サーシェ

天山敬法

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第十三章 戦いの終わり

156話 湯けむり男子会

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 国境の都市サダナムの戦闘は、それが終わってからも……いや、終わってからこそが本当の戦争というものなのかもしれない。そんなことを思うほどに騒動の中にあった。
 トレンティア軍の司令官は討ち死に、それによってカルロス自身が司令官権限を得て降伏の判断を下したと言う。
 その時点で生き残っていたトレンティア兵も、ズミ軍及び市街中で遊撃に当たっていたレジスタンス兵も順次戦闘を終えていくこととなる。
 しかしロードの指揮やズミ国軍の呼びかけがあるにもかかわらず、興奮しきった民兵達はなかなか暴れることをやめず、終戦直後は既に戦意を失ったトレンティア兵を保護する役回りに走る必要さえあった。
 降伏したトレンティア兵の無用な殺戮を避けることは、サダナム守備部隊を代わって取りまとめ、軍隊まるごとで反旗を翻したカディアル家との今後の協力体制のために必要なことであった。
 かといって不安の種を捨て置くわけでもなく、カルロスは自ら自軍内の危険分子を炙り出し、なおも抗戦の姿勢を見せる者の首を容赦なく刎ねて回った。
 その処刑の様はズミ人達の良い見世物にされ、戦闘で亡くなった者も処刑された者も区別なく、街の一角で大きな血溜まりの上に数多の死体が積み上がることになった……それは凄惨な、勝利の光景だった。

 ズミの国王である僕は戦闘での負傷のため、占領した元トレンティア軍基地の奥深くに収容され、しばらくの治療を受けることとなった。
 レインの魔術が持つ毒はそれを浴びた皮膚を溶かすように冒したが……それの治療に当たっては当の術者であるロードが治療薬を提供してきた。
 毒を作った本人が差し出した解毒剤なのだからその効果には期待ができようが、なにせつい先程まで敵だった者だし、他でもない国王の容態に関わることである。
 万が一にも間違いがあってはならない……と、その薬を使用する是非を巡っては煩雑なほどに慎重な検討が重ねられ、実際それを塗られるに至るまでやたらと時間を要した……。
 一度塗ってしまえばその効果は間違いなくてきめんであった。まるで毒を浴びたこと自体が嘘だったかのように皮膚の状態は健康に戻る。
「しばらくはかゆみや乾燥程度の後遺症が出るかもしれませんので、保湿の軟膏をこまめに塗るといいでしょう」
 平然とした顔で言うロードの言葉を聞きながら、僕は仏頂面で黙っていた。本当に、敵と味方とが忙しなく入れ替わる男だ。
 ともかく健康体に戻った僕はすぐに仕事に駆け回る羽目になった。国王の仕事とは……この頃ようやく分かりつつあったが、その大半がただ報告を聞いて頷くことにあった。
 いや、本来ならその報告に応じて判断や指摘をするべきなのかもしれないが、まだそこまで仕事には慣れない……。
 皆が皆己の役目に駆け回り、その状況を逐一報告してくれる、その必死の様子を見ていると、あれこれと指示をすることに引け目さえ感じてしまう。
 入ってくる報告はほとんどが軍の動きだ。暴徒の鎮圧、戦火のどさくさに紛れる無法者の取り締まり、怪我人の救護状況、亡くなった将校の配置調整、主要な建築や道路の倒壊の修繕状況等々……。
 判断自体はほとんど大将軍レノルに一任する形にはなっているが、その結果の報告や重要な選択の決定に当たって僕の元へ上がってくる情報はやたらと多い。
 できるだけは耳に入れ頭に入れ、納得してから頷くようにはしているが、あまりに数も多く、僕の知識では及ばない話もまた多く、そして僕の頭脳の体力は浅く、次第にどんどん目が回る……。
 しかも僕の仕事は国王だけというわけにもいかなかった。回復魔術の使い手の中でも血門を持つ魔道士は貴重で、急ぎ必要のある兵士の治療に当たることにもなった……それは主に、紛れもなくこの戦いを制覇するに至らしめた筆頭将校、カディアル兄弟の治療である。
 特に兄クラウスの負傷の程は酷く、両手と両足の骨が砕けて起き上がることもできない状態にあった。
