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太子薨去(622) その④
天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)
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厩戸の妃の一人であった橘妃(たちばなのきさき)も、太子の死を大いに嘆き悲しんだ。
山背皇子の言う通り、太子は死んだのではない、仏の命令を受けて、別の国を旅しながら修行と説法を続けているのだ、だから悲しんではいけない、と自分に何度も言い聞かせ、理解しようとしたが、苦しみはおさまらなかった。
(旅に出るというなら、私もいっしょにつれていってほしかった・・・・)
夜になるたびに、今死ねばあの人とともに旅ができるかも・・・そうだ、まだあの人が遠くまで行かないうちに早く後を追わなきゃ・・・と思いつめ、気付くと小刀を握りしめていたことが何度もあった。
(ダメ、今から追っても、私だけではあの人の居場所がわからず、一人さまようことになってしまうかもしれない。それよりも、旅に出ているというなら、たまに戻ってくることもあるはず。そのときまで家を整えて、帰りを待つのが私のつとめ・・・)
そう言い聞かせ、泣きながら夜を過ごした。
館では侍女たちが、夜は一切の刃物を隠しておくようになった。
* ** * * *** ** * * **
飛鳥の宮殿にて―――
山背からの知らせで、橘妃の様子を知った推古はつらく感じた。
「厩戸に嫁がせたために、あの子まで悲しい思いをさせてしまった・・・」
推古はしばらく考え込んだのち、急ぎ国内の名だたる工芸者たちを集め、1対のカーテンを作らせて、橘妃に送った。そのカーテンには、厩戸が異国の旅をつづける数多くの場面が刺繍されていた。それを見ながら橘妃は、今晩はこの場面にしよう、と定め、厩戸とともに旅をしているところを想像しながら床につくことにより、わずかに心慰められた。
数か月後、橘妃は病にかかった。
ベッドに横たわりながら、相変わらず橘妃はカーテンの絵を眺めて、涙に暮れていた。するとカーテンの絵の一つが歪んだ。
なに?、と見ると、歪みがみるみる大きく広がっていく。あっと思うと一人の男が立っていた。厩戸であった。優しく微笑んでいた。
「あっ・・・あなた、、、わた、わたし、、、やっと、、やっと、、、、、、、」
「橘妃よ、お前がこのようにあまりにも悲しんでいるものだから、特別につれていくことにした。用意はできているか。」
「はい、いつでも・・・ぜひともお連れ下さい。」
* ** * * *** ** * * **
「バカな子ね、まさか私よりも先に行くなんて・・・」
翌朝、斑鳩宮にかけつけた推古が、橘妃の冷たくなった顔をなでながら、話しかけた。
「でも、幸せそうな顔をしているのね。」
背後には山背と斉明がひかえていた。
「はい、侍女によると、母は最期にうわごとで、“あなた、うれしい、うれしい”と幸せそうに何度もつぶやいていたそうです。きっと父が迎えにきたのでしょう。」
「そう、それならよかった・・」
推古はカーテンを見た。
「あれも役にたったのね、・・・そのうち私もあそこにいけるかしら・・・」
「なにをおっしゃいます。陛下は、そんなことを考えず、長生きなさってください。」
「そうね、」
立ち上がりつつ、推古は、さきほどこの斑鳩宮に来たときに見た巨人のことを思い出した。
えっ、と思って見直してみたら、何もいなかった。
そのときは何かの見間違いかと思って気にも留めなかったが、昔みた夢を思い出し、山背の事が心配になった。
「山背よ、こちらに来なさい」
「はい?」
近づいてきた山背を推古は強く抱きしめた。
「陛下・・?」、侍女たちがざわめいた。
「竹田皇子も橘姫も、私より先に行ってしまいました。貴方は私よりも先に行ってはいけません。たとえ臆病者ともいわれようとも、とにかく長く、元気に生きて、私を見送る側にいなさい。それが私からの命令です。」
「はい、大丈夫です。お祖母さま。私はこの国のためにやるべきことがあります。それを果たすまでは、死ぬわけにはいきません。」
そんなことなんてどうでもいいから、とにかく生き延びて、長く生きてほしい、推古はそう言いたかったが、さすがに立場上、そうは言えなかった。
しばらくして推古は飛鳥へと引き上げた。
推古が橘妃に贈ったカーテンは、後に「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」と呼ばれた。今も残るその断片からは、橘妃の深い悲しみが伝わってくるようである。
=============================
<解説・補足>
〇橘妃 たちばなのひめ
正式には橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)という。厩戸皇子の妃(4人いたとされる)の一人。天寿国繍帳の文章では、推古の孫(推古の子である尾張皇子の子)とされている。
尾張皇子って誰?、ということについては、おそらく山背皇子のことであろうと思われるが、その考察は別の機会にしたい。
〇天寿国繍帳 てんじゅこくしゅうちょう
本文に書いた通り、厩戸皇子の死去を悲しんだ橘妃のために、推古天皇が贈ったと言われる帳(とばり、カーテン)。
太子(厩戸皇子)と思われる人物が天寿国を旅するシーンが多数描かれ、また作成の経緯を記す文章が刺繍されている。法隆寺に保管されていて、後に中宮寺(太子の家族が住んでいたとされる)に移されたと言われる。
ただし、布や絵(刺繍)については言い伝え通り太子薨去ごろの作品であると推測されるが、文章の文字の使い方や語句などから、文章はもっと後の時代に作成されたのではないか、とも言われている。
まあそもそも、推古天皇から孫娘への贈り物に、わざわざ贈った経緯を文章にして記す必要はないだろう。
