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第1部 第1章「七歳の朝、勇者の記憶」
第1話「目覚めの空腹」
第1話「目覚めの空腹」
意識が浮上してくる。
まるで深い海の底から、光を求めて浮かび上がるように。
最初に感じたのは、空腹だった。
いや、空腹という言葉では生温い。胃が、腹が、内臓すべてが悲鳴を上げている。まるで身体の中が空洞になってしまったかのような、耐え難い虚無感。
次に感じたのは、倦怠感。
身体が鉛のように重い。指一本動かすことさえ億劫だ。瞼を開けるだけで、全身の力を使い果たしてしまいそうだった。
それでも、俺は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、粗末な木の天井。節だらけの板が何枚も張り合わされていて、隙間から薄暗い光が漏れている。古びた木材の匂いと、どこか湿った空気の匂い。
ここは…どこだ?
混乱する頭で周囲を確認しようとするが、首を動かすことすらままならない。仕方なく視線だけを動かすと、自分が二段ベッドの上段に寝ていることがわかった。薄汚れた毛布が身体にかかっている。
そして、自分の手を見た。
小さい。
異様に小さい。
これは…子供の手?
困惑が、頭の中に広がる。俺の手は、こんなに小さかったか? いや、違う。俺はもっと大人だったはずだ。もっと大きな手をしていた。剣を握り、魔法を放ち、戦場を駆け抜けた、その手は――
――剣? 魔法? 戦場?
突然、頭の中に映像が流れ込んできた。
剣を振るう自分。炎の魔法を放つ自分。魔物と戦う自分。血と汗にまみれた戦場。仲間たちの顔。そして――裏切り。
ズキン、と鋭い痛みが頭を貫く。
「っ…!」
思わず呻き声を上げそうになるが、喉がカラカラに乾いていて声にならない。額に脂汗が滲む。呼吸が乱れる。
何だ、これは。この記憶は何なんだ。
混乱する頭で必死に考える。そうだ、俺は…俺はアレンだ。アレン・ヴァルトハイム。辺境の貧しい村に住む、農家の三男。今年で七歳になったばかりで――
――七歳?
また頭痛。
しかし今度は、別の記憶が流れ込んでくる。
日本という国。高層ビルが立ち並ぶ街。大学のキャンパス。友人たちとの笑い声。そして、突然の光。異世界への召喚。「勇者よ、魔王を倒したまえ」という声。
ハルト・タカハシ。
それが、俺の名前だった。
いや、前世の。
二つの記憶が、頭の中でせめぎ合う。現在と過去。アレンとハルト。七歳の少年と、二十七歳で死んだ勇者。
混乱と頭痛で、意識が遠のきそうになる。しかし、その時――
「う…ぅ…」
下から、微かな泣き声が聞こえた。
双子だ。
レオとリナ。
俺の弟と妹。まだ四歳の、幼い二人。
その声が、俺を現実に引き戻した。そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃない。確か、母さんと姉さんと兄さんが…そうだ、帰ってきていない。昨日から、いや一昨日からだったか。
記憶を辿る。この世界の、アレンとしての記憶を。
三日前、母エレナと十三歳の姉ソフィアが、隣町グランベルに出かけた。食料と薬を買うために。「二日で帰る」と言っていた。でも帰ってこなかった。
心配した十歳の兄マルクが、昨日の夕方、二人を探しに出かけた。「双子を頼む」と俺に言い残して。
それから、もう丸一日以上が経っている。
食べ物は、とっくになくなっていた。最後にパンのかけらを食べたのは、いつだったか。二日前? 三日前? もう思い出せない。
水は井戸があったが、汲みに行く力も残っていなかった。
そして俺と双子は、二段ベッドの中で、ただ空腹と戦っていた。
「う、ぅぅ…お腹、すいた…」
レオの声が、か細く響く。
「お兄ちゃん…お母さん…」
リナの泣き声も聞こえる。
身体を起こそうとする。二人のところに行かなければ。でも、動けない。手足に力が入らない。指先が微かに震えるだけだ。
くそ…このままじゃ…
絶望が、胸の奥から這い上がってくる。このまま、俺たちは餓死するのか。七歳と四歳で。こんな貧しい辺境の村で、誰にも看取られることなく。
いや。
嫌だ。
前世で、俺は裏切られた。信じていた仲間に、尽くした王国に、見捨てられた。理不尽な死を迎えようとした。
でも、神は俺に二度目の人生をくれた。転生という、やり直しのチャンスをくれた。
なのに。
なのに、こんなところで死ぬわけには。
