東雲に風が消える

園下三雲

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希望に光る蝶

36.

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 掛長は牡丹の着物の染み抜きを終えると、次に俺の官服を検めて、虫食いやほつれを直してくれた。あまりに見事な手際なので牡丹と二人で食い入るように見ていると、掛長は少し恥ずかしそうに笑った。

「普通はね、こういう仕事は侍女のするものなのですよ。こういう侍女の真似事など親には禁じられていたんですけど、私はとにかく針仕事に興味がありましてね。侍女にせがんで、こっそり教えてもらったんです」

 茶目っ気のあるその表情が珍しくて少し見惚れた。手元に寄せ返す波は素早くも静かで、何を話すよりも、癒えていくような心地だった。

 翌日は碧龍達全員の身なりを綺麗にして、早めに床についた。勝利祭の進行上、夜明けと同時に此処を発たねばならなかったから、日が暮れるか暮れないかの内に眠ってしまう必要があった。牡丹を真ん中に掛長と川の字で寝転がったからか、不思議と眠るのは怖くなかった。

「忘れ物はありませんか? 水筒も持ちましたね?」

「はい」

 早朝、家の前で最後の確認をした。俺と掛長は綺麗な官服を着て、髪もかっちりと固めている。碧龍の背に乗った牡丹は、掛長の手を借りて天色の洋服を美しく着せてもらった。かなり凛々しい格好をしているのに、肩から斜めに提げた水筒が不恰好だ。

「小まめに水を飲みなさいね。今年の夏は、不気味なほど風が吹かないから」

 空を見上げながら掛長の溢した言葉に、そんなの当たり前だろうと返そうとしてやめた。橘は死んだのだから、風の無い夏で当然だと思っていたが、だからといってそれを今言う必要は無い気がした。

 掛長が海、俺がその傍らの塩だとしたら、枳殻は俺を囲う桶で、橘は風だった。狭い場所で守られていた俺に、外の世界を知らせてくれた人。例えば野花の美しさを。例えば荒地の険しさを。

 その風は歪な使命感に燃えて、海の向こうへ消えてしまった。勇ましく出ていったきり帰って来ない。もう二度と、帰っては来ない。

「では、行きますよ」

 掛長が先頭に立ち、碧龍と牡丹がそれに続いた。その後ろを松虎と飴狼、俺が一列になって、空を行く菫烏は、その脚に繋いだ綱を俺が握っていた。

 山を下り、祭儀が行われる大神宮の境内に入るまでこうして進まねばならなかった。碧龍達にしてみれば人の歩く速さに合わせず颯爽と駆けていく方がよほど楽なのだろうが、勝利祭は神事であるから、彼らが行脚する様を民に広く見せなければならないしきたりがあった。まるで見世物のようでいい気がしなかったが、信仰の為と言われてしまえば逆らうことも出来なかった。

 山中は人の子一人見当たらず、ただ鳥の声だけが小さくこだましていた。一度足を僅かに滑らせてしまったら、心配したのか、鈍くさいと思ったのか、飴狼が背に乗せてくれた。正直なところ大神宮まで歩けるほど体力が持つ気がしなかったので、山を行く間はありがたく甘えていた。

 麓に着くと、道の脇には住民が国旗を振って並んでいた。それぞれの家の前に家族でまとまっているのだろう。「わー!」という歓声があがって、牡丹と菫烏は少し驚いた様子だった。

 対して碧龍、松虎、飴狼はよく落ち着いている。大勢の人間の好奇が自分達に向けられていることを理解しているのに平然と――いや、いつもよりも背筋を伸ばして歩いていた。神獣らしさでも意識しているのか、普段のぐうたらぶりからはかけはなれた威厳を纏っている。

 道を行けば行くだけ沿道は賑やかになっていった。屋台が並び、子らは駆け回っている。太鼓や鉦がドンヒャン鳴って、誰も彼もが浮かれていた。皆、俺達に大きく手を振っていたが、その実彼らに俺達の姿は見えていないような気がした。

 大神宮の前まで着くと、掛長に促されて牡丹は碧龍の背から下りた。俺も菫烏を地に呼んで、その脚につけた綱を解く。

 大鳥居をくぐるとその先は祭祀掛の官吏が先導した。役を奪われた形の掛長はそのまま牡丹の差添となって、碧龍、松虎、飴狼の順で入っていった後に続く。「ついていけばいいから」と菫烏に言い聞かせてその後を追わせ、皆が無事に本殿へ向かっていったのを見届けると、俺は大鳥居の外の警ら官の隣に立って大神宮に背を向けた。

 あちら側へ行くことは出来ない。俺には爵位も役職もない。もし仮にそれらがあったとしても、俺はかつて忌み子と呼ばれ父母に捨てられた人間だ。神が俺を拒まなくても、要人と顔を合わせることなど許されるはずもなかった。

 牡丹は転んでいないだろうか。昨日、一昨日と掛長に洋服を着た時の歩き方の手解きを受けてはいたが大丈夫だろうか。松虎は居眠りして鼾をかいてしまわないだろうか。碧龍と飴狼はまあ心配するほどの事もないと思うが、菫烏は初めての祭儀だ。掛長がいるとはいえ、傍についていてやれないことだけが口惜しい。

 ……だなんて、嘘でも本当でもないことで頭を埋め尽くすことしか出来なかった。目を閉じないでいることさえ辛く感じた。周囲の声を、音をまともに聞いてしまったら、もう立っていられない予感があった。

 能天気に歌い、踊り、笑う人々が視界に入ると、あちらは光に、俺は夜よりも深い闇に覆われた。固い地面はぐにゃぐにゃとうねり、やがて底無しの沼になっていく。それが錯覚だと知っていても、囚われたまま抜け出すことが出来なかった。

 橘は死んだ。神獣を護る為に死んだ。神獣がこの国の何れを守護するのなら、橘の死は、目の前の彼ら国民のこうした喜びをも護ったのだ。そう理解は出来ても、 橘が護ったこの安穏を受け入れることなど簡単には出来なかった。

 どうして笑っていられよう。どうして浮かれていられよう。

 何かが憎い。憎くて、憎くて、しかし何が憎いのか分からない。

 目を閉じて、耳をふさいで、蹲ってしまったら、もう本当に一人ぼっちになってしまうような気がして、雅楽の音を背に聞きながら、どうにか遠い空を見て奮い立っていた。
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