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しおりを挟むその日は雪が降っていた。二月の風は、頬が切れるほど冷たかった。合格発表の掲示板の前、僕は握りしめた書類がくしゃくしゃになるのも構わず、隣の男を睨みつけた。
「…辞退するって、どういうことだよ」
「言葉通りの意味だって。うち貧乏だからさ、私立の学費なんて払えねーの。わかる?雫ちゃん」
トラ――虎尾大雅は、こともなげに言った。ポケットに手を突っ込み、マフラーもしていない首元を寒そうに縮めている。地域トップの私立中学。僕が死に物狂いで勉強して、やっとの思いで合格をもぎ取った学校だ。けれどトラは、塾にも行かずに僕より上の順位で合格し――そして今、それをドブに捨てようとしている。
「ふざけるなよ……」
僕の目から、悔し涙が溢れた。悲しいんじゃない。悔しいのだ。こいつと同じ学校に行って、こいつに勝つことだけを目標にしてきたのに。
「僕に勝ったまま、いなくなる気かよ! 勝ち逃げかよ!!」
雪の降る校門の前で、僕は子供のように叫んだ。トラは少し驚いた顔をして、それからニッと悪戯っぽく笑った。その笑顔が、ひどく大人びて見えたことを覚えている。
「そんなに俺と離れるのが寂しい?」
「ちが……っ!」
「じゃあさ」
トラが一歩近づく。冷えた耳元に、熱い吐息がかかった。
「今ここで、えっちしようか?」
思考が停止した。真っ赤になる僕を見て、トラは楽しそうに喉を鳴らす。そして、逃げられない呪いをかけるように囁いた。
「……ま、冗談だけど。俺もお前もまだガキだしな」 「…」
「大人になってさ。その時まだ、お前が俺のこと好きだったら。その時はちゃんと抱いてやるよ」
じゃあな。
そう言って背を向けたトラの、安っぽいダウンジャケットの背中。それが、僕が最後に見た「初恋」の姿だった。
あれから十五年。弁護士バッジをつけた僕は、完璧なスーツを着こなし、ある警察署の薄汚い廊下を歩いていた。
「あー、先生。ここです」
案内されたのは、狭苦しい取調室だった。今回の依頼人は、傷害事件の冤罪を主張している青年。アリバイの証明もできそうで、さほど難しくない案件だ。だが、僕が眉をひそめたのは、その依頼人に対してではない。机の向こうで、やる気なさそうにパイプ椅子に座っている刑事の態度にだ。
無精ひげ。シャツのボタンは掛け違っているし、部屋中が安タバコの臭いで充満している。 僕がもっとも嫌いな人種だ。だらしない。不潔。自己管理ができていない。 …なのに、なぜか胸がざわついた。
「担当の刑事さんですか。弁護士の鹿犱(かとり)です。被疑者との接見を…」
「おー、来た来た。待ってたよ」
刑事が、面倒くさそうに顔を上げた。気だるげな三白眼と目が合う。その瞬間、心臓が早鐘を打った。十五年前の雪の日が、脳内でフラッシュバックする。
面影は変わってしまった。精悍だった少年は、枯れた中年のように覇気がない。けれど、眼光の鋭さも、そのニヤついた口元も、あの日のままで。
「立派なスーツ着ちゃってさ。……久しぶりだなあ、泣き虫センセイ?」
トラは、まるで昨日別れた友人のように、ひらりと手を振った。
「虎尾、大雅…」
「正解。まだ俺のこと、覚えててくれたんだ?」
挑発するような目。こいつはまた、僕に勝つつもりだ。 僕は震える手をごまかすように、鞄を強く握りしめた。動揺を見せてはいけない。今は仕事中だ。
「……知り合いだったとは奇遇だな。だが、仕事の話をさせてもらう」 「へいへい」 「今回の依頼人である青年だが、店舗の防犯カメラの映像を確認した。彼が相手を殴った時刻、彼は店外で電話をしていた姿が映っている」
僕はタブレットを取り出し、証拠映像を突きつけた。
「明白なアリバイがある。彼は無実だ。すぐに釈放手続きを……」 「あー、わかってる。わかってるって」
トラはあくび混じりに遮ると、ポリポリと頭をかいた。
「殴ったのは別人だ。そいつがシロなのは、俺も知ってる」 「は……? 知っているなら、なぜ逮捕した! これは不当逮捕だ、すぐに抗議を……」 「だからさあ。そこをちょっと、融通利かせてくんねーかな」
トラが身を乗り出し、ニヤリと笑った。
「被疑者の無実を立証するの、あと二、三日待ってくんね?」
「……はい?」
耳を疑った。弁護士に向かって、無実の人間をそのまま檻に入れておけと言うのか?
