紫玉

Nick Robertson

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「…本当に行くんだな?」
「うん!」
「うん!」
「もちろん、止めはしないが……」

そう言って顎を掻いたのは、リリーとルルの父親である。

「大丈夫!ね!ルル!」
「うん!」
リリーはルルの手を繋いでいる。

「まあ、小さいとは言え、もうお前達は強者として有名なんだ。行ってきなさい」
「ありがとう!」
「ありがと!」
「で、パパとママは何するの?」
「するの?」

「私達は、休暇を楽しみますよ。そうねえ、温泉旅行にでも行こうかしら」目尻にハンカチをあてがいながら、母親が応えた。これはリリーとルルを安心させるために言った嘘なのだが、彼らが分かるはずもない。

「じゃあ心配ないね!」
「ないね!」
「ああ。気をつけて行っておいで。特にルル、お兄ちゃんの言うことはよく守りなさいよ」

「分かってるよね!ルル!」
「うん!」
リリーの言葉にルルが頷いて、手をブンブンと振った。

「行ってらっしゃい!怪我だけはしないでね!」
「はーい!」
「はーい!」
母親の最後の忠告に明るい返事をして、リリーとルルは出発した。

「…ねえあなた、あの子達大丈夫なのかしら」
「はは。きっと元気に戻ってくるさ。俺達は無事に帰ってくるのを祈ることしかできないけど……。ほら、お前、まだ朝食を食べてないだろう?」
「そうね。きっと、すぐに笑顔を見せてくれるわ」
言い終わると、母親と父親は家の中に消えた。
………

「ルルー、楽しみだね!紫玉!」
「だね!」
「見つけたらすぐに持って帰るんだよ!」
「だよ!」

リリーとルルが探しに行くのは、紫色の光を帯びた玉だ。
これを持ってくることは、国王が直接、有力な部下達にだけ伝えた依頼である。
リリーとルルは国の中でも群を抜いて強かったので、小さいながらに王宮の部下に起用されていたのだ。

だが、彼らは知らない。その紫玉というのは、実は魔力の塊であるということを。
数百年に一度出現し、周りの魔力を吸い取りながら大きく育つとされている。
恐れられているのは、紫玉が大きくなり過ぎると、やがて割れて、魔界の道が開くということだ。

魔界は、大量の魔力が集まると出てくる。
そこには、この世界に甚大な被害を及ぼす魔物がいるらしい。

だから、紫玉は割れる前に誰かが持ち帰り、封印しなければならない。
その依頼をリリーとルルは行なっているのだ。

リリーとルルは幼いので、この秘密を誰かに話す可能性があった。そうなると、混乱を招きかねない。
だから、紫色の玉があれば持って来てほしい、としか言われなかったのだ。

とは言え、この紫玉は突然出てくるので、現在あるのかどうかも分からない。
それで、ほとんどの部下達はダメ元で探しているのだが、リリーとルルは本気である。

紫玉なんて見たことがないから、それを手にしたらどんなに幸せだろうかと考えているのだ。

リリーとルルはこの依頼がとても重大なものとは思っていない。
だが、ヤル気は抜きん出ていた。

他の人達は、まずその玉の目撃情報を探っていく。
そしてヒットしなければ、諦める。

対してリリーとルルは、最初からその玉を自分たちの目で確かめ、手で触れようとしている。

定期的にこの依頼が通知されていることも、古株の部下は最初に探し始めてから何十年も経っているということも、リリーとルルには関係のないことだった。

「…ね!僕達国境を抜けるんだよ?考えられる?」
「ない!」
「だよね!えっと、紫玉って伝説の中の物ってママが言ってたから、きっと珍しいよ!」
「しい!」

しばらく歩くと、関所があった。
国境を跨ぐには、ここで身分を証明する必要があるのだ。犯罪者などが逃亡しないようにするためである。

「…ん?君達二人だけ?」
「うん!」
「うん!」
「親御さんはいないの?……身分証明書って、ある?」
関所の役人は怪訝そうな顔をした。

こんな所に二人の幼い子供が来るのには、何か訳があるのに違いないと思ったのだ。

「うん!これでしょ!」
「これ!」
「えーと、どれどれ…。うわっ、王宮直々の証明書じゃないか。……ああ!リリーちゃんとルルちゃんだったのか!」
「そう!」
「そう!」

二人はこの国の中でかなり知名度が高いのだ。

「えーと、こっちの赤い目の子がリリーちゃんで…、こっちの青い目の子が……ルルちゃんね」
「大当たりー」
「当たりー」

そこで役人はやっと納得したらしく、力強く頷いた。
「よし!分かった!通っていいよ!」
「ありがとう!」
「ありがと!」

二人が通る時、役人は「小さいのに大変だねえ」と声をかけた。
「ううん!全然!だって楽しいもん!ね!ルル!」
「うん!」
それを聞くと、役人はキョトンとしてから、大笑いした。
………

「うわあ!あれ海じゃない?」
「海!海!」
「絵本で見たよね!」
「よね!」

リリーとルルの眼前には真っ青な空と海が溶け合っていた。

「すごいね!お隣の国って!」
「すごい!」

ザザーンという音が大きくなった。

「臭いねー、ルル」
「ねー」
「何だろうねー、これ。なんか塩っぽいよー」
「ぽいよー」

潮風だ。ゆっくりと流れてリリーとルルの鼻をさする。

「ルル!こんな所は走っちゃおう!」
「ちゃおう!」
二人が鼻をつまんでワイワイ走って行くのを周りから見た人がいるなら、どんなに可愛らしいと思っただろう。それとも、ひどく驚いただろうか。

