雨は藤色の歌

園下三雲

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花乱る鳥籠

56.

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 四月六日の朝。雲一つない空のすぐそばに、二人は立っていた。

 鐘塔の最上階。中央教会で最も空に高いこの場所で儀式は行われる。弧を描いた屋根は高く、四方を囲う低い柵との間から国がどこまでも見渡せる。北に聳える城が太陽に煌めいて美しく、威圧的というよりはむしろ見守られているような気がした。

 二人は濃い藤色に染められた装束を纏い、レオナルドは更に、藤の蔓で編まれた冠に早咲きの一房の藤を左右に垂らしたものを冠している。強く焚き染められた藤の匂いが甘く、脳を蕩けさせる。

 レオナルドは中央に、テオドールは南東の隅に立ち、まず城に向かって一礼した。続いて南を向き、ぐるりと山や川、そして広がる街並みを丁寧に見まわして、それから深く息を吸って一礼した。


  雨の女神ヴィル 私の友
  藤の花の香りに蝶が憩うように
  御手に包まれる全てを愛し
  今日も私は私を愛そう
  雨の女神ヴィル 私の友
  貴方の幸福が永久に続きますように


 太陽に向かってレオナルドは歌う。透き通った声は空間に満ち、やがて風に運ばれて空へ遠く消えていく。残る響き、その最後まで見届けてから、レオナルドは膝をついて、二度深く頭を下げた。

 テオドールが用意した桶を受け取り、レオナルドはその中の水を勢いよく被る。三度頭から全身を清めた後は、目を閉じて十度、祈りの言葉を心の中で繰り返す。雑念を払い、祈るということも己のことも何もかも忘れ去ることができるまで、三度水を被っては十度祈るのを繰り返す。

 ウィリアムから聞いた儀式の流れはここまでだった。その先は体が勝手に動くのだという。儀式のために設けられた期間は三日間。それまでにその先へ進めなかったら、神依りは失敗だ。尤もこれまでに儀式が成功しなかった例は一度も無いため、その場合どうなるかは誰も知らない。そもそも、失敗するという考えは誰の中にも無かった。

 とはいえレオナルドとテオドールは万が一失敗してしまったらという考えが儀式を始めるまで何度も過ぎって不安だった。しかし、レオナルドの兆候は想像よりもずっと早くに訪れた。

 太陽がちょうど正面に昇る頃、レオナルドは徐に立ち上がった。目を閉じたまま、右腕を肩の高さまで上げて、ゆっくりと下す。鳥の羽ばたきのように、蝶の羽のように、数度それを繰り返した後、腕を横に伸ばしたまま、その指先で国の全てをなぞるようにその場で一周する。正面まで戻るとその腕で何かを大きく抱いて、胸を強く握り、確かめるように俯いて微笑んだ。

 ドサッ

 唐突に力を無くして倒れこんだレオナルドに、素早くテオドールは駆け寄る。頭をぶつけないようにゆっくりとその場に寝かせ、装束の乱れを直すと、その足元からゆっくりと水をかけてその身を再度清めていった。

 それから暫くレオナルドは眠り続け、茜の空に白い月が昇る頃、また唐突にレオナルドは立ち上がった。次は左の腕を上下させて、広く何かを抱きしめて倒れた。

 次の朝には両腕を、昼にはそれに合わせて何かを口ずさんだ。夜にはようやく目を開けた。その度にテオドールはレオナルドを支え、その身を清めるのを繰り返した。レオナルドが寝ている間にはその身に薄れた香を焚き染めなおした。テオドールには食事も飲み物も用意されていたが、目の前で起こる超常的な現象にとても食欲がわかない。寝不足か空腹か香の焚きすぎか、とにかく頭痛が酷く吐き気もして、しかしこの儀式をきちんと成し遂げたいとその一心で何とか正気を保っていた。

 最終日の朝、レオナルドは日の出とともに立ち上がった。幸福をその顔いっぱいに湛えて、どこまでも両腕を伸ばして空をなぞった。跳ねるように、遊ぶように、その足先で地面を蹴って空を飛ぶ。レオナルドの口元は閉じたまま微笑しているのに、やがてテオドールの脳に歌声が聞こえてきた。


  藤棚の下 少女は踊る
  その指先で 空をなぞって
  ああ 君の行く先に
  慈しみの雨が降る
  我が主よ 我が友よ
  幸福を歌おう

  藤棚の下 少女は跳ねる
  その足先で 土を愛して
  ああ 君の行く先に
  慈しみの雨が降る
  我が主よ 我が友よ
  幸福を歌おう


 その歌声がレオナルドのものなのかテオドール自身のものなのか、もう区別など付けられなかった。ただ、楽しそうに踊るレオナルドの瞳が自分を捉えて、それは嬉しそうに笑いかけるものだから、テオドールはそれまでの頭痛も吐き気も無くして、差し伸ばされた手を取ってともに踊った。

 湧き上がる愛おしさは誰のものか。自分の物のようで自分よりもずっと遠くにあるような気もしていたが、もうそんなことはどうだって良かった。ただ掻き立てられる感情に任せて目の前の幸福を繋ぎ止めていられれば、自分は十分に満たされていた。

 昼も、二人は手を取って踊った。歌わなくても、鳥の囀ずる旋律に風の囁きが伴奏していた。

 踊りながら、レオナルドはいつも国を見ていた。小さな小さな人の影を追っては可笑しそうに笑って、それを報告するようにテオドールの目をちょっとの間見つめる。うん、と微笑んでやれば安心したように再度目を外へ向ける、その仕草が小さな子どものようで愛らしい。

