サーシェ

天山敬法

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第十三章 戦いの終わり

155話 湯けむり女子会

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 独りの夜はとても、重たい。
 いつからか与えられた肌触りの良い布団は、一人で寝るには大きすぎる。その中に身をうずめていると自分がひどく小さくなったように感じた。誰もいない空間を抱き締めて、ただむしょうに涙が出てしまう。
 考えてみれば随分と遠くまで来たものだ……なんて言葉は、一体“どこか出発点だったのか”も分からないのに、変に格好つけて呟いてみたくなる。
 布団は温かく、その生地は上等で肌触りもいい。服だって随分と綺麗なものを着るようになったし、朝夕の食事もしっかりとしたものになった。少し前は、食べるものがあるだけでも贅沢だなんて言い聞かせて必死に生きていたのに……。
 だけどどんどんと居心地がよくなっていく生活の中で、しかしその幸福感をかき消すほどに私を苛むのは毎日胸を襲う悪心だ。
 夫との子どもを授かった、そのために現れた症状だと言う……始めは嬉しくて、ずっと吐き気に苛まれている時間さえ、我が子に会うために神様が与えた試練のように思えて心地よかった。
 しかしこうも長続きするといい加減にうんざりしてくる。いつまで続くのだろう……。そして何よりも、それを独りで抱えている夜が重たかった。
 夫は、夜ベッドに入ると私の腹を優しい手つきで撫でて、まだ外からでは何も分からないそれをじっと見つめて、まだ大きくならないなとか、男かな女かなとか、無事に生まれてくるとしてもまだずっと先の話なのに……呆れるほど、飽きもせず語りかけるのだ。
 その夫が、今はいない。その重たさが余計に私の体を苛んでいくように感じた。
 暗く重たい夜に、私は飽きもせずに彼の顔を思い浮かべる。今はどうしているだろうかと……戦争に、戦いに行った彼を案じる言葉はそう代わり映えもしない。
 ちゃんと生きて帰って来るのだろうか、酷い怪我をしてはいないだろうか。もし……もしも戦場で命を落とすようなことがあってしまったらどうしよう、なんてことは想像しただけでも耐え難いのに、戦争に行った以上その可能性は当然あってしまって……。
 彼が死んでしまったら私はどうなってしまうのだろう。お腹の子どもはどうなるのだろう。
 あんなにも毎日のように、飽きもせずに腹の上からそれを撫でて愛おしんでいた父親の顔を、声を知らずに生まれ育ってしまうのだろうか。……考えただけで涙が滲んでくる。

 そんな夜をいくつも抱えて迎えた日の昼下がりに、私は何の気力もなくてただぐったりと部屋で本を開いていた。
 どうせ字面を追うこともしないのに開いている本は……、トレンティアの魔道書を翻訳したものだ。
 書庫から適当に拝借してきたものだが、後から書き足されたらしい注釈文が行間にぐちゃぐちゃと踊っている……誰が書いたのだろう。そんなことだけをぼんやりと考えていた。
 そんな時間に、ばたばたと慌ただしい足音を立てる者がある。先ほどに所用に出かけた従者が戻ってきたのだろう、それにしても随分と慌ただしい……。
「王妃様! た、大変ですっ! 聞いて聞いて!」
 私の従者となった女性カトラは、いつも朗らかで賑やかな性格だったが……その時の彼女はいつにも増して騒がしかった。
 大変です、なんて言った彼女の言葉を聞いて私も思わず飛び上がった。はずみで本が机から落ちてしまったのを慌てて拾い上げる。
 瞬時にして不安は胸にざわめくが、どうにも明るい顔色のカトラを見て呆気にとられた。
「今サダナムから伝令の人が来て街に報せを……! 勝ちました、ズミ軍の勝利です! トレンティア軍は降伏したって! ああサーシェ! 偉大なる神々に感謝を!」
 カトラははちきれんばかりの喜びを顔と声とに浮かべてはしゃいだ。その言葉を聞いて、私は数秒呆気にとられたまま動けなかった。
 サダナムの戦いに勝った、それが何を意味するのかが私にはよく分からなかった。
 ズミの国土の中でそこが最後に残された被占領地だったとは聞いていた。それを懸けた戦いに勝ったということは、もしかして戦争は終わったのだろうか。
 何年もの間ずっと続いていた戦争が、ついに? そう物事は単純ではないのかもしれない。
「陛下は? 無事なの?」
 結局私が口にした疑問はそれだけだった。戦争の結果なんかよりも、なんて言葉を思ってしまうのは王妃として良くないことだっただろうか。
 カトラは満面の喜びの顔をしゅんと落として悲しそうに眉を寄せた。
「あ……陛下もその戦闘でご負傷されたようで……軍で治療を受けておられるそうです。でも命に別状はないって言ってました、きっとすぐ良くなられますよ!」
 その言葉を聞いて私は余計に慌てふためいた。
 ヨンのことだ、どうせ国王になってもなお最前線に突っ込んで無茶したに違いない。本当にどうしようもない男だ!
