雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

15.

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 三日後の早朝。部屋には、シャッキリと背筋を伸ばしてベッドに腰かけるレオナルドと、彼の手を握りながらしゃがみこむアルバートの姿があった。

「いいかい。この部屋を出たら、もう後は湖に行く時以外は私と君は先生と学徒だ」
「大丈夫です、アルバート先生」

 ハキハキと答えるレオナルドに、アルバートは
「そう胸を張らないでくれ。私の方が大丈夫じゃないよ」
と腰を上げ、彼の肩に顔を埋もれるようにして抱きしめた。

「ここを出たら、人と会ったら、話をしたら、きっと君は無理をして笑顔を作って、いつものレオナルドとして頑張るだろう。その無理は決して悪いことではないし、誤魔化している自分を恥じたり嫌いになったりする必要もない。だけど、君の心や体には大きな負荷となることも事実だ。分かるね?」

 耳を擽るアルバートの声に首を竦めたくなりながら、レオナルドは「はい」と頷く。

「だから、どんな些細な感情でもいい。少しでも心が揺れたら、すぐに私に合図しなさい。それが約束できないなら、私は君をこの部屋から出したくない」

 自分を優しく抱くその声にたまらなく切なさを感じて、レオナルドはアルバートの肩を持って距離を取った。

「約束します。キュッてなったら、すぐこうする」

 目を合わせて、右手で左の頬を掻いて見せれば、
「うん。約束だよ」
と、アルバートはその手を取って小指を絡ませた。

「お願いだから、すぐに私を呼んでね」

 指を切る。温もりが離れる瞬間にこぼれたアルバートの呟きに、レオナルドは黙って頷く。

「それにね、大丈夫。今日は、金曜日だから」

 レオナルドが小首を傾げてみせると、アルバートは顔に手を当てて、まるで目を隠すようにして笑った。一頻り笑い終えると、二人は、ふう、と一息ついて肩の力を抜く。

「それではレオナルド。朝食を食べに行きましょうか」

 アルバートの顔が生真面目な、どこか距離を感じる「先生」としての顔になる。

「はい!」

 レオナルドは明るく返事をした。本当は自分の心がまだ、弱い風が吹くだけでガタガタと崩れてしまうくらいに弱いままだと分かっていた。分かっていて、それでも今日、部屋を出なければ、もうずっとこの居心地の良い場所から抜け出せないと感じていた。

 この部屋で、アルバートに溶けるほど甘やかされて、辞書を片手に手記を読み解く一日は幸福だった。二日目も、三日目も、幸福という言葉では足りないほどに幸福だった。その幸福を噛みしめれば噛みしめるだけ、情けなさが後から滲んできた。一人でいる間、胸の奥で暴れる焦燥に似た何かは、アルバートの声を聴くと途端に消えていく。手を握られればそれだけで、揺りかごの中にいるような心地だった。温かくて、どんな傷も癒されていくような気がして、それがレオナルドは怖かった。傷を持つのが自分だけではないと知っているから、自分の傷だけが癒えていくことが怖かった。

 アルバートがドアを開ける。グッと胃のあたりに力をこめれば怯える心を強くできるような気がして、レオナルドは息を小さく止めた。

 部屋の内でドアを押さえたまま、アルバートはレオナルドが踏み出すのを待っている。

(ちょっと待ってね、ちょっとだけ……)

 レオナルドは心の内で話しかけ、それから、ふぅ、と息を吐く。大丈夫。行ける。薄っぺらい鼓舞は、それでも確かにレオナルドの背中を押した。

 人影のない廊下は、静かなのにざわめいている。並ぶ幾つものドアの向こうから、それぞれに物音が漏れ聞こえていた。

 キキィ

 右耳に軋む音が聞こえて二人が振り向くと、「おや」と間の抜けた声がした。

「レオナルド! 良かった、もう平気なんだね」
「ルカ先生……。おはようございます」

 気まずく笑って挨拶をする。思いの外緊張していない自分に、レオナルドは若干の戸惑いを覚えていた。

「うん、おはよう。心配していたんだよ、何度頼んでもアルバートったら部屋に入れてくれないんだから」

 ルカはあからさまに拗ねてそう言って、それからレオナルドの頬に両手を添えるとグイと顔を持ち上げた。レオナルドは爪先立ちになってよろける。

「ああ、良かった。跡にはなっていないんだね。本当に良かった。こんな美しい顔に痣でも出来たらもう、いや、痣の一つ二つあってもレオナルドはきっと美人だろうけれどもさ」

