雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

13.

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 アルバートが朝礼から戻ると、レオナルドは息苦しくなったのか布団から顔だけ出してスゥスゥと寝息を立てていた。

(なんて、あどけない……)

 熱をもって薄らに紅潮した頬にアルバートがそっと手の甲で触れる。目の端に涙が滲んでいる。せめて夢の中では何も気負わずに微睡んでいてほしいと、アルバートは頬を摩ってベッドから離れた。

 なるべく音が立たないように椅子をひく。ペンの蓋を取るのも、書類を一枚捲るのにも気を遣う。しかし、アルバートはそれを何の苦とも思わずに仕事を進めていった。カリカリと細いペン先が擦れていく音だけが部屋に響いている。

 ガタガタッ

 急に風が強く吹いて窓が揺れた。雲が流れたのか部屋に入り込む日差しが強くなって、レオナルドの顔にかかる。アルバートはカーテンを閉めようか迷って、レオナルドの目が徐に開いていったのを見てやめた。レオナルドは手で顔を覆い指先で目を擦ると、首を伸ばして机のある方に目をやった。アルバートと目が合うと、
「おかえりなさい……」
と小さな声をかけて体を起こす。そのまま、レオナルドはベッドの背もたれに上半身を預けた。

「ただいま。具合はどうです?」
「たくさん寝たから、もうすっかり」
「本当は?」

 アルバートは椅子から立って、レオナルドを見上げるように枕もとにしゃがむ。

「……ちょっと、頭が痛いです」
「それから?」
「ぼわぁってする、かも」

 レオナルドの声は少し痰の絡んだような、ガラリというかザラリというか、そんな艶のない声をしている。

「喉も乾いているでしょう。水なら飲めますか?」

 アルバートは立ち上がると棚からグラスを取り、机の上のガラスポットから水を注いでレオナルドに渡した。

「ぬるい……」
「風邪ひきにはぬるい位で丁度です。食欲は? 何か食べられそうですか?」

 小さく文句を言うレオナルドをあしらって問うと、レオナルドは少し黙ってから、
「もし何かあるなら、食べます。無いなら別にいらないです」
と曖昧な返事をよこした。

「その言い方。何に気を遣っているのです。私は食欲があるのかないのか訊いたんですよ」
「気を遣ってるわけじゃ」
「じゃあ何です」

 声を被せるようにアルバートが問うと、レオナルドは下唇を噛んで押し黙ってしまう。萎縮させただろうか。アルバートは口を閉じたままのレオナルドを見つめ、そしてそれは違うと察した。

「レオ。私は昨夜、甘えていいよって言ったよ。忘れちゃったの?」

 口調を変えてレオナルドの手にそっと触れる。レオナルドはハッと眉を上げ、
「夢じゃ、ないの」
と呟いた。「夢じゃないよ」と教えてやると、レオナルドは瞳を細かく震わせて戸惑いながら、それでも自分の手を裏に返して、重ねられたアルバートの手をそっと握った。

「ね、レオ。教えて。お腹は減ってるの?」

 アルバートがもう一度ゆっくり問い掛ける。

「おなか、減ったような気もするけど、でも。ア……先生が、どこかに行っちゃうなら減ってない」

 レオナルドはちらりとアルバートの顔を見て、それから恥ずかしそうに目を逸らした。

「私がこの部屋から出ないなら、レオのそばにいるなら、レオは何か食べたい?」
「うん……」

 俯きながら返事したレオナルドの手を、アルバートは握っていないほうの手で一度撫でてから、「分かった」と手を離して立ち上がった。

 引き出しを開けて取り出したナイフに窓からの光が反射する。

「リンゴ。好き?」
「好き。くし切りにして?」
「くし切り? ウサギじゃなくていいの?」
「皮にがいから、あんまり好きじゃないの」

 アルバートはレオナルドに壁際に寄るよう手で示すと、その隣に並んで足を伸ばして座った。右足だけ曲げると膝に肘を置いて軸にして、サクサクと器用にリンゴの皮を剥いていく。

「はい」

 アルバートがくし形のリンゴを手渡すと、レオナルドは早速一口齧って、「おいしい」と気の抜けた笑顔を見せた。

 しばらくは二人とも、シャクシャクとレオナルドがリンゴを齧り咀嚼する音を楽しんでいた。レオナルドは時折アルバートの顔を覗いては目が合うと嬉しそうに笑って、見せつけるように大きな口を開けて齧ると、満足そうに顔を逸らした。

