雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

1.

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  蝸牛のそばへ 雨粒の歌
  友たれよ 明日を歌えよ
  優し美し 藤棚の陰
  朝焼けに輝けり


 真昼の講堂に少年らの歌声が響いていた。まろやかに澄んだ歌声は上へ上へと昇っていき、天井に触れて優しく弾けて広がる。藤色のガラス窓から入る柔らかい光が歌声の行く先を示し、平穏とささやかな幸福が満ちていく。

 レオナルドは、歌い終えたこの瞬間の独特の温かさが好きだった。ほんのりと残る響きが耳に甘く、光の中に溶けていくその最後まで恍惚と眺めていた。救われていくような気がする。形容できない感情が湧いてくる。心がふわりと浮かんでいく。目をそっと閉じて鼻から息を吸う。長椅子の深い木のにおいがする。古びた、しかし決して古臭くないにおいが心を落ち着かせる。

 目を開ける。ぼんやりと立つ人影にゆっくりと焦点を合わせる。

「はい、ありがとう。先ほどよりも随分とよくなりましたよ。これなら公同礼拝もきっと上手くいきます。今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」

 掛けられたにこやかな声に、少年らは「ルカ先生、ありがとうございました」と声を揃える。ルカはその声に再度微笑みかけ、そしてたおやかにお辞儀をして講堂を後にした。
 ルカの足音が聞こえなくなって、それからやっと少年らは「ほぅ……」と息をつく。

「いつ見てもお美しいよなぁ、ルカ先生」
「お姿もお声も、仕草のひとつひとつが優雅だもんな」

 少年らはそれぞれに腰を下ろし、足を伸ばし、そして口々にルカの美しさをほめたたえる。レオナルドもまた彼らと同じように腰を下ろしてはいたが、口は開かず、歌集のページを捲りながら学友らのルカ自慢に耳を傾けていた。

 ここは、雨神を信仰するヴィルトゥム教アダムス地区の教会である。少年らはここで共同生活を送る学徒であり、日々教えを学びながら奉仕活動に従事していた。少年らの年齢や出自は様々で、たとえば最年少のマシューは六歳、地元貴族の四男だが、最年長のシェーベルは十七歳、商家の次男である。また、すべてが信仰に厚い家庭の生まれというわけでもない。現にレオナルドは、入寮を決めるまでヴィルトゥム教について何も知らなかった。

「なあ、レオナルドは? お前、ルカ先生にメロメロじゃんか」
「そうだよ、さっきだってトロンとした目しちゃってさぁ」
「えっ……! 別にルカ先生を見てトロンとしてたわけじゃないよ」
「はいはい、いいからいいから。で? ルカ先生大好きっ子のお前から見た先生の魅力ってどこなのよ」
「だから、ルカ先生は恩人なだけであって別に……。いや、まあ好きだけどさあ」
「照れてる照れてる。やーん、レオちゃんかわいい」

 にやにやと揶揄いながら抱きついてくる学友らをあしらい、レオナルドは講堂の隅で歌集を捲りながらルカとの出会いを思い返した。


 七年前のことである。

 ブルダム王国において王政派と反王政派によって巻き起こった内乱の影響は、片田舎に住むレオナルド一家にも例外なく及んだ。父は徴兵され、戦火によって家は焼け、先祖代々受け継いできた畑もただの焼け野原になった。父の消息は掴めず、頼れる人もなく、変わり果てた土地で現実に向き合い生きていく強さを母子は持たなかった。集会所へ避難したものの、二日目の夜にはそこも暴徒によって襲撃された。迫りくる業火の熱気。つんざくにおい。煤が目に入って流れる涙を拭いながら逃げた。妹を抱え、はぐれないように母と手を繋いで走った。自分と、家族の命を守ることだけで精いっぱいだった。逃げ遅れた人々の悲鳴も叫びも聞こえていた。聞こえていて、助けようという気持ちは全く起きなかった。地獄へ引きずり込まれるようなおぞましささえ感じていた。

 国境の山深く、村の様子が見えなくなって、木々の涼やかな匂いに包まれて、そうしてようやく足を止めた。ふかふかの腐葉土に身を投げて、ドクドクと破裂しそうな心臓を落ち着けて、周りを見捨てて走った自分の罪深さを自覚した。自分が悪いわけではない。そうしなければ生きていけなかった。そう分かっていて、それでも罪悪感が消えることはなかった。

 レオナルドは嘘をついた。母妹の不安に少し悲しげな表情を作って寄り添ってみせた。時に気丈に振る舞ってみせた。「泣いていいのよ」と母に抱きしめられれば、腕で目元を隠して息を乱れさせた。普通の九歳の少年ならばこんな時どう行動するだろうかと考えて、母妹を心配させない少年を演じてみせた。涙なんて出なかった。不安も絶望もなかった。ただ、なぜ生きているのか分からないでいるだけだった。