「怪我した!? それはどんな……えっと、アルド先生……あっ、サダナムにいるのか。わ、私も行かなくちゃ……」
 しどろもどろになってそんな言葉が口を突くが、カトラは呆れたような顔になってしまった。
「何言ってるんですか」
「だってヨ……陛下が怪我したら私が治してあげないと……。もう戦いは終わったんだから安全でしょ?」
「いやいや、治療を受けてるから大丈夫ですって、落ち着いてくださいよ王妃様。まだつわりが続いているんでしょう? 無理をしてはダメです」
 そう宥めてくるカトラの言葉を聞いて、私は焦った頭のままでなんとか椅子に座り直す。
 ……そうだ、まだ悪心が続いている。慌ててサダナムへ飛び出していったところで満足に治療師も務まらないかもしれない。
 いやいやそもそも、自分は王妃ではないか。よりによって妊娠中の王妃が遠方の町へ出向くなんて、それだけでもおおごとだ。命に別状がないと分かっているのなら焦ることはない……そう、落ち着け落ち着け……。
 ズミ軍の衛生兵にも、魔道兵養成所や私とアルドが隊内で広めたところから回復魔術の使い手は少しずつ増えているし、ほかでもない国王の治療が後回しにされることもないだろう。冷静に考えればそう慌てることなんてないじゃないか。
 王妃なんて肩書になってしまったのも突然のことで、やっぱりまだ衛生兵だったころの癖がいまいち抜けきらない……。
 ともかくヨンは治療を受けているのだ、戦いも終わっている、きっと無事に帰って来るのだ。そのことを思って、急にどっとした安堵がのしかかってきた。
「そ、それもそうね。それで、じゃあ陛下はいつ戻って来るの」
 私は小さく咳払いをしてカトラに聞いた。
「それは、えーっと、勝ったもののサダナムの街の被害が酷いらしくって、復興を手伝うために怪我が治ってもしばらく滞在するって話で……」
「ええ? じゃあいつ帰ってくるのよ」
 思わずげんなりとしたため息が零れてしまう。戦いが終わっても会うこともできないというのか? 国王夫婦とはなんと不便なものなのだろう。
 カトラも困った顔になって唸ってしまった。
「じゃあ王妃様、陛下にお手紙を書きましょう! 早く帰ってきてほしいって……」
「それは……早く会いたいけど、でもやっぱり国王の仕事なんだし、邪魔するわけにも……」
 私は曇った声で答えた。既にすっかり落ち着いているシュナートやラズミルと比べて、戦場となったサダナムはきっと酷い状態なのだろう。
 そこで戦禍に見舞われた民のことを思えば……そこに国王がいてくれることがどれほど救いになることか、私だって想像することぐらいはできる。それがただ寂しいから会いたい、なんていう一人の女の我儘と釣り合うはずもない。
「会いたいって気持ちを伝えるぐらいいいじゃないですか! ねっ、それに早く陛下に戻ってきてほしいのは何も王妃様だけじゃなくて、ラズミルの民もみんな思ってるんですから!」
 カトラはなおも調子が良さそうにそう笑顔を浮かべている。しかし私は曇った顔のまま首を傾げるだけだ。
 しばらくの空位の後に現れた若き新王、それは武闘大会を利用した盛大なパフォーマンスの甲斐もあってか、ラズミルでも人気が高いようだった。
 当然自ら武器をとって戦場に切り込んでいくその勇ましさに偽りもない。力強く勇敢な国王に近くにいてほしいのは、サダナムもラズミルも、どこの民も同じことだろう。
 オーデルやクスダンにいた頃は……たった一人の私の恋人だったのに、と思うと随分と遠い存在になってしまったように感じる。余計に寂しい……なんて言うのは、この戦乱の時代には贅沢というものなのだろう。
「まあまあ王妃様、お気持ちは分かりますけど、とにかく勝ったんですよ、今はもっとパーッと浮かれましょうよ! 待ってりゃ陛下もそのうち帰ってくるんですから!」
 カトラは抜けたように明るい声で言って両手を上げている。そんな彼女を見ていると自分の煩悶もいやに小さいことのように思えて、がくりと力が抜けた。
