雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

14.

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 昼食を終えるとアルバートはレオナルドに自分の大きな帽子を被せて、人目につかないように手洗い連れて行ってから、自分の椅子にレオナルドを座らせ、
「寝てばかりもつまらないだろう? 少し勉強しよう」
と机の上に一枚の紙を置いた。

「レオがいま、一番好きな教歌の歌詞をここに書いて?」

 アルバートにペンを渡されて、レオナルドは少し考えてから筆を走らせた。アルバートが部屋に鍵をかける。レオナルドは声を出さず口を小さく動かしながら詩を書いていった。

「三番か。私も好きだよ。一度、歌わずに、声に出して読んでくれるかい?」

 レオナルドは戸惑うように眉をピクリと上げてから、ゆっくり頷くと口を開いた。


  藤棚の下 少女は踊る
  その指先で 空をなぞって
  ああ 君の行く先に
  慈しみの雨が降る
  わが主よ わが友よ
  幸福を歌おう

  藤棚の下 少女は跳ねる
  その足先で 土を愛して
  ああ 君の行く先に
  慈しみの雨が降る
  わが主よ わが友よ
  幸福を歌おう
 

「ありがとう。訛りもなく、とても綺麗に読めているね。では次に、この詩について知っていることを教えて? 例えば、これは誰が詠ったものだった?」

 アルバートの問いに、レオナルドは間を置かずに
「リトゥムハウゼが。建国して間もなく、いまの中央教会の庭にある藤棚の下で、女神ヴィルが子どもたちと遊んでいる様子を詠ったの。リトゥムハウゼの手記に挿絵があって、それを基に城の庭園にヴィルの彫像が作られたって何かの本に書いてあった」
と真っすぐに目を見て答える。講義で教えたこと以上の回答を受けて、アルバートはレオナルドの知識深さと勤勉さに感心した。

「よく知っているね。レオはリトゥムハウゼの手記を読んだことはある?」
「ううん。探したんだけど、書庫には無かったから」

 レオナルドが首を横に振ると、アルバートは本棚から一冊の本を取り出した。

「これは写しなのだけれどね。十年ほど前に機会があって戴いたのだけれど、貴重なものだから書庫に置かずにいたんだ。開いて、見てごらん」

 スッと机に置かれた厚みのある本に、レオナルドは「い、良いの?」と目を輝かせながら戸惑う。緊張して体を動かせないレオナルドの手を取ると、アルバートはその手を表紙に乗せた。

 アルバートを見つめながらレオナルドは何度もまばたきを繰り返して、それから覚悟を決めたように息を吐いて、表紙を開いた。

「すごい……」

 レオナルドは左手で口を覆い感嘆の息が漏れるのを抑えながら、薄い紙が皺にならないようにゆっくりとページを捲っていく。

「リトゥムハウゼは、本当に絵を描くのが好きだったんだね」
「ああ。絵ばかりだろう?」
「うん。教典にも絵を描くのが得意って書いてあったけど、ここまでとは」

 手記に綴られた文字は丁寧で美しく、さらに四、五ページおきに挿絵が入れられていた。草原や海、城や庭園など多くの風景が一本の黒いペンで繊細に描かれている。

「すごい。光と影、風と雨、音やにおいまで伝わってくるみたい。心が—―」

 レオナルドは食い入るように文字を、絵を見つめて呟く。そんな彼の様子を、アルバートは腕を組み、本棚に凭れながら黙って眺めていた。

「これ……!」

 レオナルドが勢いよく顔を上げる。その素直な反応にアルバートは小さく笑って、
「ああ。それがこの詩の絵だよ」
としっかりと目を合わせて頷いた。レオナルドが興奮を隠さずにもう一度本に目を落とすと、アルバートはレオナルドの斜め後ろに移動して、同じページを覗き見た。

「たしかに、彼女は、神。包む、光、風、雨、しかし、の下、藤、盛る……?」

 文章に指を添えたどたどしく読むレオナルドにアルバートは少し驚いた表情を見せ、そしてその指をそっと包んで本から下ろした。

「たしかに彼女は神なのだと感じた。咲き誇る藤棚の下は陰り涼しいはずなのに、ひとたび彼女が踊れば、細かい雨粒がやわらかい風に舞い、辺りは光に包まれた。彼女が何か歌えと言うので、私はいつものように言葉を持たない歌を、ヴィルの永久の幸福を願い歌った」