 自分が見捨てた人たちと、今生きている自分の差は何なのか。なぜ自分は死ななかったのか。生きたいと願って死んでいった人たちの方が、自分よりもよほど価値のある人だったのではないか。ぐるぐると頭を廻るこの問いが心底下らないものだということは分かっていた。だから隠した。偽物の不安を顔に貼りつけて、その上で、たまに軽口を叩いて母妹を笑わせた。安心させたかった。そうすれば、自分の暗い部分から目を逸らせると思ったから。

 体力が回復して山を下りると、親子は知らぬ内に国境を越えていたことに気がついた。活気ある町並みに少し心が軋んで、レオナルドは奥歯を噛んだ。恨みではない。妬みでも嫉みでもない。これがどんな感情なのか分からずに下を向くと、妹は目を輝かせて町を見ていた。苦笑した。母と目を見合わせて吹き出すように笑いあって、そうしたら腹の虫が鳴った。ああ、腹が減った。そう口に出したら何故だか涙が溢れそうで、誤魔化したくて顔を背けた。

 歌が聞こえた。遠く、霧が晴れていくような澄んだ声だった。

 不思議な感覚だった。その声を認識した途端、他のすべての音が聞こえなくなった。導かれるように足がその声に向かっていった。

 広場では青年が淡い藤色の服を着て、朗らかに歌っていた。美しかった。晴れた空に慈愛の雨が降るようだった。目に見えない何か大きなあたたかい存在がこちらに微笑みかけるようで、青年が舞台を下りて少年らの合唱にかわっても、レオナルドは目を離すことができなかった。

 結局レオナルドが正気に戻ったのは、演目がすべて終わって拍手が広場中に響き終える頃だった。ゆっくりと息を吐いて、それから母妹の存在を思い出して辺りを見回すと、二人は広場の後方で先ほどの青年と談笑しているのが見えた。駆け寄ると青年は「やあ、レオナルド。私たちの演奏は気に入ってくれたかい?」と握手を求めてきた。おずおずと手を重ねて「とても……素敵でした」とだけ言うと青年は笑みを深めて、一度キュッと強く握った。

「よかったら、私たちと一緒に来ないかい?」

 青年の唐突な誘いに、レオナルドは戸惑って一歩後ずさった。素直な反応に青年は微笑み、それからヴィルトゥム教について――例えば雨神信仰であることや、今は奉仕活動の一環で炊き出しと演奏活動を行っていることなど――を簡潔に、しかし丁寧に説明した。正直なところ話の内容については半分も頭に入ってこなかったけれど、青年の真摯で誠実な様子にレオナルドは心を動かされていた。

「私たちは君のような美しい少年を探していた。そして、巡り会えた。……言葉が悪いのだけれど、君を買わせてほしい。ご家族の住まいと働き口、当面の資金をこちらで用意しよう。どうかな?」

 不快な言葉なんて一つもなかった。真剣な青年の声に、嘘ではなく、比喩でもなく、パズルのピースがカチリと嵌まった音が聞こえた。母妹を守ることも、支えることも、何も満足にできない自分の生きる意味を与えられた気がした。ああ、このために自分は生かされてきたのだ。そう感じた途端に一筋の光が見えたような気がして、怖くなって母を見た。

「あなたはどうしたい?」

 妹を抱きかかえる母も戸惑いながら、それでも自分の決断を尊重してくれるようだった。あれだけ歌に夢中になっておいて、惹かれていることを隠すにはかなりの無理があるだろうと、レオナルド自身も分かっていた。

「僕、僕は……」

 あまりにも良い話だと思った。だからこそ、飛びつくことができない。しかしこの誘いを断って、知り合いもいない、勝手も分からないこの土地で、三人だけで今日も明日もその先も生きていける自信がない。母の顔と妹の顔と青年の顔と。視線を行ったり来たりさせながら数分逡巡した後、
「お世話に、なります」
と青年の側へ一歩踏み出した。

 どうせ一度死にかけた身だ。あの日、死を覚悟した瞬間から、自分の心は死にながら、肉体が死なないから息をしているだけだった。それならば。

 信じてみたくなった。ピースが嵌まったあの感覚を。今日を生き延びられればそれで良いと、それだけを思って生きるのではなく、もしもこの先に未来があるのなら――。

(いざ入ってみたら、裏も表もない、ただの歌好きお人よし宗教だったんだもんなぁ)

 レオナルドは回想を終え、歌集を閉じて天窓を見上げた。彼の日の青年こそ、ルカその人である。

 ルカは約束を違えなかった。当時九歳のレオナルドにはそれが幾らなのか判別できないほどの大金を家族に寄越し、さらに母には気の良い女主人を紹介し、仕立て屋での住み込みの職を斡旋してくれた。おかげで三日もしない内にあっさりと生活の目処をたてることができたのである。「こんなによくしてもらって、恩も金も返しようがない」と言うと、ルカは笑って「これが我々の生き方だから、どちらも返す必要などないよ」とだけ言って、いつも何も受け取ろうとしなかった。ルカのその態度に最初の半年はひどく居心地の悪さを覚えたものの、それはやがて教義の根幹を体現するルカへの敬愛に変わっていった。

