは分かりきっている。……命のやりとりをしない試合において、僕は所詮弱小なのだ。
それがなぜ真正面から戦おうなんて気分を起こしてしまったのか……、そんな後悔にも似た苦い思いはしかし、ロダムとの試合で観客達から投げられた屈辱的な言葉によって、焼けるように浮き彫りになっていく。
格上の相手に打ち勝つには正攻法では敵わない。逃げ回り、つつくような小さな攻撃を重ね、相手を逆上させて余裕を奪い、消耗させて絡め取る、そんな陰湿な立ち回りしなければ……。
だけどそれは本当の剣士の戦い方ではない。そんな自分の弱さを受け入れるのが、嫌だった。苦く、悔しい思いは燻られるように次第に頭へと昇っていく。
次々と繰り出されるジルの攻勢を防ぎ、躱し、時々には隙を狙って反撃をするが、恐ろしく隙の少ない剣士だった、無茶をすればその動きを逆手に取られてたちまちに制圧されてしまう、そんな恐怖が先立ってなかなか攻め上がれない。
ただ攻撃を受けるだけでは消耗するばかりだ、そして力勝負に持ち込まれれば僕に勝ち目はない。
……これは、負ける。勝てない。そう悟るのには十分すぎる実力差だった。それでも正々堂々と、正面から自分の実力をぶつけるべきだった、だけど……これは任務だ。
ここでそれを投げ捨てて負けを認めてしまえば、あんな屈辱を被ってまでロダムを下した、その思いさえ棒に振ることになってしまう。僕は勝たねばならなかった。
だけどどうやって? 一旦この状況に追い込まれて、ここからどう打開する?
始めから正攻法を捨てたロダム戦と違って、挽回の必要があった。そんな妙案は焦った頭には思い浮かばない……どうにかして、どうにかして勝たなければ……。
頭を巡らせたところで、その思考はかえって四肢の動きの邪魔をするだけだ。
そのつもりはなかった、だけどどうしても集中が散逸する、その隙を見逃さんとばかりに鋭くなったジルの眼差しに刺されて、僕は一瞬息が止まる思いがした。
次の瞬間にがしと交わった剣に込められた力は強い、かろうじて剣を取り落とすことは免れた、しかしその衝撃によって怯んだ体が、咄嗟に動かない。
まるで凍りついたように感じた視界の中で、確かにジルだけはぐるりとその腕を大きく動かす。
ああ、これは負けたと、その瞬間に冷えた思考が流れ込んできた。卑怯だどうのという以前の問題だ、ここから挽回なんて不可能だった。任務失敗、か。
次の瞬間にジルが繰り出してきたのは刺突だった。まるでとどめをさすような動きだ、しかしそれは僕の喉や胴体ではなく、動けないまま空中に遊んでいたその刀身の、細い幅の真ん中を穿ってくる……
咄嗟に剣を握る手に力は込めたが、怯んだ体幹を立て直しもできていない、真正面からの男の刺突をそれで受け切れるとも思えなかった。
しかしジルの剣の切っ先が僕の剣の刀身を突いた、その力は存外に小さかったようだ。それだけで剣が弾け飛んだり、僕の体が押されて倒れるというようなことはなかった。キンと金属同士がぶつかる甲高い音が鳴って、両者はそこに食い留まった。
敗北を悟って放心すらしていた僕は、既に何も考えてはいなかった。ただ剣を握った手に込めた力が、ほとんど無意識のままに体を動かす。
余った力をそのまま振り切るように、横向きに構えていた剣をジルの手元に向けて振った。彼は刺突の構えをざっと引き、振られた僕の剣を受け止める。
そしてその足は……それ以上前へとは、踏み込んでこない。
ジルの動きは奇妙に停止したかのようにさえ見えた。その瞬間に血が巡るように僕の世界は動き出す。
振り切った先から剣を切り返して再度ジルの剣を押す、それを彼はまた受け止めたが、その体は退くような重心を取り始める。
すかさず今度は僕が前に踏み込んで、最大の力がこもる角度で……、真上から叩き下ろすように剣を振った。
斜めに構えていたジルの剣をそれは叩き、耳に痛い音を鳴らして擦れていく、その瞬間にジルの苦しげな呻きが僅かに漏れたのが分かった。
僕の渾身の一振りにジルは体のバランスを崩し、その瞬間には受け身も取ることができなかったようだ。
下へ振り切った剣を、無心で今度は振り上げる。ジルが両手で握っていた剣の柄の尻をがつんと打ち飛ばすように。
剣の切っ先はジルの腕の防具を削り、そして確かに刀身の腹が目当ての場所を叩いたことによって、彼の手の中から剣の柄が押し出されて、空中にすっぽ抜けていった。
既に雨粒が舞っていた灰色の空を背景に、銀色の剣がくるくると回りながら飛んだ、その光景を見て僕はもはや呆気にとられていた。……何が起こった?
