雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

17.

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 風の無い夜に虫達は静かで、湖面に映る月は寂しげにその身を欠いている。

「どうだった? 一日、過ごしてみて」

 二人は先日と同じように湖畔に並び座っていた。アルバートの声が柔らかく、穏やかに何の期待も持たないから、レオナルドは何に寄り掛かるでもなく一人でシャンと座っていた。

「思ったより、平気だった、みたい。やっぱり、ルカ先生と話をすると苦しくて、寂しくて、シェーベルを見掛けるとグッてなるけど。でも、それより今日は、皆がずっと温かかったから」

 レオナルドは胸に当てた手で拳を作ると、肩の力を抜いて嬉しげにはにかんだ。

「なんか、さ。皆、僕の事、思ってる以上に良く見てくれてるんだなって思ったんだ。ノアも、そうだしさ。……ふふ、ダレンがね、僕の事、人間だったんだなって思ったって」
「ん?」
「僕、人間じゃないって思われてたみたい。ダレンの目にはさ、僕、キラキラに見えてたんだって。完璧だって思ってた僕が、窓の閉め忘れなんてうっかりミスするなんて、一大事なんだって。だから、心配もしたけど、ほんとはちょっと安心したって言ってた」
「レオが自分と同じ人間だって分かったから?」
「うん。そうみたい」

 二人の笑い声が水面の煌めきに溶けていく。昨夜までの事を思えば、今こうして笑いあえて良かったと、アルバートは細やかな幸福を甘受していた。

 一頻り笑い終えると、レオナルドは、ふぅ、と息を整える。

「いつまでも、ルカ先生にしがみついてるわけにはいかないね。普通の人間って、どうやったらいいのか分かんないけどさ。もう皆、僕がどうこう頑張るほど子どもじゃないし。今までずっと、きっと進むべき道から逸れた方向にずっと意固地に進んできちゃったからさ。早く新しく何か夢でも目標でも見つけて、方向変えて進み直さなきゃ」

 投げやりでも諦めでもなく、かといって確固たる意思を感じるわけでもないレオナルドの声に、アルバートは相槌を打てなかった。

 レオナルドが浮かべている笑みは、決して偽りのものではない。彼は彼なりに、今日、友らと話し、多くの事を感じたのだろう。優しさも温もりも、心配される気恥ずかしさと嬉しさも、そして沸き上がる不安――。

 自分の知っている自分と、周りの目に映る自分との乖離。これまでの自分の行動や認識の間違い。それらに面と向き合ったことで、レオナルドは、早く正しい道に戻らなければならないと焦っている。

「レオ。私は、それは違うと思う」

 笑顔の消えたアルバートの真剣な声に、レオナルドは寸の間硬直し、それから悲しく顔を背けた。

「レオは、ちゃんと前に進んできたよ。一つずつ、自分に出来ることを探して、身につけて、そうやってしっかり歩いてきたんでしょう? たとえ目指した場所にゴールテープが無かったからって、歩いてきた道は間違いなんかじゃない。だから、焦って夢を見つけようとしなくていいし、ハンドルを切り返す必要もないんだよ」

 丸まった背を見つめて、アルバートは丁寧に諭す。かじかんだ小さな手を握ってやりたくなるのを堪えて、彼はレオナルドの言葉を待った。

「間違い、だよ。だって、何もかも、全部その夢のためだけに頑張ってきたんだよ。たとえ今まで頑張ってきたことが他の何かに活かせたって、何の意味もないんだ。皆が良いって言ったって、僕は何も良くない。無価値だよ。虚しいだけだよ。それくらい、僕、本気だったんだ……」

 レオナルドは固く目を瞑って声を絞り出す。握りしめた拳が震えている。

「それに、僕、どうしたら良いのさ。もう七年も、一つの夢だけ追いかけて生きてきちゃったんだもん。ルカ先生の助手にはなれないし、皆を纏めるのだって僕はたいして必要ないし、アルは新しい夢なんていらないって言うし。どうしたらいいの? 夢を追いかけないで、どうやって生きていったらいいのか分かんないよ」

