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希望に光る蝶
35.
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吐くだけ吐いて、一頻り泣いた。干からびるほど吐き出したら、気を失うように眠ってしまったようだった。
目が覚めた時にはもう夜で、数口重湯を啜ったらなんだか少しスッキリした。碧龍達の様子を見に行けば、いつも通りにぐうたらと過ごしていてくれたから安心した。その夜は風呂にも入らず、碧龍と松虎、飴狼、菫烏、そして牡丹と一処に寄り添って寝た。重なる寝息のお陰か、嫌な夢はもう見なかった。
「おはよう、桔梗君」
目が覚めて、飴狼の尻尾を意味もなくいじっていたら声を掛けられた。それが掛長だとすぐに分かるくらいには、意識ははっきりしていた。
「お、はようございます……」
「ふふ、お休みのところすみません。けれど牡丹はもう、朝の支度を全て終えたようですよ」
掛長は俺の足元にしゃがんでいて、俺が体を起こそうとすると、さも自然に手を伸ばして俺を支えた。いつもならすぐにその手を払い除けるのだが、そうする気力も体力も、今は無かった。
「私も朝食をご一緒することにしたんです。早く顔を洗って着替えていらっしゃい」
久しぶりにまじまじと見た掛長の顔は静かで、しかしぼんやりと寂しさや惑いに覆われているようにも感じられる。
「あの、今日って……」
「勝利祭の三日前ですよ。今日はただの日です。さ、早く。君だってお腹が減ったでしょう?」
俺を引っ張りあげて立たせ、掛長は些か強引に背を押した。
掛長はやはり痩せた。チラリと見えた手首が細く骨ばって、少し怖いと思うほどだった。
顔を洗い、髪を梳かして、着替えも終えてから居間に行けば、
「これはまた、愛情たっぷりだ。上手ですね。牡丹は重湯も作れるんですか」
と牡丹の傍らに立つ掛長の声が聞こえた。
「掛長が教えたんじゃないんですね」
「え? ええ」
掛長は頷いて、ポカン、と俺を見つめる。
「……ちなみに、橘君は料理はからきし駄目でしたよ。彼は重湯も好みませんでしたし」
付け加えられた言葉に今度は俺の方が「え?」と固まると、
「君、牡丹がまだ何も食べれなかった頃から、重湯を作ってあげていたのではありませんか?」
と掛長は問いかけた。
「覚えていたんでしょう。君が自分のために何をしてくれていたのか。自分を思ってくれる君の後ろ姿を、牡丹は思い出していたのかもしれませんね」
確かに重湯は作っていた。牡丹がうちに来て数ヶ月、何も口にしようとはしなかったが毎日作って口元まで運んでいた。仕事を真似するようになった頃には、俺が土間に立つ隣に牡丹はずっと居た気がする。だからと言って、まさかその時を思い出して俺に重湯を作ってくれていたなんて思いもしなかった。
「さあ、いただきましょう。せっかく牡丹が頑張って作ったんです。冷めてしまっては勿体ない」
呆然と突っ立っていたら、掛長に両肩を押されて座らされた。牡丹を見れば、おはようと言うように微笑んでくれる。心配そうな目、しかしそれを隠すように笑っていてくれるのは、かつての俺がそうしていたからなのだろうか。
「いただきます」
掛長の掛け声で手を合わせた。まず最初に掛長が自分の椀に匙を入れて、それを見て俺も匙を手に取った。
スッと掬う。澄んだ白が目に優しい。湯気の立つそれにふうふうと息を吹きかけて冷ます。牡丹はまだ、匙を取らない。
下唇に匙が触れ、つつつ、と温かさが舌を包んだ。旨いとは言えない。重湯だから仕方ない。隣を見れば掛長が泣きそうな顔をして重湯を啜るから、俺は匙を置いて椀を取った。
行儀が悪いとか、そういうことは考えないようにした。一口グイと傾ければ冷ましきれなかった熱い重湯も流れてきたが、火傷するくらいが丁度良い。グビグビと勢いよく俺が飲むのを見て漸く、牡丹は安心したように匙を取って自分の粥を口にした。