「正気か? 冤罪だとわかっていて拘束するなんて、職権乱用にも程がある!」 「あいつを今シャバに出すと、ちょーっとマズいことになんのよ。あいつ自身のためにもな」 「理由を言え。納得できる理由がないなら、今すぐ署長にねじ込む」 「おー、こわ。エリート様は話が通じねえなあ」
トラは悪びれもせず、またタバコに火をつけた。紫煙が僕の顔にかかる。事件の核心については、はぐらかすつもりだ。この強引さ、身勝手さ。十五年前と何ひとつ変わっていない。
「……君のやり方には従わない。僕は僕の仕事をするだけだ」 「つれないねえ」
僕は踵を返した。これ以上話しても無駄だ。正規の手続きで、このふざけた刑事を叩き潰してやる。 ドアノブに手をかけた、その時だった。
「――そうだ、雫ちゃん」
背後から、不意に甘い声が鼓膜を叩いた。
「誕生日、おめでとう」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 振り返ると、トラはパイプ椅子に踏ん反り返ったまま、楽しそうに笑っていた。
――最悪だ。 あの日交わした、ふざけた「約束」が、まだ有効期限内だなんて。
꧁────────────꧂
帰宅した僕は、シャワーを浴びてすぐにウォークインクローゼットから新しいルームウェアを取り出した。トラの安タバコの臭いが、オーダーメイドのスーツにこびりついている気がしてならなかったからだ。
広すぎるリビングのソファに沈み込み、ノートパソコンを開く。弁護士の特権……というわけではないが、独自の情報網を使えば、担当刑事の経歴を洗うことなど造作もない。
「……やっぱり、な」
画面に映し出された人事データをスクロールしながら、僕はウィスキーを煽った。
【氏名】虎尾 大雅 【階級】警視庁巡査部長 【最終学歴】都立〇〇高等学校 卒業
学歴の欄は、予想通り空欄だらけだった。大学には行っていない。僕が有名法科大学院で六法全書と格闘していた頃、あいつは交番勤務で酔っ払いの相手をしていたはずだ。
「……待てよ」
マウスを動かす手が止まる。巡査部長。それは、現場の班長クラスが就く階級だ。通常、今回のようなありふれた傷害事件の初動捜査は、部下の巡査や巡査長に任せるのがセオリーだ。管理職一歩手前の人間が、わざわざ狭い取調室で被疑者と向き合う必要はない。
人員不足か?
いや、違う。 (あの目は、飢えていた)
部下の報告書など信用しない。自分の目と耳で、獲物の喉笛に食らいつかないと気が済まない――徹底した「現場主義」昇進してもなお、デスクに座るつもりなど毛頭ないということか。
僕はウィスキーのグラスを置き、モニターに被疑者――僕の依頼人である青年の資料を映し出した。
二十二歳のフリーター。居酒屋で会社員と肩がぶつかり、殴打して負傷させた。一見すれば、どこにでもある短絡的な粗暴犯だ。居酒屋店主の証言によれば、被害者である会社員側にも相当な挑発行為があったらしく、正当防衛とまではいかずとも、情状酌量の余地は十分にある。
だが、読み進めていた僕の指が、ある一点で止まった。
「…ここが、現場か」
記載された住所を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「…港湾エリアの、第3倉庫街」
そこは最近、半グレ集団『K(仮称)』がシマにしていると噂される場所だ。ただの喧嘩なら、所轄の生活安全課で終わる話だ。だが、もしこの青年が、組織の「運び屋」だとしたら?あるいは、殴られた被害者の方が、組織と繋がりのある人間だとしたら?
