東雲に風が消える

園下三雲

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白夜に見る七星

30.

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「出来た!」

 のけ反るように両手を上げて、桔梗は満足げに目を閉じた。達成感に浸りながら息を吸い、息を吐く。それからにんまりと瞼を上げて、

「見てみ? 完璧だぜ。これならあいつも文句ねえだろ」

と書き直した報告書を飴狼に見せつけた。

「ちょっと待ってろな。これ渡してくるから」

 跳ねるように立ち上がるから、陽気なのだとすぐに分かる。鼻歌に合わせて歩いていたが、途中で旋律が分からなくなったのか、中途半端なところで歌は途切れた。

 枳殻の部屋は二階にある。古くなってギシギシいう階段を一段ずつ上っていけば、話し声が聞こえた気がして立ち止まった。

「まったく。とんだ嘘つきもいたものですよ」

「褒めんなよ」

「褒めてませんよ。大馬鹿者。どうするんですか、これ」

 もっとよく声が聞こえるように、足音を立てないように慎重に移動する。

「どうしようなあ……」

「薬は?」

「紫蘭が足りなくて。五日前まではなんとかなってたんだけど。採りに行くにも俺はこんなだし、桔梗は片腕だろ?」

「場所を教えてくれたら私が――」

「坊っちゃんには無理だよ。この辺だと崖下にしか咲いてないんだ」

 徐々にハッキリと言葉が聞こえてきて、部屋の前まで来ると桔梗は息を殺した。

「そもそもこんな怪我、ここまでどうやって隠し通したんです」

「隠し通せてはないけどな。まあ、あいつのことはこんなチビの頃から知ってっから」

「付き合いの長さなら桔梗君だって同じでしょうよ」

 嫌な予感に桔梗は顔を強張らせた。むくむくと膨れる不安に堪えきれず桔梗は襖を開ける。

「枳殻……?」

 枳殻がバサバサと慌てて布団を被ったのが襖の僅かな隙間から見えた。

「桔梗。お前、もう書けたのか」

 枳殻は上半身を起こして桔梗に声をかけたが、平静を装いきれてはいなかった。桔梗は襖を閉めるのも忘れて枳殻に近寄る。

「何隠したんだよ、今」

「何でもねえよ」

「嘘つくなよ。声、聞こえてたんだぞ」

「盗み聞きは褒められねえな」

「見せろよ、足だろ」

「こら、ちょっと落ち着けって」

 枳殻が桔梗を制するより先に、その体は背後から空木に引き留められた。

「すみませんね、桔梗君。まずはその手の報告書を見せていただきましょうか」

「邪魔すんなよ!」

「邪魔? 誰の。桔梗君は報告書を持ったまま枳殻から毛布を剥ぎ取れるんですか?」

「おい、空木?」

 言葉の意味を図りかねて戸惑うばかりの二人をよそに、空木は桔梗の手から

「はい。預かります」

と勝手に報告書を取る。ハッとして桔梗は布団に手を掛けた。枳殻も少し遅れて桔梗を止めようとしたが、間に合わず布団は大きくひん剥かれる。

「え……。これ、お前、――!」

 言葉が出なかった。

 その左足は巻きかけの包帯が乱れ、脛からふくらはぎにかけて酷く爛れているのが覗かれた。赤黒く、そして所々膿んで、鼻をつんざく匂いがする。

「もう隠せませんよ。枳殻」

 未練がましく布団を戻して足を隠そうとする枳殻に空木は淡々と言い放って、包帯をサッと解いて巻き直していく。

 怖い。気味が悪い。そんなこと思ってはいけないと分かるから桔梗は尚更苦しかった。

「ひっ、はぁっ、ぁ」

 口に手を当てて怯えたように乱れた呼吸をする桔梗に枳殻は手を伸ばす。

「桔梗。ごめんな、怖かったな。でも、大丈夫だから」

 へたりこんだ桔梗は伸ばされた手に気づかずに、虚ろな目を見開いて震えている。

「桔梗君。枳殻はね、本当はもう歩くのも大変なんです。そもそも、こうしてぺちゃくちゃ話せていること自体が奇跡のようなことなんですよ」

 空木の言葉がきっかけだったのか、単に堪えきれなくなったのか分からない。桔梗の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れたら、止めどなく頬を伝って落ちた。

「うっ、ふぅっ、くぅっ……」

 泣いて意識が外へ向いたのか、桔梗は漸く枳殻の顔を目に映す。伸ばされた手も見えたが、口を抑え顔を隠すだけで手一杯で応えることが出来なかった。

「桔梗君。私は暫く此処へ泊まって枳殻の世話をします。何かあっても私がいます。だから、桔梗君。泣いているままで構わないから、落ち着きなさい」

 空木は決して桔梗の体に触れることなどしないのに、声だけでまるで何かで縛るように桔梗を支配して落ち着かせる。名前を呼ばれる度にどうしてか少し苦しくて、それ以上に心地良い奇妙な感覚があった。

「桔梗。おいで」

 枳殻が呼び、おずおずと桔梗はその手に引き寄せられるように抱きしめられる。

「な。温かいだろ? だーいじょうぶだから」

 大丈夫ではないことなど分かりきっているのに、その言葉に、背を叩く手に、力が抜けてしまいそうなほど安心する。

「びっくりしたな。ごめんな」

 ごめん、などと謝ってほしくなかった。それなのに優しい声をもっと聞きたいと願ってしまう。桔梗は自己嫌悪する余裕もないほど泣いて、泣いて、枳殻の胸の中で甘えていた。
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