家族を、守らなければ。
この世界で出会った、大切な家族を。
必死に記憶を辿る。前世の記憶を。勇者だった頃の記憶を。何か使えるものはないか。何か、この状況を打開する方法は――
そうだ。
空間収納。
転生する時、女神セレスティアが言っていた。「あなたのスキルも、記憶も、空間収納の中身も、全てそのまま転生させましょう」と。
ということは。
もしかして、まだあるのか? あの時の装備やアイテムが。
震える手を、胸の前にかざす。魔力を感じ取ろうとする。七歳の身体は小さく、弱々しいが…でも、確かに感じる。身体の奥底に眠る、膨大な魔力を。
頼む…動いてくれ…
意識を集中する。前世で何千回、何万回と使った魔法の感覚を思い出す。
「インベントリ…オープン…」
掠れた声で呟いた瞬間。
目の前に、半透明の画面が浮かび上がった。
魔法陣のような円形の枠。その中に、無数のアイテムのアイコンが並んでいる。
あった。
全部、ある。
前世の装備。武器。防具。アクセサリー。そして――回復アイテム。
俺は震える指で、画面の中のアイコンに触れた。金色に輝く小さな粒のアイコン。
「万能丸薬…」
それは、勇者専用の非常食だった。一粒で二十四時間分の栄養を補給でき、あらゆる病気や怪我を治癒し、体力を完全に回復させる。魔王討伐の長い旅路に備えて、俺は三万個も備蓄していた。
アイコンをタップすると、手の中に金色の丸薬が一粒、現れた。
小さな粒。でもそこから、温かい光が発せられている。
これを、飲めば…
俺は震える手で、丸薬を口に運んだ。乾ききった唇の間に滑り込ませ、舌の上に乗せる。
途端、甘く温かい感覚が口の中に広がった。
そして、飲み込んだ。
次の瞬間――
全身に、光が駆け巡った。
温かい。いや、熱い。でも痛くない。心地よい熱が、身体の隅々まで行き渡っていく。空洞だった胃が満たされていく。枯渇していた血管に、新鮮な血液が流れ込んでくる。萎縮していた筋肉が、力を取り戻していく。
空腹が、消えた。
倦怠感が、消えた。
胃の痛みも、めまいも、全身の不調が、嘘のように消え去った。
「すごい…」
思わず呟く。声がちゃんと出た。喉の渇きも治っている。
身体を起こす。すんなりと起き上がれた。さっきまでの無力感が嘘のように、身体に力が満ちている。
これが、万能丸薬の効果。
これが、前世の力。
そして気づく。身体の感覚が、研ぎ澄まされていることに。視界が鮮明になり、聴覚が敏感になり、魔力の流れを感じ取れる。
レベル99の感覚だ。
勇者だった頃の、あの感覚が戻ってきている。
俺は慎重にベッドから降りた。七歳の身体は小さく、床まで少し距離がある。でも難なく着地できた。
そして、下のベッドを覗き込んだ。
そこには、双子のレオとリナが、泣き疲れて眠っていた。
四歳の幼い顔は青白く、頬がこけている。薄い毛布にくるまって、小さく震えている。微かな呼吸。弱々しい寝息。
見ているだけで、胸が締め付けられる。
「待ってろ…今、助けるから…」
俺は再び空間収納を開き、二粒の万能丸薬を取り出した。
これで、二人も助けられる。
そして、母さんと姉さんと兄さんを探しに行ける。
前世では、俺は一人で戦った。一人で苦しんだ。一人で裏切られた。
でも、この世界では違う。
俺には家族がいる。
守るべき、大切な存在がいる。
絶対に、失わせない。
絶対に、守り抜く。
それが、この二度目の人生で俺がすべきことだ。
双子の肩に、優しく手を置いた。
「レオ、リナ…起きて。大丈夫だから」
小さな身体が、微かに動く。
俺は決意を新たにした。
この世界では、絶対に幸せになる。
家族みんなで、絶対に。
――これが、俺の二度目の人生の、最初の朝だった。
意識が浮上してくる。
まるで深い海の底から、光を求めて浮かび上がるように。
最初に感じたのは、空腹だった。
いや、空腹という言葉では生温い。胃が、腹が、内臓すべてが悲鳴を上げている。まるで身体の中が空洞になってしまったかのような、耐え難い虚無感。
次に感じたのは、倦怠感。
身体が鉛のように重い。指一本動かすことさえ億劫だ。瞼を開けるだけで、全身の力を使い果たしてしまいそうだった。
それでも、俺は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、粗末な木の天井。節だらけの板が何枚も張り合わされていて、隙間から薄暗い光が漏れている。古びた木材の匂いと、どこか湿った空気の匂い。
ここは…どこだ?
