雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

10.

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 地面を踏む度に、落ち葉の潰れる音がする。あちらこちらで虫が鳴く。風が一筋吹いていく。秋口の夜の森は、レオナルドが思うよりずっと騒がしかった。

 教会の裏口から、ずっと真っ直ぐに歩いてきてしまった。道を探す余裕もなかった。靴も履かずに出てきてしまったことに気がついたのは、月明かりも届かない森の奥で、ささくれた木に背を凭れて小枝をパキリと踏みつけた時だった。

 存外に息が切れている。乾いた葉が足を刺して痛痒い。ずるずると腰を下ろせば、制服の背が木の幹に引っ掛かって首が締まった。

(いっそ、このまま死なないかな)

 そう思った途端に体がズドンと地に落ちて息が楽になった。なんだか酷く、自分が澱んでいる気がした。

 夢が叶わなかった。

 たったそれだけのことで死を願うなんて。

(だけど僕は、もう分からない……)

 ルカの助手になり、ヴィルトゥム教の布教や奉仕活動に従事することは、レオナルドにとってただの夢ではなかった。生かされた意味、未来、過去に起きた事象の全てを、この夢に重ねていた。何を特別に頑張った訳じゃない。ただ、その夢に繋がる可能性のあるものなら何だって身につけようとした。それは苦労でも努力でもない。そうすることが当然だと思っていたし、そうして何かが身についていく度に、夢にまた近づいたと感じて嬉しかった。

 しかし、選ばれたのはシェーベルだった。七年間それだけのために追い続けた場所を手にしたのは、助手になるつもりもなかった、選考の方法も知らなかった人間だった。

 悲しい。憎い。どうして、と嘆く自分が惨めだった。夢を追ってきた七年、いや、生まれてからの十六年を丸ごと否定されたような、まるで意味のないものだったのだと突きつけられたような気がした。

 ルカの声を聞くだけで苦しかった。恵まれた場所にいて、愚痴をこぼすシェーベルを殴って捻って潰してやりたかった。歌を歌い、勉強をする、これまでと同じ生活を続けることが堪らなく辛かった。夢を追ってきた日々を思い出す度に、汚泥にまみれて沈んでいく感覚があった。

 だから逃げ出した。これ以上、沸々とわき続ける黒い感情に呑み込まれたくなかった。逃げてどうなるわけでもないのに、そんなこと分かりきっているのに、誰もいない場所に行けば、綺麗な空気が吸える気がしていた。

(もう、疲れた……)

 誰もいない闇の中で、呼吸をする度に吐き気がした。虫の声が自分を責めるように鋭く聞こえた。教会から逃げても、感情に溺れて規則を破り無断で夜間に外出したという阿呆な肩書きが増えただけだった。

 仰向けに寝転がることも、うつ伏せに寝転がることも出来なかった。恐らくは怯えているこの小さな心を、膝を折り腿と胸をギュッとつけて抱きしめることでしか守れないと思った。

 その内に、人の気配がした。不在に気づいた誰かが探しにきたのだろう。近づいてくる 一人分の足音に、レオナルドは逃げる気力もなく、背を向けることしかできなかった。

「レオナルド」

 名前を呼ぶ声は存外に近く、優しかった。嗄れて、ともすれば松虫の声に消えてしまいそうなほど小さく、しかし温かさを強く持って、その声はもう一度
「レオナルド」
と呼んだ。

「ガブリエル卿……」

 レオナルドは声のする方に少しだけ首を傾けた。顔はあげられなかった。立ち上がれなかった。ガブリエル卿のローブの裾と、小さなランタンの灯りを目にするだけで精一杯だった。

「良いものを見せてあげよう。こちらへおいで」

 頭上から降る声は未だ優しかったが、ガブリエル卿は手を差し出してはくれない。彼はレオナルドの視界に入るギリギリのところで足を止め、レオナルドが体を動かすとまたその視界ギリギリまで歩みを進めた。レオナルドは始め座ったままの姿勢を崩さずに、にじりよるようにしてその足を追っていたが、やがて膝立ちで歩くようになった。レオナルドは自分を守るように左手で自分の鳩尾の辺りを、右手でガブリエル卿の腰元を握っていた。そうやって少しずつ森の奥へと進んでいった。

 歌が聞こえた。

 ざらついたバリトン。聞きなれたその声に思わず顔を上げる。

「これはまた、先客がいたようだね」

 ガブリエル卿は「ホッホッホ」と笑って足を止めた。

「この先に湖がある。そこに彼もいるはずだよ」

 ガブリエル卿の目の向く先に、微かに青い光の煌めきが見えた。歌はやがて美しく終わり、対抗するように虫たちの合唱が賑やかに聞こえた。

「レオナルド。凪いだ湖に月が浮かんで、空には幾つかの星が見える。あの景色が見られるのは、夜中に脱け出した者だけの特権だよ。見に行ってごらん」
「ひとりで……?」
「怖いかい?」
「怒られる……」
「怒らないさ。僕もアルバートも、君がこれまで良い子で生きてきたことを知っているからね」

 さあ、と腕をとられる。グッと体を持ち上げられ、二本の脚で立たされる。

「僕が手を出せるのはここまで。もういい歳だからね、帰って寝るよ」

 ガブリエル卿はそう言うとローブを掴んでいたレオナルドの手をそっと離した。ゆったりと帰っていくガブリエル卿の背をレオナルドは追いかけられず、かといって湖の方へも足が向かないまま立ち尽くす。風が冷たい。鈴虫の声がうるさい。足の裏の土だけが柔らかい。

 ガブリエルの足音が聞こえなくなって、ランタンの灯りも見えなくなって、レオナルドは自分の身を守るように胸の下で腕を組み、制服を強く握った。俯けば自分の足の汚さが目につき、空の明かりの届く所まで連れてこられていたのだと知った。