俺と掛長はおかわりをした。気を遣ったわけではないが、不味いのに、その不味さを体が求めていた。それと、心底嬉しそうにする牡丹が可愛かった。
食べ終わって暫くゆっくりしていると、
「桔梗君。牡丹」
と掛長は腕を広げて俺達を呼んだ。躊躇いながら近づけば、掛長はギュッと俺達を抱きしめて、肩と肩の間に顔を埋めた。
「やっぱり、温かいのが一番ですよね」
「……寂しい、んですか」
「ふふ。そうですね。きっと」
その声が俺の寂しさまで同じ振動で鳴らすから、思わず掛長の背に手を回してしまった。同情でも同調でもなくて、恐らく俺はそうすることで俺自身を宥めたかった。
「嬉しいなあ。桔梗君は、私には分かりやすく甘えてはくれなかったから」
そう言われて途端に恥ずかしくなって体を離したが、掛長は特にからかうでも残念がるでもなく、微笑んでいる。それがやっぱり俺には寂しくて、膝に置かれた掛長の中指をキュッと握った。
「此処は良い場所です。神獣達ものびのびとしているし、特に君達二人を見ているとね、心が柔らかくなるんですよ。まるで昼下がりのひだまりのようで」
そして掛長は牡丹を膝に抱え直す。
「君達は、ただ純粋にお互いを大切に思っているでしょう。人間だとか神獣だとか、そういう細かい事全部取っ払って、なんていうか、こう……。傍に居たいから傍に居る、というような単純さというか」
「貶してるんですか」
「違う違う。それが良いって言いたいんです。きっと私も橘君も、もっと複雑に考えすぎてしまっていたから」
悲しい音に不安になって中指をより強く握る。掛長は俺も牡丹も見ず、視線を落とした。
「以前ね、まだ枳殻が生きていた頃に言い合いになったことがあります。神獣との関わり方について。私はね、保護官であるならば最も重要なものは護るための覚悟だと言ったんです。神獣が心地良く暮らしていく為に、私達保護官は持つ物を全て使って尽くすべきだと、神獣を護る為なら喜んで命をなげうつくらいの覚悟が必要なのだと思っていましたから」
その言葉に、橘との最後の会話が重なった。神獣を護る為に死ぬのだと、死ぬことに何の躊躇いも迷いも持ってはいなかったあの表情を思い出す。
「けれど枳殻はね、覚悟なんていらない。真心だけあればそれでいいって」
そしてその枳殻の言葉は、俺が小さい頃からずっと言い聞かせられてきたものだった。
「枳殻にしてみれば、神獣も人間も関係ないのですって。見た目が違うだけ。ちょっと持つ能力が違うだけ。私と枳殻が違うように、たとえば碧龍と私もほんの少し違うだけなんだそうです。枳殻に育てられた桔梗君には分かるのでしょうかね。当時から私は枳殻のことは良い友だと思っていましたが、その理屈だけは理解出来ませんでした」
掛長はフッと小さく笑った。落ち込むでもなく、ただずっとずっと遠い目で何かを見、そして、「だけどね」と続ける。
「護るって何なんだろうなって、橘君が居なくなってしまってから、ずっと考えているんです」
それは俺自身もずっと考えていたことだった。掛長もグルグルグルグルと虚しさを抱えながら、同じように考えていたのだろうか。目がバチッと合って、その瞬間すごく胸が苦しかった。どちらともなく目を逸らして、それから、
「ところで桔梗君。牡丹はどうして羽衣を? 君が見立てた着物姿の牡丹が見られるのを少し楽しみにしてきたのですが」
と、掛長はあからさまに話題を変えた。
「あ、いや、その」
「ん?」
「俺が、吐いてしまって。そのまま俺は気を失ってしまったので洗ってやれなくて。牡丹もすぐに脱いで洗ったみたいなんですけど」
「あれまあ。牡丹、洗ったものは今どこに? 持ってこられますか?」
牡丹がコクンと頷いて立ち上がる。トテトテと歩く後ろ姿を眺めながら、俺は掛長の中指からさりげなく手を離した。
「ああ、これは……。けれどほとんど割烹着に付いたんですね。着物の方は私でどうにかできないかやってみましょう。もし落ちなくても、この程度なら目立ちませんよ。普段は袴も履いているのでしょう?」
掛長があまりにも大切そうに着物に触れるから、どうしてかまた泣きたくなる。堪えるように腿に置いた手を強く握りしめた。
