雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

11.

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  友よ 信じなさい
  君の歩んできた道を
  友よ 愛しなさい
  君の心の在るままを

  空の色 森の木々の色
  海の色 野に咲く花の色
  君が君を生きるなら
  鮮やかに彩られる

  友よ 信じなさい
  君の歩んできた道を
  友よ 愛しなさい
  君の心の在るままを


 アルバートの呟くような歌声が、レオナルドの小さな背を宥めた。温もりを持つ低い声はレオナルドの心をガーゼのように包み、添え木のように支えた。アルバートは歌いながら出来れば顔を上げてほしいと願ったが、レオナルドは逆に身を縮こまらせるばかりだった。

「私は、偉くなんてないんです」

 レオナルドの声はもう甘さも幼さも持たなかった。悲しみに強く震えながら、自嘲するようになげやりにも感じられた。

「ルカ先生の、助手になりたいだなんて。勝手に私は夢を見て、勝手に自分の生きる意味の全てを賭けてしまって、……叶わなくて。叶わなかったことを知っているのに、どこかで嘘だと思いたくて、現実なのに、現実を受け入れようとしない自分がたまらなく馬鹿馬鹿しくて。夢を重ねようにも、もともとその気もなかったシェーベルに夢を重ねるなんてできなくて」

 レオナルドが短く息を吸って、吐く息と共に言葉がどんどんと溢れて止まらなかった。レオナルドは何かに怯えるように、さらに体に力がこもるのに、もはや思いは止まることがなかった。

「ルカ先生もシェーベルも、好きなんです。良いところ、素敵なところ、私はたくさん知っているのに」

 傷ついてもなお清らに人を愛そうとするレオナルドを、アルバートは黙って見つめていた。恐らくは、清らであること、それ自体がレオナルドが自身を形成する上での重要な側面であると認識して疑わないのだろうと感じていた。愛せなくても構わないのに。嫌いだという感情で塗りつぶしてしまっても構わないのに。しかしそれをしてしまうと、きっとレオナルドは自分が自分でいられなくなるような感覚に陥ってしまうのだろうと思った。

「叶わなかったからって、嫌だななんて、妬ましいだなんて、思ってしまうんです。顔を合わせるたびに、声を聞くたびに、勝手に傷ついて、いっそ早く出てってくれたらなんて思ってしまって。二人とも好きなのに。大嫌い、なんて思ってしまう自分が愚かしくて、許せなくて、醜くて、誰よりも自分のことが一番嫌いで。私は私を愛せない……」

 レオナルドは心を絞るように声を震わせた。自分を愛せない、だから自分は偉くない、と、この子は身をかがめて怯えているのか。アルバートはそう気がついて胸を痛めた。

「七年経ってやっと、葉っぱの緑が鮮やかに見えるようになったんです。空の光の色が見えるようになってきたんです。白黒に近かった世界が、七年かかってやっと色づいて見えた。そんな私が、ブルダムでまともでいられるかなんてわからない。たとえ選考があったって、私は選ばれなかったかもしれない。むしろ、その可能性のほうが高いって。だけど、選考で落ちたならまだ納得できたかもしれないなんて、そんな馬鹿なことまで考えちゃうんです」

 レオナルドが教会に来た時、彼は既に落ち着いてしっかりした子だったとアルバートは思い返した。心を開くのには多少の時間がかかったが、それでも自分たちが特に気を遣うほどの拒絶も示さなかったように思う。来て間もなく、調理場で火を見た時も、体を固めて冷や汗をかくだけで怖いだとか泣いたり叫んだりだとか、そんなことはしなかった。火を扱う場には近づかなくていいよう配慮しようと持ちかけると、申し訳なさそうに、それでもどこかほっとしたような表情を見せていたから、それだけで我々は満足してしまったのかもしれないとアルバートは悔いた。こんなにもレオナルドを脆い存在にしてしまったのは、あの時、もっときちんとレオナルドに向き合わなかった自分たちの責任なのかもしれない。しっかりしていると胡坐を組むのではなく、しっかりしなくても大丈夫だと教えてやらねばならなかったのだ。

 今のレオナルドに、彼を認めるようなことを言ってもそれは救いにはならない。そうなるまで、放っておいてしまったのは自分だ。彼の危うさをどこかで感じ取っていて、それでも彼が手を伸ばしてこないから、踏み込んでいこうとしなかった。これは自分の罪だ。贖うには、レオナルドを救うには、どうしてやったらいい。