 カサリ

 一歩踏み出してみた。何に背を押されたのか分からずに、一歩、二歩と歩いてみて、そしてまた動けなくなった。

 何かが怖かった。何も見たくなくなって目を閉じた。

 そうして固まっている内に、今度は向こうから葉を踏む音が近づいてきた。

「レオナルド……」

 そうして名前を呼ぶ声がどんな感情を含んでいるのか、レオナルドには分からなかった。怒らないと言ったガブリエル卿の言葉を無意識に反芻して、それでも返事をすることも、顔を上げることも出来なかった。

「こちらへいらっしゃい。空が晴れている内に」

 アルバートは手を引いた。強張っていた体が、まるで呪いが解けたように動き出す。

「美しいでしょう? 脱け出した者だけの特権ですよ」

 それは確かに絶景だった。

 水馬が滑る湖の、水面の波紋が美しかった。月は水に溶け、光り、そして風を映した。地に星のきらめきは無かったが、見上げれば確かに空に瞬いていた。空気は冷たく澄み、息を吸えば全身の細部まで廻っていった。綺麗だった。何もかもが美しく見えた。

「私はしばらくその辺りで寝転がっていますから、君は自由になさい。ああ、遠くに行きたい時や帰りたい時は、私に声を掛けること。いいですね?」

 レオナルドはこくんと頷いた。暫くは茫然と立ち尽くしていた。息を吸って、吐く。目を閉じて、開ける。何度繰り返しても、目の前は美しい景色のまま変わらなかった。

 柔らかい風が吹いて、葉が一枚、目の前を舞いながらおりていった。たった一枚の枯れた葉が、それでも美しく生きているように見えて、なんだか酷く寂しさを覚えた。

 やがてレオナルドはアルバートのすぐ右隣に寝転がった。始めは真似をして仰向けに寝てみたものの、落ち着かずに足を抱えるようにして横を向いた。

「寒いですか?」

 アルバートもまた右腕を枕にしてレオナルドの方を向くように横向きになった。レオナルドが小さく首を横に振ったのを見ると、空いた左手で彼の髪を優しく梳いた。

 二人とも、しばらく何も話さなかった。アルバートは黙ってレオナルドの髪を梳き、レオナルドは為すがまま、その内に先ほどガブリエルにそうしたようにアルバートのローブをキュッと握った。

 時折強い風が吹いて、舞い上がった落ち葉が低く揺れながら背や頭にぶつかった。アルバートはレオナルドの肩や髪に乗った葉を、一つひとつ丁寧に外していく。

「ごらん、虫食いだ」

 アルバートは一枚の葉を左目に翳し、空いた穴からレオナルドを覗いてみせた。いつもよりずっと柔らかく砕けた声にレオナルドはおずおずと顔を上げ、葉を持つ彼の手に手を重ねる。

「ふふふ」

 思わずこぼれた笑いがどんな感情に依るものなのかレオナルドには分からなかったが、アルバートもまた同じように目を合わせて笑ってくれたから、なんとなくそれで良かった。重ねた手が冷たかった。冷たいから、心が温かくほどけていくような気がした。

「先生、怒らないの?」
「うん? レオは怒られるようなことをしたの?」

 レオナルドの声は幼子のように甘く、アルバートも彼を綿布で包むように問いかけた。

「だって、一人で、黙って外に――」
「一人で黙って教会の外に出るのは悪いこと?」
「え? 規則違反、でしょう?」
「そうだね。どうしてそういう規則なんだと思う?」
「危ないもん。怖い人も動物も、たくさんだし、……黙っていなくなったら、心配、だし」
「ね。レオはちゃんと分かってる。だから私も怒ったり叱ったりしない。それに今、君は一人じゃない、私と二人だしね」

 アルバートはレオナルドに笑いかけ、そして手を重ね直した。その手を離さないままアルバートは体を起こし、そしてレオナルドのことも抱え起こして互いの膝をつけるように座った。

「私たちのような、少しばかり早く生まれた者が年少の者を叱る時、それはたとえば君が君自身を愛していないことに気づいていない時だ」

 そう言ってアルバートはレオナルドの頬を両手で包んだ。ゆっくりと目が合うように顔を上げる。頬を包む手が、向けられる眼差しが、日だまりのようで心に痛く、嬉しく、どうしようもなく落ち着かなくて、レオナルドは逃げ出してしまいたかった。

「だからね。心が辛いことに気がついた。こうしてここへ逃げてきた。それができた君は――」

 視線を彷徨わせるレオナルドのこめかみを、アルバートは左の中指でトントンと叩く。それはどんな言葉よりも強い指示だった。レオナルドは向き合いたくなかった。これから与えられる言葉がどんな意味を持つとしても、真正面から捉えたくなかった。それなのに、その中指の魔法にかかってしまった瞳はゆっくりと上へ向かい、そしてアルバートの瞳とかち合うと、今度は吸い込まれるように目を逸らすことが出来なかった。

「とっても偉かったよ」

 目交に一陣の風が過ぎていく。レオナルドの両目に厚い涙の膜が張っていたことを、レオナルドだけが知らなかった。アルバートが手を離しても、もうレオナルドは目を逸らそうとしない。あまりにも真っ直ぐに向けられた言葉を理解するには少し時間が必要で、強張った心に雫が染み入るようにじんわりと実感が伴ってくると、何度も小さく首を横に振り、泣き出しそうに顔を歪めた。やがてレオナルドは惨めさに蹲り息を震わせる。アルバートは眉を寄せ、彼を慰めようとして手を伸ばし、触れる前にその手を地面に下した。
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