「そこまでーっ! なんという接戦、防戦に追い込まれたかと思ったが見事な逆転劇だ……、勝者はヨハン!」
モルズの号令を聞いて我に返る。僕は剣を振り上げた姿勢のまま、目を見開いてジルの顔を見つめた。
ジルは少しだけ苦しそうな顔をしていたが、しかし僕の呆けたような視線を受け止めて、ふっと小さく笑ったのだ。
その瞬間に僕は、奇妙にも彼の意図が分かってしまった。……これは、勝利などではない。僕は確かに負けていたのだ。
「どうして」
僕はただ呟いた、その声は自分でも驚くほどに弱々しかった。ジルは仕方がなさそうに微笑んだまま右手を差し出してくる。
「いい試合でした。母から聞いていた通り……素晴らしい武勇を備えたお方だ」
そこには清々しい言葉さえ浮かべて僕を賞賛する。
その態度が余計に僕の神経をぞわりと逆撫でした、瞬間に僕はその手を取ることさえなくジルに激しい剣幕を向けていた。
「ふざけるな! 僕を馬鹿にしているのか!? なんであんな……」
口走った声も思わず荒くなる。ジルはやや驚いた様子で目を丸くしたが、すぐにきりと眉を引き締めて鋭い視線を向けてきた。
「ヨハン殿、今はそのようなことを言うべき時ではありません。皆を見てください」
そんな言葉に促されてハッとして振り向くと、モルズの審判を受けて、歓声を上げる観客達の喧騒があった。「いい勝負だった!」「ちっこいのによくやったぞヨン!」「ジルも負けてなかったぞー!」
僕達の熱戦にすっかり盛り上がった彼らの野次は、やっぱりどうにも無責任だ。しかし確かにそこに沸いている歓声を前にして……、今はジルと言い争うような空気ではない。
僕は言葉も失って、やがてただ促されるままに力なくジルの右手を取って握手をした。観客達の無責任な賞賛の言葉を背に浴びて、腹には石のように重たいものを抱えていた。
降る雨は次第に強さを増していく。歓声の中にも慌てて雨から逃げる人々の姿が目立ち始める。
それをどこか遠くに見ながら僕はしばらくそのままで、ただ呆然としていた。ジルの大きな手を握って重なった右手を、雨粒が淡々と濡らしていく。
「雨が強くなってきたから今日の試合はここまでだ! 中途半端になってしまってすまないが、引き続きの二回戦と決勝戦は明日以降、雨が上がり次第行う! さらなる白熱の試合を待望されよ!」
モルズがそう言い放ったのを合図に、また歓声を沸かせながらも観客達もめいめいに撤収していくようだ。
にわかに動き出した人の流れに紛れるように、やがて僕もジルも控え場の方へと引き下がる。
ジルは前を向いて僕に視線も向けないまま、静かな声色で言った。
「言っておきますが、言葉に嘘偽りはありませんよ。……あなたの剣は素晴らしかった。あなたは王者たるに相応しいお方だと、私はそう思います」
それは静かながらに力強い声でもあった。それ以上の追求を言外に阻む、そんな圧力がこもっている。
しかし語られた内容を僕は理解することもできなかった。……何を考えているんだ、この男は。
だけど僕にはそれ以上怒る気力もなかった。まるで全部の力を根こそぎ奪われたような、そんな脱力感の中でただ黙っている。
……雨は強まっていくばかりだ、今日の試合はもう切り上げだ。
選手の控え場も、各々片付けや帰宅の準備をする選手達は忙しなさそうだった。その中でもパウルはやっぱり上機嫌に僕の勝利を讃えてくるが、相手にする気にもならない。
恐る恐るクラウスの顔を窺うと、彼もまた厳然な表情のまま僕を見つめ、しかしすぐに小さなため息をついて目を逸らした。
「あなた様はまだお若い。今は甘んじるほかありませんね」
そんな投げやりにも聞こえる言葉を言うだけで、それ以上は僕も返事もできずに言葉は途切れた。
僕はロダムとの戦いの後よりも更に重たいものを抱えて、ただどっと大きなため息をついた。
雨に濡れていても仕方がないので、アザルを連れて衛生兵の席までジュリを迎えに行き、さっさとナートへ引き上げることにする。