「ルル!飛行機だよ!ブーン」
「ブーンブーン」
右手は鼻をつまんで、左手はピンと横に伸ばして、体を傾けながら二人は進んでいく。だが、海は長く続いていた。時折彼らは立ち止まって鼻を押さえている手を外すが、すぐにまた息を止める。

「ルルー、この臭いいつまで続くんだろうねー」
「ねー」
モゴモゴと会話を続けていたが、次第に疲れて口数も減ってきた。

「ルルー」
「んー?」
「海に入りたいよねー」
「ねー」
「よし!入っちゃおう!」
「ちゃおう!」
「ブーン」
「ブーン」

二つの飛行機は急旋回して海に飛び込んだ。

ザブーン、ザブーン

「うひゃ、冷たい!」
「冷たい!」
「きもちいね、ルル!」
「きもちい!」
「わーい!」
「わーい!」

海辺は家が少なく、泳いでいる人はリリーとルルの他にいなかった。
二人は、この世界に自分達しかいないような錯覚をして、大騒ぎをしながら水をかけ合っている。

「ひゃー!海最高!」
「最高!」
「でも、冷たいね!」
「ね!」
唇が青紫色に変色して顎が小刻みに震えだした頃、ようやく砂浜に上がった二人は、そのままのめり込むように倒れこんだ。

「うかー!あったかーい!」
「あったかーい!」

日射がジリジリ照りつける。そうでなくても、砂は熱を帯びているのだ。

「ルルー、いくよー、ゴロゴロゴー」
「あっひゃあ、ゴロゴロー」
転がると、砂がまんべんなく服と体についた。

「ウッペッ、砂がジャリジャリするー」
「するー」
「海の水で洗えるかなー?」
「かなー?」

リリーとルルは急いで海水を口に含んでうがいをした。

「ぺっ!しょっぱーい!」
「しょっぱーい!」
二人とも笑っていた。
………

「靴が重たーい!」
「重たーい!」
海から出て再度出発を図ったのはいいが、だいぶん疲労がたまっている。

「ねむーい!」
「ねむーい!」
「寝るー?」
「寝るー!」

砂浜が二人を呼んでいた。
それにつられて、二人は倒れる。

「あったかーい」
「あったかーい」
「ふわあ…」
「んんん…」
「おやすみ…」
「おやすみ…」

それからリリーとルルが目覚めた頃には、もう薄暗くなりかけていた。

「マズイよ!ルル!起きてー!」
「んあ?」
「見て!お日さま真っ赤っかー!」
「わあ、真っ赤っかー」
ルルもぴょこんと起きた。

「行こっ!」
「行こっ!」
「あ!靴軽ーい!」
「軽い!」
彼らが寝ている時間を考えれば、靴が乾くことくらいすぐだったのだ。

「んー、なんだかピリピリするねー」
「ねー」
日焼けが小さな体を痛みつける。

「靴とか服の中に砂が入ってるよー」
「よー」
「取ろ?」
「取るー」

二人は服を脱いで振り回して、靴は逆さに揺らした。

「あー、ルルの体、変なのー」
「なのー」
服を着ていなかった部分が赤くなっている。
夕日の色よりは薄い赤色だが、近くにいると気づいたらしい。

「服着たー?」
「着たー」
「行ける?」
「行けるーうー、ー」

リリーとルルの足元がフラフラしている。まだ眠り足りないらしい。

「ふぁー、もう寝るー?」
「寝るー」
「…じゃ、どこかに行こ?」
「行こー」
「野宿と宿屋さんどっちがいいー?」
「どっちもー」
「じゃあ野宿ー」
「野宿ー」

幸い、夏の夜はそれほど寒いわけではなかった。
第一、冬だったら両親が二人の出発を許さなかっただろう。

彼らは宿屋の存在は知っているものの、その位置を把握していないのだ。
だから、安易に野宿を選択するのは想像できた。
それを踏まえて、両親は心配していたのだ。

彼らは難しいことを考えるにはあまりに幼かった。
それで、すぐに丸くなって寝入ってしまう。
やがて日が沈んで、周りが闇に包まれた時も、相変わらず細く寝息をたてていた。
………

「んー!よく寝たねー!」
「ねー!」
「元気ー?」
「元気っ!」
「じゃあ今日は紫玉見つけれたらいいね!」
「ね!」

リリーとルルはスキップをして砂浜の上を進みだしたが、同時に足を止める。
「お腹すいた!」
「すいた!」
「なんか食べたい!」
「食べたい!」
「食べ物は?」
「食べ物は?」
「あー!置いて来ちゃった!」
「ちゃった!」

なぜ出発する時に誰も気づかなかったのだろう。
二人は見事にお金と食べ物と水が入ったカバンを忘れて来ていた。
両親は心配するあまりそこまで気が回らなかったようだし、リリーとルルはソワソワしてばかりいたから、こんなことになったのだろう。
ーー

両親は、リリーとルルが出て行った後カバンが机の上に乗っかったままなのを知って外に飛び出たが、二人は既に遠くへ行ってしまったようだ。

追いかけようとした母親を父親は止めた。
なぜなら、彼らが住んでいるアイナ国というのは土地が小さい上に八つの国と陸続きになっている。
関所はそれぞれの国境にあるから、どこに二人が行ったのか見極めるのは困難なはずだ。それに、まず本気で走ったとしても、追いつかないだろう。

