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二章
⑦
しおりを挟む扉の音がして反射的に振り返れば、赤い色が視界に灯る。さっき出て行ったばかりなのにどうしたのかと名前を呼べば、ハリスは「ん」と腕の中の物を差し出した。
「お花……?」
「部屋に閉じこもっているのも暇だろう……目の保養になるかと思って……」
突き出されたのは小さな花束だった。
青い色を主体とした複数の種類の花が、紙で包まれてリボンでまとめられている。咄嗟に受けとって瞳をしばたたかせる。
少しまごついたしゃべりで送られた言葉に、自然と口が感謝を述べる。
(こういう気遣いにハリスの静かな優しさを感じる……)
遅れて渡されたのは透明なガラスの花瓶でここに活けろということか。そう問えば、ハリスは肯定して手持無沙汰に頬を掻く。
「本当に嬉しい……イツキくんも喜ぶよ」
同じ風景ばかり窓から眺めていたから、いつもと違う色を目にするだけで気持ちが華やぐ。腕の中の花を見下ろす。どこかで見たことがある気がするけれど、何の花なのかは思い出せない。
「まだ寝ているのか」
「あ、うん。まだ布団の中で丸まってる」
二人の視線がまだ山を作っているベッドに注がれる。そこには布団を抱きしめて寝るイツキの姿がある。
「昨日も遅くまで寝つけなかったみたい」
「そうか……」
もうすぐお昼になるしそろそろ起こした方がいいかもしれない。花を活けたら声をかけようかな。
「あと三日でお披露目の儀が始まる。そろそろ警備隊のところに帰さないといけない」
「でも……」
「そろそろ強硬手段に入ってもおかしくない。宿や民家から一つずつ探し回るつもりだ」
続いたハリスの声に、上げた反論の声もすぐにしまいこむ。
そうなったら隠してはおけないし、宿の人にも迷惑をかけることになる。
「どうにも出来ないんですね……」
「仕方がない。神子を匿えるだけの力も権力もない」
憂鬱さを含んだため息を吐いてハリスが視線を落とす。なんだかんだ言いつつハリスとイツキは仲が良かった。ハリスも手があったらきっとどうにかしてくれたんだろうが、本当にどうしようもないんだ。
(相手が国じゃ……)
何も出来ない自分の無力さが悔しい。
「しばらく神子として実績を積めば外に出ることも出来るし、会うぐらいは出来るだろ……」
それまでの辛抱だとでも言うように少し速めた口調で呟く。リアを慰めているのだろう。そして、自分にもそう言い聞かせているようなものだった。
「こいつだってリアと会えて多少は救われただろ……」
「俺だけじゃなくて、ハリスだって色々してくれたでしょ?」
何を言ってるのと首を傾げれば、ふっと笑ったハリスは首を竦めて洗面所に消える。その仕草に何だか「呆れ」の気配を感じてリアは心外そうに眉をひそめる。
何が言いたかったんだろ。と思いつつも花を活ける方が先だと続いて水道に向かった。
「んぅ……」
「あ、起きた?おはようイツキくん」
ゆったりとした動作で布団から顔を上げた少年に声をかければ、それに反応して萎んだ瞳がリアを見る。
「おはよ……」とほとんど吐息の挨拶が返って来てくすくすと笑みを零す。寝癖の付いた頭を揺らして黒い瞳が次にハリスを映した。
「おはよう、ハリス」
「……おはよう」
もごもごと覚束ない口で述べたイツキに、ハリスも遅れて返す。その少しの間にハリスの戸惑いが見えてリアは余計に笑みを深くした。
「かお洗ってくる」
「歯も磨け」
「もうすぐお昼ご飯だよ」
目を擦ってイツキが布団から這い出てふらふらと足を運ぶ。随分と眠そうだ。心配になって声をかけつつ二人でその背中を見送った。
「どうしたの、それ」
冷たい水で洗ったおかげか、戻ってきたイツキの表情は眠気も少なくスッキリとしている。ハリスとリアが座る机の上にある花瓶に気づき、不思議そうに近づいて来た。
「ハリスがね、ずっと部屋の中じゃ暇だろうって買って来てくれたの」
「へ~ハリスが……」
花を見下ろして、大きな黒い瞳をしばたたかせるとイツキは何かに気付いて瞼を半分だけ閉じた。ジトッとした視線をハリスに流して「青ばっかり」と含みを持たせて言う。
「たまたまだ」
「へ~そうなんだ……」
「お花があると気持ちも晴れやかになるよね」
座るように椅子を引いて促す。イツキは素直に腰を下ろしながらまだハリスを見つめていた。
「この花瓶もハリスが?」
「そうだよ。一緒に買って来てくれたの」
「ふーん……あ、ここ模様が入ってる」
クルリと花瓶を回していたイツキが何かを見つけたようで、顔を近づけて確信すると声音を上げて嬉しそうに笑う。