あの試合の中で僕達の間で交わされたものが何だったのか……、傍目には分かることもないのだろう。今日も帰路の途中でアザルが興奮した様子でまくしたてる。
「やっぱりヨハン様は凄いな! 剣もあんな上手いなんて……、他の兵士と比べたらずっと若いのに、ほんとにすげえ……! 次はいよいよ決勝戦だよね、絶対勝ってな!?」
そんな無邪気な少年の声を聞くと余計に力が抜けてしまう。呆れて僕はため息をついた。
「あんな勝ち方、勝ったの内に入らない……。剣の腕はまだまだ弱小だよ」
そう返すと、アザルは困ったように首を傾げてしまった。
「そ、そうかあ……? でも勝ちは勝ちじゃないか。ロダムさんとの試合は……なんか、卑怯だとかなんとか言われてたけど、それでもあんなでっかい人に勝ったんだもん、やっぱり凄いよ! それにジルさんって人との試合は正々堂々やってちゃんと勝ったじゃないか」
それは僕を励まそうと思って言ってくれているのだろうが、余計に傷を抉られるような思いしかしなかった。
そんな純真な少年を前にして、僕は取り繕うこともできずただ荒っぽいため息をまたつくだけだ。返事をする気すら起きなかった。
そんな僕を、アザルもジュリも不安そうな顔で見つめていたが……、もう僕にはどうすることもできなかった。
ただそれでも、そうまでしてでも、「優勝をしろ」というモルズから下された任務のためだけにまだ、これからの試合のことも見据えていかなければならない。
ナートの居室へ戻ると、いつもならアザルに字の読み書きや道具の手入れを教えたりして時間を過ごしていたが、どうにも今日はその気分にならなかった。
見るからに陰鬱な僕を見て彼もそれを察したのだろう。困ったままの顔で、何かを言い出すような気配もなかった。
「アザル、今日は試合でヨンも疲れてるでしょうしあなたも休んでていいですよ。また明日」
見かねたジュリが気遣って、アザルを彼の部屋へと帰してしまった。僕はそれにもちらりと視線を向けるだけで何も口出しはしなかった。
ジュリはと言うと、僕の心中を何となくは察しているのだろうか。しかし彼女もどこか疲れた様子で、僕を慰めたり構ってきたりすることもなく、ただ力なくベッドの上に寝そべってしまった。
何を言うでもなく僕はその妻の元へ寄って隣に腰掛けた。ジュリの憂鬱そうな目が僕を見上げてくる。
「うーん……、私に試合のことは分からないですけど、そんな不服だったんですか?」
そしてそう訝しげな声を向けてきた。僕はげんなりとした顔で肩を落とす。
「ジルは……、わざと僕に負けたんだ」
ぽつりと零すように、僕は端的に言った。その内容にはジュリもさすがに驚いたらしく、目を丸くして戸惑いの声を上げた。
「え、な、なんで……?」
「知らないよ。……僕はこの大会で必ず優勝しろと、モルズから言われている。もしかしたらジルもそれを知っていたのかもしれない。モルズの意図が何なのかも分からないけど……」
語るほどにまた傷が抉れていくようだ。
そうまでして勝たなければいけない理由は分からないし、たとえ何のためであったとしても、他の選手が真剣に戦っている大会で、そんな八百長試合をさせられることが不服でないわけがない。はっきり言って屈辱だ。
戦士ではないジュリにもさすがに、そんな話が褒められたこととは思わないのだろう。不機嫌そうに眉を寄せて唸り始めた。
「じゃあヨンが勝った訳ではないのか……」
そんなことを呟いた妻の言葉は存外に痛かった。思わず呻きたくなるのを飲み込んで、僕は奥歯を震わせながらそれを必死に受け止めていく。
「そもそも最初から予選免除なんておかしな話だし、ロダムとだってちゃんと戦っていれば負けていた。ジルにも当然……。僕は一度も勝ってなんかないよ」
自分自身で受け入れようと、そう覚悟を決めたつもりで言ったことは、いざ言葉にしてみるといよいよ情けない。余計に頭が重たくなってきて僕はがくりと項垂れた。
そんな弱々しい夫を見てジュリは何を思うだろうか。彼女だって女だ、当然夫には力強い男であってほしいと願うものではないだろうか。