混乱する頭で周囲を確認しようとするが、首を動かすことすらままならない。仕方なく視線だけを動かすと、自分が二段ベッドの上段に寝ていることがわかった。薄汚れた毛布が身体にかかっている。
そして、自分の手を見た。
小さい。
異様に小さい。
これは…子供の手?
困惑が、頭の中に広がる。俺の手は、こんなに小さかったか? いや、違う。俺はもっと大人だったはずだ。もっと大きな手をしていた。剣を握り、魔法を放ち、戦場を駆け抜けた、その手は――
――剣? 魔法? 戦場?
突然、頭の中に映像が流れ込んできた。
剣を振るう自分。炎の魔法を放つ自分。魔物と戦う自分。血と汗にまみれた戦場。仲間たちの顔。そして――裏切り。
ズキン、と鋭い痛みが頭を貫く。
「っ…!」
思わず呻き声を上げそうになるが、喉がカラカラに乾いていて声にならない。額に脂汗が滲む。呼吸が乱れる。
何だ、これは。この記憶は何なんだ。
混乱する頭で必死に考える。そうだ、俺は…俺はアレンだ。アレン・ヴァルトハイム。辺境の貧しい村に住む、農家の三男。今年で七歳になったばかりで――
――七歳?
また頭痛。
しかし今度は、別の記憶が流れ込んでくる。
日本という国。高層ビルが立ち並ぶ街。大学のキャンパス。友人たちとの笑い声。そして、突然の光。異世界への召喚。「勇者よ、魔王を倒したまえ」という声。
ハルト・タカハシ。
それが、俺の名前だった。
いや、前世の。
二つの記憶が、頭の中でせめぎ合う。現在と過去。アレンとハルト。七歳の少年と、二十七歳で死んだ勇者。
混乱と頭痛で、意識が遠のきそうになる。しかし、その時――
「う…ぅ…」
下から、微かな泣き声が聞こえた。
双子だ。
レオとリナ。
俺の弟と妹。まだ四歳の、幼い二人。
その声が、俺を現実に引き戻した。そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃない。確か、母さんと姉さんと兄さんが…そうだ、帰ってきていない。昨日から、いや一昨日からだったか。
記憶を辿る。この世界の、アレンとしての記憶を。
三日前、母エレナと十三歳の姉ソフィアが、隣町グランベルに出かけた。食料と薬を買うために。「二日で帰る」と言っていた。でも帰ってこなかった。
心配した十歳の兄マルクが、昨日の夕方、二人を探しに出かけた。「双子を頼む」と俺に言い残して。
それから、もう丸一日以上が経っている。
食べ物は、とっくになくなっていた。最後にパンのかけらを食べたのは、いつだったか。二日前? 三日前? もう思い出せない。
水は井戸があったが、汲みに行く力も残っていなかった。
そして俺と双子は、二段ベッドの中で、ただ空腹と戦っていた。
「う、ぅぅ…お腹、すいた…」
レオの声が、か細く響く。
「お兄ちゃん…お母さん…」
リナの泣き声も聞こえる。
身体を起こそうとする。二人のところに行かなければ。でも、動けない。手足に力が入らない。指先が微かに震えるだけだ。
くそ…このままじゃ…
絶望が、胸の奥から這い上がってくる。このまま、俺たちは餓死するのか。七歳と四歳で。こんな貧しい辺境の村で、誰にも看取られることなく。
いや。
嫌だ。
前世で、俺は裏切られた。信じていた仲間に、尽くした王国に、見捨てられた。理不尽な死を迎えようとした。
でも、神は俺に二度目の人生をくれた。転生という、やり直しのチャンスをくれた。
なのに。
なのに、こんなところで死ぬわけには。
家族を、守らなければ。
この世界で出会った、大切な家族を。
必死に記憶を辿る。前世の記憶を。勇者だった頃の記憶を。何か使えるものはないか。何か、この状況を打開する方法は――