ふわり。
牡丹が手を重ねてくれたから、
「お願いします」
と二人揃って頭を下げた。
目が覚めた時にはもう夜で、数口重湯を啜ったらなんだか少しスッキリした。碧龍達の様子を見に行けば、いつも通りにぐうたらと過ごしていてくれたから安心した。その夜は風呂にも入らず、碧龍と松虎、飴狼、菫烏、そして牡丹と一処に寄り添って寝た。重なる寝息のお陰か、嫌な夢はもう見なかった。
「おはよう、桔梗君」
目が覚めて、飴狼の尻尾を意味もなくいじっていたら声を掛けられた。それが掛長だとすぐに分かるくらいには、意識ははっきりしていた。
「お、はようございます……」
「ふふ、お休みのところすみません。けれど牡丹はもう、朝の支度を全て終えたようですよ」
掛長は俺の足元にしゃがんでいて、俺が体を起こそうとすると、さも自然に手を伸ばして俺を支えた。いつもならすぐにその手を払い除けるのだが、そうする気力も体力も、今は無かった。
「私も朝食をご一緒することにしたんです。早く顔を洗って着替えていらっしゃい」
久しぶりにまじまじと見た掛長の顔は静かで、しかしぼんやりと寂しさや惑いに覆われているようにも感じられる。
「あの、今日って……」
「勝利祭の三日前ですよ。今日はただの日です。さ、早く。君だってお腹が減ったでしょう?」
俺を引っ張りあげて立たせ、掛長は些か強引に背を押した。
掛長はやはり痩せた。チラリと見えた手首が細く骨ばって、少し怖いと思うほどだった。
顔を洗い、髪を梳かして、着替えも終えてから居間に行けば、
「これはまた、愛情たっぷりだ。上手ですね。牡丹は重湯も作れるんですか」
と牡丹の傍らに立つ掛長の声が聞こえた。
「掛長が教えたんじゃないんですね」
「え? ええ」
掛長は頷いて、ポカン、と俺を見つめる。
「……ちなみに、橘君は料理はからきし駄目でしたよ。彼は重湯も好みませんでしたし」
付け加えられた言葉に今度は俺の方が「え?」と固まると、
「君、牡丹がまだ何も食べれなかった頃から、重湯を作ってあげていたのではありませんか?」
と掛長は問いかけた。
「覚えていたんでしょう。君が自分のために何をしてくれていたのか。自分を思ってくれる君の後ろ姿を、牡丹は思い出していたのかもしれませんね」
確かに重湯は作っていた。牡丹がうちに来て数ヶ月、何も口にしようとはしなかったが毎日作って口元まで運んでいた。仕事を真似するようになった頃には、俺が土間に立つ隣に牡丹はずっと居た気がする。だからと言って、まさかその時を思い出して俺に重湯を作ってくれていたなんて思いもしなかった。
「さあ、いただきましょう。せっかく牡丹が頑張って作ったんです。冷めてしまっては勿体ない」
呆然と突っ立っていたら、掛長に両肩を押されて座らされた。牡丹を見れば、おはようと言うように微笑んでくれる。心配そうな目、しかしそれを隠すように笑っていてくれるのは、かつての俺がそうしていたからなのだろうか。
「いただきます」
掛長の掛け声で手を合わせた。まず最初に掛長が自分の椀に匙を入れて、それを見て俺も匙を手に取った。
スッと掬う。澄んだ白が目に優しい。湯気の立つそれにふうふうと息を吹きかけて冷ます。牡丹はまだ、匙を取らない。
下唇に匙が触れ、つつつ、と温かさが舌を包んだ。旨いとは言えない。重湯だから仕方ない。隣を見れば掛長が泣きそうな顔をして重湯を啜るから、俺は匙を置いて椀を取った。
行儀が悪いとか、そういうことは考えないようにした。一口グイと傾ければ冷ましきれなかった熱い重湯も流れてきたが、火傷するくらいが丁度良い。グビグビと勢いよく俺が飲むのを見て漸く、牡丹は安心したように匙を取って自分の粥を口にした。
俺と掛長はおかわりをした。気を遣ったわけではないが、不味いのに、その不味さを体が求めていた。それと、心底嬉しそうにする牡丹が可愛かった。
食べ終わって暫くゆっくりしていると、
「桔梗君。牡丹」
と掛長は腕を広げて俺達を呼んだ。躊躇いながら近づけば、掛長はギュッと俺達を抱きしめて、肩と肩の間に顔を埋めた。
