雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

16.

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「これがね、一昨日の分。こっちが昨日の分だからね」

 消灯前の自由時間に、ダレンはレオナルドの部屋を訪れていた。手渡した二枚綴りの紙を指差して細かに説明していく。

「うん、ありがとう。助かるよ」
「いいのいいの。いっつも助けてもらってるから、お返し」

 気の良い顔をしてダレンは親指を立ててみせる。

「窓、閉めた?」
「うん。バッチリ」

 レオナルドが振り向いてもう一度確認すると、
「じゃあ、はい!」
と、ダレンは大きく腕を広げた。

「うん?」
「もう! こうでしょ!」

 ガバッと抱きついてきた彼があまりに屈託のない笑顔を浮かべていたから、レオナルドも気が抜けて釣られて笑った。

「くふふ。レオナルド、あったかいねえ」
「ダレンも、温かいよ」

 キュッと強く抱きしめてみれば、伝わってくる体温がくすぐったい。

「あのね、僕ね、大したことはできないけど、こうしてギュってすることはできるから。窓閉め忘れる、みたいなうっかりミスしちゃうほど、いっぱいいっぱいになっちゃう前に、僕のこと、人形だと思って抱きしめてくれていいからね」

 胸に顔を押し当てるダレンの言葉に、レオナルドは思わず腕の力が抜けた。

 そんなに心配させるほど、余裕がないとバレていただろうか。心掛けていた「いつも通り」は何の意味もないただの自己満足で、結局は全然いつも通りになんて出来ていなかったのだろうか。後ろ向きな考えばかりがレオナルドの頭の中を巡っては消えずに積み重なっていく。

「ダレン。僕、うっかりするのって、そんなに珍しいかな?」

 恐々とレオナルドが尋ねると、ダレンは「珍しいよ!」とムキになって顔を上げた。

「いや、珍しいっていうか、一大事だよ。僕らが知ってるレオナルドって、なんかもう、完璧だからさ? 憧れっていうか、キラキラっていうか。勉強も歌も頑張ってて、もう、めちゃくちゃ凄い人なのに、優しいし美人だし」
「そう、見えてたの?」
「そうだよ。だからね、レオナルドが虫に顔刺されたって聞いた時ね、大丈夫かな? って思ったんだけど、ちょっとね、あのー。レオナルドって、人間だったんだなあ、って思ったよ」

 不思議な顔をして真面目に言い放つダレンに、レオナルドは呆気にとられ、それから唐突に笑いが込み上げてきた。

「ふふふ。ハハハ、なにそれ。人間だよ、僕」
「ふふ。そうだよ、知ってるんだけどね、そう思ったんだよ。ちょっと安心したよ。あ、人間だ、って」
「アハハハハ! そうだったんだ」

 スコーン! と小気味いい音が聞こえるほど、心に圧し掛かっていた荷物が何処かへ打ち払われたような気分だった。大口を開けて笑ったのはいつぶりだろうか。レオナルドは口元に手を翳しながら、なんだか酷く可笑しくてなかなか笑い収めることが出来ずにいた。

 ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン ……

 消灯の鐘が鳴る。二人はハッと目を見合わせて、シー、と口に手を当てた。

「じゃあね! また明日。おやすみ!」
「うん。また明日。おやすみ」

 小声で挨拶を交わし、ダレンは自室へ戻っていく。彼の背が部屋の内へ入っていったのを確認して、レオナルドもドアを閉めた。

(人間だったんだ、か)

 ランプも点いていない暗い部屋に一人になっても、暫くレオナルドはクスクスと笑いが止まらなかった。レオナルドの中に巣くう重たい靄を豪快になぎ払ったダレンの言葉は、突拍子もない割に的を射ていると感じていた。

 ルカの助手になるために、そして、なった後のために、レオナルドは自分が出来る完璧を演じていたように思う。それが最善だと信じていたし、今でもその認識は変わらないけれど、追い求めた完璧は、一方で人間離れを感じさせていたのかもしれなかった。

 窓の外に風はなく、月光は静かに橋を架けている。レオナルドは窓際の椅子に座ると、薄く埃を被った窓の桟に息を吹き掛けた。

 光が揺れて見えるのは心が陰っているせいか。何を思うでもなく、レオナルドは外を眺めていた。

 ギッ、と音がして入り口を振り向くと、人影が部屋に入ってドアを閉めた。手の運び、足の捌きからその影がアルバートだということはすぐに分かったが、レオナルドは立ち上がったままそこを動かなかった。アルバートは何も言わずにクローゼットを開けると、一番端に掛けられた厚い外套を手に取った。

「冷えるから外套を着て。靴は裏口に用意しておいたから、音を立てずに一人で行ける?」

 レオナルドの肩に外套を掛け、アルバートは目を合わせて訊ねる。レオナルドが声もなく頷くと、アルバートは
「私もすぐに行く。外に出ずに待っていて」
と、耳元で囁いてレオナルドの髪を遊ぶように撫でた。
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