「みんなは?」
「今、ガブリエル卿の畑で野菜を収穫してるよ」

 食べ終わると二人は濡れ布巾で手を拭った。ピタ、とレオナルドが遠慮がちに肩を寄せて尋ねるから、アルバートは後ろから腕をまわして更に体をくっつけた。

「だから、誰もこの部屋の近くに来ないから、大丈夫」

 アルバートの息が耳にかかって、レオナルドの喉はキュゥと締まって、声にならない声が出た。驚いた表情のまま固まったレオナルドに、アルバートはクスリと笑って髪を撫でる。

「……アル、って、呼んでもいい?」
「いいよ」

 頷いてやると、「ふふふ、アル」と蕩けた声で口遊むようにレオナルドは名を呼んだ。「なあに」とアルバートが柔らかく相槌を打つと、レオナルドは「んぅぅ」と猫が毛繕いをするようにアルバートの肩に顔を擦りつけた。

「そばにいてね?」
「そばにいるよ」

 レオナルドはアルバートの腿に手を置いて、肩に胸に顔をつけては鼻から深く息を吸った。「あまり嗅がないで」とアルバートがレオナルドの髪に手をくぐらせて、親指に力を入れてウリウリとツボを押すようにすると、レオナルドは「くふふ」と口に手を当てて笑った。

 風が窓を揺らす音が大きく響いて、レオナルドはアルバートの肩にコテンと頭を預け、彼の手を取って自分の頬に寄せる。手にドクドクと流れてくるレオナルドの熱にアルバートが口を閉じて動かずにいると、やがてレオナルドは指を絡めるように重ねた手を握りなおした。

「僕、どうしたらいい?」

 呂律の甘い声でレオナルドは不安をこぼす。

「何が?」
「分かんない、なんか、色々」

 その口調がどこか拗ねているようにも感じられて、アルバートは握ったままその手を頬から下ろした。

「僕、なんかずっと、僕の気持ちばっかりで。皆のことお願いされたのに、皆のこと放って、僕だけアルのそばで、こんな、甘えてて。僕、ルカせんせにお願いされたのに」

 レオナルドは口を窄め、顎に皺を寄せる。

「レオにとって、ルカのお願いはそんなに大事?」

 アルバートが訊ねると、レオナルドは「だって!」と握った手に力を込めて、それから壁に凭れるようにアルバートから離れた。

「だってね。ルカせんせの役に立ちたいって、一番そばに立てるようにって、そう思ったから生きてこられたの。もしルカせんせの助手になれた時、ああ、レオナルドなら安心だって、大丈夫って思って貰えるようなひとでいたいって、ずっとずっと、勉強も歌も頑張ってきたの。いつもの活動も、みんなと話すときだって、ルカせんせの助手に選ばれるようなひとなら、優しくなきゃ、真面目じゃなきゃ、サボったりしちゃ駄目だって」

 レオナルドは言いながらどんどんと俯いていった。膝を立てて顔を隠すように腕で目を覆った。

「馬鹿みたいでしょ。分かってるの、こんな生き方おかしいって。だけどそうしないと死んじゃいそうだった。死んだら、母さんもリルも悲しむから、だから死ぬわけにはいかなくて、だけどいつも、死神が隣に立ってるみたいだった」

 何度も手を握り直しながら声を震わせるレオナルドに、アルバートは自分の不甲斐なさと、悲しみと少しの安堵を覚えた。死なないでくれて良かった。この子に温かい家族がいて良かった。家族が死を悲しむと知っていて自分を奮い立たせられる聡明さと強さがあって良かった。怯える彼を目の前にして、アルバートはそんな身勝手なことばかり思っていた。

「ルカせんせは、ルカせんせの隣は、ずっと僕の目指す場所だったの。七年前、ボロボロだった僕が、初めて見た未来だった。光だった」

 レオナルドはそう言うと腕をベッドに放り出して、俯いたまま後頭部を壁にトンと預けると、首を少し左に傾けて乾いた笑いをこぼす。

「だけど僕はルカせんせの助手にはなれなくて、でも、ルカせんせにお願いされたから。お願いちゃんと叶えたら、ルカせんせの役に立てるでしょう?」

 そうしてアルバートに向けたレオナルドの目があまりに切実で縋るようで、その目にいま映るのが自分ではなくルカの幻影だと分かっても、アルバートはその脆さに言葉を失うほどの美しさを感じていた。

「レオは、ルカのことが大好きなんだね」
「うん」
「ずっとずっと、よく頑張ってきたね」

 アルバートは繋いだままの手にもう片方の手を重ねる。

「うん。……うん」

 レオナルドは泣き出しそうに顔を歪めて、吸っても吐いても強く震える息に苦しそうに胸を押さえた。

 アルバートは頭を撫でてやることも、体を摩ってやることも、抱きしめてやることもしなかった。もしもそうしてしまったら、レオナルドがどうにか守ってきた心の支えを壊してしまうような気がしていた。