 ムニムニと頬を揉むルカの指が力強く痛くて、レオナルドは思わず笑いを溢した。

「ルカ、そろそろ止めてやってくれますか。レオナルドの顔が蒟蒻になる」

 アルバートが制するようにルカの腕を掴む。

「おやまあ、ごめんよ。興奮してしまって」

 ルカがそっと手を離すと、レオナルドは視界を確かめるように目を開けたり閉じたりした。

「朝食だろう? 一緒に行こう。今日はとうもろこしのポタージュスープだよ」

 促すように背に手を回されて、レオナルドはアルバートの顔をちらりと見てから歩き始めた。

 ルカの声を聞いて、心が苦しいのは変わらない。それでも、隣にアルバートがいる。寄りかかる場所がある。そう分かっているだけで、随分と心が広がった気がした。苦しいけれど息ができる。立っていられる。歩いて行ける。

 三人で薄暗い廊下を進む。ルカの要領を得ない話にアルバートが逐一突っ込むのを聞きながら、やがて突き当たりに集まる学友らが見えた。彼らは三人の姿が見えるや否や駆け寄ってきて、口々に「大丈夫?」と言ってはレオナルドを取り囲んだ。

「僕のこと、見える?」
「見えるよ、大丈夫。ごめんね、心配かけて」

 レオナルドは何度も「ごめん」と謝って、泣きそうな顔をしたマシューの頭を撫でた。

「ほんとだよ、レオナルドったら変なところでうっかりさんなんだから」
「この時期に窓開けて寝るなんてさあ」

 ダレンとマルコがレオナルドの両脇からえいえいと小突く。

「僕たち、畑で採った野菜でスープ作ったの、飲んでくれた?」
「うん、飲んだよ。とっても美味しかった。ありがとう」

 微笑んだのは、決して無理をしてではなかった。嘘をついているのは心苦しかったが、皆が心配してくれているのが、レオナルドにはどうしようもなく嬉しかった。

「ほら、みんな、レオナルドは病み上がりなんだからその辺で。早めに食堂に行ってレオナルドの朝ごはん準備してあげたら?」

 ルイの言葉に、彼らは我先にと食堂へ駆け出していく。

「え、ああ、いいのに。ルイ、ごめん、気を遣わせて」
「違う違う。ノアのためだから。レオナルドが謝ることじゃない」

 ルイはひらひらと手を振ると、ルカにキッと焦点を合わせてにっこりとした。

「ところでルカ先生、ちょっとお付き合い願えますか」
「え、僕?」
「あなたです。さあ、話は道すがら。行きましょう、行きましょう」

 強引にルイがルカを連れていくのを呆気にとられて眺めていると、レオナルドの目の前に、ズイ、とノアの顔が現れた。

「レオナルド」

 ムスッと顔をしかめて、ノアはレオナルドを睨みつける。

「馬鹿。阿呆。……ああもう、普段悪口を言い慣れてないと、こういう時に困るんだよな」

 ノアが乱暴に頭を掻く。むしゃくしゃした気持ちがビンビンと伝わってきて、
「ノア。なんだか、ごめんね」
とレオナルドが謝ると、今度は呆れたようにため息をつかれた。

「あのね。何度も言うけど、僕はレオナルドが好きだよ。どんなレオナルドだって好きなんだよ。だから、シェーベルの悪口言ったり、ルカ先生を無視したりしたっていいよ。僕はずっとレオナルドが好きなんだから」

 怒られながら何度も好きだよと言われて、レオナルドはどんな顔をしていいのか分からなかった。どちらも愛であることに変わりないことだけは、体の内側が熱くなってくることではっきりと感じていた。

