雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

41.

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 翌朝、廊下の生温さに気付いたウィリアムはテオドールに事情を聴くと、レオナルドが診察を受けている間に、二人で廊下に長机一台と椅子を二脚、それから小さな木片を二つ運び込んだ。木片を開いたドアの下にかませると、押さえなくてもドアが閉まることはなくなる。これで大丈夫かとテオドールに訊いた後、ウィリアムは足早に学徒らの指導に戻っていった。

 レオナルドが診察から帰ってくると二人は早速にその机に向かい、台本を開いた。部屋の中の本を廊下に出せない代わりに、アルバートが持たせたノートが勉強の役に立った。二人で一つのノートを見て、それぞれに気になった部分を台本に書き加えていく。その内にレオナルドの手が止まりがちになり、目を擦る回数が増えたのに気付いたテオドールが休憩しようと促す。お茶を飲みながら雑談して一息入れれば、レオナルドの視界も鮮明になってくる。昼食までの間そうやってこまめに休憩を入れながら二人は過ごしていた。

 昼食を終えると、二人は歌唱の練習を始めた。とは言えずっと歌っているというわけではなく、まともな歌唱指導を受けられなかったレオナルドに、テオドールが今まで習ったことを伝えるというのが主だった。

「や、ゆ、よ、の前には小さい『い』を入れると良いんだって」
「よる、じゃなくて、ぃよる、みたいなこと?」
「そうそう」

 レオナルドは歌曲集に書き留めようとして、その手に持つペンが動かせない。

「あ……」

 無理に手に力を入れようとして、ペンがスルリと指を滑って地面に落ちる。

「少し休憩して、その後で一緒に歌ってみよう」

 サッとテオドールがペンを拾い机に置いた。そのままレオナルドを促すと、温かい風が通る自分の部屋の前にゆっくり座らせ、自分もその右隣に胡座をかいた。

「ごめんね」
「君は何も悪くないんだから、謝らないで」
「でも……」
「僕の前では気を抜いていいんだって、体が分かったんだろ。ほら、僕に凭れて」

 テオドールは右手を回してレオナルドの頭をポスンと肩に乗せる。レオナルドは為すがまま、申し訳なさもあったが体を動かす気力が無くて「ありがとう」とだけ言った。

 強張るレオナルドの手を自分の腿の上に置くと、テオドールは医務官から習ったマッサージを実践しながら、
「頑張りたいのに頑張れないのは、辛いな」
と静かに言った。

 レオナルドは「うん」と呟く。しかし本当は、自分が頑張りたいのかどうかさえ分からなくなっていた。

 自分がこの場所に居る理由は何だっただろうか。

 ルカの言いつけもそこそこにアダムスを出てきたくせに、ルイの傍に居ることも、ルイを守ってやることも出来ない。

 何度も鞭打たれ、詰られ、蹴られ、虐められていた時は、それこそここに来た意味があったと思った。傷が増えれば増えるだけ、証拠が増えたと嬉しかった。アルバートが言っていた「機」のための、確かな証拠が自分にあるのだと幸福すら感じていた。しかし、その役割はもう終わってしまった。自分を傷つける人間はもう居ない。虐められていた証拠の傷は日に日に良くなっていく。ウィリアムも医務官もテオドールも、自分の周りの中央教会の人間は皆、自分を大切に思ってくれる。苦しいほどに、誰も自分を傷つけてはくれない。

 何故ここに居るのか、自分は何を道標にあと二ヵ月をここで過ごしていけば良いのか、レオナルドは何も分からなかった。心に巣くう大きな喪失感の向こうから、「頑張らなければならない」と誰かが自分を追い立ててくる。頑張らなければならない。頑張らなければならない。そう焦るほど、体がついていかなくてまた焦った。

「レオナルド、深呼吸」

 耳元で聞こえるテオドールの声に意識をハッと引き戻されて、レオナルドは「ふぅー」とゆっくり息を吐く。

「僕はさ、君の声が好きだ。前にも言ったのを覚えてるかな、冬の日の雨みたいだって」
「なんとなく、聞いた気がする」
「うん。冬になると中央は晴れか雪かばかりで、雨は珍しいんだ。君の声は、歌う時も話す時も純真でさ、それでいてどこかに不安定さが聞こえて、まるで雪に移ろうかどうかの雨のようだなって。僕にはそれが特別な音に感じられて、美しくて、凄く耳に心地いいんだよ」
「そう、なの」
「自分じゃ分からないだろうけれど、君の声は不思議な魅力があるよ。一緒に歌っていると、世界が普段より煌めいて見えるんだ」

 自分の声の魅力にはまるで見当がつかなかったが、レオナルドもまた、テオドールと声を合わせて歌う時、自分の心に光が差すのを感じていた。声の重なりが耳に甘く、光の行く先へどこまでも声が伸びて行くような感覚――。

「だけど僕は、君が無理をしている時の声か、悲しみに暮れている時の声しか聞いたことがない。今だってそうだろ。僕は、辛い思いをしている君しか知らない」

 テオドールはレオナルドの手を優しく握る。指先から伝わる鼓動に、互いに生きているのだと安心する。

「だからさ、元気になった君は、本来の君はどんな声をしているんだろうって興味がある。そして、僕が美しいと思う君の声を、大勢の人に聞いてほしいと思う」
「元気になった僕の声を、もしかしたらテオドールは美しいと思えないかもしれないよ?」
「その時はその時だよ。それに、君の不思議な魅力は、君が元気になったからって失われるようなものじゃないはずだ。むしろ雲間に太陽が差すみたいに、輝きを増すんじゃないか」
「そうだと、いいのだけど」

 レオナルドが自信なさげに言うと、
「とにかくさ。僕が言いたいのは、本番で君の声を大勢の人に聞いてほしくて、僕もずっと君と一緒に歌っていたくて、そのためには、君に今無理をされては困るってことだ」
と、テオドールは頭同士をコツンとぶつける。

「本番までは二か月もあるんだからさ。休憩しながら、心と体をゆっくり癒していけばいい」

 テオドールの言葉に「そうだね」と反射的に返して、自分の心が正反対を向いていることにレオナルドは後から気がついた。

 そもそも稽古始めの儀式から今日まで、自分だけがまともに指導を受けてはいないのだ。所作も歌唱も、自分の何が正しくて間違いなのか分からない。ゆっくりしている場合ではない。とてもそんな余裕のある状況じゃない。合同稽古が始まるまでのあと数日でテオドールから全て教わって身につけておきたいのに、体がまるで言うことを聞かない。

「三時の鐘が鳴ったら起こすから、それまで少し眠るといい。肩を枕にするのが寝心地悪かったら、膝に頭を乗せてくれて構わないから」

 促されるままレオナルドは体を倒す。テオドールの腿はしっかりと頭を支え、その安心感はレオナルドを動けなくさせた。

「テオドールは?」
「僕も少し寝るよ。君が傍にいると暖かいから、丁度いい昼寝になる」

 レオナルドがテオドールを見上げると、「目を閉じて」と目の上に手のひらを被せられた。暗い視界の中で、焦る気持ちとは裏腹に気が遠くなっていく。

 誇りをもって生きろと、アルバートもウィリアムも言った。しかし、こんなにも弱い自分をどう誇ったらいいのだろう。体が動かないことばかりに目を向けて、「頑張りたい」ではなく「頑張れない」という言葉ばかりが心に浮かぶ自分を、誇ることなんてとても出来ない。

 込み上げる涙が零れないように深く呼吸する。背中に感じる暖かさが眠気を呼んで、レオナルドはいつの間にか寝入ってしまった。
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