 損得ではない。もっと単純で明快で美しい心。学徒として七年間学び続けているが、レオナルドは未だにその本質を掴みあぐねている。

「なあ、そういえば知ってるか? ルカ先生の助手選考の話」

 マルコの一言に、レオナルドは思わず目を見開いた。

「それ本当?」
「いや、確かじゃないんだ。この間ガブリエル卿の部屋の前を通ったときに、途切れ途切れで聞こえてきてさ」

 講堂は少年らがマルコに詰め寄る声で落ち着きなくざわつき、レオナルドもまた平常心ではいられなかった。キュッと縮んだ心臓が早く鳴る。息が深く吸えない。六年半の間、その選考のために生きてきたのだ。喩えただの噂話でも、とても落ち着いてなどいられるはずがなかった。

「ねえねえ、その、じょしゅせんこう? って何なの?」

 マシューがマルコの袖を引いて訊くと、マルコは胡座をかいた自分の腿の上にマシューを乗せた。

「ルカ先生は、俺たちの歌の指導をしてくださったり、奉仕活動に連れていってくださったりするだろう? そういうことの準備やなんかのお手伝いをするのが助手なんだ。ここまでは分かる?」
「うん!」
「よし。そして、その助手を誰にしようか選ぶのが助手選考っていうんだ。簡単にいうと試験みたいなものなんだけど。前にあったのが五年前? ガブリエル卿の助手を選ぶときで、俺はまだそのときここに入ったばかりだったからあまり詳しいことは覚えてないんだよね。シェーベルなら知ってる?」
「いや、俺はもともと助手になるつもりはなかったからあんまり覚えてないんだ。いずれ家に戻って仕事を手伝う予定だし」
「なんだよ、頼りにならないなあ。古株のくせにー」
「うるさいわ。何か歌ったり勉強したりしてたような気がするけど……。こういうのは、レオナルドの方がよく覚えてるんじゃないか?」

 レオナルドは突然出た自分の名前に耳がひくついて、平静を装うためにゆっくりと息を吐いた。

「そうなの!? レオ!」
「うーん。毎回同じ課題って訳じゃないみたいだけど、ガブリエル卿のときは筆記試験と歌唱試験、それから立ち居振舞いを見る試験があったみたいだよ」
「へえー。そうなんだって、マシュー」

 マルコは目を丸くして相槌を打ち、それからマシューを抱き直した。

「マシューも、じょしゅせんこー、うけられる?」

 マシューの高い甘えた声に、

「残念、マシュー。助手選考は十二歳以上って決められてるんだ」

とレオナルドが答えると、「え、そうなの」と返事をしたのはマルコだった。

「そうだよ。ていうか、そろそろ時間じゃ――」

 レオナルドは答えながら立ち上がり、長椅子の自分の席についた。彼の様子に、敏い数名は時間を確認してから同じように席に移動したが、

「何の時間だよ。でもそっか、十二歳以上なんだ。俺も無理かー。え、シェーベルは? 今回は受けんの?」

とマルコは話を聞かず、大半の者もまた動かなかった。

「だから、俺はいずれ実家に戻るから助手にはならないって」
「あ、そうかー。でもシェーベル、歌も上手いし、そこそこしっかりしてんのにな」
「そこそこってなんだよ、そこそこって」


 ピシッ!

 空気を裂く音が響いた。

「貴方たちがそんなに宿題が好きだったとは知りませんでした」

 静まり返った講堂に、バリトンの小さな声がよく通る。

「アルバート先生……。も、申し訳ございません!」

 シェーベルが立ち上がり入り口に立つその人に謝罪をすると、周りも次々にそれに倣い、そしてそそくさと長椅子についた。

「いえ、構いません。大方、教義について皆で討論していたのでしょう。自主的に学びを深めようとは、よい心がけです。まさか貴方たちほど優秀な学徒が、下らない噂話などに耽っていたわけではないでしょうから」

 アルバートは講堂の奥へ歩みを進めながら、パシッパシッと右手の鞭でリズムをとった。足音と鞭の音が近づけば、それだけ講堂の空気がはりつめ冷えていく。

「講義の時間を忘れるほど熱中した討論を経てどのような考えに至ったのか、ぜひ私にも教えてください。……そうですね、レポート四枚以上を今夜八時までに」
「四枚ですか!?」
「ええ、適当な枚数かと思いますよ。上限は設けませんから。ああ、三名までの連名ならば許可します」
「え、っと、あの、せめて明日まで提出期限を延ばしていただけませんか。まだ、その、結論? も出ていませんし」
「ああ、いえ、結論などなくて結構。いまの段階で自分がどう教義を捉えているか書いてくださればよいのですから。それに、明日から私は少し忙しくなるので、期限の延長は受け入れられません。必ず、今夜八時までに全員の提出をお願いしますね。
 さあ、本日の講義を始めましょう」

 天窓からの光を反射するアルバートの眼鏡がこれ以上の抵抗は無用だと釘を刺す。少年らは口をつぐみ、肩を落として教典を開いた。
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