「それとも何。僕一人に好かれてるだけじゃ満足できない?」

 責めるように訊かれてレオナルドは首を何度も横に振る。

「いや、えっと、ノアに好きって言われてすごく嬉しいけど」
「じゃあそれでいいでしょ。ぶっ倒れるまで聖人君子でいる必要ないんだよ。いくらルカ先生が好きだからってさ、そんな所まで真似しなくっていいでしょ。ったくもう、そういう所が馬鹿なんだよ、レオナルドって」

 拳で肩を軽く殴られて、「ごめん」とレオナルドが俯くと、
「謝ってほしいわけじゃない。これからどうするのか教えて。そこの人とも話はしたんでしょ?」
と、ノアはアルバートを顎で指した。

「うん。あの……」

 どこまで言っていいものかレオナルドが口ごもると、アルバートが左肩に手を置いた。

「週に一度、二人だけで話をするように決めましたね。その日以外にも、何かあったらすぐに私に知らせるように約束していますよ」

 会話を引き継いだアルバートにノアは目を遣ると、対抗するように、空いているレオナルドの右肩に腕を乗せる。

「先生も、少しでもおかしいと思ったらすぐに呼びつけてくださいよ。レオナルドはいっつも、自分のことは後回しだから」
「分かっています。ノア。君も、私の目の届かない場所ではレオナルドを頼みましたよ」
「言われなくても。レオナルドから来てくれるのを待ってたって苛々するだけだって分かりましたから」

 体重をかけてくるノアに負けながら、レオナルドは
「先生、ノアに私のこと……」
とアルバートに顔を向けた。

「聞いてないよ。聞かなくたって分かる。レオナルドが窓を開けたまま寝るわけないでしょ、真夏だって窓閉め切って寝てる人なのに」
「あ……」

 一瞬固まったレオナルドに、ノアは「はぁ……」と息を溢して、向かい合うように真正面に回る。

 パチン! 

 音が鳴るだけ強くレオナルドの頬を挟むと、
「誰にも言ってないから。ルイは察してるだろうけど。他の皆は虫刺されだって信じ込んでるから、頑張るって決めて部屋を出てきたんなら、自分を大切にすることだけ考えて」
と、ノアは強い眼差しを彼に向けた。

「僕たちはさ、レオナルドが普通に僕たちのそばにいて、勉強して、歌って、ご飯を美味しいって食べてくれてればそれだけで良いんだよ。世話焼いてくれなくても、無理に笑ってくれなくても、レオナルドが今までずっと、僕たちに優しくしてくれてたの知ってるから。大丈夫だから。レオナルドにしてみたら僕たちなんてほんの子どもに見えるかもしれないけどさ、それでも出会った頃よりずっと、大人に近づいてるんだからね」

 投げられた温かい言葉にレオナルドは頷きながら、伸ばされた腕の逞しさを感じていた。 四つも年下の目の前の彼は、いつからこんなに大きくなっていたのだろう。いつまでも出会った頃の頼りなげな、小さな愛らしい子どもではないということに今更気がつくなんて。

「ああ、やだやだ。言葉にするのって体力使うから嫌いなんだよね」

 レオナルドから手を離してそっぽを向くノアに、
「ありがとう。ノア」
とアルバートが頭を撫でた。

「本当に好きだよね、人のこと撫でるの。まだその癖、治ってないんですか」
「治るものじゃないですしね。ノアも、何かあったらすぐに私を頼りなさい」
「はいはい、僕もそうするから。レオナルドも、ちゃんと頼って甘えること。そこの大人のこと、僕、これでも結構信用してるんだからさ」

 文句を言いながら、ノアはその手から逃げようともせず撫でられたままでいる。

「ノアと先生って、何かあったの?」
「昔ね。それより今は朝ごはんだよ。もう皆、きっと待ちくたびれてる」

 ノアはそう言うと、レオナルドの手を引いて食堂に向かう。よろけ、つっかえながら歩いていくレオナルドの後ろを、アルバートはゆっくりとついていった。
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