雨は藤色の歌

園下三雲

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花乱る鳥籠

48.

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 六時の鐘が鳴って随分経ってから、ウィリアムはレオナルドを迎えにきた。アルバートの肩に涎を垂らして眠るレオナルドを揺り起こして、部屋まで連れ帰る。アルバートも棟の前まで付き添って、入り口でもう一度抱き合いおやすみと微笑みあった。建物の中へレオナルドが入る。ドアが閉まるまで、アルバートはその姿を見送っていた。

 階段を上りきって重たい扉を開けると、間も無くテオドールが部屋から顔を見せる。

「おかえり」
「ただいま」
 と言い合うと、テオドールは部屋から食事一式を持ってきた。

「寝起きの顔だね。食べられる?」
「うん、ありがとう」

 テオドールはそれを床に置くと、自分の分も持ってきて隣に置く。それぞれの部屋の前には空になった食器が既に置かれていて、別皿に移していてくれたのだと分かる。テオドールはそれからもう一度部屋へ帰って、ウィリアムに茶を淹れて持ってきた。

「先生も、良かったら」
「ありがとう」

 三人で円を描くように座って、「いただきます」と手を合わせる。パンもスープも温かく、レオナルドは思わず微笑んだ。

「いらしたのは、アダムスの先生?」

 テオドールが訊ねる。

「うん。アルバート先生。いつも勉強に使ってるノートをくれた人。あの、十年前の劇の脚本書いたって」
「ああ! あの」
「久しぶりに会えて、良かったね」
「うん」

 まるで小鳥が囀りあうような二人のやり取りを、邪魔しないようにウィリアムは黙って眺めている。二人があらかた食事をとり終えたところで、ウィリアムは茶を飲みきると口を開いた。

「アルバートには、何か言われましたか?」

 ウィリアムの問い掛けに、レオナルドは露骨に眉を下げる。

「迎えに来た、って言われました。アダムスに連れて帰るって」
「そう。それで?」
「帰りたくないって言ったら、先生がここにいる十日間、ここは僕がいても大丈夫な場所だって思えたら、ここに居ても良いって。だけど、僕がここにいたい理由を先生にお話ししなくちゃいけなくて、それで、納得してもらわないと駄目だって言われました」

 元気なく言って、レオナルドはパンを一口分ちぎる。パン屑が制服の上にこぼれるのを、ぼぅっと見ていた。

「それで、貴方は諦めたのですか」

 ウィリアムの冷静な声に、レオナルドは「えっ」と顔を上げる。

「そんな落ち込んだ顔をしているのは、ここを諦めてアダムスに帰る心づもりだからでしょう? それならば私も、次のヴィルを決めなくては。テオドールも、レオナルドがヴィルでないならリトゥムハウゼを下りると前に言っていましたが、心変わりはありませんか」
「ま、待ってください。諦めてません。私、まだここに居たいって思ってます!」

 レオナルドは焦ってウィリアムに縋りつく。その制服の裾が食事に当たらないようにテオドールは食器を遠ざけて、
「それじゃあ、アルバート先生に安心してもらえるように、君の楽しそうな姿をたくさん見てもらわないとね」
と、レオナルドに話しかけた。テオドールの落ち着いた声に、レオナルドも熱が引いて「うん」と体を戻す。

「頑張りなさい、二人で」

 ウィリアムはそれだけを言うと立ち上がった。テオドールに湯呑みを返して、ドアの前に置かれた空の食器を重ねて持つ。

「食器は片付けてしまいますよ。清めの湯は八時に届けさせますから、それまでゆっくりなさい」

 おやすみ、といつものように額に口付けて、ウィリアムは扉の向こうへ帰っていく。扉に鍵が掛けられた音を聞いてから、レオナルドとテオドールは食事を再開した。

「レオナルド。他の学徒のことは、僕にはどうにも出来ない。でも、僕が君の傍にいるから。君も僕の傍を離れないで。僕に君を守らせて」

 レオナルドが食べきれず残したパンを食べながら、テオドールはレオナルドに言う。

「それから、アルバート先生を納得させられるだけの気持ちを、言葉を見つけられないなら、僕も一緒に探す。君の小さな頃の話、教会に来た時の話、ここへ来た時の話。どれでも、僕に話して聞かせてよ。話している内に答えを見つけられるかもしれないから」