「選考を行わなかったのは、君を受けさせたくなかったからだ」

 考えた末に口から出たのは、突き放すように冷たい言葉だった。あまりにも優しくない言い方に、アルバート自身が少し魚籠ついていた。

「短期間でも選考は出来た。そうしなかったのは、選考を行えば必ず君は受けるだろうし、シェーベルは受けないだろうと予想されたからだ。そしてその結果まで――。君にブルダムは辛かろうと、私たちが判断した」

 アルバートは目の前で苦しむ小さな背中を見つめながら、この子をどうにか泣かせてやりたいと願った。自身を浅く傷つけ続ける彼を、もはや中途半端な慰めでは救うことが出来ないと感じていた。それならばいっそ希望の見えなくなる場所まで追い詰めて、彼が彼自身を憐れめるほど深く、傷つけてやりたかった。

「自分を愛せないなんて嘘だろう、レオナルド。君は自分自身を傷つけた。他者を責めず、自分だけをひたすらに悪しく罵ることで、潰えた夢に受けた心の傷を紛らわそうとした。たくさんの傷跡は君の慰めになったか? 周囲には傷なんてないように普段通りに振る舞って、自分だけが知る傷は、他者を傷つけない、ただその一点において、君が君を正しいと誇る証だったんじゃないのか」

 わざと回りくどい言い方をしたのは、アルバートの逃げだった。傷つけたいと願って、それでもやはり傷つけるのは怖かった。責めるような口調だけ感じ取ってくれたらいい、レオナルドの中に冷たい言葉がいつまでも残らないでほしいと思った。

「私は君のその生き方が好きじゃない。それでも、君は自分を傷つけることでしか自分を守れなかったんだろう? そうしなければ息が出来なかったんだろう?」

 レオナルドの生き方は、きっと見方によっては正しくないものなのだろう。それでも、レオナルドはその生き方を選んだ。そうせざるを得なかった。それならば、レオナルドにとってはその生き方こそが最も正しい生き方だったのだ。

「向き合うんだ。君が愚かで醜くて嫌いだと思う君を受け入れるために」

 アルバートはレオナルドを肯定する言葉を掛けないように努めた。気を緩めばそんな言葉ばかりが浮かんだが、それでは何の解決にもならないと強く自分を戒めていた。

「君がいま私の手を取るなら、私は君の友として、君が君を愛するための助けになろう。君のその生き方を、この先の君が正しかったと信じられるように」

 アルバートは蹲るレオナルドの前に右手を差し出した。

「体を起こしなさい、レオナルド」

 アルバートは決してレオナルドに触れなかった。強引に引き上げることは簡単だったが、しかしそれでは意味がなかった。

「声が聞こえるね。体を起こしなさい」

 先ほどよりもアルバートの声が厳しくなった。レオナルドは暫く固まっていたが、やがてゆっくりと体を起こした。カクン、カクンと少しずつ頭を持ち上げようとするレオナルドに、

「俯いたままでいい。体を起こしてくれたら、ほら。無理に顔を上げなくても、私の手が見えるだろう?」
と、アルバートは優しく声をかけた。

「どうする? 君がこの手を取ってくれたら、私は君のそばで、足元に咲く花を一緒に愛でることができる」

 視線は決してかち合わないのに、目が合っているような気分だった。レオナルドは自分の中にアルバートの心が伝わってくるのを感じていた。

「私を、君の友としてくれるかい?」

 アルバートの手のひらに、緩く握られたレオナルドの手が乗った。アルバートがその上から左手を重ねると、レオナルドはそっと手を開いてアルバートの親指を握った。

「まずは足を洗おう。……あぁ、擦り切れているじゃないか」

 手を握ったまま、アルバートはレオナルドを抱えると湖の淵まで連れて行った。柔らかい草の茂る場所にレオナルドをそっと下ろすと、アルバートはレオナルドの片足をそっと湖の水で濯ぐ。

「痛い?」

 アルバートの問いに、レオナルドは首を傾げた。

「私は、こんな風になるまで君を傷つけて、そして君が傷ついていることに気がつかないでいたんだね」

 アルバートのそれは懺悔ではなく、謝罪でもなかった。過度に希釈された感情にレオナルドの心は揺れることがなく、それ故に「自分が傷ついていた」という事実だけを在るままに受け入れさせた。

「手を取ってくれてありがとう、レオナルド。君のお陰で、私は私のために過ちを贖うことが出来る」

 アルバートは左腿に手巾を広げ、その上にレオナルドの右足を乗せた。真白な手巾は、傷を包むと優しく朱に滲む。拭い終わった綺麗な足を草の上にふわりと下ろされて、レオナルドはようやく若干の痛みを感じた。

