雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

19.

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 その月の終わり。ヴィルトゥム教アダムス地区教会の学徒全員とアルバートは、揃って街の広場にいた。彼らが普段奉仕活動を行っているステージには大掛かりな舞台装置が組まれ、その物珍しい重厚さに、住民の多くが地面に布を敷いて、幕が開くのを今か今かと心待ちにしていた。

 客席の最後列に、学徒らは行儀よく並んで座っている。

「歌劇、どんななのかな?」
「楽しみだね」

 レオナルドはマシューと手を繋いでソワソワと落ち着きなく舞台を見つめていた。

 冷たい風が吹いて、ブルリと体が震えた。あいにくの曇天。広場の脇には、商魂逞しく様々な屋台が並んでいる。

「うわぁ! ありがとうございます!」

 華やいだ声が聞こえて目をやれば、アルバートが何か飲み物を手渡していっているのが見えた。

「あったかい!」
「ホットミルクです。今日は冷えますから」
「ありがとうございます!」
「溢さないように気をつけなさい」

 笑顔を見せずに淡々と配っていくアルバートの姿に、レオナルドは昨日の講義で彼が言っていたことを思い出した。

『年が明けると、我が国は建国百三十年を迎えますね。それに合わせて、ヴィルトゥム教会としても、十年に一度、学徒らによる歌劇を催して建国を祝しています。出演者の選抜試験には国中の学徒らが必ず参加しなければならないため、皆さんにとっても他人事ではありません。明日観に行く歌劇は大人達による布教のための劇ですが、参考となるのでよく観ておくように』

 試験のため、というのが、はしゃぎすぎないように釘を刺しただけだということは、学徒全員が分かっていた。各地の教会の活動の成果か、国中の学徒は今、ゆうに六百人を越えている。その中の上位たった数名になんて、とても選ばれるはずがなかった。

「僕らみたいな田舎の学徒が試験に通るとは思わないけど、その試験があるおかげでこうして歌劇が観られるんだからありがたいよね」

 ルイが言うと、
「本当に。よほどの理由がないとこちらへ派遣してもらえませんから。貴方達は幸運ですよ」
と、アルバートがため息混じりに返す。

「本当に、観せてあげられてよかった」
「そんなに面白いんですか」
「終演後の貴方達の反応が楽しみです。さ、そろそろ始まりますよ」

 アルバートが自席に帰っていく。彼の背を見ながら、「なんだか先生、今日はご機嫌だね」とダレンが囁いて、レオナルドとマシューは三人でクスクスと笑いあった。

 どこかから合唱が聞こえてくる。ざわざわとしていた観客が、波が引くように静まりかえる。

(本当に、この歌から始まるんだ……)

 教歌三番。かつてアルバートの部屋で初めてリトゥムハウゼの手記を見せて貰った時に深く学んだ歌だ。ヴィルトゥムの歌劇はいつもこの歌から始まるというアルバートの言葉を疑っていたわけではなかったが、レオナルドは本当だったんだと目を輝かせた。

 歌が終わると、舞台上に溌剌とにこやかな青年が現れる。

「アダムスの皆さま、こんにちは! こうしてよく晴れた日に、皆さまとお会いできたことを、大変嬉しく思います。とはいえ今日も寒いですね! どうぞ、お近づきの印に、ホットミルクでも飲みながら、我々の歌劇で心をお暖めいただけたらと思います」

 青年の豊かな表情と愛嬌ある大袈裟な仕草に観客は大きな拍手を送った。青年は深く一礼して、息を吸う。表情が、僅かに変わった。

「昔むかしの話でございます。さる大陸の南側には、それはそれは大きな川が流れておりました。世界の龍と呼ばれるその川は、背に瘤のような、緑豊かな島を持っています。大陸の国々や川の向こう側の国々は、挙ってこの川中島を自国の領地にしようと企んでおりました」

 青年はもうすっかり語り部としての声色で、一気に観客を物語へ引き込んでいった。

「ある国は、揚々と兵を船に乗せて行きました。突風が吹いて、船は皆ひっくり返ってしまいました」

 甲冑を身に着けた男達が「おー!」と野太い声をあげて船に乗り、船を漕ぐ。強い風の音が聞こえて川が大きくうねり、男達は「うわあああ!」と叫びながら流れていく。そのさまが見事なほど無様で、客席から笑いが起きた。

「ある国は、国中の木々を伐採して橋を架けようとしました。嵐が来て、全て流れさってしまいました」

 木こり姿の男達が何本もの丸太を担いで来ては組み立てていく。轟轟と、風の鳴く音か川の唸る音か、舞台上の何もかもが激しく揺れて、荒々しい川の流れは建設途中の橋をバキバキと壊してしまう。やがて波が収まると、島の上には小鳥が数羽飛び交いだした。

