雨は藤色の歌

園下三雲

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花乱る鳥籠

58.

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 次に目が覚めた時、レオナルドは怖いほど快活になっていた。テオドールが止めるのも聞かずにバクバクとご飯を食べ、軽やかに踊り、窓から空を眺めては焦がれるように歌を歌った。話しかける声が、笑う顔が、今まで見たレオナルドのどれよりも明るく元気なものだから、テオドールはそれが酷く恐ろしかった。まるで憑き物が落ちたような清々しいこの表情こそが自分の知らない本来のレオナルドの姿なのだとしても、テオドールには良くない何かに化かされているようにしか感じられなかった。

 例えばこれが禊が済んだ証だと言うのなら――。

 レオナルドのこれまでが、すべて今ここでヴィルを演じるために仕組まれたものなのだったとしたら、運命とはなんと残酷で勝手極まりないのだろう。たったそれだけのために彼は故郷を失くし、父と離れ、生きるために縋った夢まで手に入れられなかった。挙げ句その身に鞭打たれ、誹謗され、心身を粉々に壊された。ヴィルを演じる、ただそれだけのために。心を、身体を再生させるためにわざと壊されたと言うのだろうか。

 許せなかった。たとえレオナルドがそれをどう思おうと、テオドールはそんなふざけた筋書きを許すことなど出来なかった。

「テオドール、まだ元気ない?」

 レオナルドが気遣わし気に、しかしソワソワと訊く。

「ごめんな。ずっと、待たせてしまって」
「ううん。きっと、僕のせいでしょう?」

 レオナルドは悲しそうに微笑して、それからテオドールに肩を寄せるように座った。

「レオナルド。聞きたいことがある」
「なあに?」
「君は、神が憎くはないのか」

 テオドールの問いに、レオナルドはパチパチと瞬きをした。

「神って、ヴィルのこと?」
「ヴィルでも、違ってもいい。ただ、君の運命を定めた者が、憎くはないか」

 レオナルドは思考を探るように目を動かして、それから静かに瞼を閉じた。考え込む。その静寂は、決して居心地の悪いものではなかった。

「僕のこの運命を、肯定することは出来ないよ。だけど、憎むことも呪うことも、悲しむことも満足に出来ないんだ。嫌だ嫌だと思っていても、運命の進む先にしか夜も朝も来ないから」

 口を開いたレオナルドは、あまり感情を見せない。

「例えば試験に落ちていたら、中央教会に来ることは無かったし、テオドールやウィリアム先生達と出会うことはなかった。例えば僕の夢が叶っていたら、そもそも試験なんて受けなかった。例えばブルダムで戦争に巻き込まれなかったら、アダムスの皆と会わなかったし、ヴィルトゥム教のことなんて微塵も知らずに生きていた」

 ポロポロと溢すように言葉を吐き出していく。表情には力なんて入っていないように見えるのに、腿の脇に置かれた拳が小さく震えている。

「僕はテオドールが好きだよ。出会えて良かったと思ってる。ウィリアム先生も、ジョンもディランもリヴィも、ルイも、アルバート先生も、アダムスの皆も。本当に大好きだよ。……だけど、僕はルカ先生の助手になりたかった。戦争なんて知らずに、父さんと母さんと妹のリルと四人で、ずっとブルダムで、田舎で暮らしていたかった」

 遠くを見るようにレオナルドが微笑んでいるから、それが余計に悲しい。

「でも、そんな日はもう来ない。どれだけ願っても、僕は戦争のせいでブルダムからアダムスに避難して、ルカ先生の助手にもなれなくて、この劇でヴィルを演じることが決まってしまった日の続きしか生きられない。夜を越して目を覚ましたら、次に訪れるのは藤色の明日だ。黄金色の麦の穂が目の前で揺れる明日じゃない」

 レオナルドはそこで一つ呼吸を置く。

「この七年、生きたいと思って生きてきた訳じゃない。死ねないから生きてた。周りに心配かけたくなくて、ただそれだけのために生きてきた。僕のせいで、家族の、アルバート先生の、アダムスの皆の、テオドールの、心を傷つけたくなかった。大丈夫って言いながら、そうやって必死に生きてきた。運命や運命を定めた人を、憎んだり呪ったりする暇なんて無かった」

 レオナルドは、ツ、と顎を上げる。

「運命の輪が回った日を思い出す時、僕はいつもそこに悲しみの色を見る。だけどそこにいつか未来の幸福の色を重ねて塗れたなら、その悲しみにさえ意味を持たせられるから――。どうにも避けられない運命なら、僕はそれを受け入れる。抵抗するだけの体力は僕には無いもの。だから、運命が悲しいものなのだったら、それを上書けるだけの幸福の欠片を、その道の先で拾い集めていきたい」

 そしてレオナルドはテオドールの手を取った。

「例えばテオドールと、こうして手を繋いで」

 どうしてそんなに幸福そうなんだと、テオドールはもう聞けなかった。何か言葉を言いたくて、言えなくて、躊躇いながらその指を握りしめる。

「僕は、上書けているのか……?」
「うん。テオドールと出会えて、こうして傍にいられて、僕は幸せだよ」

 何も言わないテオドールに、レオナルドは
「幸せだよ、テオドール。この手が温かいから。大丈夫って言ってくれるから」
と言葉を重ねる。笑って見せるその顔がどうしてか凄く綺麗だから、テオドールはどうしようもなく泣きたくなった。

