紅に恋う

園下三雲

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 翌日は快晴だった。起きてすぐムラの民は散乱した食器や篝火などを手分けして片付けて、それから皆で小川に並んで顔を洗った。頬に塗った紅を、初めに友と落としあったのは誰か。やがて他の者にも伝播して、その内にただの水の掛け合いになった。昨日の酒が残っているとはとても思えないが、子どもも大人も区別なく遊んでいた。

 松の王は少し離れたところでそれを見ながら、一人ゆっくりと頬を擦っている。柊や楽人らもじゃれあいに混じっていたが、松の王は中に入っていくよりも外から皆の笑う顔を見ている方が好きだった。

「松の王」
 一人、輪を抜けて娘が駆け寄ってくる。
「ふふ、見て。すっかり濡れちゃった」
「随分だね。ちゃんと反撃したかい?」
「ええ、勿論!」
 威張りながら、しかし慎ましやかに胸を張る娘に松の王は吹きだして笑った。その頬にまだ少し紅の残っているのを見て、松の王は指をたっぷりと水につけてから親指で擦ってやる。娘は驚いたのか一瞬表情を固めて、それからカァッと一気に顔を赤らめた。
「ねえ? あの、あのね?」
「うん?」
「私、もしかして昨夜、松の王に寝かしつけられたかしら?」
 恥じらい躊躇いながら尋ねる娘がなんとも愛らしくて、松の王はすました顔で
「どうして?」
と首を傾げる。
「あの、なんとなく、そういう記憶があるような気がして」
「ふふ、そう。どうだろう。だけどもしかして、夢の中でも私を思ってくれていたのかな?」
「……えっ!」
 娘はとうとう大きな丸い目を羞恥に潤ませた。
「あ、いや、その、違うの。いいえ、違わないのだけど、だけどその、嫌だわ。恥ずかしい」
 あわあわとしながらきつく胸のあたりを握りしめる娘の目元に松の王はそっと手を翳す。
「恥ずかしがることはないさ。こうして本当に私が寝かしつけたのだから」
 手の下からポカンと空いた口が見えて、松の王は面白がるようにちらりと娘を覗き見た。
「もう! 松の王って意地悪ね」
 目が合って、娘はキュウッと口を尖らせる。ムッとして弱く睨みつけるのがいじらしい。
「ふふふ、ごめんよ。怒らないで」
「怒ってないわ。拗ねているのよ」
 娘がフンと顔を背けて皆の所へ帰ろうとするから、
「ああ、待って」
と松の王は腕を引いて止めた。娘はしぶしぶ松の王に向き直る。
「良かったら、私のこれ、落としてくれないかな?」
 松の王は静かに微笑んで自分の頬を示した。その仕草に、娘は今度分かりやすく唖然とする。
「私が……? 駄目よ、そんな」
 戸惑い、悪い冗談だと疑って半笑いで身を引く娘の腕を、それでも松の王は離さない。松の王の真っ直ぐな目に、やがて娘は顔をひきつらせ、泣きそうな表情をする。
「だって分かっているの? 王の紅に触れて良いのは……」
「分かっているさ。分かっていて頼んでいるんだ」
 弱い風が過ぎて、娘は息もできずに涙をこぼした。はらりはらりと花弁の落ちていくように儚く、酷く麗しい。
「泣かないで。涙じゃ紅を落とすには足りないよ」
「だって……」
「ねえ、ほら。涙は私が拭うから、この指は私のために使って」
 松の王は娘の頬に伝う雫を両手で何度も掬ってやる。その手の温かさに娘は泣きながらも懸命にはにかんで、やがて震える手で松の王の頬に触れた。
 ピリッと刺激が走った。娘は驚いて手を引っこめたが、松の王はその手を掴んで強引に頬に戻すと、
「大丈夫。怖くない」
と続きを促した。

 王の紅に触れて良いのは彼の伴侶か母親だけだ。そう分かっているから、娘の心には怯えも震えも緊張も纏まりなくあった。しかし、松の王が触れてくれるから、その場所からふんわりと包み込まれるような何かが伝わってくるから、娘は指を動かすことができた。

 松の王の紅が随分と落ちた頃には娘の涙も漸く止んで、遠くから様子を窺っていたムラの民らがわやわやと二人の周りに集まりだす。

「良かったなぁ。小さい頃から何かってえとくっついて歩いてたもんなぁ」
「本当にな、ずーっと松の王しか見てなかったんだから」
「ねぇ、やめてよ」
 娘は抗議するが、調子にのった大人たちは聞く耳を持たない。
「なんだあ? 本当の話じゃねえか」
「そうだそうだ。この間だってなぁ?」
「皆して、何も松の王の前で言わなくたって良いじゃない! 松の王、聞かないでね。まだ酔ってるのかしら、この人たち。ふざけすぎなのよ」
 怒って言う娘の肩を持つこともできたが、松の王はなんとなくからかいたくなって、わざと
「本当ではないの?」
とポカンとした顔をして見せた。
「そ、そうよ。何をそんな当然のこと」
「彼らの言うのが、冗談だというの?」
「当たり前じゃない」
「そう、残念だな。今の今まで、私は確かに嬉しかったのに」
 少しばかり大袈裟に寂しい顔をしてみれば、娘はハッとして、そして分かりやすく焦る。
「じょ、冗談の中には、幾らかの本当が混じることだってあるわ」
「そうなの?」
「そうよ。だからそんな顔しないで」
 必死な娘に愛しさが膨れて笑いたくなるのを堪えて
「どのくらい、本当?」
と尋ねれば、
「……言いたくない」
と娘は俯いた。
「どうしても?」
「分かってよ……」
 潤ませて必死にこちらへ訴える上目に、松の王はもう辛抱堪らない。
「ああ、意地悪をしすぎたね。分かっているから、そんな顔はしないで。他の誰にも見せないで」
 そう娘を抱き寄せれば、「ひぃー」だの「ひょー」だのといった情緒のない叫びがあちこちであがる。
「あーあ。こりゃまた胸焼けしそうな二人だわ」
「若いねぇ」
「あら、あんた。若くったってこんな台詞の一つも口にしちゃくれなかったじゃないのよ」
「お前だってこの娘っ子ほど愛らしくなかったじゃねえかよ」
「なんだって?」
「もう一度言うか?」
「やだねえ、あんたたち。こんなとこで夫婦喧嘩してるんじゃないよ」
 彼らの声を聞いているのかいないのか、松の王は再び泣き出した娘の頭を支え、静かに背を撫でてやっている。
「しかし、松の王もこれでひとまず安心だな。昨日の祭礼もうまくいったし、伴侶も決まったし」
「桂の王がぶっ倒れた時はどうしたもんかと思ったがな」
「松の王がこう立派なんだもの、ムラもまだまだ安心だ」
 その民の言葉に松の王が一瞬だけ表情を固まらせたことに、この場にいる誰も気がつかなかった。能天気な笑い声や話し声ばかりがムラには響いて、松の王もまた、いつものように柔和な表情を張りつけていた。
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