 アルバートが読むのを聴きながら、レオナルドは絵を眺め、味わうように瞼を閉じる。リトゥムハウゼの愛が心に満ちていくようだった。穏やかな光が自分の心さえ掬ってくれるような気がして、レオナルドは静かに呼吸してから目を開けた。

「古語?」
「いや、リトゥムハウゼの故郷、シュヴェールの独特の字体と訛りで書かれているんだ」
「どうりで読みにくいわけだ。でも、素敵」
「シュヴェールの文字は利便性より芸術性に優れているからね。レオがあんなに読めるだなんて思わなかったよ」
「ふふふ。読みたいっていう気合で、なんとなく。ここは?」

 レオナルドは挿絵の脇に小さく書かれたメモのような部分を指差す。

「やがて彼女は小さき友らの手を取り、大きな輪を描いた。明日の輝きはここに在る。幸福の種はこうして芽吹くのだ」

 アルバートが読み終えると、レオナルドは「幸福の、種……」と呟いたきり何か考えこんでしまう。アルバートは彼の思考を邪魔しないように、音を立てずに一歩下がった。

 丸まった背中を眺めながら、アルバートは湧き上がる期待を抑えることに必死だった。レオナルドが熱心に勉強していたことは書庫の貸し出し記録や普段のレポートからも如実に表れていたが、こうして一対一で向き合うと、感性の鋭さや向け方といった努力だけではない部分の能力の高さも思い知る。レオナルドがどう感じ考えるのか知りたい。もっとさまざまなことを教え込みたい。迂闊に彼に高い水準の要求をしてしまいそうで、アルバートは強く自制した。

「あのね。『リトゥムハウゼは稀代の名君であった』、『その才に周りの者はどこまでも敬服し付き従っていた』ってどの書物も記しているけど、僕、ずっとモヤモヤしてたんだ。『女神ヴィルから治世の才を授けられたのだ』とか、『天賦の才をもつ者だから女神ヴィルに選ばれたのだ』とか、どんな書物もそんなことばっかりで。そりゃあ確かに才能はあったのかもしれないけどさ、だけど全部が才能じゃないじゃん。リトゥムハウゼはきっと、人並みに悩んで、迷って、恐れて、たくさんたくさん頑張ってたんだって。それを全部さ、才能って言葉でまとめられちゃうのってすごい悲しいっていうか、腹立たしいって思ってたんだ」

 予想していなかった視点からの意見にアルバートは心の中で驚いていたが、しかし表では「うん」と短く相槌を打つだけで、静かにレオナルドを待った。

「辛いこともあっただろうな。不安な時もあっただろうな。だけどきっと、周りの人たちには相談なんて出来なかったんだろうなって思ったら、僕は苦しくて。ヴィルは自由な神だから子どもたちと遊んでばかりいるし。リトゥムハウゼはすごい人だけど、彼の後ろを盲目に付き従うだけじゃなくて、誰か同じ景色をみてくれる人がいたらよかったのにって思ってた」

 建国から百三十年と、周辺諸国と比べても歴史の浅いこの国が他国の支配も受けず比較的穏和に民が生活できているのは、確かにリトゥムハウゼの功績が大きい。川や道などの街の整備、民の生活基盤の安定などに尽力し、的確な指示と強いリーダーシップのもとに国で起こるあらゆる問題を処理していったとされている。十八歳で建国し、それから五十年ばかり。国には宰相も大臣もいたが、リトゥムハウゼの見事な手腕の前に彼らは惹かれ、そして畏れ、進言も諫言もしないその様は、まるで幸福な首振り人形のようであったと表する者もいた。

 しかしそれは、この国において、そしてヴィルトゥム教において、リトゥムハウゼがいかに有能で素晴らしい人間であるかという逸話の内の一つである。民の多くはこうした逸話のもとにリトゥムハウゼを崇敬し、そんな王の造った国で生活することに喜びと誇りを抱いて生きている。リトゥムハウゼに憐れみを向ける者など、アルバートはレオナルドの他に知らなかった。