「レオ。私はね、ルカが君にしたお願いは、今のレオにとっては重たすぎる荷物だと思う」

 レオナルドの息が落ち着いて、顔を上げられる状態になったのを確認してからアルバートは口を開いた。顔を上げたレオナルドの瞳が潤んでいる。

「でも、その荷物がないと、きっとレオは立っていられないのかな、とも思う」

 この七年、レオナルドは自分に数多の枷をつけて、縛りつけることで生きてきたのだろう。死神の声を聞かないように。振り向いてしまわないように。端からは雁字搦めで苦しそうに見えても、その枷の重さこそがレオナルドにとっての命綱だったのだ。そうして染みついた生き方を変えることは決して容易でないとアルバートは推し量った。

「だからね、その荷物は、下ろさなくていい。ルカのお願いを叶えたいなら、叶えようと頑張ったらいいよ。頑張りたいって気持ちは、あるんだよね?」
「うん……」
「じゃあ、頑張ってみよう。皆といる時は、皆のことを気にかけて、困っていそうな子には話しかけてあげようか」
「でも、僕、いっぱいいっぱいになっちゃったら、どうしよう」
「うん。だからね、そうなる前に、私がレオの荷物を貰うよ」

 抽象的なアルバートの言葉に、レオナルドは首を僅かに右に傾げた。

「週に一度、あの湖で話をしよう。皆には内緒で、二人きりで。レオの思ったこと、感じたこと、私だけに全部教えて?」

 レオナルドはポワンと口を開けて、ゆっくりと小さく頷いた。

「また、夜に?」
「うん」
「何曜日?」
「いつがいい? 金曜日がいいかな?」
「うん。……でも僕、どこだか分からないよ」
「うん。だから、一緒に行こう。その夜は、部屋に迎えに行くから」

 迎えに行く、と聞いてレオナルドは顔を綻ばせる。

「週一回だけなの?」
「もちろん、レオが二人で話したいって思ったときは、いつでも」
「じゃあ、毎日は?」
「毎日でもいいけど、きっと疲れてしまうよ」
「でも、週一回じゃ寂しいもん。それに、僕が湖に行きたいって思っても、どうやってアルに教えたらいいの?」
「そうだね、皆の前で内緒話をしていたら怪しまれてしまうね。どうしようか、秘密の合図でも作る?」
「あいず?」
「そう。例えば……右手で左の頬を掻くとか」

 アルバートがやって見せると、「こう?」とレオナルドも真似をする。

「じゃあ、目が合ったらこうするから、そしたらちゃんと迎えに来てね」
「うん。迎えに行く」

 アルバートが頷いてやると、レオナルドは口角をキュッと上げて喜んだ。レオナルドが気に入ったように何度も頬を人差し指で掻くから、アルバートは「もうおしまい」とその手を止める。

「ねえ? アルが僕のこと呼ぶときもある?」
「そうだね。レオと話がしたいと思ったら、私もこうするよ」

 そう言ってアルバートが頬を掻いて見せるとレオナルドは一度頷いて、それから「あ!」と声をあげた。

「待って待って。アルが僕を呼ぶときはさ、眼鏡をこう、クイッてするの合図にしよう?」
「レオ、それが僕の癖だって分かっていて言ってるね? 駄目だよ、それじゃあ毎日呼び出すことになっちゃうじゃない」
「いいじゃん」
「駄目。私もこうする。お揃いのほうが二人だけの秘密って感じがして良いと思うんだけど、レオは違う?」

 アルバートがレオナルドの頬を人差し指で摩って問うと、レオナルドは「違うくない、けどぉ」とぶすくれた。

「じゃあ決まり。レオがこうしたら、迎えに行く。私がこうしたら、レオは寝ないで部屋で待っていてね」

 些か不服そうな表情のレオナルドは、それでもアルバートに「待ってる」と頷く。

「いい子だ。さ、それじゃあ、もうお休み。お昼ご飯の時間に起こしてあげるから」

 アルバートはレオナルドの体に手をやって寝かせ、服を整えてやってから布団をそっと被せる。

「アル、どこか行っちゃう?」
「机で仕事。ちゃんとこの部屋にいるから」

 アルバートが机に戻るとレオナルドはうだうだと寝返りを打って構ってほしそうにしていたが、ペンが滑る音に誘われたのかやがて静かになった。風はなおも強く窓を叩いたが、穏やかなレオナルドの寝息ばかりがアルバートの耳に届いていた。
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