 レオナルドは「ありがとう」と小さく言ってから、
「いつも、守ってもらってばかりでごめんね」
と両手を腿の上で握りしめた。

「いいんだよ。君は、僕の隣に居てくれるだけで、僕の行く道を示してくれているだろ」
「僕、何もしてないよ」
「君の考え方、言葉、仕草、歌、踊り。君が君らしくいてくれたら、それだけで僕の視界はいつも霧が晴れるんだ。……試験を受けた時、僕は初めからリトゥムハウゼがやりたかった。リトゥムハウゼへの憧れとか、そんな綺麗な理由じゃなくて、単純に僕が一番優秀だって評価されたかったからだ。でも、今は違う。君がヴィルをやるから、僕はリトゥムハウゼがやりたいんだ。優秀だとかなんだとか、そんなことはどうだっていい。君がヴィルだから、君と一緒にいたいから、僕はリトゥムハウゼでいたい。だから、君がアダムスに帰りたくないと言ってくれて、そう思ってくれていて嬉しいんだよ」

 テオドールがパンを食べながら、まるで深刻な雰囲気を出さずにそう言うから、レオナルドはそれが有り難かった。

「僕は僕のために、君をアダムスに帰さないように努力したいだけなんだ。だから君は、何も気にすることはない」

 言い終えるのとパンを食べ終わるのはほぼ同時だった。テオドールは「ご馳走さま」と手を合わせて、ふぅ、と壁に持たれて手足を投げる。レオナルドは投げ出された彼の左手にそっと自分の右手を重ねた。なんとなくそうしたくて手を握ったら、
「こう、だっけ」
と、テオドールが指を絡めて握り直した。

「ふふ、お昼にも思ったの。テオドールの指、結構ゴツゴツしてるよね」
「そう言うレオナルドの指は、滑らかで細くて、簡単に折れてしまいそうだよ」
「多分、母さん似なの、僕。よく言われるから、きっとそう」
「へえ、さぞ美人なんだろうな」
「どうかな、僕は家族の贔屓目でしか見られないから何とも言えないや」
「そこは、美人だって言っておけば良いんだよ」

 口元を押さえてクスクスと笑いあう。二人きりの廊下に細やかな明るさが広がって、レオナルドはほんの少し逡巡した後、テオドールを見つめた。

「あの、うまく話せないかもしれないんだけどね? 僕のこと、昔の話から今の話まで全部、聞いてもらってもいいかな」

 テオドールはゆっくりと頷く。繋いだ手が、絡めた指が、喉のつかえを消していった。

 レオナルドはそれから、生まれてからこれまでのことを、覚えている限りつまびらかに話した。ブルダムの田舎で生まれたこと。家では麦を育てていて、麦畑で駆け回るのが好きだったこと。たわわに実る麦の穂に夕陽が差して黄金色に美しかったこと。妹のこと。母のこと。呼び出されたまま帰ってこない父のこと。戦争のこと。

 逃げ惑った日々のこと。目を鼻を、肌を焼く突き刺す痛み。聞こえる怒号。聞こえないふりをした悲鳴。泣きたいのか泣きたくないのか、分からないまま泣いたふりをしたこと。何日も、枯れた落ち葉を布団にして眠ったこと。母のことも妹のことも守りたくて、ただただ必死だったこと。

 そして見た光。ルカのこと。アダムスのこと。新しく始まった暮らしのこと。生きる糧にした夢のこと。その夢が、叶わなかったこと。欲しかったものを掻っ攫っていったシェーベルを憎いと思ったこと。そう思う自分を許せなかったこと。絶望して逃げ出した森の中で見た湖の綺麗だったこと。

 それからずっと、アルバートに甘やかされてきたこと。優しい言葉をかけてくれた友のこと。見守ってくれたガブリエル卿のこと。ジークのご飯が美味しいこと。

 初めて見た歌劇が楽しかったこと。団長と話をしたこと。そうして初めて泣けたこと。自分は大丈夫だと思えたこと。だから、中央教会へ来たのだということ。

 不安でも、ルイが居たから立っていられたこと。ジョン、ディラン、リヴィという心強い仲間のこと。ウィリアム先生が優しいこと。指導はずっと辛かったけれど、向こうが間違っていると分かるから耐えられたこと。蹴られたり殴られたりしたら、やったぁと思ってしまっていたこと。つい最近やっと、自分はおかしかったのだと気がついたこと。そんな中で、テオドールと話す時間が楽しかったこと。テオドールが傍にいてくれて、支えてくれて、守ってくれて、すごく嬉しいと思っていること。