 しかしどうやら彼は既に寝てばかりいるわけにもいかない立場になっているらしく、その弟カルロスが苛立った様子で治療を急かしてくる。
「とっとと起きてくださいよ兄上。収容したトレンティア軍の指揮、本国の騎士隊やベルタスからの使者との連絡、同盟領主との折衝……フォス・カディアル家の当主としてやることはいくらでもあるんですよ、いつまでも私に甘えないでくださいませんかね? まったく、全身骨折って何ですか、常々あなたは馬鹿だと思ってましたが空を飛ぶほど馬鹿だとは思ってませんでしたよ」
 そう兄を散々に罵倒するカルロスは既にその頃、集中治療の甲斐あって足の怪我も回復し、立って歩くには支障のない状態になっていた。まだ回復しきらない内から部下の介助と馬の足を使って仕事に駆け回ってはいたようだが……。
 クラウスはそんな弟を見上げ、僕には見たこともないような深い怒りの形相を浮かべて押し黙っていた。
「おやめくださいカルロス殿。クラウス殿の頭の血管が切れたら治療箇所が増えます」
 そう呆れた声で言うのはロードだ。とにかくクラウスの復帰は急がねばならないということで、血門術による回復魔術は僕とロードの二人がかりで施している。
 その効能はやはり強力で、普通に治癒を待ったなら全治まで何ヶ月もかかっただろう有り様が、日に日に改善の兆しを見せる。
 まったく、血門回復魔術を二人分も集中して浴びれるなんてとんでもない厚遇である、しっかり感謝してほしいものだ。その分自分の血が目減りしていくのを感じながら、僕も胸の内だけで悪態をついてやった。
 そして任務のためにてんやわんやに目を回しているのは当然僕だけではなく……トレンティア軍の生き残りを丸々と配下に吸収して、一大勢力と化したイグノール軍の大将も同じなようであった。
 イグノールはカルロスのあるじとして、彼が束ねた軍を掌握してその指揮系統の整理とズミ軍との事務的な連絡、そしてこれからの戦争の検討に頭を捻らせているようだった。
 ……僕と違って、恐らく自分自身で政治ができる男である、そこに割いている思考や判断の労力はきっと大きいことだろう。
 共に死戦をくぐり抜けたというのに、その後落ち着いて労い合う暇もほとんどなく、僕達はそれぞれの仕事に慌ただしく当たるまま……何日もの時間が過ぎた。

 誰もが慌ただしく騒がしく、任務に追われた戦後処理の日々の中……、それは一週間と少し時間が過ぎた頃だろうか。
 疲労のあまり執務机の上で意識を飛ばしていた僕は、部下に呼ばれて目を覚ました。時刻はちょうど太陽が隠れ始める夕刻だった。
「陛下、大丈夫ですか? 大丈夫じゃなさそうですね……。あの、ラズミルからのお手紙……」
 そう控えめに言ってくるのは従者のアザルだ。僕は起きたばかりの目を瞬かせてそれを見つめた。
 軍からの報告は大体モルズやその部下がしてくるが、アザルが何かを言ってくるのは珍しい。
 手紙、と言って差し出してきたそれを受け取って何気もなく開く。「親愛なる陛下へ」の一文から始まるそれは……改めて目にすることもそう言えば珍しい、妻の筆跡だった。
 まさか何かあったのだろうか、なんて驚いて字面を追うが、そこに書かれた情景は思わずため息が漏れるほどに穏やかなものだった。
 ラズミルの木々も次第に赤や黄色に染まってきました、私は変わらず過ごしています、近頃はつわりも少し落ち着いてきました、陛下のお怪我の具合はいかがですか、朝夕は冷え込みますが体調を崩されていませんか……。
 戦闘に勝利したことへの祝辞や、戦い抜いた兵士達への労いの言葉は申し訳程度に添えられているだけで、そこからはラズミルで流れているだろう、あまりにも穏やかな空気がひしひしと伝わってくる。
 そして文の終盤に書かれた「早くあなたに会いたい」の一文を目にした時は、むしょうに目が熱くなってしまった。
 激しい戦いと政務に追われる中で忘れさえしていた、その穏やかな世界に思いを馳せて……、途端にがくりと力が抜ける。僕だって早くジュリに会って、いい加減一息ぐらいつきたい……。
 熱くなった目を押さえて俯いてしまった僕を見て、アザルは不安そうに言葉をかけてくる。
「お、俺じゃ何もできないですけど……、ちょっとぐらい休んだ方がいいんじゃないですか、陛下……」