 弱気な声を掻き消すように、一筋の風が吹きすぎた。冷たさはレオナルドの鼻を刺し、小さく開けた瞼の隙間から瞳を覆う涙を浚っていった。

「レオ。今日のレオの良かった所はね。さっき、ちゃんと言いつけを守って外に出ないで待っていたところ」

 唐突な褒め言葉にレオナルドは「な、なに」と怪訝な目を向けたが、それを気にも留めずにアルバートは言葉を続ける。

「それから、部屋から出ようって自分で決めて、そしてちゃんと自分一人で出られたこと。ルカに挨拶ができたこと。自分より年少のノアやダレンの話をしっかり聞いて、そして覚えていたこと。そして、これはいつもそうだけれど、講義の時、私の話をきちんと聞いて、メモを取っていたのも偉かったよ」

 レオナルドはアルバートが何を考えているのか分からず、素直に言葉を受け入れることが出来ないでいた。

「反対に、今日のレオの良くなかった所は、どんな所だと思う?」

 アルバートの問いに、レオナルドは「え……」と口ごもる。アルバートは答えを待たず、
「レオは、今のレオのこと、どれだけ知ってる? どのくらいちゃんと見えてる?」
と、努めて優しく問い掛けた。

 アルバートはレオナルドの両手を取ると、彼の腿にそっと下ろして包み込む。レオナルドの視線はその手の行方を追って、それから心細そうにアルバートの両目に戻った。

「レオはね、頑張るのが得意だから、未来に夢を見たら、きっとそこに向かって一生懸命にがむしゃらに頑張ってしまうでしょう? それはとっても素敵なことだし、誰にでも出来ることじゃない。そういう生き方が出来るんだってことを、誇っていいよ」

 レオナルドがキュッと縮む心を守ろうと手を胸に当てようとして、アルバートはそれを許さなかった。アルバートの手が温かいから、褒められていても叱られている最中だと分かってレオナルドは首を竦めた。

「でもね、今のレオは、レオの心は、元気一杯なの? 脇目も振らずに頑張れるほど、レオは元気なの?」

 レオナルドが目を伏せて首を横に振る。

「違うよね。ちゃんと分かってるよね。元気がないのに走ろうとしたら、ゴールにつく前に倒れちゃうんじゃない?」

 頷いたまま顔を上げないレオナルドの頬に、アルバートは右手を添えて優しく目を合わせる。

「だからね。今は、休憩しよう。ゆっくり、今のレオはどんな調子かなって、自分と向き合う時間。今、こんなことを感じているよ。そういえば昔、こんなことを考えていたよ。って、そうやって一つずつ、今のレオを作る欠片を拾っていく時間にしようよ」

 アルバートの提案に、レオナルドは素直に頷くことが出来なかった。アルバートの言うことが正しいと頭では分かっているのに、どうにも気持ちがついていかない。嫌だと言いたい。顔を背けたい。言うことを聞きたくない。

「だけど僕、どうしたらいいの。真面目に勉強してた僕も、歌ってた僕も、皆に優しくしてた僕も、全部ぜんぶ夢を追いかけてた作り物だよ。ほんとの僕なんて、どこにいるか分かんないよ」

 痰の絡んだ声で、レオナルドは泣きそうに言葉を投げ捨てる。

「うん。だから、それを探すんだ」
「探すって何処を? ほんとの僕なんて、もう何処にもいないかもしれないじゃん」
「いるよ。レオの中に必ず」
「何で分かるの」

 アルバートが答えを教えずにいると、レオナルドはキッと彼を睨んで胸ぐらを掴む。

「分かるなら教えてよ! グッて引っ張ってきて、僕の目の前に見せてよ!」

 叫んだ声が耳に痛かった。怖くて仕方なくて、迷子のふりをして虚勢を張った。本物だ、作り物だと、そんな言葉で誤魔化そうとしたのに、アルバートは何もかも受け入れて逃げ道を塞いでしまった。静かで真っすぐな目が痛い。動じない信頼が苦しい。