「そうか……」
謎が解けると同時に、冷や汗が流れた。トラは、ただの傷害事件を追っているんじゃない。この事件を「入り口」にして、その裏にある巨大な組織の尻尾を掴もうとしているんだ。そのために、わざわざ自分の手元に被疑者を置き、別件逮捕のような形で拘留し続けている。
「相変わらず、危ない橋を渡る……」
本来なら、キャリア組とノンキャリの間には、決して越えられない壁がある。スタートラインも、昇進のスピードも違う。そんな無茶な捜査、普通なら上層部に握りつぶされるはずだ。だが、その下の「賞罰・経歴」の欄を見て、僕は息を飲んだ。
『警視総監賞』 『刑事部長賞』
検挙率、取り調べでの自供獲得数、どれも署内でトップクラスの数字だ。高卒の警察官が、二十七歳で巡査部長に昇任すること自体、異例の早さだと言える。試験勉強をする暇などない激務の中で、あいつは結果だけでここまで這い上がってきたのだ。
「……バカみたいだ」
画面の中の、証明写真のトラと目が合う。不機嫌そうな顔つきは、中学の頃と変わらない。
僕は、エリート街道を走ってきた。一流の大学を出て、司法試験に一発合格し、大手事務所のエースとして働いている。年収だって、あいつの何倍あるかわからない。 社会的地位なら、僕の方が圧倒的に「上」だ。
それなのに。泥臭い現場で、学歴などという武器を持たずに、己の牙だけで戦ってきたあいつの経歴が――どうしようもなく、眩しく見えた。
『わかる? 雫ちゃん』
昼間の挑発的な声が、耳の奥で蘇る。 悔しさが込み上げると同時に、下腹のあたりが熱くなるのを感じた。
「……結局、何も変わってないじゃないか」
僕はパソコンを乱暴に閉じた。 どんなに飾っても、どんなに地位を手に入れても。僕はまだ、あの雪の日から一歩も動けていない。
その時、メッセージアプリの通知が来た。恋人からだ。
ごめん。今日そっち行けなくなった
仕事?
ああ
なら仕方ないね
恋人も弁護士で、最近は冷え切った関係に終焉を迎えそうだと思った。立場上、仕事を詳しく話せないのはわかるが、誕生日くらい覚えてくれててもいいのに。
じっとしていられなかった。僕は愛車のステアリングを握り、夜の湾岸道路を走らせていた。行き先は、例の『第3倉庫街』だ。弁護士としての現地調査――というのは建前だ。広い部屋に一人でいると、冷え切ったスマホの画面ばかり見てしまう。惨めな気分を誤魔化すには、仕事のふりをしてアクセルを踏むしかなかった。
人気のない倉庫街は、海風が吹き荒れ、不気味なほど静まり返っていた。車を停め、寒さに身を縮めながら降りる。 その時だった。
「……おいおい。こんな夜更けに高級車で乗り付けるなんて、自殺志願者か?」
暗闇から、聞き覚えのある低い声がした。心臓が跳ねる。自動販売機の明かりに照らされたのは、缶コーヒーを片手に持ったトラだった。
「トラ……! どうしてここに」
「どうしてって、仕事だよ。俺は『現場』が好きだからな」
トラは僕の車と、僕の格好――部屋着の上にコートを羽織っただけの姿――を交互に見て、鼻で笑った。
「で? 誕生日の主役サマが、こんなゴミ捨て場で何してんの……彼氏は?」
核心を突かれ、僕は言葉に詰まる。こいつは知っているのだ。僕に同業者の恋人がいることを。さっきの取調室での会話で、わざと鎌をかけて確認済みだった。
「……仕事だそうだ。急用が入ったと」
「ふうん。振られたわけじゃねーんだ」 「当たり前だろ。僕らはうまくいってる」
見え透いた嘘をつく僕を、トラは値踏みするように見下ろした。その目には、嫉妬の色など微塵もない。あるのは、「哀れみ」と、絶対的な「余裕」だけだ。
「そっかそっか。エリート同士、お忙しいこって」
トラは面白くもなさそうに呟くと、飲んでいた温かい缶コーヒーを、僕の頬に押し当てた。
「っ、熱ッ……!」
「やるよ。誕生日プレゼント」 「はあ? 飲みかけじゃないか!」 「口つけてねーよ。さっき買ったばっかだ」
