雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

34.

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 昼食のために部屋へ戻る時も、昼食を終えて第三講堂へ向かう時も、レオナルドはリトゥムハウゼ役の彼と一緒に行動していたが、会話をすることは無かった。昼食後に関しては、彼がレオナルドが部屋を出るタイミングに合わせてくれたのか、たまたま同じになったのかは分からなかったが、レオナルドはまだ建物の構造を完璧には把握しきれていなかったので、彼と一緒に第三講堂へ向かう事が出来て少し安心していた。

 二人が第三講堂に着いた時、まだ中には誰も居なかった。最初にこの部屋へ来た時のように二人は黙って並んで立ち、先生が来るのを待っていると、一時を告げる鐘の音が鳴る少し前にドアが開き、所作指導のビーツが部屋へ入ってきた。

 ビーツは、アルバートやウィリアムの持つそれと同じ藤色の鞭を手に二人の前に立つと、忌々しいものに向けるような目でレオナルドを見、そして長いため息を吐いた。

「何故こんな輝きの欠片も無い野暮ったいのがヴィルなのでしょうね。私の弟子の方がよほど洗練されて美しいのに。貴方もこんなのが相手では辛いでしょう」

 ビーツはリトゥムハウゼ役の彼に目を向ける。彼は何も言わず、じっと気をつけの姿勢を崩さない。

「まったく泥臭くて敵いませんが、まあ、文句を言っていたら日が暮れてしまいます。それでは貴方が困るからやめましょうか」

 ビーツは彼に向かって話しかけるのに、その棘はレオナルドに集中して飛んできては刺さっていく。

「立ち姿は……」

 ビーツは彼の肩、腰、脚に鞭をそっと置いて姿勢を確かめると、レオナルドの方に回ってくる。鞭の先をレオナルドの肩に置き、そのまま背を滑らせると腰の辺りでほれを離し、ピシッ! と尻を打って
「まあ、良いでしょう」
と言うと、再び二人の前に立ち戻った。

 立ち姿はウィリアムにきっちり仕込まれたものだ。ウィリアムに注意された事の全てを気をつけて立っていたはずだった。何処かに乱れがあっただろうかとレオナルドは不安になったが、しかしそれを訊けるような雰囲気ではとても無かったのでレオナルドは押し黙った。

 その後も、手を伸ばしたり腕を広げたりする動作の指導では、美しく出来ていようがいまいがビーツはレオナルドの手を逐一打ち、しかし打つだけで改善点を教えることはしない。ああそうか、この人はただ自分を打ちたいだけなのだと気付いて、レオナルドはその痛みに意味を持たせるのを止めた。痛いけれど痛くない。例えばこれは冬の日にドアノブを触って走るような、そんな痛みだ。気にしたって仕方がない。

 自分一人でも、美しさを追い求めることは出来る。ビーツがリトゥムハウゼ役の彼に指導しているのを勝手にチラリと盗めばいいのだ。

 終盤になって歩き方の指導に入ると、ビーツは自分の手に鞭を当てながら「1、2、3、4」とカウントを取り始めた。

 窓側から入り口側へ直線を二人並んで行ったり来たりした後、部屋の中を円を書くようにぐるりと回ることになった。リトゥムハウゼ役の彼の後を、レオナルドは少し間を置いてから歩き出す。するとビーツがおもむろに近付いてきて、レオナルドに並んで歩いたかと思うと、

 ピシッ! ピシッ! ピシッ! ピシッ!