……もちろん僕がまだ若いことは分かっていたことだし、これから成長の余地はあるかもしれないし、何にせよそんな僕を夫にすることを選んでくれたのだ、その思いを疑う訳ではないけど。
ああそうだ、今は自分の弱さと情けなさに打ちひしがれることしかできない。だけどジュリが隣にいてくれることは……、こんな僕を選んでくれた女性がいてくれることはせめてもの救いというものだろうか。
縋るような思いで僕はベッドの上で寝そべっているジュリにそっと身を寄せた。
その上に覆いかぶさるように体を重ね、髪を撫でながら口付けをする……何気もない、いつもと同じ夫婦のやりとりだった。
「ちょ、と、ヨン。まだ明るい……」
ジュリは恥ずかしそうに言って身を捩るが、あまり聞く気分にはなれなかった。
今日は雨が降っててできることも少ないし、試合も終わったのだし、アザルも部屋に帰した。きっと誰かが訪ねてくることもないだろう。
何よりこの陰鬱な気分を少しでも晴らしたかった。その衝動に責め立てられるかのように僕は妻の体をじっくりと撫でる。
「ヨン……」
ジュリはなおも躊躇いがちに僕の名前を呼び、両手で僕の胸を押し返して拒もうとする。
その顔色を見てもどこか青ざめていて、ただ恥ずかしがっているという訳でもなさそうだ。さすがに僕は少しだけ困った表情を浮かべて手を止めた。
「すみません、ちょっと今日は……、なんか体調悪いので」
弱々しい声でそう言った。僕は表情もそのままで、どうすればいいのか分からず固まっていた。
すぐにジュリは身を丸めるようにして僕の腕の下から逃げて布団の隅に寄ってしまった。
……普段は時間ができても本を読んだり薬を作ったりし始めるのに、この時間から布団に入るということは、本当に体調が悪いのだろう。
だけどそうとは頭で分かっていても、何か言い知れぬ衝撃が僕の胸の中では渦巻いていた。結婚してから、こんなふうに拒まれたのは初めてだったのだ。よりによって僕がこんなに落ち込んでいる時なのに、なんて栓のない恨み言がつい浮かぶ。
彼女の心だって本当のところは分からない。もしかするとこうして住居を得て交戦が落ち着いた日常の中、ジュリだって心変わりを起こすことだってあるかもしれない。
武闘大会などという催しで力強い剣士の姿を数多見る中で、それに比べて卑怯な戦い方しかできない弱い夫に失望のようなものを抱くこともあるかもしれない。
僕達は想い合って夫婦になったはずだが、考えてみれば彼女が僕のどこを好きになったのかなんて知りもしない。今になって聞く勇気もない。
僕はすっかり挫けてしまった気持ちを抱えて、ジュリとは背中同士を向けたまま布団の上で寝そべった。
嫌なことが続くと嫌なことばかり考えてしまう……、今日はもう何も考えずに寝るのがよさそうだ。
「ひと雨降るかもしれんな。さすがに雨が降ったら試合をする方も観る方も不便だろう、その時点で残った試合があれば明日へ延ばそう」
モルズがパウルとそう相談をしているのが聞こえてきた。
この空模様では決勝戦まで全てを今日中にやるのは難しいかもしれないが、ともかくも雨が降り出すまではと、試合は引き続き行われるようだった。
「それでは二回戦を始める! 一回戦で勝ち上がったのはズミ軍からもイグノール軍からも二名ずつ……果たして勝者は誰になるか! まずはズミ人同士の決着だ! 東、ジル・クロルハ・ルヴァーク! そして西は魔剣将軍ヨハン!」
名前を呼ばれ、僕は重たい視線にぐっと力を入れて上げた。
誰と当たっても油断などできないことは分かりきっていたことだが、彼もまたロダム同様に予選を勝ち上がった剣士だ、当然気は抜けない。
僕と比べれば大柄であることに変わりないが、しかしロダムと比べればその体はまだ人間サイズである。まだまともに剣を交えて戦おうという気分にはなれた。
一回戦では直接の交戦を割け続けて「卑怯な戦い方だ」などと評された、その汚名を晴らすことが少しはできるだろうか。
控え場から肩を並べてステージへ向かう時、ジルはその険しい視線をちらりと僕に向けてきた。