押し付けられたスチール缶は、悴んだ指先には痛いほど熱かった。今の恋人は、高級なディナーを予約してくれるかもしれないが、こんな風に手を温めてくれたことは一度もない。
「……ありがたく飲んどけよ。じゃあな、早く帰れ。ここはボンボンが来るとこじゃねえ」
トラはそれだけ言うと、停めてあった覆面パトカーに戻ろうと背を向けた。
引き止めも、口説きもしない。
まるで、「今はまだ、外で遊ばせておいてやる」とでも言うように。
僕はその背中に、焦燥感にも似た苛立ちを覚えた。
「……待てよ!」 「あ?」 「この事件、裏があるだろ。お前は何を追ってるんだ」
呼び止めると、トラは面倒くさそうに振り返り、ニヤリと唇を歪めた。
「知りてえなら、自分で調べな。…ま、その綺麗なスーツが汚れる覚悟ができたら教えてやるよ」
ひらりと手を振り、彼は闇の中へ消えていった。残された僕は、温かい缶コーヒーを握りしめたまま、しばらくその場から動けなかった。
――あいつは、知っているんだ。僕が今の恋人に満たされていないことも。そして結局は、この泥臭くて熱い場所に、戻ってこざるを得ないことも。
꧁────────────꧂
数日後、僕は都内を一望できる超高層ビルのフレンチレストランにいた。数ヶ月前から予約を入れなければならない、この街で最も「成功」に近い場所。きっと割り込みをして入れてくれたのだろう。眼前にいる男はそれだけの権力を持っている。
「先日は悪かったね、雫。埋め合わせと言っては何だけど、ここのジビエは絶品なんだ」
目の前で微笑むのは、同じ事務所のシニアパートナー候補でもある恋人だ。非の打ち所がない容姿、仕立ての良いスリーピース、そして僕の好みを完璧に把握したスマートなエスコート。
周囲の視線が僕たちに集まっているのがわかる。若くして成功を収めた、美しい弁護士同士のカップル。それは僕がかつて憧れ、手に入れるために血の滲むような努力をしてきた「理想の光景」そのものだった。
「…ううん、気にしてないよ。仕事なら仕方ない」
僕はマニュアル通りの微笑みを返し、クリスタルグラスに注がれた高価なワインに口をつけた。芳醇な香りが鼻に抜ける。けれど、僕の脳裏を支配しているのは、あの海風に混じった安タバコの臭いだった。
「雫? あまり食が進まないようだけど。体調でも悪いのかい?」
「……まさか。少し、仕事のことで考え事をしていただけだ」
恋人の端正な指先が、僕の手にそっと触れる。清潔で、爪の形まで整えられた、冷たい手。
その瞬間、僕は反射的に自分の頬を触りそうになった。 あの夜、トラに押し付けられた缶コーヒーの、火傷しそうなほどの熱量。無精髭の生えた顎、乱れたシャツの襟元、そして——すべてを見透かしたような、あの野性的な三白眼。
この洗練された空間に、あいつはあまりにも似合わない。あいつがいれば、この純白のテーブルクロスは泥で汚れ、静謐な空気は下品な笑い声で切り裂かれるだろう。
なのに。
目の前の恋人が語る「過去の案件」の話が、今の僕にはひどく遠くの出来事のように聞こえた。
(……僕は、何を期待しているんだろう)
窓の外に広がる宝石のような夜景を眺めながら、僕は無意識にスマホを見つめていた。
『その綺麗なスーツが汚れる覚悟ができたら教えてやるよ』
あいつの挑発が、毒のように全身に回っていく。この完璧な静寂を捨てて、あいつのいる泥沼へ飛び込みたいと願っている自分がいる。
僕は恋人の呼びかけに生返事をしながら、ポケットの中で冷え切ったスマホを、ただ強く握りしめていた。
地上四十五階。夜景を見下ろす窓際の席は、まるで真空パックされたように静かだった。
「――でね、そのマンションはセキュリティが完璧なんだ。コンシェルジュも二十四時間常駐だし、不審者が入り込む余地なんてない」
恋人の指が、タブレット端末に表示された高級レジデンスの間取り図をなぞる。広々としたリビング、最新の設備。僕たちの収入を合わせれば、余裕で手が届く「城」だ。
「君も気に入ると思うよ。……今の君の部屋は、少しセキュリティが甘いから心配なんだ」
