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しおりを挟む三年生になった高校生の春、清花は初めて仲のいい友人たちとクラスが離れた。
といっても、そこまで悲観してはおらず、まあ適当になんとかなるだろうとぼんやり楽観的に考えていた。
今までの人生で出会ってきた人々と、大きなトラブルもなくうまくやれていたのが、この根拠のない自信に大きく買っていたと思う。
三十人のクラスで女子生徒のほうが若干数は少なかったけれど、それでもなにも問題はなかった。
すでに元々仲の良い子たちで固まったグループがある程度出来ていて、全員と初対面……というのは、清花と椎名ぐらいのものだった。
真隣の席にいた川田と初日に会話をして、流れで川田と仲のいいという女子生徒二人とも一緒に過ごすようになった。
「椎名ちゃんもこっちおいでよ!」
新学年が始まって一週間ぐらいで、もう固定のグループが出来ていたなか、椎名だけがいつも静かに自席で座っていた。
そんな彼女を気にしてか、川田が自分たちのもとへ呼びかけた。
てっきり一人でいるのが好きなタイプかと思っていたので、存外素直に近寄ってきた椎名に、清花は内心で驚いていた。
清花と椎名、そして前々から友人であったという三人――合わせて五人で過ごすのがすっかり当たり前になっていた。
といっても、常に一緒にいる訳ではなかった。
五人が集まるのは昼食のときぐらいで、席が隣であった清花は休憩時間もよく三人に混ざっていたが、椎名は昼食時にグループの中心だった川田が呼びかけて一緒にいるようなものだった。
第一印象の通り、椎名は一人でいる時間も好きなようだ。休み時間はよく携帯を広げてゲームに勤しんでいる。
それを清花は、なんら変だとも不満だとも思ったことはなかった。
けれど、川田はそうではなかったらしい。
「椎名ちゃんてさ、呼ばないとこないよね」
課題を片手に話半分で聞いていた清花は、その苛立ち混じりの小さな声に驚いて顔を上げた。
川田の席に遊びに来ているほかの二人は、すぐに同意するように頷いた。
「そうだよね! せっかく真由が毎回声かけてんのに絶対自分からは入ってこないもんね」
「ほんとだよ。真由が一人の椎名さんを気遣ってんのに……何様って感じ」
信じられない、と呆れたように肩を竦めて言う二人に、清花は唖然として口を挟めなかった。
その真ん中で二人の言葉を当然とばかりに聞いている川田にも、清花は困惑が大きくなる。
(え? 今なんて言ってた? ちょっと嫌な感じだったよね……?)
川田は声をかけないと来ない椎名に、自分の友情が一方的に感じられて嫌だったのだろうか。
そんな都合のいい仮説を立ててみる。
すぐに授業が始まってしまったので会話はそこまでだったが、しばらくの間は白昼夢でも見ていたような気分だった。
それが夢でも幻でもないと突きつけられたのは、数日経ったお昼休みのときだった。
チャイムが鳴っていそいそと教材を片付けてから、清花はお弁当を出して机を川田のものとくっつけた。
すぐに残りの二人も集まってきて、いつもそのタイミングで川田がご機嫌に椎名のことを大きく呼ぶのだ。
しかし、今日はそのままさらりと食事を初めてしまったので、清花はあれ? っと思った。
戸惑っているうちに、椎名が遅れてやってきた。
(ほら、呼ばなくたって椎名さん来るじゃん……)
不安がっていた川田も、これで安心できるかな、と内心ほっとしていると、椎名が近くから椅子を引っ張って来る前に川田が言った。
「椎名ちゃんさ、私らといるよりもゲームしてる方が楽しいみたいだし、無理して一緒に食べなくてもいいんだよ?」
ニコリとしたその顔は、まるで椎名を気遣うようなのに、その声音はどこか刺々しかった。
椎名の表情が凍りつくのが分かった。
彼女の小さくなった瞳孔が、動揺でゆれている。
そんな椎名に追い打ちをかけるように、ほかの二人も続く。
「真由はさ、椎名ちゃんに無理させてるかもって気にしてるんだよ」
「そうそう。無理して私らと一緒にいなくてもいいんだしさ。椎名ちゃんだって一人の方が気楽でしょ?」
誰も彼もニコニコと笑いながら、椎名のためと免罪符をうって彼女を切りつけていく。
まさかこんなふうに誰かを傷つける言葉が飛び交うとも思わず、清花が唖然としているうちに椎名は細い声で「そっか」と答えて教室を出ていった。