「ヨハン殿、手合わせをするのは初めてですね。どうぞよろしくお願いします」
そう丁寧に挨拶までしてきた。やや驚いて僕も彼に視線を返す。
「ああ、よろしく……」
お互いに感情の乏しい声で挨拶を交わし、僕達はステージの上へ上がって剣を構えた。
既に空からぽつりと水滴が落ちてきたのを感じるが……、まだ気にするほどの程度ではない。
「始めーっ!」
モルズも雨には構わずそう高らかに号令を上げた。静かだったジルの眼差しに途端にかっと力が入り、その構えは迷いなく攻勢の動きに出る。
僕とて体の中で高ぶった熱を、ぐっと飲み込むように奥歯を噛んで、剣を握る手に力を入れた。
素早く、力強い踏み込みと共に剣を振ってくる、その太刀筋のキレの良さはどうにも、力任せに鈍器を振っていたという様子のロダムとはタイプが違う。
僕も精一杯の力を込めてその刀身にぶつけにいくように剣を振った。途端に空中で交わった剣同士は大きく衝突の音を上げ、金属同士が擦れたそこに火花さえ散ったような気がした。
手に跳ね返ってくる力の感触を確かめても、やはり強い。ロダムと比べればまだ……と言っても、僕より大柄なことには変わりない。
その逞しい見た目に違うことなく、鍛錬を怠ってもいないのだろう、筋力は僕より格段に上だ。ただ剣同士で押し合えば不利だということはすぐに悟れた。
身を引きながら攻撃をいなす、しかしジルは余計に攻勢を強めてすかさず二振り目を繰り出してくる、やはり精確で力強い太刀運びだ。
身を捩るだけでは躱しきれず、咄嗟に剣を運んでまたそれを受け止めた、その衝動でまたがくりと体が揺れる……容赦のない、重たい連撃の嵐のようだった。
なんとか刀身を手繰りながらその攻撃を防ぎ、自慢の足で飛び退いて距離を取る、しかしやはりジルは様子を見ることもなく真っ直ぐ猛進してくる……、気が付けばあっという間に僕は防戦だけに追い込まれていた。
ロダムより体格は小さくとも、素早く的確な攻撃だ……躱し続けることが苦しい。
その時になってやっと、最初の一撃を真正面から受け止めてしまったことが下策だったと悔やんだ。ロダムと比べればまだまともに剣を交える気分になれる……なんて思ったのは侮りだっただろうか。
いや、始めから厳しい相手だとは分かっていたはずだ。相手がロダムだろうとジルだろうと、当然クラウスだろうとパウルであってさえ、誰もが僕よりも背も歳も高い男ばかりだ。ほとんどの選手よりも体の小さい僕は、誰と対峙しようとその戦い方が不利なことは分かりきっている。……命のやりとりをしない試合において、僕は所詮弱小なのだ。
それがなぜ真正面から戦おうなんて気分を起こしてしまったのか……、そんな後悔にも似た苦い思いはしかし、ロダムとの試合で観客達から投げられた屈辱的な言葉によって、焼けるように浮き彫りになっていく。
格上の相手に打ち勝つには正攻法では敵わない。逃げ回り、つつくような小さな攻撃を重ね、相手を逆上させて余裕を奪い、消耗させて絡め取る、そんな陰湿な立ち回りしなければ……。
だけどそれは本当の剣士の戦い方ではない。そんな自分の弱さを受け入れるのが、嫌だった。苦く、悔しい思いは燻られるように次第に頭へと昇っていく。
次々と繰り出されるジルの攻勢を防ぎ、躱し、時々には隙を狙って反撃をするが、恐ろしく隙の少ない剣士だった、無茶をすればその動きを逆手に取られてたちまちに制圧されてしまう、そんな恐怖が先立ってなかなか攻め上がれない。
ただ攻撃を受けるだけでは消耗するばかりだ、そして力勝負に持ち込まれれば僕に勝ち目はない。
……これは、負ける。勝てない。そう悟るのには十分すぎる実力差だった。それでも正々堂々と、正面から自分の実力をぶつけるべきだった、だけど……これは任務だ。
ここでそれを投げ捨てて負けを認めてしまえば、あんな屈辱を被ってまでロダムを下した、その思いさえ棒に振ることになってしまう。僕は勝たねばならなかった。
だけどどうやって? 一旦この状況に追い込まれて、ここからどう打開する?