それよりも、身分証明書もカバンの中にあるだろうから、関所を抜けられなかった二人が帰って来た時に渡せばいいさ、と言うのだ。

母親もそれに納得したが、しばらくしてようやく気がついた。

出発する日の朝、母親はリリーとルルに「身分証明書はすぐに必要になるから、ポケットに入れていたら?カバンから出し入れするのは面倒臭いし、とりあえずズボンのポケットに入れてチャックを閉じていなさいよ」と助言していたのだ。
それを思い出して、慌ててカバンを探ると、やはり身分証明書は無かった。

母親は自分のした行為を深く反省した。それを父親は慰めた。
ーー

「どうする?これから」
「どうする?」
「帰る?」
「帰る?」
「嫌だなあ」
「嫌だあ」
「先行こ」
「行こ」

お腹と背中がぺったんこになりそうだったが、リリーとルルは進むことを選んだ。

「んー、お腹すいたあ」
「たあ」
「ごはんー」
「ごはん…ごはん…」

ヘロヘロと歩いていた彼らの目に、ふと、家々が見えた。
集落だ。

「あ!街がある!」
「ある!」
彼らはすぐに元気を取り戻した。

「行こ!」
「行こ!」
「競争ね!ヨーイ、ドン!」
「ドン!」

ワーーーーーと叫びながら飛行機はフル稼働した。
………

「きゃー、本物だっ!」
「本物っ!」
「大きーい!」
「おおおー」

低く唸って飛行機が飛んだので、競争の勝ち負けは吹っ飛んでしまった。

ここは港街である。
たいてい栄えているところは海に近いと相場が決まっている。
つまりここは、リリーとルルが知っている街とは比べ物にならないくらい大規模だった(アイナ国には、海が無いのだ)。

「人がいっぱい」
「いっぱい…」
往来が激しい。
ともすれば、人の山に飲み込まれそうだ。

「ルル、こっちだ!」
「うん!」
リリーはルルの手を引いて走りだした。
お腹がすいていたのはとうに忘れて、人ごみの中をすり抜けて行く。こういう時、小さな体は便利だ。

多くの人が鎧を身につけたり、剣を片手に持ったりしていた。
リリーとルルは武器を手にしたことはあるが、全て王宮からの貸し出し品だった。
二人だけではなくて、おそらく王宮に居た全ての部下は、その貸し出された武器を着用していたはずだ。

「…武器、借りて来たらよかったかな…」
「よかったかな…」
こんなに武具を持っている人が多いとは知らなかった。
二人は、王宮に立ち寄って武器を借りる必要は無いと考えていたのだ。両親も、重い荷物を増やしたくはなかった。

それにしても、この国の人たちは武器を我が物顔でつけている。もしかしたら、本当に自分のなのかもしれない。考えられないことだが、なんせ隣国の事情だ、変わったこともあっておかしくない。

「…兄ちゃーん」
「ん?」
「あれ」思いがけず、ルルの方から喋りだした。
リリーがルルの指差す方を見ると、食べ物が連なっている。食品売り場だ。

「うわ!美味しそう!」
「しそう!」
「でも、お金無い」
「無い…」
「無理」
「ふー」ルルは不満そうに息を吐いた。

「…そっか。ごはん食べてなかったね」
「なかった!」
「じゃ、調達だ!」
「だー!」

これだけの人がいるのだ。きっと、すぐ近くに食べ物を供給できるところがあるに違いない。

リリーとルルは、まさか向こうに建っている、銀色にテカテカ輝いている建物に、養鶏場とか、養豚場とか、農園とか、そういう名前が付いているとは思わなかった。

だけど、ちゃんと森も存在していた。街からは少し遠いにしても。
リリーとルルは、街の騒がしさにすっかり恐縮しながら、コソコソと動き始めた。

「ルル、あれ、分かる?」
「ん?」
「海に流れ込んでるの、あれ、川だよ」
「川」
「ウチの国にも川が通ってたね。昔パパが言ってたよ。あれをたどって行くと、海か森に出るんだって!!」
「て!!」
「あっちが海だから、反対側に行けば森だよ!きっと!」
「きっと!」

リリーは駆けだした。ルルもそれに続く。

川はどれくらい続いていただろう。
周辺にはまだ街が続いていた。

でも、川に家が隣接しているわけではない。
岸辺は土が柔らかく、もしそんな場所にうかうか家を建てたものなら、すぐ傾いてしまうだろう。

また、大雨の時には洪水が起きるらしく、堤防ができている所まで来た。
リリーとルルはこれはラッキーとよじ登る。

「うわー、土手だよ!土手!」
「土手!」
「もっと川岸付近まで降りよう!」
「よう!」

降りると、自分の胸くらいの丈がある草が広がっていた。

「歩きにくーい!チクチクするー!」
「するー!」

だが、そこは人がまばらで、街にいるより快適である。

「探検隊だー!」
「だー!」
彼らは周りに人がいるのには目もくれず、自分達がすごい冒険家だと言うようにワッサワッサ歩く。

「隊長ー」
「なんであるかっ!」
「ごはんー」
リリーよりひと回り小さなルルには空腹は辛いものだったのだ。

「うむ、なら何か食べよう!」
「よう!」
「川へ突撃!」
「突撃!」
「わー!」
「わー!」

掻き分け掻き分けすると、サッと前が開けて綺麗な川が見えた。
思ったより土手から遠かったが、彼らはそれを間近で見ただけで満足していた。
透き通るような水に、丸い石が重なっている。
向こうの方には小舟も見える。