 ……まあ、その通りでもある。戦争には勝った。ヨンも怪我をしたとはいえ命に別状はない。まだしばらく会えないようだが、そのうち帰って来るといえばそうだ。王都はラズミルなのだし、なんであれ私達は夫婦なのだから。今くよくよしていたって仕方がない。
「ああそうそう、全然違う話なんですけど、ラズミルに温泉ができたって聞きました? ずっとお部屋にこもっていたら気も滅入りますから、ちょっと息抜きに浸かりに行きません? ね、王妃様!」
 私を励まそうとしてくれているのだろうか、カトラはそう話を変えて明るく言ってきた。
「温泉が……できたってどういうこと? 掘ったの?」
 私もそれに付き合って会話をする。
 ズミには温泉が湧き出る場所が多くあるが、さすがにラズミルの街中に湧き出しているという話は聞いたことがない。近郊の温泉を入浴できるように整えたということだろうか?
 そう勘繰ったが、カトラは悪戯っぽくにやりと笑った。
「それがですねえ、王宮の中に作ったんですって! 魔法で! 温泉を!」
「魔法で温泉を……作った? 誰が?」
 私も目を丸くしてそれを繰り返す。いくら魔法と言ったって、何でもかんでも思い通りのものを創造してしまうような都合の良い技術でないことは私も知っている。
 何かそれを模したものでも作ったということなのだろうか……しかしラズミルにそんな魔法技士がいるとは聞いたことがない。
「さあ、詳しい話は私もよく知らないんですけど、ともかく作ったって評判なんですよ。まだ試験中だから普通の人は浸かれないらしいんですけど、王妃様が浸かりたいと言えば断れる人なんていませんよ! ねえ、こっそりお忍びで! 行ってみましょ!」
 カトラはぐいぐいとそう迫ってくる。……ようは私の名前を利用して、彼女が行きたいだけではないか……なんて思って呆れた顔を浮かべてやる。
 しかしまあ、本当に温泉に浸かれるのなら悪い話でもない。王妃となった今は気楽に街の外の温泉に出かけることも難しいが、ラズミルの王宮であれば多少は融通が利くし。
 魔法で温泉を作り出すなんて、それもカトラが聞いただけの噂話が本当かどうかも甚だ怪しいが、そうだとしたらその魔法技術に関心もあった。
 少しぐらいは気晴らしに出かけてもいいか、なんて思って私はひとまず頷いた。
 王宮はずっと修復工事がされていて、それが落ち着くまではと、私もまだナートの居室で寝泊まりをしているが……今となってはシュナートとラズミルを行き来する者も増え、その間にある街道も次第に街の一部のように連なっている。その移動はそう大層なことでもなかった。
 それでも王族が出歩くとなると騒ぎにもなるので、カトラと二人、布を被って顔を隠しながらこそこそとラズミルへと向かうことになった。

 王宮の敷地内に入ってから布を下ろして顔を出す。少し前は建設の作業員が出入りしているばかりのようだったが、今はささやかながらに警備兵がいるようだ。
 私の顔を知っている者もいたようで、慌てて接待の準備をし始める。慌てて私はそれを引き止める。
「ああ、そんな大袈裟にしないでください。王宮に作ったという温泉を見に来ただけなんです」
「温泉……? ああ、あれですか。まだ試験運転中だとかで出入りも禁じられていて……私どももよく知らないんですよ。管理は神殿の者がしているそうで……」
 そんな話を聞いて、今度は王宮神殿へと足を向けた。また慌てて接待しようとする神官を止めて同じ話をする。
「ああ、温泉……。私も見た限りでは別に危険があるとかそういうわけではなさそうなんですが……人を入れるなって教官長がうるさくて。まあ、王妃様がお望みとあればお断りはできないでしょう。場所は一階の北東の……」
 場所を聞き出し、いよいよ私はカトラとそこへ向かった。
 随分と奥まった部屋に作られているらしく、そこへ向かうためには修復途中の王宮の中を進んでいくことになる。
 ……結婚式を挙げた夏の頃とは随分と見違えて、既に立派な建築が出来上がって見える。今でも家具さえ持ち込んでしまえば十分に人が住めそうだ。