「ああ、そうだな……。いや、僕はいい、けど、アザル、君も慣れない環境で疲れてるんじゃないか……」
 妻のことを思って泣きそうになっているのが恥ずかしくて、誤魔化すようにそう彼へと話題を変える。アザルは緊張した顔で慌てて首を振った。
「俺は大丈夫です! 陛下の大変さと比べたら、全然……」
 なんとなく緊張の緩んだぎこちない会話をしていると、続けるようにして部屋に入ってくる者があった。今度は部屋の前で見張りについていたはずのジルだ。
「失礼します陛下。イグノール殿が陛下とお会いしたいと仰っていて……」
「イグノールが? 今から? もう夕方だけど……」
「はい、勝利を祝してと、息抜きも兼ねて内々の会食をとお誘いのようで」
 そう言うので僕は適当に頷いた。戦闘後パウルとは落ち着いて話をする時間もあまりとれなかった……まだ戦後処理は続いているとはいえ、息抜きに食事をするぐらいいいだろう。
 まったく、それだけのことにお互い使者を通しての連絡になるのだから、本当に遠くなってしまったものだ。
 椅子から立ち上がって体を伸ばし、軍服の上に着た月光のマントの形を整えてから……部屋を出ると、僕を迎えに来た先方の使者はグリスだった。
 僕はジルとアザルを連れてそれに伴う。
「やつれてますねえ……、あまり無理はしないでくださいよ、陛下」
 グリスまでそんなのんきな声で気遣ってくるが、僕はため息を返すだけだ。

 しかしグリスが運転する馬車に乗せられて向かった先は意外な場所だった。
 思わずそれを見て僕は目を瞬かせる……軍の施設でもなく、食事をすると言うのに料理屋や酒場というわけでもない……それはサダナムの街外れに湧いている、温泉の入浴所であった。
「やっぱ疲れた時は温泉ですよね! ってことで……いやあ懐かしい、俺が初めて陛下達と会った時のことを思い出しますよ」
 そんなことを楽しそうにグリスは言う。見れば始めからそのつもりだったらしく、既にその入浴所は要人の歓迎のために一般の利用者を締め出して、物々しい金髪の兵士達が警備に当たっていた。
 確かに息抜きと言うにはもってこいの場所だが、食事をと言って呼び出しておいて温泉で会合とは、まったく、変わったことを考えるものだ。
 促されて中へ入ると、脱衣所にクラウスが立っていた。僕は目を丸くして彼を見つめる。
「もう立てるのか……」
「おかげさまで。手厚い治療をしていただきまして、心から感謝いたします。まだ、立って歩くのがやっとではありますが……」
 僕は魔剣をジルに預け、温泉に入るからには……服を脱いで腰巻きひとつになり、浴場へと入った。
 その湯けむりの景色の中には、先に入って一人でくつろいでいる、イグノールの悠々とした姿がある。
 その脇に酒と干し肉を積んだ皿を置き、裸で湯に浸かりながら好きに飲食物を口に運んでいる……なんて贅沢な息抜きだ。
「来たかヨハン。言わずともがな、これはきわめて個人的な誘いだ。この際堅苦しいのは一切無しな!」
 温泉の中でふんぞり返ったままパウルは言い渡してきた。
 その気の抜けた態度と、裸になって軽い体と……そして何よりそれを包む湯の温かさがどっと僕からも力を奪う。何にも喩え難い脱力の快感に、僕はただただ深くため息を零した。
 湯の中に入ったのは僕とパウルだけで、各々の従者達……ジルとアザル、クラウスとグリスは服をきっちりと着込んだまま湯船の周囲でびしりと立って警護の姿勢になっている。それを見上げてパウルもため息をついた。
「そうびっしりと見下ろされてちゃ落ち着かない。ジャック、それからアザル、お前らも脱いで浸かれよ」
 名指しでそう言われ、クラウスとアザルはぎょっとして目を瞬かせた。
「恐れながら……裸では警護が務まりません」
「どうせまだ体バキバキで戦えないんだから同じだよ。警護はジルとグリスに任せとけ」
 そんなやりとりをして、クラウスは難しそうに眉を寄せたが、主人が言うのならと頷いて、服を脱ぎに脱衣所へと引っ込んだ。
 アザルも僕に視線だけで判断を窺ってくるので、軽く頷いてそれを促した。
「エレアノールも誘ったんだが、男と同じ湯に入るのが嫌だって断られちまった」