「綺麗ー!」
「綺麗ー!」
「あ!お魚!」
「あ!」
「食べ物だ!捕まえろー!」
「ろー!」

ザバーン、ザバーン

「ひゃあ!海より冷たい!」
「たい!」
「あれ?お魚は?」
「あれ?」

魚は、二人が着水すると、その華麗な鱗を太陽にきらめかせて身をひるがえし、とうに岩陰に隠れていたが、リリーとルルには分からなかった。

「どこどこ?」
「どこどこ?」
「あれー?」
「あれれー?」
二人がガックリ肩を落とすと、リリーは土手の上に何かを見つけた。

「ルル!あれ!動物だ!」
「だー!」

大きな熊を、担いで引きずっている男がいる。

リリーとルルは冒険家の尊厳もすぐに捨てて一目散に土手を駆け上がる。

「…おわ!テメーらどうしたんだ?」
「食べ物!」
「食べ物!」二人共、熊を指差した。
「くあー!こんなもの食いたいってのも、物好きだな!焼かずに食うってか?」

「食べる!」
「る!」

二人が熊に飛びかからんばかりの勢いだったので、男は慌てて止める。
「バカバカ!本気で生で食うつもりか!やめとけ!腹壊すぞ!おい、こいつの価値も下がっちまう!……分かった分かった!奢ってやるから!こいつ売った金を遣って奢ってやるから!腹減ってんだろ?」

「減ってる!」
「てる!」
「ぺこぺこ!」
「ペこ!」

男は、賑やかな子供達に捕まったもんだなと思いながら、「よし!じゃあ腹一杯食わしてやるから、任せとけ!」と胸を張った。

「わあ!やったあ!」
「たあ!」

だが、この男は少々細かいところがあった。ルルに向かって、「おい、坊主、お前、兄ちゃんの言葉ばっか復唱してるぞ!ちゃんと自分の意見を持たなきゃあ、俺みたいな立派な大人にはなれんど!」と言うのだ。

「分かってるよね!ルル!」
「うん!」
「よっしゃ、いい子だ!」

男はまた街に向かって歩きだした。

リリーとルルは話しながらついてくる。
男の額にはうっすら汗が浮かび、足には筋がピクピク動いていた。

「おじさん!手伝おうかー?」たまりかねたようにリリーが聞く。
「おうかー?」とルルも言う。
「ふっ!お前達、これがどのくらい重いか知ってるのか?」
「知らなーい!」
「なーい!」
「じゃあやめときな。これは、子供に動かせる代物じゃねえ」
「貸してー!」
「てー!」
「おいおい、やめとけ、って、あ…」

二人は軽々とその熊を持ち上げた。
「どこに持ってくの?これ」
「これ!」

男が口をパクパクさせていると、二人は困ったように「じゃあ先行ってるよ!」
「てるよ!」と言い残して、さっさと土手を突っ走って行った。

「あ、あっ!ま、待てっ!おい!」男はリリーとルルを追いかけたが、二人はありえないくらい速く、男はすぐに息を切らしてしまった。

「…そ、そこを…左に…」
「分かったー!土手を降りるんだね!」
「だね!」
「そ…」

リリーとルルがワイワイはしゃいでいるのを呆然と見つつ、男はトボトボ肉屋へ向かった。
………

「ここかなー?」
「かなー?」
二人は、「カタラ肉屋」と書かれた看板の前で止まった。
「にくや」とフリガナがあったから分かったのだ。

「人、少ないねー」
「ねー」

ここら一帯は街の脇にある店の集団で、街の中心部よりはかなり静かだった。

「おーい」男がゆっくり歩いてくる。
「あ!こっちこっちー!」
「こっちー!」

リリーとルルが手を振ると、ようやく男は小走りになった。

「これ、どうするのー?」
「するのー?」
「ここのオヤジに渡すのさ」男は二人から熊を受け取った。

「オヤジに渡すのー?」
「のー?」
「そう!そしたらお金が手に入る!」
「入る!」
「入る!」
「バンザーイ!」
「ザーイ!」

男に連れられて、リリーとルルは店の裏口に回った。

「おいオヤジ!居るんだろ?」
戸をどんどん叩きながら男が言うと、しばらくしてガチャッ、と鍵が開いて老人が姿を見せた。

「おう!ケン坊か!どうした?…あー、熊か。よしよし、早速買い取ってやろう。……言っとくが、高値を提示されちゃ、断るぜ」
「はいはい、分かってんよ」

値段の交渉が行われている間、リリーとルルは息を潜めて成り行きを見守っていた。

「…よし、買った!」
「おう!金はすぐにくれよ!」
「ほい、これだ!いやー、いい買い物をした!」
「ま、俺は正規の猟師でもねえからな…」

受け取った金を男は自分の皮袋に入れた。

「…さっきから気になっていたんだが……その子達は誰だい?」老人は男にコソコソと問いかける。
「あ、ああ。土手の方で会ってな。『食いもんが欲しい』なんて言うから、連れて来てやったんだよ。ここの焼肉をちょこっと分けてやるつもりだ」
「へえ、そうか。ワシからは、とやかくは言わんが…ちゃんと送り届けてやれよ?こいつらの親が心配してたらどうする?」