「自分で見つけろって言うんでしょ。分かってるよ、僕、馬鹿じゃないもん。でも、いやだ。やだやだやだやだやだ!」

 駄々っ子のようにポカポカと胸を叩いてくるレオナルドの拳を、アルバートは止めなかった。一打一打そこそこに重さはあったものの、次第に力は弱まり、やがてレオナルドは頭を垂れた。

 背中を上下させるほど荒かった息が落ち着いてから、アルバートはレオナルドを胡座を崩して抱きしめてやる。

「ノアが言っていたでしょう? そばにいて、勉強して、歌って、ご飯を美味しく食べてくれればそれでいいって。今は何も考えずに、そういう日々を繰り返していけばいい」

 我儘を言い切ったせいか、それとも抱きしめられているお陰か、レオナルドの心は強張りが解け、落ち着いてアルバートの言葉を受け入れた。

「誰かを妬んだり、悲しんだり、悔んだり。そういう気持ちをきちんと見つめてあげたら、きっと見えてくるはずだよ」

 肩口に埋めるレオナルドの顔に、アルバートは寄り添うように頭を寄せる。首筋や頬に刺さる細い髪を撫でつける。

「嬉しいと、楽しいは?」
「それも。色んな感情を、きちんと味わってごらん」

 宥めるように、労わるように、強すぎる日差しに傘を翳すようにアルバートは声をかける。

「君が、君のために生きられるように」

 それが、ヴィルトゥム教の大事にする「己が為に生きる」ということだとレオナルドはすぐに分かった。利己的だとばかり思っていたその価値観が、今は少し違う意味を持つように見える。

「ヴィルも、リトゥムハウゼも。君がそう生きてくれる方が喜ぶと思うよ」

 そう言うと、アルバートは肩から下げた小さな鞄の中から一冊の本を取り出す。

「それ……!」

 目の端でその本を捉えたレオナルドが一気に目を輝かせて背筋を伸ばす。

「レオ、読みたいかなあ、と思って持ってきたよ」
「読む! 嬉しい!」

 アルバートの手にあるリトゥムハウゼの手記をレオナルドは食い入るように見つめるが、アルバートは一旦それを自身の背に隠した。

「レオ。ちゃんと、自分と向き合える?」

 答えなければこれは見せられないと、餌で釣るような自分の態度にアルバートは些かの嫌悪感を抱いたが、レオナルドが口を引き結んで真面目に頷くから言葉を続けた。

「何か新しい夢が見えても、一旦保留だよ。きっと、レオにとっては夢を追いかける方が簡単だと思う。本当に出来る?」

 レオナルドはもう一度ゆっくりと自分自身に言い聞かせるように頷くと、「頑張る」と呟いた。

「うん。一緒に頑張ろうね。そうしたら、ここで会う時は、毎回これを持ってきて、読み聞かせてあげる」

 レオナルドの前に手記を示して微笑んで見せると、今度ははにかんで何度も何度も頷く。

「だから、この間決めた合図も、ちゃんと使うんだよ」

 アルバートの言葉にレオナルドは右手で左の頬を掻いて見せると、「うん!」と高い声で返事をして体の向きを反転させた。アルバートの胸にぴったりと背を預けると、レオナルドは伸ばした自分の太ももをドンドンと叩いて催促する。

「ここでいいの?」
「ここがいいの! ねえ、早く!」

 思い切り甘えるレオナルドに、アルバートは思わず顔を綻ばせて手記を開く。レオナルドが手記にランタンの光を翳すと、秋の静かな森に滑らかな声が朗々と聞こえた。
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