 しかしまだ、焼け落ちる前の内装や細部の装飾まで再現しているわけではない。それは幼い頃に見ていた王宮の風景とは……奇妙に間取りだけが同じの、全く違う場所のようだった。
 かつて幼い女官として過ごしていたこの場所が、いずれは王妃としての住まいになっていくのかと……喜びとも寂しさともつかない感傷を抱きながら、今はひとまず温泉の場所へ向かった。

 それにしてもこの立派な建物の中で温泉なんて……室内に穴を掘ったとでもいうのだろうか。
 それは当然のごとく他の部屋同様に壁に囲まれた間取りの中にあり、そこへ入る扉には確かに、教官長の署名とともに立入禁止を告げる札が掛かっていた。
 扉に手をかける時、本当に入っていいのかな、なんて迷いは一瞬よぎってしまったが、まあ、自分は王妃である。神官だってああ言っていたし……と言い聞かせて、思い切ってその引き戸を横に開けた。一体その奥にはどんな景色があるのだろう、と胸を高ぶらせて。
 そしてその目に迎えた温泉の景色は……確かに温かい湯から立ち上がる白い湯気に包まれて、妙に神秘的な……。
「うわああっ! 誰!? 無礼者!」
 そこにいた見目麗しい裸の男は、唐突に訪れた私達に対してそう素っ頓狂な叫び声を上げた。
 窓もない締め切られた広い部屋は、壁に取り付けられた魔法灯に照らされてぼんやりとした光に包まれ、その床の中央に綺麗な四角に窪みが掘られていて、そこに熱い湯がなみなみと湛えられているようだった。
 ちょうど一人で入浴を楽しんでいた様子の教官長は慌てて窪みの近くに積んであった大きな布を引き寄せ、その湯の中で身をくるめて肌を隠したようだ。
「何やってるんですかリョドルさん……」
 私は呆れてそう声をかけてやる。入浴をしているのは一目瞭然だが……。
「ジュ……王妃様? 何やってるんですかはこっちのせりふですよ。なんでこんな所に……」
「王宮の中に温泉ができたなんて聞いたもので、見に来たんですよ。すごいですね、こんな部屋の中にお湯なんて入れて……」
 ぱっと見た限りでは、床に窪みを作ってお湯を入れただけの装置のようである。しかしその窪みは大の大人が座って肩まで浸かれるほどに深く、広さを言えば……大人が十人程も入れるのではないだろうか。
 これだけの量のお湯を温めるのも手間だし、こんなところへ持ってくるのも大変だっただろう。
 リョドルは一人の入浴を邪魔されて不服そうだが、すぐに諦めた顔になってため息をついた。
「水魔法と炎魔法を組み合わせた技術で……、トレンティアにはよくある施設なんですって。パウルから前に聞いて……やってみたくっていろいろ試したんですよ」
「へえ、魔法で作ったというのは本当だったんですね」
「ええ、この窪みの底に書いた魔法陣で魔力を流して……お湯が冷めないように一定に温め続ける仕組みになってます……」
 そう解説をしてくれるので、私もカトラを連れてお湯の入った窪みに近付いた。確かにその底に大きな魔法陣が書かれているのが湯の奥に見える。
 そうしてお湯を覗き込む私達を内側から見上げ、リョドルは何気ない様子で言う。
「王妃様も浸かっていかれます? まあ、私との混浴が嫌でなければですが……」
 もちろん私とカトラはそのつもりで来たのだ、浴場のあるじである彼がいいと言うのなら、遠慮なく浸からせてもらうことにする。
 ご丁寧に部屋の隅には衝立てに仕切られた着替え場所もあるようだ。そこにカトラと入って、持ってきた湯浴み用の服に着替え、喜び勇んで湯の入った窪みの中へ身を投じた。
「うわあ……本当に温泉だ。こんな室内で温泉に入るなんてなんかすごく変な気分……」
 その心地よい湯の温度に身を委ねながら、私はそう悦に入った。同じようにしているカトラもご満悦なようで、すっかりとろけた顔でため息をついている。
 リョドルはまだ布で全身をくるんで隠れている……男なんて腰巻き一つで入浴する者がほとんどだが、どうにも彼は奥ゆかしいようだ。
「いや……、人が来るなんて思ってなかったから……失礼ながら素っ裸だったんですよ。トレンティアでは下着も湯浴み服も着ず、みんな全裸になって入浴してるそうで……」