「大丈夫!ね!ルル!」
「うん!」男が応える前に、リリーとルルが返事をした。

老人は少し体を揺すって、「…ま、頑張れや。威勢のいい奴は、嫌いじゃねえ……」と言って、裏口の戸を閉めた。

「……だとさ。テメーら、オヤジに気に入られたんじゃねえか?」男は振り返る。
「え!そう?」
「え!」

二人はきゃっきゃっと跳ねて、店の入り口を目指した。
………

「おいしーい!」
「しーい!」
リリーとルルはバクバクと肉を頬張る。
それはこの店の中で一番安い肉であったので、注文した男は恥ずかしそうにタジタジした。
まさかここまで喜ばれるとは思っていなかったのだ。
安物とは言え、空腹の子供の舌には、さぞかし響く味なのだろう。

すると、店の奥から白米飯に肉の汁をぶっかけた物が出てきた。
老人がリリーとルルがいる机にコトンと置く。

「おい!俺はこんなもの頼んでねえぜ!」と男が言うと、老人はシッ、と唇に人差し指を当てて、「…店の奢りだ」と言う。

「なんでえ!だったら俺にも肉飯くれよ!」と男が怒鳴ったが、「バカたれ!」と一喝される。

男は舌打ちして、リリーとルルに「くれるんだとよ。礼でも言っとけ」と囁いた。

「ありがとう!おじさん!」
「ありがと!」
二人が大きく叫ぶと、フンッと鼻息を漏らして老人は去っていった。

老人が見えなくなってから、「…すげえな。オヤジがあの歳で惚れ込んでやがる」と男が呟くと、「そんなわけあるか!!」という返答が飛んで戻ってきた。

「やべえ。オヤジが地獄耳だってこと、すっかり忘れてたぜ。これから金に困るかも知んねえぞ……」
男は早口で言って、自分が注文した肉を頬張った。
………

「おい、今まで聞きそびれてたけどな」
リリーとルルは土手の上で男の隣を歩きながら、鼻歌を歌っている。

「テメーら何者なんだよ」
「『何者』って?」
「って?」
「だから、その…どこから来たんだ?見かけねえ顔だな、と思って……いや、俺はそもそも街の人間の顔は覚えてないが…」

「アイナ国だよ!」
「だよ!」
「アイナ国?!関所を通って来たのか?」
「うん!」
「うん!」

男は何かを考え込んでいた。
「…なあ、アイナ国のどこから来たんだ?」
「えっと…真ん中くらいって、ママが言ってたよね!ルル!」
「うん!」
このルルの返事はテキトーであったが、リリーの自信をつけるには絶大な力を発揮する。

「はあ?小国だとは聞いてるが…。ここに来るまでに何十日もかかったんじゃねえのか?それまで飲まず食わずなんてことは…ねえよな」
「違うよ!僕達昨日の朝出発したんだもん!ね!ルル!」
「うん!」

男は絶句した。あり得ない、そう思いながらも、どこかでは納得していた。

そして男は膝からへなへなと力が抜けるのを感じ、へたり込んでしまったが、すぐに電撃をくらったように背筋を伸ばす。

「そうだ!関所を通ったんだろ?だったら、身分証明書、身分証明書はあるだろ!ちょっとそれ見せてくれ!」
「ん?いーよ」
「いーよ」

リリーがズボンのポケットから取り出した紙切れを、男は穴が開くほど見つめた。

「は、はは…。王宮、だとよ。そうかあ、テメーら、リリーとルルって言うのか…。いやあ、『ルル』って言う名前を聞いた時にピンとこなかったのは俺のミスだな……。あー、隣国の英雄をしょい込んじまったよ。どうすりゃいいんだ?俺、やっすい肉食わしたけど…」
リリーとルルの名前は、アイナ国ほどではないにしろ、周りの国々にも知れ渡っていたのだ。

「お肉、美味しかったよ!」
「たよ!」
「そりゃ、どうも…」

男は焦っていた。紙には彼らの身分を保証するということの他に、任務中だから関所では手間取らせないようという旨が載っていたのだ。

「…なあ、テメーら…、いや、お前達……。狩りなんてしてる場合じゃねえぜ…。依頼をこなしてる途中だって書いてあるんだが…」
「うん!そうだよ!紫玉を探してるの!ね!ルル!」
「うん!」
「バ、バカッ!じゃない、えっと!依頼内容はやすやすと口にするもんじゃねえって」男は咳払いして小声で喋る。

「えー?紫色の玉を取って来るだけだよー?」
「だよー?」
「シッ!声が大きい!」
「聞かれたって構わないもん!」
「もん!」

男はすっかり参ってしまって二人に頭を下げた。
「頼むから静かにしてくれ!」
「なんでー?」
「でー?」
「ああ!もういい!テメーら、もう後戻りできねえぞ!今から猟をしに行くんだからな!」
「うん!」
「うん!」

リリーとルルは狩りについて行くと言っていたのだ。
「本当に良いのか?」と聞いても、「うん!お腹すいたもん!」としか言わない。

「かはー、俺のせいで怪我でもしたらどうするんだ…」
男は頭を抱えた。

肉屋を出た時に、すぐオッケーを出してしまったことを今更ながらに悔やむ。
怪力の持ち主だったから、荷物運びに最適だと思った俺がバカだったんだ!と叫びだしたい気分だった。

「まあ、王宮の部下なんだから、強い人間と戦ってきたんだろうし…」
「ん?僕達?対人戦なんてやったこともないよ?」
「ないよ?」
「嘘だろ!!…動物を倒したことは?」
「ないよね!ルル!」
「うん!」

男の顔はみるみるうちに蒼白に変わった。
「話が違う。アイナ国の英雄じゃなかったのか…?」
「違うってえ!」
「てえ!」
「僕達、配達で活躍してたんだよ?」
「だよ?」
ーーー