「……団長さんからの手紙、持っておいで。一緒に読もう」

 テオドールが言うと、レオナルドは「うん!」と立ち上がって部屋へ駆けていく。

 納得出来たわけではなかった。レオナルドが何を思っていても、テオドールはやはり悔しさを消すことなど出来なかった。それでも、抗えない運命の中でレオナルドが自分に幸福を見るのなら、もう何も言えなかった。

 トテトテとレオナルドが封筒を手に持ってくる。座って、封筒の中から一段階小さな封筒を取り出すと、その封を中指で開けた。

 折り畳まれた便箋をゆっくりと開く。

『大丈夫だ! 信じろ!!』

 大きく書かれた文字に、二人は思わず息をすることさえ忘れて固まった。

「……これだけ?」
「これだけ、みたい……。なんだか、拍子抜けしちゃった。ふふふ」

 目を見合わせて、吹き出すように笑う。

「歌劇団の団長さんと、仲が良いんだな」
「うん。前にアダムスに来てもらった時に、色々とお話したんだ」
「二人で?」
「うん。歌劇の話もしたんだけど、二人とも戦争を経験していたからその話とか。僕ね、団長さんと話して、初めて泣けたの。七年間、ずっと泣きたくても泣けなくて苦しかったのが、あっさり」
「……そうか。良い出会いだったんだな」
「本当に。無理に前を向かなくても良いんだって、悲しいままでも良いんだって分かったから、凄く楽になった」

 そう言って、レオナルドはふと俯く。

「悲しみはね、きっといつまでも消えないの。僕は未来に夢を見て、そうして悲しみから目を逸らして生きてきたけれど、本当にすべきだったのはそれじゃなかった。今の幸せを受け入れること。幸せな僕を赦すことだったんだって、今になってやっと気がついた」

 どこかで自嘲気に聞こえるレオナルドの声にテオドールの胸が酷くざわついた。

「悲しんでしまえば、この悪趣味な夢を現実だと認めることになるから泣くまいと思っていたんだけどね。悲しむことから逃げながら、一方で僕はきっと、ずっと被災者でありたかったんだ。可哀想な僕でありたかった。幸せになってしまったら、僕は僕を憐れめなくなる。だから、過去からも今からも逃げていたんだ」

 堪らなくテオドールがその手を握ると、レオナルドはキュッと口角を上げた。

「だけど、悲しみは塗り潰されないって分かったの。こんなにたくさんの人に愛されていても、それでも僕は少し悲しいから。だから僕は、安心してテオドールと手を繋げる。幸せでいられる」

 繋いだ手を自分の胸に当て、深く味わうようにレオナルドは目を閉じる。

「夢だとか何だとか、そういうものに今は縋らない。過去を嘆くこともしない。今はただ、テオドールが傍にいる、この幸せを堪能し尽くしたい。テオドールが何もかもそのまま受け入れて、『大丈夫だ』ってかけてくれる魔法の中で笑っていたいんだ」

 目を開けて、そして晴れやかに笑って見せるから、テオドールはもう抑えきれずにレオナルドを強引に引き寄せて抱き止めた。

 神だとか運命だとか、そんなことはもうどうでも良かった。抗えない何かに、テオドールはもう拘らない。

 たとえレオナルドに降るのが慈雨でなく土砂降りの雨だったとしても、隣にいて、手を繋いで、一緒に濡れていればいい。雨水の流れていくその上に一枚の葉を浮かべてみたりして、心を寄せあえていればそれがいい。

「分かった。僕が傍にいることで君が幸せになるのなら、僕はいつだって君の隣にいる。手も繋ぐし、抱きしめてもやる。同じ毛布に包まって、夜を徹して話もしよう。共に歌おう。共に踊ろう。君の夜明けに、飽きるほどの幸福が満ちるように」

 右手は繋いだまま、左腕で抱きしめてくれる力強さがレオナルドは嬉しかった。教歌の歌詞をなぞって、自分のために言葉をくれるのが嬉しかった。

「レオナルド。七年間、生きていてくれてありがとう。君が思ってくれているように、僕も君と出会えて幸せに思っているよ」

 目を閉じたレオナルドの頬に、スゥッと涙が伝う。それを知ってか知らずか、その頬にテオドールも頬を寄せた。

「だから、これまでの君の生き方も、尊いものだと覚えておいて。君は間違ってない。君が僕の腕の中にいる、今この時が何よりの証拠だ」

 間違ってない、というテオドールの言葉にレオナルドはいつの日かのアルバートの声を思い出した。

『レオは、ちゃんと前に進んできたよ。一つずつ、自分に出来ることを探して、身につけて、そうやってしっかり歩いてきたんでしょう? たとえ目指した場所にゴールテープが無かったからって、歩いてきた道は間違いなんかじゃない』

 あの日はまだ、その言葉を理解することが出来なかった。こんなにも時間が経ってから漸く、その意味を深く実感する。

 レオナルドは何度も「ありがとう、ありがとう」と言いながら、心が壊れそうなほどの幸福に涙した。この身を包むのがテオドールだけの愛ではないと知っていたから、抱きしめられた温もりを、ほんの少しでも取り零したくなかった。

 暖炉で火が爆ぜる音を遠くに聞きながら抱きしめあった二人は、夜が明けるまで共に啜り泣いていた。
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