「なーんだ。そんなことないよって慌てて言ってくると思ってたのに……」
ほんとつまんないやつ。とすぐに笑みを引っ込めた川田は、爪をいじりながらぼやいた。
「一人でいるからせっかく声かけてあげたのに、いつもすました顔でいてさ。ちょっとぐらい感謝でもしたらいいのに……私らがいないとあの子一人なんだから」
川田の声を聞き流すように、清花は椎名が消えた扉をずっと眺めていた。
彼女の背中がひどく寄る辺ないものに思え、たまらなくなった清花は勢いよく立ち上がった。
びくりとした三人に、
「ああいう言い方だと、椎名さん傷つくんじゃないかな」
と、おずおずと切り出す。
「もうちょっと柔らかく、無理してない? って聞くだけで良かったんじゃないかな……?」
なにも一方的に追い出すような真似をしなくても、彼女の心情を図ることは出来たはずだ。
初めて人の悪意と言うものに触れた清花の頭は混乱していて、きっと双方の間ですれ違いがあったのだと思い込んだ。
けれど、すぐにそんなすれ違いはないのだと悟った。
「は……?」
一瞬で冷えこんだ川田の瞳に背筋が粟立った。
「そんなふうに言われたら、まるで私らが悪者みたいじゃん」
「そうそう。糸田ちゃんまさか私らがいけないって言ってるの?」
三人は笑いながら言ったけれど、ちっとも瞳に温度がなかった。
「いや、でも椎名さんはどう受けとってるか分からないし、傷ついてそうだったから……」
怖い、とそう思った。
今、自分がとても大変なことをしでかしているのではないかと、そんな気にさえなった。
けれど、椎名の凍りついた横顔を思うと、やり過ごすことも出来なくて、途切れ途切れに清花は言葉を重ねた。
そうして清花が口を閉じると、四人の間にはなんとも重たい沈黙が横たわる。
ビクビクしている清花を、不意に川田が呼んだ。
「清花ちゃんも一人になりたいの?」
「え……?」
耳を疑う清花を、三人は顔を見合せて嗤った。
「だって友達いないでしょ? 椎名ちゃんも、清花ちゃんも、可哀想だからこっちが気をつかって声かけたのに、なんで私らが悪者なの?」
「一人でいなくていいのは声かけた私らのおかげでしょ?」
「なに言って……」
呆然としているなか、心の片隅では三人の態度に腑に落ちたように思える自分がいて、今まで必死に目を逸らしていただけなのだと実感した。
「椎名ちゃんなんか放っておいて、私らは四人で楽しくやろ? あの子は一人が好きそうだしさ」
ね、と綺麗な顔で笑う川田の言葉に、清花は難しい顔で俯いた。
うん、だなんてとてもじゃないが言えない。けれど、衝撃を受けた頭じゃ断り文句もうまく出てこなかった。
――私、そんなふうに思われてたんだ。
友達がいないとか、そんなこと思われててもべつにそこまで気にならない。
友達だから、仲良くなれたからこうして毎日声をかけてくれるのだと思っていた。その輪に入れてくれるのだと思っていた。けれど、実際はそんなことはなかったのだ。
この子たちは、一人ぼっちの子を助けてあげたという優越感を覚えていただけで、清花のことを友人だとかそういう枠組みに入れたことはないのだろう。
そう思うと、ショックだった。こんなことを言う人達だと思っていなかったから、余計に。
うんともすんとも言わない清花に、川田はまた不機嫌そうにため息を吐いた。
「清花ちゃんも一人が好きみたいだね。なら、私らに無理して付き合うことないから」
それから川田たちは、椎名はもちろんのこと清花のことも無視し始めた。
三年生になってから、いつも川田たちと一緒だったので、ほかのグループの女子生徒とは話したことがなかった。
彼女たちもこちらの異様な空気感には気づいていても、わざわざ事情を聞いてくるようなこともない。結果、清花は完全に孤立した。
椎名とは席が離れていたし、あのときなにも言えずに彼女の背中を見送る形になった自分が声をかけるのは憚られたのだ。
しばらくは教室でお昼をとっていたが、真横が川田の席なので気まずさに屋上に行くようになった。
そこで椎名と偶然はち合わせした。
「……糸田さん、馬鹿だね。私のことなんて放っておけばよかったのに」
「聞いてたの……?」
驚いて訊くと、椎名は少し罰が悪そうに、「ゲーム取りに戻ろうとしたの」と口をすぼめた。
「あのままっていうのも私が居心地悪かったしさ」