 とカウントを取るのに合わせてレオナルドの尻を打ってきた。ただ立っていた時よりも決してその鞭は強く無かったが、歩いている間尻は打たれ続ける。累積した痛みは勝手に悲しみを誘い、泣くまいと堪えると「力むな!」と酷く強く打たれた。

 ビーツは決して手と尻以外を打たなかった。その二ヶ所以外を打つのは規則違反だからだ。反対に、手と尻であれば何度打ってもそれは指導の内に入る。こんな風に常軌を逸した行為でも、指導であるとビーツが言えば何の問題にもならない。

 レオナルドの目から遂に涙が零れると、
「汚ならしい」
とビーツは吐き捨て、尻と腿の境の辺りを打った。

「あぁ!!」

 レオナルドが思わず膝から崩れ落ちる。

「軟弱な。田舎者のくせに、もう座り込むとは」

 ビーツはレオナルドから離れ、リトゥムハウゼ役の彼の元へ向かう。彼の歩き方の癖などを細かく教える声が聞こえてきたが、レオナルドはもう、その声に聞き耳を立てることが出来なかった。

 三時の鐘が鳴る。

「指導後の挨拶もろくに出来ないのですか」

 ビーツの言葉に、レオナルドは力の入らない足を何とか動かして決められた位置に立つ。

「ご指導ありがとうございました」

 リトゥムハウゼ役の彼と声を揃えて頭を下げると、ビーツはまだ二人が頭を上げきらない内に部屋を出ていった。レオナルドはポケットから手巾を出して涙を拭う。ウィリアムが渡してくれた軟膏を持ってくれば良かったと後悔して、それから、

(だけどこんな手じゃ、軟膏の蓋なんて開けられないかもな)

と、震えの止まらない手を見つめた。

 ほどなくして部屋のドアが開く。

「さあ、歌唱指導しようー」

 部屋に入ってきたキャメルはのんびりとそう言うとレオナルドに目を向けて、
「あ、ヴィル役の君。歌唱指導は一人ずつ行うから、ちょっと別室で待っててくれるかな」
と手招きすると、部屋を出てその階の一番奥の部屋のドアを開けた。

「ここ、使って良いから。自主練習しておいて。一人目が終わったら呼ぶよ」

 はい、と返事しかけてレオナルドは唖然とする。使って良いといわれた部屋は蜘蛛の巣が張り、物が倒れ、床が真白く見えるほど埃が敷かれていた。

「ああ、でもちょっと、埃が凄いね。物も散乱してるし。悪いんだけど先に掃除して貰える? 埃を吸い込んでからだとうまく歌えないだろうし、何日かは掃除に専念して貰って、その後から指導に入ろう。いいよね?」

 キャメルの圧に、レオナルドは「はい」と言うことしかもはや出来なかった。食い下がるだけの元気はもう残っておらず、このまま指導して貰えないかもしれないと思いながらも、一方で一人でここを掃除していれば傷つくことは無いのだと心が不安定に揺れていた。

「ありがとう! それじゃあ、よろしく!」

 キャメルは足早に第三講堂に帰っていく。レオナルドは荷を抱えたまま埃まみれの部屋に入るとドアを閉めた。痛む手をおしてどうにか窓を開ける。入り込む空気に肺が冷えて、制服が汚れるのも厭わずに座り込んだ。

 頑張れ。頑張れ。負けるな、と心に声をかける。手が痛い。尻が痛い。何も言えない喉が痛い。

 ルイの顔が浮かぶ。ウィリアム、ジョン、ディラン、リヴィ、アダムスの友、ジーク、ガブリエル卿、商団のバール、母、妹の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。しかしずっと聞こえてくるのは、アルバートの優しい声だった。

 レオ、と呼んでいる。何もかも、全て丸ごと包み込むように自分を呼んでいる。その声が聞こえるから、自分はまだここでやっていける。

 これは望んだ夢じゃない。「ヴィル役を演りたい」だなんて、一時でも思ったことはない。だからこそ、頑張らなくてはいけないのだ。ウィリアムが示してくれた逃げ道を断って今自分が立つ場所は、誰かが切望した夢へ続く道なのだから。

 文句も泣き言も言わない。挫けたりだってしない。険しいと知っていて、それでもこの道を行くと決めたのだ。後ろを向く資格など無い。傷つけられることを甘受しながら、ひたすらに前に進むことしか許されない。

 レオナルドは立ち上がると制服に付いた埃を払う。腕まくりをしたところで心が強くなるわけではなかったが、それでもレオナルドは「よし」と呟くと掃除を始めた。
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