 パウルは暗くなっていく空を見上げてぼんやりと言う。釣られるように視線を上げると、晴れた空に細い月が美しく浮かんでいる。
「なんだそりゃ」
「トレンティアだと入浴は男女別が基本だからな……、まだあいつはこっちの文化に慣れてないんだ。そういうわけで女いないし、俺もトレンティア流で入浴している。お前も腰巻きとって素っ裸になってもいいぞ」
 そんなことを軽い口調で言うパウルは、確かにその湯の中で一糸纏わぬ姿をしているようだ。
 ……確か、グリスも一緒に温泉に入った時はそうしていた……それがトレンティア流というやつなのだろう。
 生憎僕もトレンティア流に馴染みはなく、いくら女がいないからと言って人前で下半身まで曝け出すのには抵抗が拭えない。結構だ、と小さく零して首を振った。
 やがて服を脱いできたクラウスとアザル――こちらはトレンティア流ではないらしい、二人とも布一枚は腰に巻いている――がやってきて、皆で湯に浸かった。
 いつもは従者としての佇まいを全く解かないクラウスでさえ、さすがに湯に浸かると力が抜けるらしい、彼らしくもないぼうっとした表情が浮かんでいる。アザルも言わずともがなだ。
「湯に浸かると体があったまって怪我や病気の治りも早くなる……気分がするよな。しっかり浸かっておけよ」
 パウルはそう言いながら持ち込んだ酒瓶を呷り、その瓶をそのままクラウスに渡した。彼はそれを頭を下げながらしずしずと受け取り、同じようにその場で瓶を呷る。
「お気遣いいただき……ありがとうございます。ああ、懐かしい……トレンティアの酒ですね」
「ああ、正規軍が持ち込んでいたものをいただいた。ヨハンお前は……下戸だっただろ、こっち飲め。アザルもまだ酒飲むのは早いだろうし一緒に飲むといい」
 そう言ってパウルが突き出してきたジョッキの中にはなみなみとミルクが入っていた。
 酒以外の飲み物に好き嫌いはないが……ミルクを出されるのは少し馬鹿にされているような気分がしないでもない。
 文句を言うのも面倒なのでそのまま黙って受け取って口にすると、それはまるで氷でも入っているかのように冷え切っていて、湯で温められた体の中にすうっと染み込んでいく……妙に心地よく、味まで上等に感じられた。
「氷魔法で冷やしたんだ。温泉で飲むとうまいよな、ミルク。あと飯はまあ、適当に食ってくれ。欲しいものがあればグリスに言えばだいたいは持ってきてくれる」
 湯に浸かりながらの飲み物と食事をつまむ、確かに会食と言えばそうかもしれない。それは心地よく、自堕落にすら感じる息抜きの時間だった。
 ……いや、今まで散々頑張ってきたのだ、これぐらいのことは許されてもいいだろう。
 皆揃って好きなものを口にしながら、だらりと力を抜いて空を見上げた。美しい月の光が僕達を照らしている。
「こうして屋外の景色を眺めながら入浴できるのはズミならではだからなあ、今の内にたっぷり堪能しておかないと」
 パウルがそうぼやくので、僕も何気なく会話を始めた。
「トレンティアに温泉は無いんだったか」
「全く無いわけじゃないが、ズミほどは無いな。代わりに建物の中に魔法で入れたお湯を温めて入浴する。ズミの蒸し風呂とは違って、トレンティアでは風呂と言えばそういう入浴施設を指すのが一般的でね……」
 トレンティアの温泉事情にさして興味はなかったが、懐かしそうに講釈を始めるので適当な相槌を打ちながら聞いてやった。
「そうですね……これからの戦場はいよいよトレンティアの国土となります。このようにズミで過ごせる時間もこれからはあまりないでしょうから……」
 クラウスが呟いた言葉を聞いて、僕はゆっくりと視線を上げる。ズミの国土からついにトレンティア軍の侵略を残らず排斥した今……しかし戦争はそこで終わりでは、ない。
 パウルの目標は反逆の王から正統な王位を取り戻すことであり、侵略戦争を始めたその国王へ報復を下すという名目のもと、僕達の協力関係が解けるわけでもなかった。
「いよいよトレンティアに攻め込むわけか……黒い森を越えて……。いつ頃の進軍となるか……」
 そう呟くと、パウルはぼんやりとした顔のまま答える。