「でもね、それは今でも思うんだけどね。だけどこれを見て、リトゥムハウゼがどうして頑張れたのか分かった気がしたんだ。リトゥムハウゼはヴィルに、ヴィルと子どもたちにずっと、明るい未来を見ていたんだなって。ヴィルもずっと、リトゥムハウゼに未来を見せ続けていたんだなって。きっとそれは、何よりも確かな地図になっていたんだろうなって」

 レオナルドは描かれたヴィルの姿を指先でそっと撫でる。アルバートは彼の華奢な肩に手を置いて、
「そうだね。それに、もしかしたら国民一人一人が、ヴィルや子どもたちの姿に、同じように未来を見ていたのかもしれないね」
と答えた。その温もりにレオナルドは、うん、うん、と頷いて、「そうだったら、なんだか、とってもいいよね」と胸に手を当てた。

 レオナルドのヴィルトゥム教に対する価値観は、この国に生まれ育ったものとは少し違うとアルバートは感じていた。この国の民は、ヴィルもリトゥムハウゼも偉大な主として尊敬すべき存在で、我々を守り導いてくださる方だと認識している。レオナルドのように、彼らに心を寄せようとなどしないのだ。良くも悪くも、国民にとってヴィルとリトゥムハウゼはあまりに身近で当然の存在だった。

 レオナルドの故郷であるブルダムには、今も、彼が暮らしていた頃もヴィルトゥム教は無い。そうした環境で九歳まで生き、そしてこの国でヴィルトゥム教について熱心に学んだ彼だからこそ、異なる価値観で、新たな視点からこの宗教を捉えることが出来ているのだろう。無論、彼の繊細で柔らかい心と真面目な性格があってこそではあるが――。

 アルバートはレオナルドの肩に置いた手をそのまま首筋に滑らせて熱を測る。何事かと顔を上げるレオナルドの下まぶたを見、そして額同士を合わせ平熱だと確認すると、歌詞が書かれた紙を手に取った。

「ちなみに、六十八ある教歌の中で、この歌詞にしか出てこない表現があるのだけど、どこだか分かる?」

 アルバートが問うと、レオナルドは口をすぼめてじっと考えて、
「わが主よ?」
と上目で窺うように答えた。

「そう。そのとおり」

 アルバートはペンを手に取ると、レオナルドが書いた詩の「わが主よ」の部分を丸く囲う。

「ヴィルは友であることに強い拘りがあった。だから、神として崇められそうになると逃げ出したり悲しんだり、少しも対等でないと感じると傷ついていた様子は教典にも随所に出てくるよね」
「うん」
「それなのにリトゥムハウゼは、この詩でだけ、『わが主よ』と彼女を表現している。何故だと思う?」

 アルバートの質問が少し難しかったのか、レオナルドは「んーー」と唸ると首を捻って黙り込んだ。

「ヴィルは様々な場面で神の力を使っているよね? 例えば、何が思い浮かぶ?」
「大雨を降らせて川を氾濫させたり、乾いた土地に雨を恵んで美味しい野菜が食べられるようになったり。あと、雨の女神なのに、山をおこして噴火させて、川の形を変えてブルダムやシュヴェールと繋げたりとか」
「うん。そんな時、リトゥムハウゼはどんな反応だったかな」
「困ったり、叱ったり、喜んだり。……大きい力なのに、畏怖したりはしなかった」
「そうだね。一方で、この詩の時はどうだろう。レオがさっき挙げてくれたような場面に比べたら、神の力なんてほとんど使っていないようなものだよね?」
「でも、リトゥムハウゼは、ヴィルが神なんだって強く実感してる。藤棚の下でヴィルが子どもたちと遊ぶことなんて、珍しいことじゃないのに」

 眉を寄せるレオナルドの姿に、アルバートは静かに心を躍らせていた。この子ならば、こちらが模範解を示しても、それを受けてさらに新しく魅力的な彼らしい解答を見つけ出してくれるだろうという確信があった。