リリーとルルはその素早さゆえに、アイナ国の重要な書類を関所まで届けたり、逆に関所で機密書類を受け取ったりしていたのだ。二人の幼さからして、裏切る可能性はまず無かったという点も、王が召しかかえた理由の一つだった。

それに、戦わなかったことについてだが、王宮に雇われた経緯自体が特殊なのだ。リリーとルルは、生まれてからすぐに能力を開花させ、両親が目をちょっと離した隙にいなくなっていた。だから、両親は二人の外出を禁じたわけだが、それではあまりに可哀想だということで、アイナ国のレースに出すことにしたのだ。

アイナ国は、月に一度娯楽としてマラソン大会が催される。大抵スタート地点はどこかの関所で、ゴールの場所は、アイナ国の中心部からその関所に続く道の途中であった(おそらく、アイナ国の中心部は道が曲がっているところが多いので走るには不向きだと判断されたのだろう)。

まっすぐな道で目印もちゃんとあることだし、これなら安心と出場させてみると、二人はいきなりトップに躍り出た(実際は、一位がリリー、二位がルルだったが、年齢を考えてこれは仕方ない)。

そこに王が目をつけ、王宮の部下になった、というわけだ。
リリーとルルの両親は、普通の人民だったはずなのに、子供を産んでみると、二人連続で身体能力がずば抜けていたので、大変に戸惑っていたが、今はそのお陰でなかなかの貯蓄がある。

つまり、彼らは、今まで王宮の出す試験を受けたことも、狩りの依頼も受けたことがないのだ。だが、幼い彼らが王宮に引き抜かれたという話だけで、噂が尾ひれをつけて泳ぎまくり、ついに「英雄」とまで囁かれるようになったのだ。

両親は、その称号を否定しなかった。
「強いと思われていた方が、怖そうな人達に絡まれないと思うから」と、むしろ歓迎していたのだ。
ーーー

「嘘だろ…。じゃあ、行っちゃいけないじゃねえか……」男は体を震わせた。
「えー?なんでー?」
「なんでー?」
「ダメに決まってるだろうが!お前達には経験というものが足り…ふがっ」

「ねー、行こーよー」
「よー」
男はリリーに持ち上げられていた。

「この先に山があるんだよね?そこに食べ物が眠ってるんだよね?」
「だよね?」
「おい!放せっ!」
「やーだー」
「だー」

リリーとルルは走りだした。
「おいコラ!危ねえ!あぶ、危ねえって!!」
「山にまっしぐらー!」
「ぐらー!」

男は反射的に銃を構えそうになったが、なんとかこらえる。
こうして、いつもより何倍も早く山へとやって来たのだった。

「…俺、一頭の動物を売りさばいたら、また捕まえに行ってたけど、一日に二回山に来たのは初めてだよ……」さっき食べた肉を吐きそうになる。でも、肉はすなわち金だ。簡単に地面にこぼせるものか。

「ねーねー、どうやって捕まえるの?」
「のー?」
「あ?テメーらは荷物運び。俺みたいに……よっ。これ持ってねえだろ」

男は服の中から右手で小さな筒を取り出した。

「…なあに?これ」
「なあに?」
「これはなあ、銃と言ってだな、このポケットに入ってる小石を、ほい、こう装填して、魔力ではじき飛ばせば…」

さすがに慣れているらしく、流れるような動き。パン、と乾いた音がしたかと思えば、目の前の木に穴が空いている。

「すごーい!」
「すごーい!」
「はっは、だろ?」男は少し機嫌が良くなった。

「銃って、こんな形してるのかと思ってた」
「ってた」
リリーとルルは右手を握りこぶしにして親指と人差し指だけまっすぐ伸ばす。

「お…おう。まあ、普通は、そうだろうな。だが…」
そう言って男は目を閉じた。
思い出しているのだ。昔のことを。

男の父親も、同じ道具を扱っていた。そして、小さい頃、男は父親に向かって、「それが銃なんて、あり得ねえ」と吐き捨てたのだ。すると、父親は今のように目をつぶってじっと考え込んで…

「既存の考えを打ち破るために必要なのは、覚悟なんかじゃなく、豊富な選択肢を肯定する能力だ」
これが、男の家に代々伝わる言い訳である。

「え?キゾンの…?」
「の?」
「はっはあ!まだ早かったかな!よしよし!」
そう言って、当時父親にされた時と同じように、リリーとルルの頭をクシャクシャと撫でる。

今だって意味がよく分かっていない。おそらく、父親も全く理解していなかっただろう。でも、それでいい。

「じゃ、どーせなら、働いてもらうからな!」
「あ!分かったあ!」
「たあ!」
リリーとルルの声を聞いて、返事は完璧だな、と男は微笑んだ。
………

「おーい!テメーら、どこにいるう!」
男は山で叫び回っている。

荷物を運んでくれ、と俺は言ったのだ。それなのにどうして俺を置いて走って行くかな。

グワングワン大声を出しているうちに、一瞬、自分の小さい頃の後ろ姿が見えた。

「いいか、山は確かに恵みをもたらしてくれるが、危険も多い。絶対に俺のそばを離れるなよ」と男の父親は言い、「はーい」と幼い頃の男は応えた。

しかし、あまりの物珍しさに、つい、父親から逃げるように走ってしまう。その背中が、はっきりと目に映っている。

ああ、これが子供か。

その後、すぐに父親に捕まったので、絶対に怒られるぞ、と、固く目を閉じたのを覚えている。
だが、父親はため息をついて許してくれた。
あの時は不思議で仕方なかったが、今なら分かる。
抑えきれないのだ、足を突き進める衝動が。