「ええ!? トレンティア人ってのは皆そんなふしだらなんですか」
「いやまあ、人工温泉がほとんどなので、始めから男と女とで部屋を分けて作るんだそうで。上流貴族や王族にもなると専用の個人温泉を持っているとか……」
 パウルから聞いたのだろう、トレンティアの温泉事情をつらつらと聞きながら、私達は異国の情景を思い浮かべる。トレンティアに旅行したことはあるものの、人工温泉なんて見学する機会はなかった。
 それでも王都の町並みは見たことのある私と違って、カトラは余計に想像がつかないのだろう、心底不思議そうな顔で唸っている。
「戦争が終わったなら、またトレンティアに渡ることもできるでしょうかね……」
 私は半年前に見た景色を思い出しながらぼんやりと言う。
 あの時は……潜入任務のために渡ったヨンとパウルに付いていっただけだったが、今度渡ることがあるのなら当然、全く立場は変わるだろう。
 王妃になってしまったからには、それはそれで窮屈な旅しかできないのかもしれないけど……。
「王妃様はトレンティアに行ったことがあるんです!?」
 驚いた声になってカトラが聞いてくる。確かに、普通は行く機会なんてないから驚くだろう。リョドルも目を丸くしてこちらを見てきた。
「ええ……あの頃はパウルさんと陛下とフェリアと……四人だけで旅をしてたのよ。パウルさん達がトレンティアの貴族の人と繋がりを作って、戦争中だったけど行くことになって。男二人はなんだかトレンティアでも戦ってたけど、私はついていっただけで。畑も町もすっごく大きくて、魔法の学校があって、トレントっていう空まで届くような大きな樹が生えてて……」
 そう語っていると、半年前のことが随分と懐かしい。
 何度思い返しても不思議だ、まさかあの時は私とヨンが結婚して、国王夫婦になるなんて想像もしていなかった。
 ……あの時、ロードの屋敷で出会ったトレンティアの姫の姿をふと思い出した。今となってはもはや、私も彼女と近いところにいる……。
「へえ、もともと王妃様と陛下は一緒に旅をする中で恋人になったって話は聞きましたけど、トレンティアに行ったことまであったんですね。異国まで一緒に旅をしていたなんてなんだか素敵です……。どうりで仲がいいわけですよねえ、ほんとうに羨ましいわあ」
 カトラはきゃっきゃと楽しそうにはしゃいでそんな雑談を始めた。
 そんなことを改めて言われると少し恥ずかしくなってくるが……考えてみれば恋愛結婚をした王なんて、今までの歴史を振り返れば珍しいだろう。
 彼と共にしていた旅は……羨ましい、なんて言われるほどやさしいものでもなかったようには思うが……。
「これでも最初は酷かったのよ。他に行くところも頼る当ても何もない状態であの二人と会っちゃって、こんな小娘足手纏いだから捨てていこう、なんて言われたもん。あの頃はヨン……陛下も、すっごく冷酷というか無愛想で……いやそれは今もそんなに変わってないか……」
「ええ、嘘でしょう!? それがどうしてそんな仲良くなったんですか」
「彼が戦いで怪我ばっかりするから、治療してあげてたら……? なんかいつの間にかそんな感じに」
「へええ……」
 人の恋路を聞くカトラは心底楽しそうで、お湯の心地よさも相まってすっかり緩やかで温かい空気に包まれていた。息抜きに、なんて連れ出されてきて良かったな、と私も思う。
 そんな話題で華やぐ女二人を、リョドルも薄く微笑みを浮かべながらじっと聞いていたようだ。身をくるめた布から片腕だけを突き出して、溝の外側の床で頬杖をついてゆるりと脱力している。
「今のうちにゆっくりお湯に浸かってください。これもまだ試行錯誤中なんですけど……、このお湯には私独自の水魔術を仕込んでいましてね、浸かっていると肌の表面を美しく整える効能があるんですよ」
 そう得意そうに言うので、思わず私は浸かっているお湯を見つめる。
 透明色のいたって普通の湯に見えるが……、言われてみるとそこに微かな魔力が漂っているのも分かった。魔力感度がやたらと高いヨンなどが浸かれば身震いしそうである。