本作では、帳は厩戸皇子の死後すぐにつくられたものとし、文章は後から(おそらく天武のころ)追記されたものと設定した。そのため、この章の段階では文章はない。
山背皇子の言う通り、太子は死んだのではない、仏の命令を受けて、別の国を旅しながら修行と説法を続けているのだ、だから悲しんではいけない、と自分に何度も言い聞かせ、理解しようとしたが、苦しみはおさまらなかった。
(旅に出るというなら、私もいっしょにつれていってほしかった・・・・)
夜になるたびに、今死ねばあの人とともに旅ができるかも・・・そうだ、まだあの人が遠くまで行かないうちに早く後を追わなきゃ・・・と思いつめ、気付くと小刀を握りしめていたことが何度もあった。
(ダメ、今から追っても、私だけではあの人の居場所がわからず、一人さまようことになってしまうかもしれない。それよりも、旅に出ているというなら、たまに戻ってくることもあるはず。そのときまで家を整えて、帰りを待つのが私のつとめ・・・)
そう言い聞かせ、泣きながら夜を過ごした。
館では侍女たちが、夜は一切の刃物を隠しておくようになった。
* ** * * *** ** * * **
飛鳥の宮殿にて―――
山背からの知らせで、橘妃の様子を知った推古はつらく感じた。
「厩戸に嫁がせたために、あの子まで悲しい思いをさせてしまった・・・」
推古はしばらく考え込んだのち、急ぎ国内の名だたる工芸者たちを集め、1対のカーテンを作らせて、橘妃に送った。そのカーテンには、厩戸が異国の旅をつづける数多くの場面が刺繍されていた。それを見ながら橘妃は、今晩はこの場面にしよう、と定め、厩戸とともに旅をしているところを想像しながら床につくことにより、わずかに心慰められた。
数か月後、橘妃は病にかかった。
ベッドに横たわりながら、相変わらず橘妃はカーテンの絵を眺めて、涙に暮れていた。するとカーテンの絵の一つが歪んだ。
なに?、と見ると、歪みがみるみる大きく広がっていく。あっと思うと一人の男が立っていた。厩戸であった。優しく微笑んでいた。
「あっ・・・あなた、、、わた、わたし、、、やっと、、やっと、、、、、、、」
「橘妃よ、お前がこのようにあまりにも悲しんでいるものだから、特別につれていくことにした。用意はできているか。」
「はい、いつでも・・・ぜひともお連れ下さい。」
* ** * * *** ** * * **
「バカな子ね、まさか私よりも先に行くなんて・・・」
翌朝、斑鳩宮にかけつけた推古が、橘妃の冷たくなった顔をなでながら、話しかけた。
「でも、幸せそうな顔をしているのね。」
背後には山背と斉明がひかえていた。
「はい、侍女によると、母は最期にうわごとで、“あなた、うれしい、うれしい”と幸せそうに何度もつぶやいていたそうです。きっと父が迎えにきたのでしょう。」
「そう、それならよかった・・」
推古はカーテンを見た。
「あれも役にたったのね、・・・そのうち私もあそこにいけるかしら・・・」
「なにをおっしゃいます。陛下は、そんなことを考えず、長生きなさってください。」
「そうね、」
立ち上がりつつ、推古は、さきほどこの斑鳩宮に来たときに見た巨人のことを思い出した。
えっ、と思って見直してみたら、何もいなかった。
そのときは何かの見間違いかと思って気にも留めなかったが、昔みた夢を思い出し、山背の事が心配になった。
「山背よ、こちらに来なさい」
「はい?」
近づいてきた山背を推古は強く抱きしめた。
「陛下・・?」、侍女たちがざわめいた。
「竹田皇子も橘姫も、私より先に行ってしまいました。貴方は私よりも先に行ってはいけません。たとえ臆病者ともいわれようとも、とにかく長く、元気に生きて、私を見送る側にいなさい。それが私からの命令です。」
「はい、大丈夫です。お祖母さま。私はこの国のためにやるべきことがあります。それを果たすまでは、死ぬわけにはいきません。」
そんなことなんてどうでもいいから、とにかく生き延びて、長く生きてほしい、推古はそう言いたかったが、さすがに立場上、そうは言えなかった。
しばらくして推古は飛鳥へと引き上げた。
推古が橘妃に贈ったカーテンは、後に「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」と呼ばれた。今も残るその断片からは、橘妃の深い悲しみが伝わってくるようである。
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<解説・補足>
〇橘妃 たちばなのひめ
正式には橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)という。厩戸皇子の妃(4人いたとされる)の一人。天寿国繍帳の文章では、推古の孫(推古の子である尾張皇子の子)とされている。
尾張皇子って誰?、ということについては、おそらく山背皇子のことであろうと思われるが、その考察は別の機会にしたい。
〇天寿国繍帳 てんじゅこくしゅうちょう
本文に書いた通り、厩戸皇子の死去を悲しんだ橘妃のために、推古天皇が贈ったと言われる帳(とばり、カーテン)。
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ただし、布や絵(刺繍)については言い伝え通り太子薨去ごろの作品であると推測されるが、文章の文字の使い方や語句などから、文章はもっと後の時代に作成されたのではないか、とも言われている。
まあそもそも、推古天皇から孫娘への贈り物に、わざわざ贈った経緯を文章にして記す必要はないだろう。
本作では、帳は厩戸皇子の死後すぐにつくられたものとし、文章は後から(おそらく天武のころ)追記されたものと設定した。そのため、この章の段階では文章はない。
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