それをコントロールできるようになれば、大人と言われるのかもしれないな、と思った。
そう考えると、男の声はやがてしぼんで、ゆっくりと歩きだした。

ザッザッポキッ
色々な音がする。
男には聞き慣れて、いつしか気にも留めなくなった音だ。だが、あの二人には、新鮮で新鮮で仕方ないだろう。

子供は弱く、大人は強いとするなら、子供は大人よりもっと楽しいのだろうな。

ここまで想像して、男は「なーにバカなこと考えてるんだ、俺は。考え込むなんて、ガラじゃねえことを…」と小さく笑って、自分の額を叩く。

その時、バキバキバキバキっと大きな音が轟いた。

男はハッとしてそこに向かって走る。
この音は、間違いない。

音がした位置を正確に見極めて、男は木の陰に身を隠した。
そっと様子を伺うと、やはりモンスターだ。

「これは、嫌な予感しかしねえよ…」
モンスターは、太陽の光が苦手な動物達のことで、普段は洞窟の中で生息している。
彼らは、閉塞された空間で生きることを余儀なくされた代わりに、巨体と、獰猛さを得た。

いつもは死んだように大人しくしているが、獲物がそばを通ると途端に活発になって襲ってくるのだ。そして獲物を食べ終わると、次の機会が訪れるまでいつまでも空腹をしのぎ続ける。そんな動物だ。

狩りをするものなら、いや、この山に来る人間、ここ付近の生物なら、全員が知っている常識である。洞窟だけは近づいてはいけないと。

そんな所を通るのは、「食べてくれ」と言っているようなものだ、と。

「ちぃ、やっぱりあいつらかよ」
男は素早く銃を取り出した。

狙われているのは、リリーとルルだ。

ネトネトした真っ白いトカゲみたいなやつに襲われてる。
モンスターの特徴は、とても分かりやすい。デカくて、肌が水っぽくて、そして白い。

大きな獲物を貯蔵し、湿った日光が当たらない場所に住んでいるため、こんな体になったのだそうだ。

初めて見る相手だが、やるしかない。

男の銃から、小石が勢いよく連射される。
パンパンパンパン…

しかし、そのモンスターの体はそれを全てはじき返してしまった。

「くー!肌が水っぽいのは知ってたが、こんなに硬いってのは聞いてねえよ…」
男は思わず文句を言う。

残念なことに、小石は、逆にモンスターを興奮させ、しかも、男の居場所を教えてしまったようだ。

「ギャーーーーーウ!」モンスターは一声いなないて、男に迫っていく。
ダン、ダンという大きな音。

「バカバカバカ!こっち来んな!『ぎゃーー!』なんて言うのは俺の方だっての!しかも、歩く音が俺の銃の音よりデカイっていう…」

男は諦めて銃をそばに捨てた。

「へっへへ。モンスターに殺される間抜け猟師として、歴史に名が残ればいいんだがな。誰か、俺の死体のかけらでも見つけてくれねえものだろうか…」

モンスターは今にも男を踏み潰しそうである。
「おい!テメー、いくら俺が銃で撃ったからって、食べずに潰すのはねえだろ!骨まで粉々になっちまうだろうが!…あ、でもそっちの方が後々見つかりやすいかもな…」

前足が振り下ろされる。
「はうっ」
男は歯を食いしばった。

しかし、次の瞬間体ごと吹っ飛ばされる。
「っは?」
「おじさん!大事な物は捨てちゃダメだよ!」
「だよ!」

リリーとルルが助けに来たのだ。
まさかこれ程までに速いとは思わなかったので、男は目をまん丸にする。

「大事な、物…?」
「そう!」
「そう!」
二人に大きく頷かれた。
自分にとっての大事なもの。

命の危機が迫り来ていたと言うのに、幼い頃の自分を思い出してしまった。
宝物。

「これ!大事なんだよね!」
「よね!」銃を差し出される。
「ふおっ!それのことかよ!いや、それも大事だけど!無くなってもまたすぐに作れるじゃねえか!」
「これと同じものは作れないよ!ねえ!ルル!」
「うん!」

銃を受け取る。
手が震えた。

この銃を手にしたのは、いつだったろうか。
多分、子供の時だった。
木の真ん中をくり抜いて筒の形を作り、薄い魔力を毎朝通して、地道に強化したのだ。
タラタラと愚痴を呟きながらそれを続けていた自分が蘇る。

この銃は、思い出が詰まっているわけでは無い、ただの筒だが、俺の思い入れは数え切れないくらいあるのだ。
この銃を触媒にして、私は昔を鮮やかに想い返すことができるのだから、私が所有者である限り、この筒は幼い俺だ。

