20 / 30
5・忘れられなくてもかまわない
3
しおりを挟む
その様子を見て、室長は苦笑した。
「ずいぶんビジネスライクだな」
「すみません。こういうの、慣れていなくて」
彼は手を叩いて店の人を呼ぶと、お酒のおかわりを頼んだ。
「まあ、いいよ。君らしくて。なんにしても嬉しいな。さ、改めて乾杯しよう」
「はい」
室長は表情を和らげ、いつもの様子に戻った。
「そんなに緊張するなって。こうして一緒に過ごす時間を持って、ゆっくり関係を深めていこう」
すべてを包み込んでくれるような、温かい笑顔。
「はい。室長、ありが……」
そう言いかけたわたしを彼は遮った。
「ただし、ふたりのときは“室長”はなし。“千隼”と呼んでほしいな」
「そ、そうですね。会社じゃないんだし……」
そうは言っても、なかなかすぐには切り替えられそうにないけれど。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
引き戸を開け、暖簾をくぐって表に出ると、外は思いのほか暗かった。
表通りの喧騒とは違い、この通りに人影はなく、静寂に包まれている。
「朱利」
「はい」
朱利と呼ばれて、落ち着かない気分になる。
なんのためらいもなく、彼はわたしの名前を呼ぶ。
わたしも呼べるだろうか。
これから、こんなふうに室長のことを……
彼は立ち止まり、わたしの肩に手をおいた。
彼の瞳は、夜陰のなかでも誘いかけるように艶めいていた。
「朱利……僕が忘れさせてあげるから、都築のことは」
その手がわたしの腰に回り、そのまま抱き寄せられた。
トレンチコートに頬が触れ、その冷たさにぴくっとする。
「ち……千隼さん」
思わず口にした彼の名。
彼は腕の力を少し弱め、わたしの顔を覗き込むと口元をほころばせた。
「嬉しいな。そう呼んでくれて」
そして、わたしの前髪を指先でそっと払うと、額に口づけた。
「ようやく願いが叶った。好きだよ……朱利」
彼の指がわたしの顎を捉える。
それから、唇がゆっくり近づいてくる。
まるで選択の余地を残してくれているかのように、ゆっくりと。
わたしは……目を閉じるほうを選んだ。
彼の唇は少し遠慮がちに、わたしの唇に触れた。
その感触に教えられた。
本当に、この人と付き合うことになったんだと。
でも、これが正解だと思う。
わかってはいたのだ。
都築を想うことは、海で落としてしまったピアスを探し出そうとするほど、無駄なことだと。
でも、わたしひとりでは、どうしても掛け違えたボタンを外すことができなかった。
だから、彼に、千隼さんに掛けなおしてもらうしかない。
それがとても身勝手な考えだとわかってはいたけれど。
それからわたしたちは日を置かずに、デートを3度重ねた。
そして、その3度目の夜。
わたしははじめて千隼さんの部屋で共に過ごした。
「ずいぶんビジネスライクだな」
「すみません。こういうの、慣れていなくて」
彼は手を叩いて店の人を呼ぶと、お酒のおかわりを頼んだ。
「まあ、いいよ。君らしくて。なんにしても嬉しいな。さ、改めて乾杯しよう」
「はい」
室長は表情を和らげ、いつもの様子に戻った。
「そんなに緊張するなって。こうして一緒に過ごす時間を持って、ゆっくり関係を深めていこう」
すべてを包み込んでくれるような、温かい笑顔。
「はい。室長、ありが……」
そう言いかけたわたしを彼は遮った。
「ただし、ふたりのときは“室長”はなし。“千隼”と呼んでほしいな」
「そ、そうですね。会社じゃないんだし……」
そうは言っても、なかなかすぐには切り替えられそうにないけれど。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
引き戸を開け、暖簾をくぐって表に出ると、外は思いのほか暗かった。
表通りの喧騒とは違い、この通りに人影はなく、静寂に包まれている。
「朱利」
「はい」
朱利と呼ばれて、落ち着かない気分になる。
なんのためらいもなく、彼はわたしの名前を呼ぶ。
わたしも呼べるだろうか。
これから、こんなふうに室長のことを……
彼は立ち止まり、わたしの肩に手をおいた。
彼の瞳は、夜陰のなかでも誘いかけるように艶めいていた。
「朱利……僕が忘れさせてあげるから、都築のことは」
その手がわたしの腰に回り、そのまま抱き寄せられた。
トレンチコートに頬が触れ、その冷たさにぴくっとする。
「ち……千隼さん」
思わず口にした彼の名。
彼は腕の力を少し弱め、わたしの顔を覗き込むと口元をほころばせた。
「嬉しいな。そう呼んでくれて」
そして、わたしの前髪を指先でそっと払うと、額に口づけた。
「ようやく願いが叶った。好きだよ……朱利」
彼の指がわたしの顎を捉える。
それから、唇がゆっくり近づいてくる。
まるで選択の余地を残してくれているかのように、ゆっくりと。
わたしは……目を閉じるほうを選んだ。
彼の唇は少し遠慮がちに、わたしの唇に触れた。
その感触に教えられた。
本当に、この人と付き合うことになったんだと。
でも、これが正解だと思う。
わかってはいたのだ。
都築を想うことは、海で落としてしまったピアスを探し出そうとするほど、無駄なことだと。
でも、わたしひとりでは、どうしても掛け違えたボタンを外すことができなかった。
だから、彼に、千隼さんに掛けなおしてもらうしかない。
それがとても身勝手な考えだとわかってはいたけれど。
それからわたしたちは日を置かずに、デートを3度重ねた。
そして、その3度目の夜。
わたしははじめて千隼さんの部屋で共に過ごした。
1
あなたにおすすめの小説
夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。
ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。
翻弄される結城あゆみ。
そんな凌には誰にも言えない秘密があった。
あゆみの運命は……
俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛
ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり
もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。
そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う
これが桂木廉也との出会いである。
廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。
みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。
以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。
二人の恋の行方は……
ジャンヌ・ダルクがいなくなった後
碧流
恋愛
オルレアンの乙女と呼ばれ、祖国フランスを救ったジャンヌ・ダルク。
彼女がいなくなった後のフランス王家
シャルル7世の真実の愛は誰のものだったのか…
シャルル7世の王妃マリー・ダンジューは
王家傍系のアンジュー公ルイ2世と妃アラゴン王フアン1世の娘、ヨランの長女として生まれ、何不自由なく皆に愛されて育った。
マリーは王位継承問題で荒れるフランス王家のため、又従兄弟となるシャルルと結婚する。それは紛れもない政略結婚であったが、マリーは初めて会った日から、シャルルを深く愛し、シャルルからも愛されていた。
『…それは、本当に…?』
今日も謎の声が彼女を追い詰める…
アラフォー×バツ1×IT社長と週末婚
日下奈緒
恋愛
仕事の契約を打ち切られ、年末をあと1か月残して就職活動に入ったつむぎ。ある日街で車に轢かれそうになるところを助けて貰ったのだが、突然週末婚を持ち出され……
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。
今日は同期飲み会だった。
後輩のミスで行けたのは本当に最後。
飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。
彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。
きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。
けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。
でも、あれから変わった私なら……。
******
2021/05/29 公開
******
表紙 いもこは妹pixivID:11163077
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる