雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

31.

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「手紙は読み終えましたか?」
「はい。ありがとうございます」

 頭を下げる二人の表情を一瞥すると、ウィリアムは
「それでは、その手紙を一度机の上に置いて、こちらへ来なさい」
と、部屋の中央に立つよう指示した。二人は内心で戸惑いながら、手紙を封筒に戻し机の端に並べて置く。

「二人とも、これを見たことは?」

 ウィリアムが手にしていたのは、藤色の細い鞭だった。

「アルバート先生が持っていらっしゃいます」
「なるほど。アルバートはこれをどう使っています?」
「物を示したり、指示を、出したり……?」

 二人が目を見合わせると、ウィリアムは「そうですか」と言って、ヒュン! と一度空を切った。

「ところでレオナルド。背が丸まっていますよ。ヴィルを演るのなら、普段の姿勢から気を使わなければ」
「あ……。申し訳ありません」

 レオナルドが慌てて背を伸ばす。ウィリアムはその様子をじっと見つめると、
「手を出しなさい」
と、厳しい声を出した。

 手を出して一体どうするのか分からずレオナルドが怪訝に右手を出すと、その手を手のひらが上を向くように返され、「左手はどうしました」と強く問われる。レオナルドがびくびくと出した左手をウィリアムは掴むと、その手も手のひらを上にして右手に添わせるように側面を重ねた。

 ウィリアムは震えるレオナルドの手の形を無表情で整えると、鞭の先端でその手のひらを数度撫でる。

 ヒュン!

 鋭い音と共に鞭が振り下ろされ、レオナルドは恐ろしさに手を胸元に引いた。鞭の先がその指先にトンと置かれる。

「いけませんよ、レオナルド。途中で手を引いたら怪我をするでしょう」

 冷たい声は、レオナルドに届かなかった。膝から崩れるようにレオナルドは座り込む。胸元で大きく震える手を握りしめることも出来ず、怯えた目をして放心状態でいるばかりだった。

「それから、その顔もいけない。余計に嗜虐心を煽るだけですよ」

 ウィリアムが鞭の先でレオナルドの顎を持ち上げる。涙が滲む瞳が大きく揺れているのを見ても、ウィリアムは一向に表情を変えない。

「どうして……」

 レオナルドの細い声が聞こえて、ルイはハッとするとしゃがみこんでレオナルドの肩を抱く。レオナルドの目の淵から涙が一滴零れて、ルイはキッとウィリアムを睨みつける。

「ルイ、君もです。自分も苛めてほしいと鞭をねだっているつもりですか」

 ウィリアムの言葉にルイは唖然として、彼を睨んだままレオナルドを守るように腕をギュッと回す。

「まったく、アルバートとかいう臆病者にも困ったものです」

 ウィリアムはため息交じりに髪をかき上げると、二人に視線の高さを合わせるように膝をついた。

「いいですか、二人とも。鞭で仕置きされたことのない学徒など、貴方達くらいですよ。この程度で腰を抜かしていてどうするんです」

 未だに声が届いていない様子のレオナルドの頬にウィリアムが手を伸ばそうとすると、ルイがパシッ! とその手を叩き落とす。ウィリアムは怒りもせず、「大事な話があるのですがね」とレオナルドに静かな目を向ける。ルイは暫くウィリアムにガンを飛ばして、それからレオナルドの手をそっと包んだ。レオナルドの目がルイの方を向いて、そして目が合ってから「大丈夫?」とルイが訊く。レオナルドが力なく頷いて、
「あ……。ごめん。大丈夫」
とぎこちなく笑った。ルイは気遣わし気にレオナルドを見つめる。レオナルドの目はルイを映すようでいてその実、何も映していないことに気づいていたが、ルイはもう何も言えず、代わりにウィリアムをもう一度睨み直した。

「鞭で打って仕置きをするのは、中央教会だけではありませんよ。ジョンやディラン、リヴィだってそうされたことがあるはずです。彼らの手のひらは、貴方達のそれより固かったでしょう。アダムス地区教会くらいですよ、鞭で仕置きをしていないのなんて」

 ウィリアムが困ったように眉を寄せる。

「ヴィル役も、オースリエル役も、全体の稽古以外に個人指導もあります。鞭で打たれることもあるでしょう。どうします。鞭が怖いからアダムスに帰りますか?」

 ウィリアムのとびきり優しい声はどこか挑発的で、
「帰らない」
と、ルイが憮然と答えた。

「貴方達が悪いわけではありませんよ。鞭の痛みを知らずにこれまで生きてきたのですから、この白く柔らかい綺麗な手を守りたいと思うのは当然の感情です。明日にでも馬車は呼べます。帰りますか?」
「帰らないって言ってるだろ!」

 同情するように憐れんで言うウィリアムに、食い気味にルイが怒鳴る。

「負けん気の強い子ですね、ルイは。分かりましたよ。ここで一緒に頑張りましょう」

 保護者然として言うウィリアムにルイは嫌悪感をむき出しにする。

「レオナルドは? 鞭はとても怖かったでしょう? 貴方は全ての試験でとても優秀な成績を収めていましたし、きっと素敵なヴィルを演じてくれると思っていたのですが、難しそうですかね。無理しなくていいんです。悪いのは、中央に行くというのに鞭を貴方達に教えなかったアルバートですよ。鞭が怖かったとアダムスに帰っても、きっとアルバートは貴方を責めないし、守ってくれます。お友達もきっと慰めてくれますよ。帰りましょうか」

 アルバート、という名前に、虚ろだったレオナルドの目が何かを探すような色を持つ。記憶の棚からはみ出した一本の光る糸を手繰れば、アルバートの声が、顔が、握った手の冷たさが、レオナルドの揺れる心に触れる。

 冷えた風の吹き行く中で、湖面に煌めく月の光とランタンの小さな灯りだけを頼りにしていた幾つもの夜。思い切り甘えていた。甘やかされていた。褒められて、叱られて、真っ直ぐに愛されていた。

 帰りたい。こんな所すぐにでも逃げ出して、いつものように、あの細い指で頭を撫でて貰いたい。低い温かい声で「いい子だ」と褒めて貰いたい。アルバートに褒められるのがどうしようもないほど好きだから。好きだから――。 

「帰、れない……。帰りません」

 レオナルドは掠れながら、それでもしっかりと声を出した。

「どうして?」

 ウィリアムが円かに尋ねる。

「だって、私は。ここで頑張るって、ルイと一緒に頑張るって決めて、アダムスを出てきたから。頑張らない内から、アダムスになんて帰れない……」

 きっと帰った方が不幸じゃない。しかし今帰ってしまったらきっと、アルバートの顔を見る度に悲しくなる。何かをして褒められても、以前のような幸福には二度と包まれることはない。頑張れなかった自分が、きっといつまでも自分の幸せの邪魔をするのだと感じていた。

「頑張れる? 怖い思いも、痛い思いも、辛い思いも、きっとたくさんしますよ」
「頑張る。頑張ります」

 ウィリアムを見据えるレオナルドの目は依然として危うさをはらみながら、それでも、もう揺れない。

「よし。頑張れ」

 そう頷いたウィリアムの声がやけに深くレオナルドに入り込んで、まるで心臓を強く握られたような、柔らかい布で身体中をくるまれたような、何もかもを委ねてしまいたくなるような感覚があった。

「鞭の受け方を教えます。立ちなさい」

 ウィリアムの指示に鼓膜がピリピリと刺激され、何の意識をしなくても勝手に体が立ち上がる。ルイはウィリアムの目から視線を外さないレオナルドに些かの奇妙さを覚えながら、それでもそっとレオナルドを支えていた手を自分のもとへ戻した。

「手を出しなさい、と言われたら、先ほどのレオナルドのように、両手を揃えて胸の前に手のひらを上に向けて差し出しなさい。指はまっすぐ、親指はきちんと付けなさい。……そう。それから、顔は少し俯きなさい。表情が少しでも隠れるように」

 ウィリアムは二人の手や腕を細かく直していく。触れられる度にルイは腹立たしさを、レオナルドは言い様のない寧静を感じていた。

「初めから鞭を振り下ろす馬鹿はいません。大抵鞭で手のひらをこうして撫でるか、それかこうして数度トントンと打つ場所を確認します。その間に覚悟を決めて、奥歯を噛みなさい。そうしておかないと、打たれた瞬間に舌を噛むこともありますからね」

 レオナルドが早速奥歯を強く噛んだので、「まだ早い」とウィリアムが注意する。

「打たれても、姿勢を崩してはいけませんよ。手をひらひらさせて痛みを逃がそうとしたり、手を隠そうとしたりしたら、反省していないと判断されてもう一度打たれることになります」

 それは嫌だ、とレオナルドとルイは揃って顔を僅かに歪める。

「一度やってみましょうか」

 ウィリアムはレオナルドの傍らに立つと、その手を鞭で二度撫で、トン、トン、トンと三つ弱く当てた。

 ヒュン!