彼は優雅にワイングラスを傾け、ふと眉をひそめた。
「それに最近、君から少し……安っぽい煙草の臭いがする気がする」
心臓が冷やりとした。彼はハンカチを取り出し、テーブルに落ちたパン屑を無言で拭った。その仕草があまりに潔癖で、僕の喉がヒュッと鳴る。
「あの傷害事件の調査かい? 悪いことは言わない、部下に任せるか、示談で終わらせなよ。君のような弁護士が、掃き溜めのような場所に行く必要はない」
「……掃き溜め?」
「そうだろう? 教養のない人間たちが、暴力でしか会話できない場所だ。君が汚れることなんてない」
彼は、僕のためを思って言っている。百パーセントの善意だ。けれど、その言葉を聞いた瞬間、僕の中で決定的な何かが切れた。
――汚れることなんてない? 違う。僕は、汚れたいんだ。
この窒息しそうなほど清潔なガラスの城から抜け出して、あの粗野な男の横で、息がしたい。
攫ってくれよ
「……雫? 顔色が悪いよ」 「ごめん」
僕は立ち上がった。足が震えているのがわかる。
「君の言う通りだ。僕は……ここには相応しくない」 「何を言ってるんだ?」 「僕が好きなのは、君が軽蔑する『掃き溜め』の方だったみたいだ」
困惑する彼に背を向け、僕は逃げるようにレストランを出た。エレベーターホールで、震える指でスマホを取り出す。
連絡先の一覧から、異質な名前を探し出す。
コール音は長く感じられた。
出ないでくれ、と願う理性と、早く声を聞かせろと叫ぶ本能がせめぎ合う。
『……あー、もしもし?』
気だるげな、不機嫌そうな声。背後からはパトカーのサイレンと、繁華街の雑踏が聞こえる。
「……僕だ」 『は? 誰……ああ、雫ちゃんかよ。連絡先確認せず、出ちまった。デート中じゃねーの』
揶揄うような響き。すべてを見透かしたような、低い声。 その声を聞いただけで、張り詰めていた糸がプツリと切れて、涙が出そうになった。
「トラ、今どこだ」
『新宿。ガサ入れの真っ最中。……うるせえな、離せコラ!』
怒号。何かが壊れる音。あいつは今、戦っている。僕が安全な場所でワインを飲んでいる間に、泥にまみれて。
「行く」 『あ?』 「今すぐそこへ行く。……僕も、混ぜろ」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙があった。そして、ふっと空気が緩む気配がした。
『……ハハ。お前、正気か? ここは高級スーツで来る場所じゃねーぞ』 「構わない。……もう、うんざりなんだ。綺麗なだけの世界は」
トラが楽しそうに笑う声が聞こえた。獲物が罠にかかったことを確信した、捕食者の笑いだ。
『オーケー。歓迎するぜ、共犯者。……東口の交番裏だ。走って来い』
通話が切れる。僕はスマホをポケットにねじ込み、走り出した。磨き上げられた革靴がアスファルトを蹴る。冷たい夜風が、熱を持った頬を撫でていく。
堕ちていく感覚は、どうしようもなく甘美だった。
新宿駅東口。人波をかき分け、路地裏へと飛び込む。 ネオンの光が毒々しく明滅し、腐ったような生ゴミと酒の臭いが鼻をつく。さっきまでの無菌室のようなレストランとは、まるで別の惑星だ。
息を切らして指定された場所に辿り着くと、そこにはパトカーの赤色灯が回っていた。怒号。手錠をかけられ、連行されていく半グレの男たち。その喧騒の中心に、あいつはいた。
返り血だろうか、頬に赤いシミがついている。シャツの袖は捲り上げられ、二の腕には擦り傷。野蛮で、乱暴で――どうしようもなく、生きている。
「……ハァ、ハァ……ッ」
膝に手をついて呼吸を整えていると、気配が近づいてきた。 顔を上げると、トラがニヤニヤと笑いながら見下ろしていた。
「よう。随分と早い到着じゃねーか。……そんな高級な靴で走れんの?シンデレラみたいに片方の靴落とすなよ」
「うる、さい……! 呼んだのは、お前だろ……」
睨みつけると、トラは喉の奥でクツクツと笑った。 そして、まだ煤(すす)や血の匂いが残る手を伸ばし、僕のネクタイを乱暴に掴んだ。