「王妃様の肌が綺麗になれば陛下も喜ぶことでしょう。彼が帰ってくるまでにしっかりご準備を」
 続けてからからと笑うリョドルは、どうやらまた下品なお節介を考えているらしい。思わずじっとりとした視線で睨んでしまった。
 まったく、教官長になって少しは身を正したかと思ったが、やっぱり根っこの態度は変わっていないらしい。
「清らかな青声せいしょう様は一体誰のために準備をしているんです?」
 そう皮肉った返事をしてやると、リョドルの笑顔は一瞬だけ凍りついた。すぐに口を尖らせてぷいとそっぽを向く。
「自分のためです。自己満足。やっぱりできるだけは若々しく美しくいたいですからねえ」
 そう言う彼は確かに、四十を迎える男のくせにやたらと肌も髪も美しい。
 このお湯に仕込んだ魔術も然り、以前に作っていた魔法の髪油も然り、魔法を使った美容法に相当凝っているのだろう。
 しかしただ自分のため、などという主張は疑わしい。彼は男色家である、女性と交わったことがない青声だからといって、どうせ男相手には清らかではないのだ。
「パウルさんのためじゃないんですか?」
 率直に聞いてやると、途端にリョドルは大きく咳払いをし始めた。彼との関係は……あまり隠せているようには見えなかったが、隠しているつもりだったのかもしれない。
「パウルとは……もうそういうのじゃないから」
「もう……ってことは何ですか、別れたんですか」
「そ、そんな感じ。あまり人のプライバシーを詮索するんじゃないよ」
 顔を真っ赤にしてそう怒り出した。しかしそんな話は初耳だったらしいカトラが食いついてしまった。
「ええ!? 教官長様、恋人がいらっしゃったんです!?」
「別れたなんて……あんなに仲良さそうにしてたのに、何かあったんですか」
 調子に乗って私も詮索してやる。リョドルはぎっと眉を釣り上げたが、しかしやがて諦めた様子で大きなため息をついた。
「私はズミの教官長! 彼はトレンティアの王族! どれだけ仲良くたって一緒になれるわけがないだろう」
 そう荒っぽく言った言葉を聞いて、思わず言葉が詰まってしまった。
 それだけでカトラも瞬時に事情を察したのだろうか、呆気にとられた顔で目を瞬かせた。構わずリョドルはそっぽを向いて言う。
「戦争に負けたら彼は首を刎ねられるし、勝ったとしたらトレンティアに帰ってしまう。……どっちにしろもう、戻ってこない。君はいいよね、ヨハンとは男と女の夫婦だし、同じ国の人間なんだから……羨ましいよ。パウルはもう……帰ってこない。だからもう、別れたの」
 それは思いのほかに思い詰めたものだったらしい、そう語る彼の声は僅かに震えてさえいた。……どうやら悪いことを聞いてしまったようだ。
 考えてみれば彼の言う通りだ、負けたとしたら殺されるほかに運命はないだろうし、勝ったとするなら彼は故郷を取り戻して黒い森の向こうに帰ってしまう……。
 あのパウルがここに戻ることはもうないのかと、その事実を改めて思うと……恋人だったリョドルほどではないだろうが……なんだか急にぎゅっと胸が締め付けられた。
「ま、この歳で恋人ができるとも思ってなかったからねえ……、短かったけどいい夢を見させてもらったよ。……もう抱いてももらえないのに、ほんと何のためにこんなことしてるんだろうね」
 何やら開き直り始めたらしく、そうぐだぐだと愚痴を零しながらリョドルは床に顔を突っ伏してしまった。壮年の男色家にかけるべき言葉は……私にも分からなかった。
 しかし困ってしまった私を差し置いて、カトラが呆れたような声を上げた。
「別れたって言いながら未練たらたらじゃないですか……。そんなに好きならどうにかならないんです? 相手がトレンティア人だっていうなら……そうですね、もう教官長スパッとやめちゃって、彼を追いかけてトレンティアに移るとか!」
 他人事だと思ってえらく軽々しい提案をし始めた。
「教官長なんてわりとさっさとやめる人も多いでしょう? 王族と違って世襲ってわけでもないんだし」