「先生の言うこと、よく分からない……」

 レオナルドはおずおずと上目でアルバートを見上げた。

「分からなくていいよ。半分は、私のための言葉だから」

 アルバートは微笑んでみせる。レオナルドは不安気な目をしたまま、それでも何かを伝えようと手を強く握るから、アルバートは静かに待っていた。

「ぼ……、わたし、分からないけど、先生が優しいのは分かる、り、ます」
「いいよ」

 つかえながら、それでも敬語を使おうと意識が向けられるほどには心が彼自身のものになったのだろうかとアルバートは少し安心して、それから小さく首を横に振った。

「敬語じゃなくていいし、先生なんて呼ばなくていい。自分のことも僕でいい。ここにいる間は、私たちはただの友だ」

 だからどうか信じて甘えてくれと、願いを込めてアルバートは揺れる目を見つめる。

「ほんとう?」
「本当。私のことは、アルでいいよ。私もレオと呼ぶから」

 風が遊んだレオナルドの前髪をかきあげて、アルバートは「呼んでごらん」と優しく促した。レオナルドは落ち着きなく視線を彷徨わせながら、アルバートと目を合わせてはすぐに逸らすのを何度か繰り返した。

「……。アル」

 ようやく名を呼べたとき、レオナルドはそれでもアルバートの口元までしか目を上げられなかった。

「うん。レオ」

 それで良かった。アルバートが名を呼んでやると、レオナルドはピクリと肩を震わせる。そよそよと風が吹いて、雲が流れて月に翳った。暗くなって、レオナルドが顔を上げる。

「甘えて、いいの?」
「いいよ」
「ほんとう?」
「本当」

 言葉を交わすたびにレオナルドの目が潤んでいく。

「僕のこと、もっかい呼んで?」
「レオ」

 大丈夫だよ、信じていいよ、と、どうやったら伝わるだろうか。アルバートは出来得る限り感情を押し殺して、努めて穏やかにレオナルドの名を呼んだ。

「もう一回」
「レオ」
「もっと……」
「レオ」

 アルバートがその名を呼んでやる度に、レオナルドの頬が少しずつ緩んでいった。

「ちっちゃい子みたい。嬉しくって、恥ずかしくって、キュッてなるの。変……」

 レオナルドが襟を持ち上げて顔を隠そうとするのを、アルバートは手を重ねて制する。

「変じゃないよ。全然、変じゃない」

 幼子のようになることが、きっとレオナルドの心を守るために必要なことなのだろうとアルバートは感じていた。森でレオナルドを見かけた時も、彼は随分と退行していたと思い返す。恐らくは彼が教会に来た年齢、よりもずっと幼い年齢まで戻った心を、受け入れて愛してやることが必要なのだ。甘えたいとレオナルドが願う相手が自分で良いのなら、アルバートは何処までも深く愛してやりたいと思った。

「ねえ? レオ。私は、レオともっと話がしたい。また私と、ここで会ってくれる?」

 贖罪なのか、それとも純粋にレオナルドを愛してやりたいのか、アルバートには自分の感情の向く先が分からなかった。自分が中途半端であることはアルバート自身も強く感じていて、それでも、目の前で今、大きな不安の中で自分に向かって手を伸ばそうとする子どもを拒絶する理由にはならなかった。レオナルドがいつかもう一度未来を見据えることが出来るようになるまで、アルバートはそばにいて、彼が誤魔化しながら見ないようにしてきた過去を、一緒に愛していきたいと願っていた。

「次も、レオって呼んでくれる?」
「次も、その次もずっと、レオって呼ぶよ。二人でいる間はそうするって約束」

 レオナルドはアルバートの返事に少し嬉しそうにして、それからキュッと抱きついた。アルバートも回された腕と同じだけの強さで抱きしめ返してやる。触れる胸、かかる息が温かくて、アルバートはうっすらと汗ばむほどだった。

「寒い? 暑い?」

「分かんない。ドキドキしてボワボワする」
「分かった。疲れちゃったね。少し寝る?」

 アルバートの問い掛けにレオナルドは案の定「眠たくない」と答えたが、

「ゆっくり息を吸って、吐くよ。ほら、真似っこして。スゥー、ハァー」
と深い呼吸を促してやると、あっという間に気を失うように寝入ってしまった。

「おやすみ」

 重たくなった体に挨拶を送ると、アルバートは彼を抱いたまま立ち上がって湖に背を向けた。
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