 取り留めなく、時折言葉を詰まらせ、息を体を震わせながらレオナルドは話した。テオドールはたまに相槌を打って、繋いだ手に力を込めたり肩を抱いたりしながら話を遮らないでいた。話すことさえままならないほど呼吸が乱れることもあったが、途中で話をやめれば余計に辛かろうことは二人ともが分かっていた。

「――ごめん。長々と、纏まりの無い話をずっと聞かせてしまって」
「いや、謝らないで。僕は、君のことが知りたかったから。聞かせてくれてありがとう」

 テオドールはそう言って、それから暫く、レオナルドの頬を濡らす涙を拭ってやるわけでもなく、ぼんやりと宙を眺めていた。静まり返った空間にそれでもレオナルドが寂しさを感じないのは、繋がれた右手のせいだけではない。

「そうか。君、どうにも年相応には見えなくて、幾分か幼く見えていたんだけど。あ、いや、傷つけたらごめん。傷つけたいわけじゃなくて」
「うん、分かってる。続けて?」
「七年前に君を守るために自ら凍った君の心は、つい数か月前にやっと、本当に動き出したのかもしれないなと思ったんだ。僕は戦争を経験していないから、君の苦しみのきっと半分も本当に理解することはできないけれど、それでも君の身に起きたことは、九歳の心では耐えきれないほどの衝撃だったのだろうと思う。だけど君は優しいから、本当の心を凍らせて鍵をかけてずっとずっと奥に仕舞い込んで、代わりによく出来た偽物の心を動かして、周囲を心配させないようにしてきたのかなと感じたんだ」

 テオドールは何もない空間を眺めながら、整理するように言葉を紡いでいく。

「その偽物の心を支えてきたのが、君がずっと追いかけてきた夢だったんだよね。助手になりたいって、その夢が潰えてしまったから、偽物の心も支えを無くして壊れてしまった」
「その代わりに、本当の心がまた出てきた?」

 レオナルドが首を傾げて訊くと、テオドールは「うーん」と曖昧に返す。

「きっと七年間、君がアダムスの皆さんと過ごしてきた時間や君に向けられてきた愛情は、ずっと本当の心にも届いていたんだよ。分厚い氷は七年かけて溶けてきていて、その水で鍵も錆びて壊れかけていて、偽物の心が壊れた衝撃か、その原因が切っ掛けになったんだ。君の本当の心がきちんと君のものになる切っ掛け」

 テオドールの言葉を聴きながら、レオナルドもまた目を空に向けた。

「君の身長や体重が僕ら同年齢の人間と比べて小さいのは、避難していた時に満足に食べられなかったからなのか、そもそもそういう体質なのかは分からない。けれど、君の醸し出す雰囲気そのものが幼く見えるのは、君の心が今、九歳か十歳くらいから世界をもう一度見つめ直しているからなのかもしれないな」

 そこまで言って、テオドールはまたどこか物思いに耽る。レオナルドも口を開かず、テオドールの言葉を頭の中で反芻していた。

「九歳くらいから、やり直し……」

 レオナルドがポツリと呟いて、テオドールがハッとレオナルドに向き合う。

「ごめん、傷つけただろうか。これはただの憶測だから、切り捨ててしまって構わないから」
「違うの、違うの。すごく、しっくりきたから驚いただけ」
「だけど、すまない。これは僕が勝手に納得しただけで、君がここにいたい理由には何も繋がらないかもしれないな」
「ううん。謝らないで。僕も自分のことが少し理解できたようで嬉しいから」

 レオナルドがはにかんでテオドールを見る。

「それに、僕が生きてきた十六年の中で、やっぱり大きな出来事ってあの戦争と、ルカ先生の助手になるっていう夢だったんだってハッキリしたから。もっとちゃんと、あの時僕はどう思ってたのかなって思い出してみる。自分のこと、ちゃんと見つめてみたら、何か分かるかもしれない」
「そうだな。それがいい。でも、辛くなったらすぐにやめなよ。昼間でも夜中でも、いつでも僕を呼んで。君が笑顔でいられなきゃ、意味がないんだから」
「うん、ありがとう」

 それから二人は、扉の向こうに清めの湯を持ってきてくれる人の存在を感じるまでずっとそのままでいた。心底くだらない話をして笑ったり、習った歌を歌ってみたりしながら、いくら汗ばんでも繋いだ手を離さなかった。守るとか守られるとか、頼ると頼られるとかそういうものは二人の間に今は無く、ただひたすらに、互いの存在を一番近くに感じていたかった。
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