 鋭い音がして、パシッと鞭は手のひらと指の付け根ギリギリに当たった。

「レオナルド。動いてはいけないと言ったでしょう。肉の薄い指や手首に当たってしまったらもっと痛いのですよ。もう一度」

 ウィリアムが語気を強めて叱る。

 泣き出しそうに深呼吸するレオナルドの震える手を、ウィリアムは鞭でゆっくりと撫でた。息がだいぶ落ち着いて手の震えが収まり出してから、ウィリアムはもう一度トン、トン、トンと鞭を当てる。

「んっ――!」
「そう。よく我慢しましたね。偉いですよ」

 目を固く瞑り耐えるレオナルドの肩に手を置いてウィリアムは優しく褒めると、次にルイの横に立った。

「ルイは出来るでしょうかね?」
「出来る。早く」
「私以外の先生の前でそんな態度をとってはいけませんよ。自分の首を絞めるだけです」

 ルイの手を撫でながら言うウィリアムに「早く!」とルイがせっつく。ウィリアムは深い息を一度吐くと、トンと一度鞭を当ててから、ビュン! と素早く振り下ろした。ルイは打たれた瞬間こそ目をギュッと瞑ったが、すぐに目を開けて、文句ないだろうとでも言わんばかりにウィリアムを睨みつけた。

「そう。上手。声を出さずに耐えられて凄いですよ。偉いですね」
「撫でるな!」
「はいはい。二人とも、手を下ろしていいですよ」

 軽くあしらうウィリアムに、ルイは何とか苛立ちを抑えて手を下ろした。

「ああ、そうだ。たまに悪趣味な人間がいて、仕置きを始める前に『不肖者の私のために鞭をお願いします』だとか、仕置きの終わりに「ありがとうございました」だとか言わせることがあります。言えという人間にだけ神妙な演技をしながら言えばいいです。私はそういう趣味はないので、今は言わなくて結構」

 ウィリアムは、未だに力が入りっぱなしのレオナルドの両肩に手を置いて前後に揺らす。

「さて、手のひらだけではなく、尻も鞭で打つことがあります。が、それはまた明日にしましょう。今日は、初めての鞭をよく頑張りました。こちらへ来なさい」

 ウィリアムは二人を机の奥に呼ぶと、引き出しから三つの小箱を出した。

「傷が長引かないように塗る軟膏です。後で一つずつ持っていきなさい。ルイ、もう少し私のそばへ。手が届かないでしょう」

 二人の手紙の脇に一つずつ小箱を置くと、ウィリアムは自分の箱を開け内蓋を取る。

「このくらいを指に取って、満遍なく塗るようにしなさい。乾燥を防ぐ効果もありますから」

 ウィリアムはルイの左手を取ると、その手に薬を塗りつけた。

「一人で塗れます!」
「そうですね。でも、大人しく塗られていなさい。ほら、このツボが凝っていますよ」
「余計なお世話ですよ!」
「ほら、ここも。疲れがたまっているようですよ。ちゃんと寝れていますか?」
「今、貴方に疲れています!」

 キャンキャンと、まるで子犬が威嚇しているようなルイの姿をレオナルドは愛らしいと感じて、それからふと、最近のルイの様子を思い返した。

「あの、ウィリアム先生、ルイはどうも眠りが浅いようなんです。深く眠れるお薬はお持ちですか?」
「レオナルドは余計な事言わなくていい!」
「ルイ、レオナルドは貴方を心配して言ってくれているのですよ。そういう態度はいけませんね」

 反対の手にも薬を塗りながらウィリアムはルイを叱った後、レオナルドに上から二段目の棚の右端の瓶を取るように言った。

「レオナルド。薬ではないですが、その茶葉で淹れた温めのお茶を寝る前に飲むといい。と、ルイに伝えてもらえますか。私の言葉よりも貴方の言うことの方がルイは聞くでしょうから」

 レオナルドは、ふふ、と思わず笑って、「はい」と確かに頷いた。

「さあ、レオナルドの番ですよ。こちらへ来なさい」

 ルイが下がり、代わりにレオナルドが前に出る。左手を差し出すと、手のひらに薄紅い線が真っ直ぐに入っていた。

「二度も打ってしまったけれど、指や腕に変なところはありませんか?」
「大丈夫です。ごめんなさい、手を動かしてしまって」
「謝る必要はありませんよ。二度目はきちんと動かずにいられたでしょう?」
「……はい」

 落ち込みしょぼくれるレオナルドの手を、ウィリアムは丁寧に癒す。

「また背が丸まっていますよ。レオナルド」
「ごめんなさい!」

 怯えながら背筋を伸ばすレオナルドに、ウィリアムは「うーん」と何処か腑に落ちないような目を向ける。

「ルイ。レオナルドはいつもこうなのですか? 歌を歌っていた時はあんなにのびのびしていたのに」
「貴方の前でなければレオナルドはもっとキラキラしてますよ」
「そうですか。私の前でも煌めいて欲しいものですね」
「貴方のような人間、レオナルドの清らかさで塵にでもなってしまえばいいんだ」