始めから正攻法を捨てたロダム戦と違って、挽回の必要があった。そんな妙案は焦った頭には思い浮かばない……どうにかして、どうにかして勝たなければ……。
頭を巡らせたところで、その思考はかえって四肢の動きの邪魔をするだけだ。
そのつもりはなかった、だけどどうしても集中が散逸する、その隙を見逃さんとばかりに鋭くなったジルの眼差しに刺されて、僕は一瞬息が止まる思いがした。
次の瞬間にがしと交わった剣に込められた力は強い、かろうじて剣を取り落とすことは免れた、しかしその衝撃によって怯んだ体が、咄嗟に動かない。
まるで凍りついたように感じた視界の中で、確かにジルだけはぐるりとその腕を大きく動かす。
ああ、これは負けたと、その瞬間に冷えた思考が流れ込んできた。卑怯だどうのという以前の問題だ、ここから挽回なんて不可能だった。任務失敗、か。
次の瞬間にジルが繰り出してきたのは刺突だった。まるでとどめをさすような動きだ、しかしそれは僕の喉や胴体ではなく、動けないまま空中に遊んでいたその刀身の、細い幅の真ん中を穿ってくる……
咄嗟に剣を握る手に力は込めたが、怯んだ体幹を立て直しもできていない、真正面からの男の刺突をそれで受け切れるとも思えなかった。
しかしジルの剣の切っ先が僕の剣の刀身を突いた、その力は存外に小さかったようだ。それだけで剣が弾け飛んだり、僕の体が押されて倒れるというようなことはなかった。キンと金属同士がぶつかる甲高い音が鳴って、両者はそこに食い留まった。
敗北を悟って放心すらしていた僕は、既に何も考えてはいなかった。ただ剣を握った手に込めた力が、ほとんど無意識のままに体を動かす。
余った力をそのまま振り切るように、横向きに構えていた剣をジルの手元に向けて振った。彼は刺突の構えをざっと引き、振られた僕の剣を受け止める。
そしてその足は……それ以上前へとは、踏み込んでこない。
ジルの動きは奇妙に停止したかのようにさえ見えた。その瞬間に血が巡るように僕の世界は動き出す。
振り切った先から剣を切り返して再度ジルの剣を押す、それを彼はまた受け止めたが、その体は退くような重心を取り始める。
すかさず今度は僕が前に踏み込んで、最大の力がこもる角度で……、真上から叩き下ろすように剣を振った。
斜めに構えていたジルの剣をそれは叩き、耳に痛い音を鳴らして擦れていく、その瞬間にジルの苦しげな呻きが僅かに漏れたのが分かった。
僕の渾身の一振りにジルは体のバランスを崩し、その瞬間には受け身も取ることができなかったようだ。
下へ振り切った剣を、無心で今度は振り上げる。ジルが両手で握っていた剣の柄の尻をがつんと打ち飛ばすように。
剣の切っ先はジルの腕の防具を削り、そして確かに刀身の腹が目当ての場所を叩いたことによって、彼の手の中から剣の柄が押し出されて、空中にすっぽ抜けていった。
既に雨粒が舞っていた灰色の空を背景に、銀色の剣がくるくると回りながら飛んだ、その光景を見て僕はもはや呆気にとられていた。……何が起こった?
「そこまでーっ! なんという接戦、防戦に追い込まれたかと思ったが見事な逆転劇だ……、勝者はヨハン!」
モルズの号令を聞いて我に返る。僕は剣を振り上げた姿勢のまま、目を見開いてジルの顔を見つめた。
ジルは少しだけ苦しそうな顔をしていたが、しかし僕の呆けたような視線を受け止めて、ふっと小さく笑ったのだ。
その瞬間に僕は、奇妙にも彼の意図が分かってしまった。……これは、勝利などではない。僕は確かに負けていたのだ。
「どうして」
僕はただ呟いた、その声は自分でも驚くほどに弱々しかった。ジルは仕方がなさそうに微笑んだまま右手を差し出してくる。
「いい試合でした。母から聞いていた通り……素晴らしい武勇を備えたお方だ」
そこには清々しい言葉さえ浮かべて僕を賞賛する。
その態度が余計に僕の神経をぞわりと逆撫でした、瞬間に僕はその手を取ることさえなくジルに激しい剣幕を向けていた。
「ふざけるな! 僕を馬鹿にしているのか!? なんであんな……」
口走った声も思わず荒くなる。ジルはやや驚いた様子で目を丸くしたが、すぐにきりと眉を引き締めて鋭い視線を向けてきた。
「ヨハン殿、今はそのようなことを言うべき時ではありません。皆を見てください」
そんな言葉に促されてハッとして振り向くと、モルズの審判を受けて、歓声を上げる観客達の喧騒があった。「いい勝負だった!」「ちっこいのによくやったぞヨン!」「ジルも負けてなかったぞー!」
僕達の熱戦にすっかり盛り上がった彼らの野次は、やっぱりどうにも無責任だ。しかし確かにそこに沸いている歓声を前にして……、今はジルと言い争うような空気ではない。