「それ握って待ってて!僕達あいつをなんとかするから!」
「から!」
二人は力強く笑ってモンスターに駆け戻っていく。

俺は、少し右手を上げて呼び止めようとしたが、それはためらわれた。結局、銃を持つ手に力が加わるだけだ。
………

「よーし!おじさん大丈夫だったし!やってみようか!」
「みようか!」
リリーとルルは勇んで突撃した。

モンスターが長い舌を素早く伸ばしてきた。
「うっと!ひゃー、危なーい!ルル!大丈夫?」
「うん!」

リリーとルルが近寄るたびに、その長い舌が舞い、後退させられる。
「ルル!大丈夫?」
「うん!」
性懲りもなく、彼らは同じ問答を繰り返した。

そのうちに、モンスターの口から白い煙が吐き出された。

「うわ!この煙なんだろう?嗅がない方がいいかな?」
「かな?」
「あ!おじさん、放ったらかしだ!」
「かしだ!」

リリーとルルは急いでさっき男を移動させた場所まで来た。

「…ああ、俺にも見えてるよ。ったく、モンスターに関する情報がどれくらい少ないかが分かるね」男はそう呟いた。

「安全だと思うトコまで動かすよ?」
「かすよ?」
「いや」男はリリーとルルの顔を交互に見比べた。

「何?」
「何?」
「頭を使えば、楽にこの煙から逃げることができるぞ」
「え?ホント?」
「ホント?」

男は自分の人差し指の先端を舐めた。
「…やっぱりな。ここは風下だ。この山の風は、時間によって変わるんだ。今は、てっぺんから吹き下ろしてる」
「じゃあ?」
「じゃあ?」

二人が期待の目で男を見た。

ドス、ドスとモンスターがやって来る音がする。
「…ここより上を目指すんだ。そこなら、そう遠くに行かなくても煙に当たらない」

「分かった!」
「分かった!」
今度はルルが率先して男を担ぎ上げた。

リリーより多少乱暴だったので、グワングワンと視界は揺れたが、怪我一つせずに上の方に移動することができた。

「わあ!本当に煙が来ない!」
「来ない!」
二人はこんなことにも大はしゃぎができるらしい。

眩しそうに男が見つめると、白い煙の中からヌッとモンスターが現れた。

「ギャーーーーーウ!」
また高く鳴いた。
そして地面を蹴飛ばし、大きく飛び上がってリリーとルルーがいる場所に着地する。

地震が起きたような揺れと、爆風のような衝撃波。

少し離れた所にいた男でさえ吹き飛ばされる。
両腕で顔を覆ったものの、細い枝が無数に襲ってきた。

幹の部分と接触しなかったのは不幸中の幸いと言えよう。

「…んだよ、こんなこともできるのか!」
男はイライラして叫んだ。
そのモンスターは翼を生やしていた。
それに、もう真っ白ではなく、身体中が緑色に変わっている。

男の視界の隅にピクピク動くモノがあった。
見れば、横倒しになった猪が必死に足をバタつかせている。

その時になって、さっきから、山で動物に出くわしていないことに気がついた。
普段なら、キツツキだってリスだっているのに。
みんなモンスターに恐れをなして隠れてしまっていたのだ。

そう言えば、山に到着した時には、まだピチピチと鳥の鳴き声がしていた。
すぐにリリーとルルがいなくなって、男が大声を出したので、動物たちは静かに息を詰めていたのだろう。

木々はなぎ倒され、モンスターの周りにはぽっかり穴が空いている。

「…おーい、おじさん!大丈夫ー?」
「大丈夫ー?」
遠くでそんな声がした。

「俺のことはどーでもいいから、自分のことを考えやがれー!」と返すと、
「はーい!」
「はーい!」という答えが聞こえた。綺麗な声の重なりは、まるで山びこだ。

二人ともこの状況に危機感を抱いていないらしい。
さすが王宮に所属しているだけはある。

そう男は考えていたが、王宮の部下であっても、こうなれば普通は逃げだすはずだ。
この二人は、あまりに世界を楽観視し過ぎている。

モンスターの二つの眼光は金色にギラギラ輝き、二人に焦点を合わせていた。
そして唐突に炎を吹き出す。

「うわあっ!」
「うわあっ!」リリーとルルは左右に分かれるように飛び退いた。

するとすかさずモンスターは、右に避けたルルに向かって火炎の塊を吐き出す。

「あわわわわ」
「ルル!」間一髪でリリーは飛びつくようにルルを救い出した。

実は、ルルという人間は、リリーから離れてしまうと、動きや思考が極端に鈍くなる性質がある。
マラソン大会でリリーと並んだ記録を樹立したのは、兄から遠ざかりたくないだけに、ただ必死に食らいついていった結果なのだ。

また、リリーは、ルルがいないと自信が無くなり、おどおどする傾向にある。
互いに支え合っている関係というのは、こういうことだろう。
だから、リリーはいつも、マラソン大会ではルルになるべく合わせるために、無意識に少し遅く走っていたという裏事実がある。

「ルル、大丈夫?」
「うん!」リリーに触れていると、すぐにルルは復活した。

そのモンスターの動きを遠巻きに眺めて、男は、彼なりの分析を続けていた。

なんで隠し技をいっぱい持ってんだよ。最初から出しとけって!分かりづらいやつだな、クソッ!
いや、もしかしてあれか?体力を極力温存するために、力を出し惜しみしてたってか?それともさっきまでがウォーミングアップっていうのか。いや、洞窟の中で徐々に進化したっていうのも…。

思考を巡らせ、彼はウンウンと唸っていた。
もしリリーとルルが近くにいたなら、きっと、怪我をしているのだと勘違いをしていただろう。

いや、待てよ。男はあることを思い出した。

やつら、太陽光が苦手なんじゃ…。
空を見上げると、ちょうど太陽があるべき場所に雲がかかっていた。うまくいかないもんだ。
だが、洞窟よりは明るいわけだし、少しずつ体力は削れてるのか…、全然そうは見えないが、実は耐え難い痛みや食欲に襲われているのか……?

よく見ると、爪は赤色だ。
体は緑色、目は金色、爪は赤色…

「目立ちたがり屋かっ!」男はそう判断を下したが、そんなことをしても何も始まらない。
………
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