「すぐだよ。細かい情報共有はこれからするところだが、既にこちらの準備は進んでいる。のんびりと敵に時間を与えたくもないからな……すぐさ。まあ黒い森を押さえている以上、そこから西は完全にこちらの安全地帯だ。しばらくはサダナムとシドリン……ああえっと、国境を越えたところのトレンティアの地方名だ……を行ったり来たりしながらになるとは思うが……」
 パウルの言葉を受け止めて、僕はいつか越えたあの黒い森の向こうの景色を思い出した。
 そこでの戦争はどんなものになるのか、あの時見たトレンティアに住むのんきな市民達はどんな様子でその戦火を迎えるのか……。
 さすがに国王が国を留守にしてまで出陣するのは臣下に止められそうだ――僕自身がその戦争に加わることは無いのかもしれないが、それでもその戦場を想像すると少し頭が痛くなった。
 パウルも同じだったのか、すぐに呆れた顔になって首を振った。
「いやいや、今は息抜きに温泉に来てるんだ、そういう話は公の会議でちゃんとしよう。今は堅苦しい話は無しで……。とりあえずはサダナム奪還を祝して、飲んで食うのが今の任務だ」
 そう切り替えて、また各々好きなものを口に運びながらぐったりと力を抜いた。そうだ、今は休憩時間だ。パウルはうっとりとその快感に浸りながら、思い出話を始めた。
「温泉……懐かしいよな。いつか一緒に入ったじゃないか。そうそう、グリスを初めて拾った時にさ。憶えてるか?」
「まあ、憶えてはいる……」
「あの時はまさかこんなことになるとは思ってなかったな。なあ憶えてるかな、俺があの時お前に言った言葉……」
 そう続けて聞かれ、思い出そうとするがその記憶はすでに湯けむりの奥に霞んでさえいる。
「お前はずっと向こう見ずで血の気が多いばかりで……あの時はトレンティアに復讐するって息巻いて聞かなかったな。……今だから言うけど、俺はやっぱりつらかったんだよ。トレンティアの血を分けた息子がそんな憎悪に染まっているのが……。そんな境遇にしてしまったことが苦しかった。トレンティアの王族に生まれた身で言うのは矛盾だって分かってるけど、もっと、当たり前で、平穏で……幸せに、生きてほしかった」
 つらつらと告白するその言葉を聞いて、少し思い出した。
 確かになんか、そんなことを言っていた気がする。こんな戦争に命を使い潰すなと、自分の幸せを見つけろと……。
 その時はまさかこの男が自分の父親だなんて知らなかったし、彼の言う通り、憎悪の一色に染まっていた僕に聞く耳は全くなかった。
「今更何をしたって、何を言ったってトレンティアがズミを侵略して民を虐殺した事実は無かったことにはならない。今は同盟なんて言ってるけど、ズミの民の中にはずっとその憎悪とやるせなさを抱えて、今もなお苦しんでる者がいくらでもいるだろう。戦争が全部終わった後も、何十年も何百年も経ってもずっと、消えない傷痕になるんだろう。……なあ、きっとお前もそうなんだろう、全部無かったことには……ならない。だけどさ、聞いていいかな、ヨハン」
 その体を、声を熱い湯に濡らしながら、パウルはしっとりと青い目を細めて見つめてくる。
 それを受け止める僕はきっと、何の表情も浮かべられていなかっただろう。
「……今、お前は幸せか?」
 そう問われて僕も体の感触を確かめた。身を包む温かい湯はただただ心地よく、冷えたミルクの味も、好き勝手につまめる干し肉の塩辛さも……父親の眼差しも……。
 だけど幸せなんて問われたところでよく分からない。よく思い返してみれば、始めはただ生きていくためだけに握った武器だった。自分が受けた苦しみは全部トレンティアのせいだと思って、その苦しさを復讐心に変えて戦っていた。
 それは仲間を守るためだとか戦争に勝つためだとか、形や答えを変え続けて、ずっと僕を突き動かす力になっていた。だけど一貫して、ただただ、その先にあるのは常に戦いだった。
 悔やんだことなんか一度もない。そして確かに僕は今、故郷の奪還という大望を既に成し遂げた先にいる。それは幸せというものなのだろうか。……そんなの分からない。
 だけどその時さっと脳裏によぎったのは……先ほど目にしたばかりの手紙の文字だった。どこまでも穏やかで、優しくて、四季折々の景色を歌った言葉と、そして愛する人への想いを綴ったそれは……、それが、幸せってものなんじゃないだろうか。