「やっぱり、温かいのが一番ですよね」
「……寂しい、んですか」
「ふふ。そうですね。きっと」
その声が俺の寂しさまで同じ振動で鳴らすから、思わず掛長の背に手を回してしまった。同情でも同調でもなくて、恐らく俺はそうすることで俺自身を宥めたかった。
「嬉しいなあ。桔梗君は、私には分かりやすく甘えてはくれなかったから」
そう言われて途端に恥ずかしくなって体を離したが、掛長は特にからかうでも残念がるでもなく、微笑んでいる。それがやっぱり俺には寂しくて、膝に置かれた掛長の中指をキュッと握った。
「此処は良い場所です。神獣達ものびのびとしているし、特に君達二人を見ているとね、心が柔らかくなるんですよ。まるで昼下がりのひだまりのようで」
そして掛長は牡丹を膝に抱え直す。
「君達は、ただ純粋にお互いを大切に思っているでしょう。人間だとか神獣だとか、そういう細かい事全部取っ払って、なんていうか、こう……。傍に居たいから傍に居る、というような単純さというか」
「貶してるんですか」
「違う違う。それが良いって言いたいんです。きっと私も橘君も、もっと複雑に考えすぎてしまっていたから」
悲しい音に不安になって中指をより強く握る。掛長は俺も牡丹も見ず、視線を落とした。
「以前ね、まだ枳殻が生きていた頃に言い合いになったことがあります。神獣との関わり方について。私はね、保護官であるならば最も重要なものは護るための覚悟だと言ったんです。神獣が心地良く暮らしていく為に、私達保護官は持つ物を全て使って尽くすべきだと、神獣を護る為なら喜んで命をなげうつくらいの覚悟が必要なのだと思っていましたから」
その言葉に、橘との最後の会話が重なった。神獣を護る為に死ぬのだと、死ぬことに何の躊躇いも迷いも持ってはいなかったあの表情を思い出す。
「けれど枳殻はね、覚悟なんていらない。真心だけあればそれでいいって」
そしてその枳殻の言葉は、俺が小さい頃からずっと言い聞かせられてきたものだった。
「枳殻にしてみれば、神獣も人間も関係ないのですって。見た目が違うだけ。ちょっと持つ能力が違うだけ。私と枳殻が違うように、たとえば碧龍と私もほんの少し違うだけなんだそうです。枳殻に育てられた桔梗君には分かるのでしょうかね。当時から私は枳殻のことは良い友だと思っていましたが、その理屈だけは理解出来ませんでした」
掛長はフッと小さく笑った。落ち込むでもなく、ただずっとずっと遠い目で何かを見、そして、「だけどね」と続ける。
「護るって何なんだろうなって、橘君が居なくなってしまってから、ずっと考えているんです」
それは俺自身もずっと考えていたことだった。掛長もグルグルグルグルと虚しさを抱えながら、同じように考えていたのだろうか。目がバチッと合って、その瞬間すごく胸が苦しかった。どちらともなく目を逸らして、それから、
「ところで桔梗君。牡丹はどうして羽衣を? 君が見立てた着物姿の牡丹が見られるのを少し楽しみにしてきたのですが」
と、掛長はあからさまに話題を変えた。
「あ、いや、その」
「ん?」
「俺が、吐いてしまって。そのまま俺は気を失ってしまったので洗ってやれなくて。牡丹もすぐに脱いで洗ったみたいなんですけど」
「あれまあ。牡丹、洗ったものは今どこに? 持ってこられますか?」
牡丹がコクンと頷いて立ち上がる。トテトテと歩く後ろ姿を眺めながら、俺は掛長の中指からさりげなく手を離した。
「ああ、これは……。けれどほとんど割烹着に付いたんですね。着物の方は私でどうにかできないかやってみましょう。もし落ちなくても、この程度なら目立ちませんよ。普段は袴も履いているのでしょう?」
掛長があまりにも大切そうに着物に触れるから、どうしてかまた泣きたくなる。堪えるように腿に置いた手を強く握りしめた。
ふわり。
牡丹が手を重ねてくれたから、
「お願いします」
と二人揃って頭を下げた。
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