そうだ。
空間収納。
転生する時、女神セレスティアが言っていた。「あなたのスキルも、記憶も、空間収納の中身も、全てそのまま転生させましょう」と。
ということは。
もしかして、まだあるのか? あの時の装備やアイテムが。
震える手を、胸の前にかざす。魔力を感じ取ろうとする。七歳の身体は小さく、弱々しいが…でも、確かに感じる。身体の奥底に眠る、膨大な魔力を。
頼む…動いてくれ…
意識を集中する。前世で何千回、何万回と使った魔法の感覚を思い出す。
「インベントリ…オープン…」
掠れた声で呟いた瞬間。
目の前に、半透明の画面が浮かび上がった。
魔法陣のような円形の枠。その中に、無数のアイテムのアイコンが並んでいる。
あった。
全部、ある。
前世の装備。武器。防具。アクセサリー。そして――回復アイテム。
俺は震える指で、画面の中のアイコンに触れた。金色に輝く小さな粒のアイコン。
「万能丸薬…」
それは、勇者専用の非常食だった。一粒で二十四時間分の栄養を補給でき、あらゆる病気や怪我を治癒し、体力を完全に回復させる。魔王討伐の長い旅路に備えて、俺は三万個も備蓄していた。
アイコンをタップすると、手の中に金色の丸薬が一粒、現れた。
小さな粒。でもそこから、温かい光が発せられている。
これを、飲めば…
俺は震える手で、丸薬を口に運んだ。乾ききった唇の間に滑り込ませ、舌の上に乗せる。
途端、甘く温かい感覚が口の中に広がった。
そして、飲み込んだ。
次の瞬間――
全身に、光が駆け巡った。
温かい。いや、熱い。でも痛くない。心地よい熱が、身体の隅々まで行き渡っていく。空洞だった胃が満たされていく。枯渇していた血管に、新鮮な血液が流れ込んでくる。萎縮していた筋肉が、力を取り戻していく。
空腹が、消えた。
倦怠感が、消えた。
胃の痛みも、めまいも、全身の不調が、嘘のように消え去った。
「すごい…」
思わず呟く。声がちゃんと出た。喉の渇きも治っている。
身体を起こす。すんなりと起き上がれた。さっきまでの無力感が嘘のように、身体に力が満ちている。
これが、万能丸薬の効果。
これが、前世の力。
そして気づく。身体の感覚が、研ぎ澄まされていることに。視界が鮮明になり、聴覚が敏感になり、魔力の流れを感じ取れる。
レベル99の感覚だ。
勇者だった頃の、あの感覚が戻ってきている。
俺は慎重にベッドから降りた。七歳の身体は小さく、床まで少し距離がある。でも難なく着地できた。
そして、下のベッドを覗き込んだ。
そこには、双子のレオとリナが、泣き疲れて眠っていた。
四歳の幼い顔は青白く、頬がこけている。薄い毛布にくるまって、小さく震えている。微かな呼吸。弱々しい寝息。
見ているだけで、胸が締め付けられる。
「待ってろ…今、助けるから…」
俺は再び空間収納を開き、二粒の万能丸薬を取り出した。
これで、二人も助けられる。
そして、母さんと姉さんと兄さんを探しに行ける。
前世では、俺は一人で戦った。一人で苦しんだ。一人で裏切られた。
でも、この世界では違う。
俺には家族がいる。
守るべき、大切な存在がいる。
絶対に、失わせない。
絶対に、守り抜く。
それが、この二度目の人生で俺がすべきことだ。
双子の肩に、優しく手を置いた。
「レオ、リナ…起きて。大丈夫だから」
小さな身体が、微かに動く。
俺は決意を新たにした。
この世界では、絶対に幸せになる。
家族みんなで、絶対に。
――これが、俺の二度目の人生の、最初の朝だった。
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