僕は言葉も失って、やがてただ促されるままに力なくジルの右手を取って握手をした。観客達の無責任な賞賛の言葉を背に浴びて、腹には石のように重たいものを抱えていた。
降る雨は次第に強さを増していく。歓声の中にも慌てて雨から逃げる人々の姿が目立ち始める。
それをどこか遠くに見ながら僕はしばらくそのままで、ただ呆然としていた。ジルの大きな手を握って重なった右手を、雨粒が淡々と濡らしていく。
「雨が強くなってきたから今日の試合はここまでだ! 中途半端になってしまってすまないが、引き続きの二回戦と決勝戦は明日以降、雨が上がり次第行う! さらなる白熱の試合を待望されよ!」
モルズがそう言い放ったのを合図に、また歓声を沸かせながらも観客達もめいめいに撤収していくようだ。
にわかに動き出した人の流れに紛れるように、やがて僕もジルも控え場の方へと引き下がる。
ジルは前を向いて僕に視線も向けないまま、静かな声色で言った。
「言っておきますが、言葉に嘘偽りはありませんよ。……あなたの剣は素晴らしかった。あなたは王者たるに相応しいお方だと、私はそう思います」
それは静かながらに力強い声でもあった。それ以上の追求を言外に阻む、そんな圧力がこもっている。
しかし語られた内容を僕は理解することもできなかった。……何を考えているんだ、この男は。
だけど僕にはそれ以上怒る気力もなかった。まるで全部の力を根こそぎ奪われたような、そんな脱力感の中でただ黙っている。
……雨は強まっていくばかりだ、今日の試合はもう切り上げだ。
選手の控え場も、各々片付けや帰宅の準備をする選手達は忙しなさそうだった。その中でもパウルはやっぱり上機嫌に僕の勝利を讃えてくるが、相手にする気にもならない。
恐る恐るクラウスの顔を窺うと、彼もまた厳然な表情のまま僕を見つめ、しかしすぐに小さなため息をついて目を逸らした。
「あなた様はまだお若い。今は甘んじるほかありませんね」
そんな投げやりにも聞こえる言葉を言うだけで、それ以上は僕も返事もできずに言葉は途切れた。
僕はロダムとの戦いの後よりも更に重たいものを抱えて、ただどっと大きなため息をついた。
雨に濡れていても仕方がないので、アザルを連れて衛生兵の席までジュリを迎えに行き、さっさとナートへ引き上げることにする。
あの試合の中で僕達の間で交わされたものが何だったのか……、傍目には分かることもないのだろう。今日も帰路の途中でアザルが興奮した様子でまくしたてる。
「やっぱりヨハン様は凄いな! 剣もあんな上手いなんて……、他の兵士と比べたらずっと若いのに、ほんとにすげえ……! 次はいよいよ決勝戦だよね、絶対勝ってな!?」
そんな無邪気な少年の声を聞くと余計に力が抜けてしまう。呆れて僕はため息をついた。
「あんな勝ち方、勝ったの内に入らない……。剣の腕はまだまだ弱小だよ」
そう返すと、アザルは困ったように首を傾げてしまった。
「そ、そうかあ……? でも勝ちは勝ちじゃないか。ロダムさんとの試合は……なんか、卑怯だとかなんとか言われてたけど、それでもあんなでっかい人に勝ったんだもん、やっぱり凄いよ! それにジルさんって人との試合は正々堂々やってちゃんと勝ったじゃないか」
それは僕を励まそうと思って言ってくれているのだろうが、余計に傷を抉られるような思いしかしなかった。
そんな純真な少年を前にして、僕は取り繕うこともできずただ荒っぽいため息をまたつくだけだ。返事をする気すら起きなかった。
そんな僕を、アザルもジュリも不安そうな顔で見つめていたが……、もう僕にはどうすることもできなかった。
ただそれでも、そうまでしてでも、「優勝をしろ」というモルズから下された任務のためだけにまだ、これからの試合のことも見据えていかなければならない。
ナートの居室へ戻ると、いつもならアザルに字の読み書きや道具の手入れを教えたりして時間を過ごしていたが、どうにも今日はその気分にならなかった。
見るからに陰鬱な僕を見て彼もそれを察したのだろう。困ったままの顔で、何かを言い出すような気配もなかった。
「アザル、今日は試合でヨンも疲れてるでしょうしあなたも休んでていいですよ。また明日」
見かねたジュリが気遣って、アザルを彼の部屋へと帰してしまった。僕はそれにもちらりと視線を向けるだけで何も口出しはしなかった。
ジュリはと言うと、僕の心中を何となくは察しているのだろうか。しかし彼女もどこか疲れた様子で、僕を慰めたり構ってきたりすることもなく、ただ力なくベッドの上に寝そべってしまった。
何を言うでもなく僕はその妻の元へ寄って隣に腰掛けた。ジュリの憂鬱そうな目が僕を見上げてくる。