 リョドルも呆れた顔になって視線を上げる。
「まあね……、実際やめれるタイミングがあるならスパッとやめるつもりではあるけど……、それにしたってトレンティアに移住はちょっとなあ……。生活の様式も、信じる神様さえも違う国で暮らすなんて怖すぎるよ……」
「確かに神官さんがズミの神様のいない土地で暮らすのはつらそうですねえ……。でも愛する人と一緒になれるのなら、それを信じて新天地に挑戦するなんて素敵だと思いますよ!」
「その愛する人というのがこれまたひどい女たらしでね……。なんたって王族だぞ、どうせまた跡取りが必要だからとか言って何人も妃を娶るんだ。男の愛人なんてすぐに捨てられるよ」
「それは確かに厳しいですねえ……」
 きっと彼にとっては深刻なことなのだろう……しかし傍で聞いているとなんだか力が抜けてしまう。なんでそんなのを好きになったんだ、という感想しか出てこない。
「口ではね、言うんだよ。絶対に捨てないって、他に妃ももうとらないって、たとえ距離が離れてもずっとお前だけだって……、調子がいいよねほんと、だから信用できないんだ……」
 結局また愚痴を言いながらいじけてしまった。全然別れてないじゃないですか、なんて言葉は言いかけたが、そっとしておくことにした。

 そんな重たいのか軽いのか分からない甘酸っぱい雑談を終えてから、私達は湯から上がった。確かに、湯に浸かる前より肌の表面がさらさらになったような気がする。
 私達が衝立ての内側で体を拭いて着替えている間に、先に服を着終えたリョドルは入浴後の片付けのために魔法陣を弄っていたようだ。
 どういう仕組みなのかは分からないが、着替え終えて衝立ての外に出ると窪みに溜まっていたお湯がこつ然と消えていた。
「ではまあ切り替えて……仕事に戻りましょうかね……」
 力の抜けた調子で言うリョドルと、なんとなくカトラと三人で肩を並べて部屋を出る。
「そういえば教官長ってすっごく忙しいんじゃないんですか? のんびり温泉なんて浸かる時間よくありましたね」
「陛下の家庭教師がなくなったからだいぶと……。地方都市から優秀な神官も集まってきてくれているし、教官長の任務を手放せる日もそう遠くないかもしれません。王妃様の御加減はいかがですか?」
「まだつわりが酷い日が多くて……。忙しいということはないんですけど、むしろ体調さえよければ暇なんですけど……」
「まあ……以前から王族も女性は皆お暇そうでしたもんね。だからミョーネ様もあれだけ魔道研究に時間を費やせていたわけで……」
 リョドルはうっすらと目を細めて、一度滅びる前の王宮の光景を思い起こしているようだった。
「そういえば……そうですね。私はもう軍の仕事をすることもなくなって暇ですし、ミョーネ様の研究の続きをするべき時ですよね。つわりが落ち着いたら取り掛かろうかな……」
 ぼんやりと考えながら言った。思い出してみればここのところずっと、王妃という肩書に慣れなくて目を回しているばかりで、ミョーネの著作の研究は疎かになっていた。
 リョドルとパウルとアルドと共同でやっていたその研究に、一番時間を割けるのはこの際私である。他の面子もそれぞれ多忙な中、ここは私が率先して取り組まねばいけないのではないだろうか。
「ああ、私もぜひとも携わりたい。やっぱり早くスパッと教官長やめないと……」
 うずうずとした様子でリョドルは言うが、まあ……そう都合良くはいかないだろう。
 今更のふとした思いつきだったが、ミョーネという王女の魔法研究を、同じく王族の女となった私が主となって引き継ぐ、なんて話には少し胸が踊った。
 パウルもヨンも、サダナムで苛烈な戦いに身を投じたことだろう。それをただ案じ、気弱に待っているだけの王妃でいるわけにはいかない。
 夫が帰ってきた時に、私だって私の役目を頑張っているんですよと胸を張れるように、なんて思って……その時私は確かに決意を新たにした。
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