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第四章 避暑地の別荘

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「まあ、そのお着物のままお休みになっていらっしゃったのですか? まったく美津はなにをしているのだろう」

「美津を責めたりしないで。わたくしが一人にして、と強くお願いしたからなの」

「まあ、とにかく、お召し物を着替えてください。もうすぐ夕食のお時間ですよ」

「食欲がないの。夕食はいらないと伝えておいて」

 敏子はさも大事おおごとのように、目を見開いて言った。

「いけませんよ。細谷の御坊ちゃまがお待ちなのに。それにお食事はたんとお召し上がりにならないと。丈夫なお体でないと、お子をたくさん産めませんから」
「……」

 ああ、そういうことだったのか。
 ようやく合点がいった。

 
 高志との縁談が持ち上がったから、両親は敏子をわたくしに付けたのだ。

 教育係兼お目付役として。
 
 どうすればよいのだろう。
 八方ふさがりとはこのことだ。

 敏子が目を光らせているかぎり、わたくしたちの唯一の通信手段である文も交わすことはできない。
 

 着物を着つけられている間、桜子は必死で涙をこらえていた。
 
 そして、心の内で、天音の名を呼び続けた。

***

 翌日。
 高志は朝食を取ると、連隊の宿舎に戻っていった。

 朝食の席で、父は高志に婚礼の日取りを相談した。

「高志君は外地に行くこともおありか」
「ええ、もちろん。命令が下れば行く可能性がありますよ」

「では、善は急げで、すぐにでも結納を交わすのがいいのではないだろうか」

「次に東京に戻ったとき、父母と相談しておきます」

 みるみる具体的になってゆく縁談話は桜子から食欲を奪った。
 今も紅茶に口をつけただけで、他の物は喉を通らない。

「あら、ぜんぜん食べていないじゃない」と母に指摘され、桜子は下を向いたままで答えた。

「食欲がないものですから。ごちそうさまでした」

 そう言って立ち上がりかけると、父が制した。
「こら、桜子。高志君に失礼だぞ」

「いや、こちらは別にかまいませんよ」
 高志が鷹揚に言い、その場を収めた。

 桜子の心は千々に乱れていた。
 笑顔を取り繕うこともできなくなっていた。

 どうにかして、この縁談から逃れなければ。
 でも、いったいどうすれば。

 桜子の焦りは募った。

 
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