「神というのは、どういう存在なんだろうね。絶対的な、何か大きな力を持つ者? 人智を超えた能力を持つ者?」

 レオナルドと目を合わせて、アルバートは丁寧に言葉を続ける。

「そういう側面も勿論あるけれど、ヴィルとリトゥムハウゼにとっては、そればかりではないよね。レオが言っていた『確かな地図』っていうのは、本質をよく捉えたとても重要な視点だと私は思う。神がその身に纏う光は、人間にとって救いであり、支えであり、道標だ。どんなに暗い闇の中で俯いていても、残酷な運命に背を向けて抗おうとしていても、それでも私たちはその光に手を伸ばしてしまう。たとえヴィルにそのつもりがなかったのだとしても、行く道を示し続けてくれる存在というのは、リトゥムハウゼにとって大事な寄る辺だったんじゃないかな」

 アルバートの考えを受けて、レオナルドは歌詞に目を落とした。

「この詩は、ヴィルの光を描いてるから……。ヴィルの望むまま、友として隣にいようと決めたリトゥムハウゼも、この時ばかりはヴィルのもつ輝きに、ヴィルが神だってことを感じずにはいられなかったんだ」

 アルバートはその答えに反応を示そうとして、レオナルドが尚も思考に没していることに気づいてやめた。

「ヴィルは、自分の中のそういう部分には気づいてなかった? ……というより、ヴィルのもつ神のイメージが、特別な力を持つ人間とは違う存在というものでしかなかったのかな。だから、友でありたかった。神として見るよりも一人の友としてそばにいてくれるリトゥムハウゼや子どもたちは、ヴィルにとっての、光——? リトゥムハウゼにとってヴィルが心を預けられる存在だったように、ヴィルにとってもリトゥムハウゼはかけがえのない存在だったのかな」

 独り言のように呟いたレオナルドの目がまるで宝探しをする少年のようで、アルバートは彼をたまらなく愛おしく感じた。

「レオは巡行している歌劇を観たことはあったっけ?」
「ううん。アダムスに来た事ある?」
「ああー、レオがここへ来る前だったかもしれないね。アダムスは歌劇を上演するまでもなくヴィルトゥム教が身近だから、あまり回って来ないんだ」

 アルバートは本棚から一冊のパンフレットを取り出す。 

「それで、歌劇がどうしたの?」
「その歌劇の、一番最初に歌われるのがこの歌なんだよ。礼拝でいつも歌われる祈りの歌と並んで、ヴィルトゥム教の象徴のような歌として扱われているんだ」

 パンフレットを机に置いてそう言うと、
「この詩にそれだけヴィルトゥム教の核が表されているとなると、そうだよね」
と、レオナルドは表紙を見つめて答えた。

「歌劇、一度観てみたいかい?」
「うん。生きているうちに、一度くらいは」
「ふふ。いや、そんなに遠くはならないかもしれないよ。年内には君たち全員に観せたいと思っているんだ」

 アルバートの言葉にレオナルドは眉を上げて目を輝かせる。

「どうにか都合をつけるから、楽しみにしていてね」

 差し出された小指に、レオナルドはおずおずと指を絡ませた。

「アル、無理しないでね」

 思いがけず寄せられた自分を気遣う声にアルバートは目を丸くして、
「ありがとう。気にかけてくれて嬉しいよ」
と、笑ってレオナルドの頭を撫でた。

「それじゃあ、私はそろそろ講義の時間だから部屋を外すよ。鍵をかけていくから、誰が来ても開けないこと。返事もしなくていい。君は今、瞼を虫に刺されて傷心中ということになっているからね」
「ふふふ、そうだった」
「寝ていてもいいし、この部屋にある本を読んでいてもいいよ」

 アルバートがそう言うと、「これもいい?」とレオナルドは手記を手に取った。

「そう言うと思ったよ。紙と、あと、辞書はこれを使うといい」
「ありがとう」

 辞書を受けとると、レオナルドは早速手記を最初のページまで遡る。

「帰りに君の部屋に寄って来ることもできるけど、何か欲しいものはある?」
「んー、いいかな。アルの部屋にあるものの方が面白そうだから」
「わかった。それじゃあ、いい子にしているんだよ。行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」

 既にすっかり手記と辞書に夢中のレオナルドに苦笑しつつ、アルバートは部屋を出て鍵を閉めた。
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