「うーん……、私に試合のことは分からないですけど、そんな不服だったんですか?」
そしてそう訝しげな声を向けてきた。僕はげんなりとした顔で肩を落とす。
「ジルは……、わざと僕に負けたんだ」
ぽつりと零すように、僕は端的に言った。その内容にはジュリもさすがに驚いたらしく、目を丸くして戸惑いの声を上げた。
「え、な、なんで……?」
「知らないよ。……僕はこの大会で必ず優勝しろと、モルズから言われている。もしかしたらジルもそれを知っていたのかもしれない。モルズの意図が何なのかも分からないけど……」
語るほどにまた傷が抉れていくようだ。
そうまでして勝たなければいけない理由は分からないし、たとえ何のためであったとしても、他の選手が真剣に戦っている大会で、そんな八百長試合をさせられることが不服でないわけがない。はっきり言って屈辱だ。
戦士ではないジュリにもさすがに、そんな話が褒められたこととは思わないのだろう。不機嫌そうに眉を寄せて唸り始めた。
「じゃあヨンが勝った訳ではないのか……」
そんなことを呟いた妻の言葉は存外に痛かった。思わず呻きたくなるのを飲み込んで、僕は奥歯を震わせながらそれを必死に受け止めていく。
「そもそも最初から予選免除なんておかしな話だし、ロダムとだってちゃんと戦っていれば負けていた。ジルにも当然……。僕は一度も勝ってなんかないよ」
自分自身で受け入れようと、そう覚悟を決めたつもりで言ったことは、いざ言葉にしてみるといよいよ情けない。余計に頭が重たくなってきて僕はがくりと項垂れた。
そんな弱々しい夫を見てジュリは何を思うだろうか。彼女だって女だ、当然夫には力強い男であってほしいと願うものではないだろうか。
……もちろん僕がまだ若いことは分かっていたことだし、これから成長の余地はあるかもしれないし、何にせよそんな僕を夫にすることを選んでくれたのだ、その思いを疑う訳ではないけど。
ああそうだ、今は自分の弱さと情けなさに打ちひしがれることしかできない。だけどジュリが隣にいてくれることは……、こんな僕を選んでくれた女性がいてくれることはせめてもの救いというものだろうか。
縋るような思いで僕はベッドの上で寝そべっているジュリにそっと身を寄せた。
その上に覆いかぶさるように体を重ね、髪を撫でながら口付けをする……何気もない、いつもと同じ夫婦のやりとりだった。
「ちょ、と、ヨン。まだ明るい……」
ジュリは恥ずかしそうに言って身を捩るが、あまり聞く気分にはなれなかった。
今日は雨が降っててできることも少ないし、試合も終わったのだし、アザルも部屋に帰した。きっと誰かが訪ねてくることもないだろう。
何よりこの陰鬱な気分を少しでも晴らしたかった。その衝動に責め立てられるかのように僕は妻の体をじっくりと撫でる。
「ヨン……」
ジュリはなおも躊躇いがちに僕の名前を呼び、両手で僕の胸を押し返して拒もうとする。
その顔色を見てもどこか青ざめていて、ただ恥ずかしがっているという訳でもなさそうだ。さすがに僕は少しだけ困った表情を浮かべて手を止めた。
「すみません、ちょっと今日は……、なんか体調悪いので」
弱々しい声でそう言った。僕は表情もそのままで、どうすればいいのか分からず固まっていた。
すぐにジュリは身を丸めるようにして僕の腕の下から逃げて布団の隅に寄ってしまった。
……普段は時間ができても本を読んだり薬を作ったりし始めるのに、この時間から布団に入るということは、本当に体調が悪いのだろう。
だけどそうとは頭で分かっていても、何か言い知れぬ衝撃が僕の胸の中では渦巻いていた。結婚してから、こんなふうに拒まれたのは初めてだったのだ。よりによって僕がこんなに落ち込んでいる時なのに、なんて栓のない恨み言がつい浮かぶ。
彼女の心だって本当のところは分からない。もしかするとこうして住居を得て交戦が落ち着いた日常の中、ジュリだって心変わりを起こすことだってあるかもしれない。
武闘大会などという催しで力強い剣士の姿を数多見る中で、それに比べて卑怯な戦い方しかできない弱い夫に失望のようなものを抱くこともあるかもしれない。
僕達は想い合って夫婦になったはずだが、考えてみれば彼女が僕のどこを好きになったのかなんて知りもしない。今になって聞く勇気もない。
僕はすっかり挫けてしまった気持ちを抱えて、ジュリとは背中同士を向けたまま布団の上で寝そべった。
嫌なことが続くと嫌なことばかり考えてしまう……、今日はもう何も考えずに寝るのがよさそうだ。
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