「ぐっ……!?」
そのまま強引に引き寄せられ、路地の暗がり――自動販売機の影へと連れ込まれる。 背中が薄汚れたコンクリートの壁に叩きつけられた。カシミヤのコートが、壁の汚れを吸い込んでいく。
「……あーあ。一着数十万はしそうなコートが台無しだ」
トラの顔が目の前にある。獣のような瞳が、ギラギラと光っている。
「これで共犯者だな。……覚悟はいいか? 雫」
返事をする間もなかった。トラの荒れた唇が、噛み付くように押し付けられた。
血の味と、タバコの味。そして、焦がれるほど求めていた「熱」が、口内を蹂躙する。
「んっ、ぅ……!」
抵抗なんてできなかった。
綺麗すぎる世界で窒息しかけていた僕は、この泥のような口づけを、酸素のように貪っていた。
唇が離れると、二人の間に銀色の糸が引いた。
酸素を求めて喘ぐ僕の首筋に、トラが顔を埋める。ジョリリ、と無精髭が擦れる痛みに、背筋が痺れた。
「おい、雫。……ホテルなんて探してる余裕、ねえよな?」
耳元で囁かれた低い声に、下半身が疼く。トラの手が、僕の腰を引き寄せ、そこにある硬い熱を押し付けてきたからだ。
「……ここじゃ、人が……」 「だから、あっちだ」
トラが顎でしゃくった先には、路地の闇に溶け込むように停められた、黒塗りのセダン――覆面パトカーがあった。
「公用車で……正気か?」 「文句あんなら帰れ。……それとも、今すぐここがいいか?」
試すような目。
帰れるわけがない。僕は無言でトラの腕を掴み返した。それが答えだった。
ガチャリ、と重たいドアが開く。僕は後部座席に乱暴に押し込まれた。シートからは、古い革と微かなガソリンの匂い、そしてトラ自身の体臭がした。狭い。けれど、この密室感が、今の僕にはたまらなく心地よかった。
乗り込んできたトラが、内側からロックをかける。 その乾いた音が、逃げ場のない檻の閉まる音に聞こえた。
「さて……」
トラが覆いかぶさってくる。 薄暗い車内。外からは酔っ払いの叫び声や、パトカーの無線ノイズが微かに聞こえる。 そんな異常な状況下で、トラは僕のネクタイを指に巻き付け、ゆっくりと締め上げた。
「取り調べの時間だ、先生」
刑事の顔をしたトラが、僕の瞳を覗き込む。
「十五年前の約束。……覚えてるよな?」
「……忘れるわけ、ないだろ」
「条件は一つ。『大人になって、まだ俺のことが好きだったら』。……どうなんだよ、そこんところは」
意地が悪い。答えなんてわかっているくせに、あえて言葉にさせようとする。 僕は震える手で、トラの頬にある古傷に触れた。
「……好きだ」
一度口にすると、もう止まらなかった。
「ずっと、好きだった。お前がいなくなってから……どんな完璧な恋人がいても、どんなにステータスを手に入れても、空っぽだった。……お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
プライドも、エリートとしての殻も、すべて足元に崩れ落ちた。
僕はただの、初恋を拗らせた愚かな男として、彼を見つめた。
「……よく言えました」
トラが満足げに笑う。そして、僕のベルトに手をかけ、一気に緩めた。
「判決は『有罪』だ。……十五年待たせた罪、たっぷり身体で償ってもらうぞ」 「っ……あぁ!」
ズボンのファスナーが下ろされ、トラの熱く、荒れた掌が、直に肌に触れる。高級なスーツが皺になるのも、外から誰かに見られるかもしれない恐怖も、すべてが快楽のスパイスに変わっていく。
「雫、足開け」 「……ん、トラ……っ」 「狭いけど我慢しろよ。お前以上に待ってたんだ……これ以上、おあずけなんて無理だ」
トラが僕の脚を割り開き、その間に身体を割り込ませる。 決定的な瞬間が近づく。僕は、自分の人生がここから大きく狂い出すことを予感しながら、喜んでその腕の中に堕ちていった。
もう、あのガラスの城には戻れない。
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