「どこ?」と問えば、「ここだよ」と花瓶をリアの方に寄せてくれる。イツキの指の先を追えば、透明で気づきにくいが確かに何かの模様がうっすらと刻まれている。
「何だろう、波みたいな形だね」
「俺にもわかんない。ハリス、これなに?」
買ってきた当人は、イツキの言葉に首を振って「俺も今知った」と短く零す。
「特に意味なんてないのかな……はっきり何かの形をしてるわけじゃないみたいだし……」
イツキが両手で挟んで机の中央に戻そう腰を上げた。その拍子に足を机にぶつけたのか、ガタリと音を立てて揺れる。
「あっ」
誰かの声が上がった時にはすでにイツキの手から花瓶が零れ、机と触れて高い音が鳴る。そのままの反動でコロリと床に落ちてガシャンと崩れる音とともにガラス片と水が飛び散ってしまった。
「ご、ごめん!」
「イツキくん、手で触っちゃダメ」
慌ててしゃがむイツキを制してハリスを見るが、リアが声をかける前にすでにタオル片手にこちらに戻って来ていた。
「ガラスは魔法で移動しよう」
「はい、出来るかな……」
リアの隣に屈んだハリスに倣うように小さな破片たちに向かって手をかざして浮上させる。ビニールの袋の中に運び込んで一度周囲を見渡す。。
「ガラスはもうないかな……」
「水はタオルで拭けばいい」
問題は花をどうしようかということだ。花瓶も無くなってしまったので活けて置く場所がない。
「ハリス、あのごめんなさい……せっかく買って来てくれたのに……」
「どうせ大した額でもないから気にしなくていい。また適当に買って来る」
歪んだ顔でイツキが俯く。ハリスはいつもと変わらない声音で返したが、その言葉に気遣いが含まれているとわかる。
一通り掃除を終えてハリスが少し出て来ると言うのでイツキと二人で見送る。代わりの花瓶を買ってくるのだろう。
ハリスはまだ沈んだ様子のイツキを見てリアに視線を投げかける。その意図を理解して、「任せておいて」と口の端を上げて深く頷く。
ハリスは頷き返して出て行った。
赤い色が視界から消えて隣のイツキの背を撫でる。
「ハリスは気にしてないって言ったんだし大丈夫だよ」
「うん……でもせっかく買ったのに……迷惑かけた……」
グッと眉と口元に皺を寄せて俯くイツキの背中を押して部屋に向かう気にするなと言ってもそう割り切れないだろう。ならば、せめて気でも紛らわせようと椅子に座らせて「お茶入れて来るね」と置いて背中を向ける。しかし、か細い声で名前を呼ばれた。
「どうしたの?」
「リア、足……」
「え……」
呆然とした眼差しでイツキが下げた口角のままリアの足元を示す。何だろうと下を向けば、白い肌に赤い線が走っている。
「さっきガラスで擦っちゃったのかな……」
そこまで深い傷ではない。表面を撫でただけの切り傷は確かに血は滲んでいるがそれほど量が出ているわけでもなく、痛みもない。
いや、気づいた今では何となくひり付いた感触がする気もするが本当に大したものではなさそうだ。
「大丈夫だよ、痛くないから……イツキくん?」
きっと気にしているだろうと努めて朗らかな声を出したが、上げた視線の先では想像していたものは映っていなかった。
焦ってまた謝罪を繰り返してしまうかと思えば、イツキは半開きの口のままジッと感情の掴めない瞳でリアの傷を見ている。
「イツキくん……?」
「できる……」
「えっ?」
普段とは様子の違うそれにもう一度控えめに呼んでみたものだがイツキがリアと眼を合わせることはなく、小さく何かを呟くと、椅子から降りてそのまま膝をつく。
困惑したまま固まっているリアの足首に掌を向けた。
何をするつもりなのかと問いかける前に、それは形となってリアの前で現れた。
「えっ……」
イツキがかざした手の先、細長い傷が端からスッと消えていく。赤い色のついた線は瞬きの内に真っ白な肌に戻り、そこにはもう何も残っていない。
先ほどまでそこに傷があったなど誰も信じないだろう。
それほどあっという間で目を疑うものだった。
(これって……)
まさか神子の力?と頭を過る。
「イツキくんッ!」
やっと力が使えたんだと喜びを宿した声で勢いよく顔を上げる。そして瞬時に息を詰めた。
「あ、あっ……俺、どうしよ……」
へたりと腰を抜かして床に座り込み、イツキは自分の両手を信じられない面持ちで見下ろしていた。
白い肌は青ざめ、短い音が口元から零れる。
「リアッ……」
縋る様に黒い瞳がリアを見上げる。それに触発されてリアは考える前に少年の体を腕の中に納めていた。
「大丈夫だよ」と自分でもわからないうちにそう繰り返す。震えを宿したイツキの体を抱きしめながら閉じた視界でハリスの名前を呼んだ。
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