 僕はゆっくりと口を開いて答えた。
「今は……」
 その目はなんとなく気恥ずかしくて、パウルとは合わせられなかった。ただ、ぼうっと薄めた視線の向こう、その湯の中にいない人の影を求めた。
「ジュリがここにいないから幸せじゃない」
 そう答えた声は、普段の自分と変わらない調子のものだった。途端にパウルは呆れた顔になってがくりと力を抜いてしまった。
「そうだよな、父親なんかより妻の方が好きだよな、うん」
 何やらひねくれた調子になって言うパウルに、ちらりとだけ視線を向けて僕は小さく鼻息を飛ばしてやった。そんなの当たり前だ。
 僕は思い出したついでにその手紙のことを話し始めた。
「ちょうどさっき、ラズミルから……ジュリから手紙が届いたんだ。こっちはてんやわんやだけど、向こうは退屈してるみたいで……」
「まあそりゃそうだろうな……。お前は国王だ、忙しいだろうができるだけ王都に顔を出しとけよ。あんまり留守にしてるといつの間にか家臣に国を乗っ取られたりするからな」
 本気なのか冗談なのかよく分からない声色だが……パウルなどが言うといやに説得力がある……。
「大将軍も留守にしてるとなれば、今王都での実質の最高権力者は教官長だろう。……まあ、あれは乗っ取りを考えるようなタマではないとは思うが……」
「教官長か……。なんかラズミルの王宮の中に温泉を作ってくつろいでいるらしいぞ」
「温泉を作った? 何やってるんだあの馬鹿は。他に先にやることあるだろ……。その手紙、他に何か書いてあったか?」
「他は……魔法の勉強を頑張ってるとか、早く帰ってこいって催促とか……」
「ふうん……」
 すっかりだらけた雰囲気になって僕達は雑談を交わした。
 一緒に入浴している従者二人も、何を言うでもなく僕達を注視するわけでもなく、ただ心地よい湯の中でとろけている。息抜きには温泉……それは紛うことなき最適解だった。
「俺にも手紙のひとつぐらい寄越してくれたっていいだろうに……」
 少し拗ねたような顔になって言うパウルを、僕は無言で見つめた。彼は僕とは違って、部下全員をサダナムに連れてきているし、ラズミルに帰る場所などないはずだ。誰に言っているんだろう……。
「こっちから書いてやるか……。お前もちゃんとジュリに返事しとけよ。妻もあんまり放っとけば浮気するかもしれないからな」
「返事……、だけど何と書いたものか……。まだまだ死体が積み上がっている街で戦後処理に駆け回ってます、なんて話をするのもな……」
「お前そういうのほんと下手だよな。妻相手なんだからとりあえず愛してるって書いとけばいいんだよ」
 そんな投げやりなことを言うのを聞いて、僕は紙一面に愛を綴った狂気のような手紙を想像してしまった。……きっと、トレンティアとズミとでは手紙の書き方の文化も違うのだ。
「お前は誰に何を書くつもりなんだ」
 興味本位で聞いてやると、パウルはうっとりとした眼差しで月を見上げた。
「俺もラズミルに……寂しがりやの恋人を置いてきたからな。……あなたのことを想って見上げる月は一層に悲しく美しい……、ああ、せっかく清らかな月影も、あなたを恋しく思う涙で滲んでしまう。夜のとばりはあなたの美しい黒髪を思い出させる、手を伸ばせば届くような気がして……今すぐ抱き締めたい、あなたの……」
「分かった、もういい、黙れ」
 耐えきれなくなって僕はそう遮った。相当酔っ払っているのか、やっぱり狂気じみている。
 少なくともトレンティアでは普通の文化というわけではないようで、それが耳に入ったらしいクラウスがげっそりとした表情を無言でパウルに向けていた。
 月は変わらず僕達を細く照らしている。涙で滲むことはないが、ラズミルからでも同じものが見えるのだろう、なんて思うと僕も釣られて詩的な気分になるような……気はした。
 好きなだけミルクと肉をつまんだ温泉の会食は、のぼせるまえにと切り上げることになったが……、湯から上がったあとの冷えた空気の爽やかさもまた、温泉の醍醐味というものだ。
 そのすっきりとした感触を胸に弄んで、少しだけ思い直す。やっぱりちょっとは、幸せだったかもしれない。
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