 ルイのあまりに乱暴な物言いにレオナルドが息をのむ。

「ルイ。ウィリアム先生は、私達がこれからここでやっていけるように――」
「あのねえ。そもそもこの人が僕らをここに呼ばなければ、レオナルドが手を痛めることも無かったんだよ」
「それは、まあ、そうだけど」

 呆れたような声で言うルイに、レオナルドはもう何も言い返せない。

「ルイは、自分の手が痛むのは気にしないのですか?」
「気にしてますよ。僕は僕が大事ですからね。だけどレオナルドは自分のことを大切にするのが苦手だから」

 ルイがあっさりと言った言葉が認識する自分の弱点そのもので、レオナルドにグサリと刺さった。

「それが事実だとして、貴方がレオナルドを気にかける必要は無いのでは? レオナルドは貴方より四歳も年上なのだから、放っておけばいいでしょう」
「はぁー。たった四年で上だとか下だとか馬鹿馬鹿しい。僕はレオナルドがレオナルドだから好きなんだ。レオナルドが僕に優しくしてくれたから、僕を大切にしてくれたから、僕もレオナルドを大切にしたいだけ」
「ルイはこう言っていますよ、レオナルド」

 両方の手に薬を塗り終えて、しかしウィリアムは手を離さずにその指先を握って問いかけた。

「……鞭は、痛かったです」

 レオナルドの声がポトン、ポトンと落ちていく。

「怖かったし、今もすごく怖くて、本当は逃げ出してしまいたい、です。覚悟は決めたけど、そんなの吹っ飛んじゃうくらい鞭は痛くて。だけど、ここで頑張りたいって思うんです。ウィリアム先生に馬車を頼めば、もうきっと痛い思いはしなくて済みます。だけど、頑張れなかった自分はきっと、いつまでも私を幸福にはしてくれないんです。私は器用じゃないから、逃げた私を許すなんて簡単には出来ない。それに、私が逃げたら、アダムスの皆まできっと悪く言われてしまうから。その方が私はよっぽど辛い」

 レオナルドはそこまで言って、ルイのいる方へ振り返った。

「ルイ。痛い時は痛いって言う。辛い時は辛いって言う。誤魔化したり、自分の気持ちから目を背けたりしない。自分のこともルイのことも、ちゃんと大事にするって約束するから、だから。今はまだ帰りたくない。四ヶ月ここで頑張って、それでアダムスの皆に、お土産持って帰りたい」

 レオナルドの潤んだ目に、ルイはふぅ、と息を大きく吐いて、「レオナルド」と呼び掛けた。

「太陽も、月の光も僕には眩しすぎるんだ。目を開けているのが辛い時、レオナルドの傍にいると、暖かい雨に包まれているような気分になる。静かに降る優しさにどれだけ慰められたか分からない。心地いいから、僕は僕のためにレオナルドの傍にいる。これからもずっと、ただそれだけだよ」

 ルイの誠実な言葉にレオナルドは何と返せば良いものか迷って、ただ一言「ありがとう」と言ってウィリアムに向き直った。

「ウィリアム先生。中央教会で生きていけるように、明日からも私を鍛えて下さいますか?」
「ええ。一から十までみっちり教え込んであげますよ。二人とも、安心して私に全て預けなさい」

 頼もしいような恐ろしいようなウィリアムに、ルイが「なんか、すっごい嫌だ」と頬をひきつらせる。

「まったく、ルイは本当に私を楽しませるのが上手ですね」
「はあ?」

 ルイが心底嫌そうな顔をする。

「さあ、遅くなってしまいました。荷物も纏めなければならないでしょう。名残惜しいですが、続きはまた明日」
「僕は全然名残惜しくないですけどね」

 ああ言えばこう言うルイを気にも止めずにウィリアムは立ち上がる。

 部屋へ戻る廊下は酷く冷えて静かで、三人の足音が耳にこびりついた。

「朝礼後に迎えにきます。二人とも、今日はよく頑張りましたよ。おやすみなさい」

 小声でウィリアムはそう言うと、二人の額に軽く口づけて去っていった。ルイは癇癪を起こす寸前で口づけられた場所をごしごしと拭っていたが、レオナルドはこれが教典に出てくる何かに倣ったものだと気がついて、しかしそれが何だか思い出せずに額にそっと指先を当てた。
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