 ビュオゥッ

 急に強い風が西から吹いて、テオドールは思わず顔を背けた。肩を押す風によろけそうになるのを、どうにか踏ん張って耐えるしか出来ない。

「ッ……!」

 レオナルドが息を鋭く吸い込んだ音が聞こえた。レオナルドは目を大きく見開いて、愕然と遠く一点を見つめている。

 テオドールがその視線の先を追えば、街の片隅に一筋の煙が立ち上ぼっていた。煙はうねるように空に広がって、その根本に揺らめく橙が見える。

「火が、火が、火……? 燃える、熱いの、逃げなきゃ」

 レオナルドは片手を離して身を翻すと、火の見える方とは正反対に一直線に逃げ出そうとする。取り乱したレオナルドにはもはやその先に床が無いことは見えておらず、強引にテオドールを引っ張って走る。柵を飛び出さんばかりの勢いにテオドールは強い恐怖を覚えたが、吹き過ぎた風に知る転落の危機がテオドールの脳を冷静にさせた。

「いや、いやだ! ごめんなさい、ごめんなさい。あぁぁ!!」

 柵の手前でどうにかレオナルドを羽交い絞めにして座り込むと、レオナルドは何度も謝っては逃げ出そうともがく。その目は此処に在る何も映してはいない。ただ幻影に惑わされて、追いかけてくる過去に呑み込まれている。

「レ……」

 悲痛な叫びはテオドールの耳を刺し、その苦しさにテオドールは何も言えなかった。レオナルドの荒い息がテオドールの思考までかき乱す。

(どうしよう。どうしたらいい?)

 何処からそんな力が湧き出すのか、何度も何度も逃げ出そうとするレオナルドを体全身で抑えるのが辛かった。体力が削られて、自分まで気が狂いそうになる。しかし、その拘束を緩めるわけにはいかなかった。

(雨よ、雨よ――。ヴィル。もしも何処かで私達を見守っているのなら、どうか……)

 火が消えたら、レオナルドも落ち着くだろうか。そうでなくても、ヴィルが神を名乗るなら、目の前の罪なき少年を救ってやってほしかった。

「助けて、助けて。苦しい。熱いよ。痛い、痛い痛い痛い」

 訴える痛みは強い拘束によるものではない。レオナルドは自身の目を押さえ、鼻を押さえ、耳を押さえ、ボロボロと泣きながらのたうっている。

 テオドールは抱きしめることしか出来なかった。レオナルドの声は言葉として聞こえていなかったが、心に直接大きな波のように感情が流れてくる。息も出来ないほどの重たい感情の名前は、悲しみでも苦しみでもない。それが懺悔だと気がついてやっと、テオドールはレオナルドの顔を見ることが出来た。

(……しっかりしなくちゃ。僕が、レオナルドを守るんだ)

 テオドールは息を吐いた。大きく吐いて、大きく吸って、そうして全身に冷たい空気を送る。レオナルドから伝わってくる感情と、自分の心の間に突堤を築く。思考が鮮明になっていく。

「熱いんだね。痛いね」
「ぅああぁ、あぁぁぁぁ!」
「うん。うん。僕が守ってあげるからね。こっちを向いて。ゆっくり息をしてみよう」

 テオドールはレオナルドの頭を自分の胸にピタリと付けた。どうすればいいのか、何を言えばいいのか、テオドールが無理に何も考えなくても体が勝手に動いていた。

「ねえ、どんな匂いがする? 甘い匂いだよ。藤の花の匂いがするね」
「ぅぅぅ、んんん……」
「ね。僕を触ってみて。傍にいるよ。一番近くにいる。僕は熱い? 熱くないよね。熱くない。熱くない。風も吹いてきたよ。涼しいね」

 自分にしがみつくレオナルドの後頭部を、テオドールはゆっくりと撫でてやる。レオナルドはそれでも「うぅぅぅぅ」と唸っていたが、次第に暴れなくなってくる。

「僕が魔法をかけてあげるからね。手を握ってみよう。痛くないよ。ほら、大丈夫だ」

 きつく装束を握り締めた手を何とか左手だけ離して、テオドールはその手を擦るように触っていく。

「大丈夫。大丈夫。僕が守るって言ったでしょう? 怖いこと、もう何もないよ」

 ふぅ、ふぅぅぅと息は未だ荒いが、レオナルドの体から少しずつ力が抜けていく。縋りつかれるのではなく、委ねられる。その身を。その心を。

「少し落ち着いたね。ほら、見てごらん。雨だよ。消えていく。怖いこと全部、雨に消えていくよ」

 いつからか降り出した雨が、遠くの小さな火を消していった。

 レオナルドの目が、本当にそれを映していたのかは分からない。しかし、じっとその方向を黙って見つめているから、テオドールは暫くそうさせていた。


  友なる君へ 藤の花の祝福を
  清らな愛に 呼び合う歌声よ
  気高く誇る 真冬の静寂に
  明け行く夜と暮れ行く昼に
  飛び交う鳥の傍らに風があるように
  友なる君へ 藤の花の祝福を


 なんとなく浮かんだ歌をテオドールが口ずさむと、レオナルドは漸く微睡む。やがてズシリと重たくなった体を抱き直して場の中央まで運ぶと、テオドールは胡坐の上にレオナルドを抱いたまま今日が終わるのを待った。

 明日の朝になれば、儀式を終えて部屋に戻ることができる。そうすれば、きっともう、何もレオナルドを傷つけない。

 テオドールはレオナルドを抱く腕に優しく力を込めて、長い夜が明けるのを待った。
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