だから気にしないで、とへらりと言うと、椎名は感情の読めない瞳でじっと見つめてから手元の機械に視線を落とした。
(無視だけで、べつに酷いことされてるわけじゃないしなあ)
なんて楽観的に考えていたが、一週間、一ヶ月と続いていくと、段々と自分の心がすり減っていくのが分かった。
触らぬ神に祟りなしとばかりに距離をとるクラスメイト。名前は出さず、けれど清花たちだと分かるようにときどき愚痴を言っている川田たち。
昼休みの椎名以外とは、誰とも口を聞かない学校生活。
どんどん自分の体に重石が乗っかっていくように、学校へ向かうのが嫌になっていく。
自分の心を圧迫していくのが分かった清花は、家にいる時につい鈴に愚痴をこぼしてしまった。
「この前ね、友達が一人の子に意地悪な言い方しててさ……気になったから言ったんだよ。もう少し言い方変えたらどうかなって」
ダイニングテーブルの向かいの席で宿題をしていた鈴は、顔を上げて続きを促した。
「そしたらその子なんて行ったの?」
「うーん……それから私と話してくれないんだあ」
肝心なところはぼかして言った清花に、鈴はムッと顔をしかめた。
「なにそれ! 最初に意地悪した子がいけないのに、無視するなんて最低!」
憤慨する鈴の様子に、少し嬉しくなる。
「そんな子、こっちから願い下げだし!」
ね、お姉ちゃん! と意気揚々と言われて、つい頷いてしまった。が、川田たちに無視されて全く傷ついていないわけでもなかったので、 嘘をついたような心苦しさが湧く、
(でも、鈴の言う通り、川田さんたちのこと気にしたってしょうがないもんね……)
無視されなくたって、もうあの子たちと仲良くするのは清花には難しい。
それなら今の状況となんら変わらないじゃないか。
ほんの少し、清花の気持ちが前を向いてきた。
「でもさ、さすが私のお姉ちゃんだよね! 大人しいタイプに見えて、言わなきゃいけないことはちゃんと言うもん」
誇らしげに胸を張る鈴の姿に、切ないような苦しいような――泣きたい気持ちになった。
そんな気持ちを、柔らかく唇を噛み締めて押しとどめる。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
静かになった清花を鈴が身を乗り出して覗き込んだ。
「鈴」
「んー?」
見上げてくる鈴の目を見て、清花はしみじみと言う。
「ありがとう」
「えー? なにがー?」
でも嬉しい。にへらと笑った鈴は、開いていた教材を向かいの清花に向けた。
「じゃあさ、お礼にここ教えて欲しいなーって思ったりして」
「鈴。あんたまた宿題手伝ってもらうつもり?」
隣のキッチンで話を聞いていた母がつい口を挟むと、鈴は拗ねるように口を尖らせる。
「べつに宿題やってって言ってるわけじゃないし……解き方教わってるんだからいいじゃん」
拗ねた鈴に、母は「しょうがない子」とばかりに肩を竦めて料理に戻った。
けれどその横顔は、いつもの姉妹の様子に微笑ましさも感じている。
鈴に説明しながら、ふと清花は思う。
(私は大丈夫だ。みんなが……家族がいるんだもん)
すり減った精神では、あんなこと言わなきゃ良かったかな、なんてちょっぴり頭をよぎることもあった。けれど、心の向くままに行動してよかった。
そう思えた。
(私が私らしくいて、それを好きでいてくれる人がいる)
そんな人たちに恥じない自分でいたいと、清花は思う。そして、それはきっと受け入れてくれる家族がいる限り、難しいことでは無いのだと、そう確信のように思えた。
柔らかすぎるベッドの温もりが、少しずつはっきり感じとれるようになっていき、リシャーナは瞼を押し上げた。
カーテン越しに感じる早朝の日差しに、さっきまでのことが夢だったのだとじわじわと認識していく。
(あー……嫌なこと思い出しちゃった……)
人の悪意や他人からの冷えた視線への恐怖感を、初めて思い知ったのはあのときだった。
それでも、家族がいたから大丈夫だと思えたし、それがこんなにあっさり消えてしまうなんて思ってもいなかった。
リシャーナは体を起こした勢いのまま、今度は布団の上に顔を埋めた。
じわじわと押し寄せてくる「会いたい」という切ない欲望を、目と口を固く閉じてやり過ごした。
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