「ある国は、報奨金をたんまり出すと触れを出し、泳ぎ自慢を向かわせました。川の流れに邪魔されて、全く辿り着けませんでした」

 水着姿の三人の男が、川辺でポーズを決めたあと、華麗に川に飛び込んで泳いでいく。泳いでも、泳いでも、まったく島に近づけず、やがて哀れに流れていった。

「どれだけ知恵を尽くしても、武力を、金を尽くしても、どの国も川中島へは渡ることが出来ません。多くの犠牲が川下へ流れていきます。しかしそれでも、どの国も『あの島が欲しい』と譲りませんでした」

 語り部が困ったように首を横に振る。

「ある日、川の畔に一人の少年が立ちました。彼もまた、どうしてもあの島へ行きたいと願う一人でした。彼はある噂を聞いたのです。川を流されていくとき、若い女の歌声を聴いた、と」

 舞台に凛々しく登場した少年は、川に小さな舟を浮かべる。パン! と頬を叩き意を決して乗り込むと、グラグラと舟を漕ぎながら、少年は歌い始めた。


  川中島のまだ見ぬ乙女
  鳥や木々 草花と共に生きる乙女よ
  風や雨 空と共に生きる乙女よ
  この世に一人 麗しの君
  川中島のまだ見ぬ乙女

「少年が川の中ほどまで来ると、風が強く吹いてきました。唸るような風に少年は櫂を懸命にあやつります」

 風の音がする。波が大きくうねっている。

「いる! いる! 絶対にいる! 目を凝らせ。耳を澄ませろ。落ち着け、落ち着け……!」

 少年はグイグイと舟を漕ぎながら、力強く空を見上げる。

「やがてシトシトと雨が降ってきました。舟はグワングワンと大きく揺れますが、少年は決して諦めません」

 どんな絡繰りなのか、ステージ上に本当に雨が降り出したように見える。少年が額を拭う。息遣いが、波の音が、風の音が、耳のすぐそばで聞こえてくるようだった。

「見つけた!」

 少年が叫ぶと、舟は遂に転覆した。溺れながら、少年は必死に空へ手を伸ばす。

「乙女! 乙女! 僕は君に会いに来たんだ! 話がしたい!」

 切実な、しかし確かに希望の色を持った叫びに、息をするのも躊躇われる。

「少年の見つめる先には、藤色の羽衣を纏った少女が、空に浮いていました。雲をなぞるように、空を翔る鳥のように、少女は舞いながら何かを歌っています」

 ステージの右側、靄が晴れて、少女の姿が現れる。優雅に舞っている。途切れ途切れに、美しい歌声が聞こえてくる。

「君と、友達になりたいんだ!」

 少年が声の限りを尽くして訴えると、少女はピタリと舞うのを止め、それから静かに少年の前へ下りてくる。波が次第に凪いでいく。雨は穏やかに降り続いている。

 少女は少年の手を取ると、彼の前の川を割き、川中島へ続く道を作った。

「私はシュヴェールの王子、リトゥムハウゼ。怖がらせてごめん。君と友達になりたくて来たんだ。嘘じゃないよ」

 ずぶ濡れの少年が真剣な目をして言う。

「私はヴィル。ずっと、友達を探してた」

 はにかんだ少女はあまりに綺麗だった。

「行こう」

 少女が少年の手を引く。少年の後ろから、川の流れが戻っていく。

「私の島。案内する」

 少女はそう言って、少年と手を繋いだまま客席へ下りてきた。間近で見るその美しさに観客が思わず「キャー!」と黄色い声を上げる。

「この子達は?」

 少年が尋ねる。

「たらいに入って流れてきたのを拾った。私の子。友だち」

 少女は丁度目の前にいた観客に、「ね?」と微笑みかける。「は、は、はい!!」と動揺して男性が立ち上がると、観客らに大きな笑いが起きた。少女は男性の手を取ると、礼を捧げて祝福する。蕩けてしまった男性に少年は「ありがとう」と小さく言うと、肩を支えて着席させた。

 レオナルドも笑いながら、舞台上の場面を転換する間にこうして観客を巻き込んで話を進めていくのかと感心していた。

 教典によれば、リトゥムハウゼが島に上陸した際、島には十数人の子どもがいたとされている。口減らしの為に川に流された赤ん坊を、ヴィルが拾って育てていたという話だ。観客は、その子ども役ということなのだろう。ヴィルトゥム教教会が孤児を引き取り育てている理由の一つにもなる重要な逸話である。

 少女と少年は、観客らに手を振り、時折小さな子どもの頭を撫でたりしながら客席をぐるっと廻ると、やがてステージ上へ戻っていった。

 第二幕の始まり。観客の興奮と熱気は、吹き過ぎる冬の寒風を強く追いやっていた。
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