スカーレットオーク

はぎわら歓

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第一部

2 バー『コリンズ』

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 余韻が残ったままうっとりとして緋紗は席を立つ。
ふわふわと気分よく化粧室に立ち寄り、やはり周囲に気を配らずにホールを後にした。
そこから歩いて十分くらいの小さなビルの二階に、岡山市まで来ると必ず寄るショットバー『コリンズ』がある。

  少し重ためのドアを引くとカラカランと乾いたようなベルの音する。
 「いらっしゃい」
  短い髪をジェルで固めたオールバックのマスターが明るい声をかけてくる。
 「こんばんはー」
  緋紗も明るくあいさつをする。
 「やあ。久しぶりー。女のお弟子さん」


  一番最初に立ち寄った時に、自分が陶芸家の弟子をしている話をした。
それからマスターは緋紗を『女のお弟子さん』と呼ぶ。
 今時でも陶芸家の弟子をするのは男が圧倒的に多かった。
マスターはそんな緋紗を面白がっているのか、珍しがっているのか、長ったらしくそう呼ぶのだった。


いつも座るカウンターにするっと滑り込むと隣に男が座っていた。
バーは淡いブルーとグリーンのライトでカウンター内の酒類が照らされていて薄暗く、ボックス席二つとカウンター席六つのみで、こじんまりとしているが、せまっ苦しい感じはない。
 隣の男はグレーっぽいスーツで静かに飲んでいたので、不注意な緋紗は座って初めてその存在に気付いたのだった。

  今のところ客は緋紗とその男だけで、席は空いているにもかかわらず不用意に並んで座ってしまった。心の中で(しまった)と思ったがそこで立ち上がって席を移動するのも気まずく、
 「こんばんは」
  と、声をかけて気にしないふりをする。
 隣の男は少し身体を緋紗のほうに動かして落ち着いた声で、
 「こんばんは」
  と返す。
 声と動いた時の香りにはっとする。――あれ?どこかでおんなじことがあったような気がする……。

  男の顔をみないままマスターに、
 「マティーニお願いします」
  と注文した。
 「今日はどこか行った帰り?」
 「オペラでカルメン観てきたんです。生の歌声ってめっちゃ感動しましたよー」
 「ああ、それで正装してるんだね。一瞬、誰かわからなかったよ」
 「あはは。こんな恰好結婚式以外しないよね」
  マスターが笑いながら、どっしりとしたビーカーに氷とベルモットとジンを注いでマドラーをくるくる回している。
その手つきを眺めている緋紗に隣の男が声をかけてきた。

 「さっきも隣の席でしたよね」
 「え」
  そう言われて思い出した。――私の足が邪魔になった人?
  ここで初めて緋紗は男の顔を見た。
 右手の甲に顎を乗せ左手で銀のフレームの眼鏡をかけ直している。
 涼しそうな目元。――ここらへんの人ではないよね。
  マスターの丸くて人懐っこい目と比較して見た。

 「ホセって熱いですよね」
  緋紗は思ったことをぼんやりと返す。
 「お待たせ」
  きりっと冷えたマティーニが差し出され緋紗は一口飲んでからピンに刺さったオリーブをかじる。
 彼女は一杯を飲んでしまうと気持ちが朗らかになりおしゃべりになった。
 「もしかしてマティーニ飲んでます?美味しいですよねー。私はカクテルの中で一番好きなんです。オリーブも美味しいし」
  機嫌よく男に話しかけると男も微笑を浮かべて静かに話す。
 「そうですね。僕も香りが爽やかで飲みやすいからショートはこれくらいしか飲まないですよ。あまりカクテルには詳しくないしね」

  カラカランとベルが何度か鳴り二人きりだった店にも何人か客が入り賑やかになってくる。
 緋紗がもう一杯マティーニを頼むと男はジントニックを頼んだ。
ぽつりぽつりと話すことに緋紗はなんだかリラックスして気分がよくなってくる。

  女が一人で飲んでいるとこういう風に誰かから話しかけられることが少なくはないが、やけに話したがったり酒の注釈をしたりで下心がないにせよ面倒になってくる。
この男も自分と同じように酒と雰囲気を楽しんでいるんだろうと解釈をして、緋紗はまた一口マティーニを口に運んだ。

  カウンターにぼんやり右手を乗せて『ハバネラ』のリズムを機嫌よくとっていると、
 「松脂の香りがする」
  と、唐突に男が言う。
 緋紗は慌てて右手をひっこめた。
その仕草に男は首を少しかしげて、
 「どうかしました?」
と、訊ねてきた。
 「私の指です。たぶん……」
 「指?」
 「ええ。昨日夜中まで窯を焚いててその薪の匂いが残ってるのかなと……」
 「窯?陶芸?」
 「そうです。そうです。私、備前焼作家の弟子やってるんです」
 「ああ。それでマスターは『女のお弟子さん』って呼ぶんですね」
  ここで緋紗が自分のことをマスター以外に話したのは初めてだった。

 「僕は林業関係だからいつも杉とかヒノキに囲まれていてね。松の香りをすごく久しぶりに嗅いだ気がしたんだ」
 「リンギョウ?」
 「そう。『きこり』って言えばわかりやすいかな。植林したり伐採したり、まあ森を整える仕事です」
 「ああ。なんとなくわかりました。でも、そんなお仕事してる人身近に聞いたことないです」
  緋紗には林業などと聞いても頭に漢字が浮かんでこなかった。

 「メジャーな仕事とは言えないし、きつい仕事だからやりたがる人もあんまりいないですからね。だけど、ここ何年かで見直されてきているからだんだん増えてきていて女性も活躍してきましたよ」
 「へー」
  緋紗は木を燃やすばかりの仕事なのでなんとなく後ろめたい気がする。
  気を取り直して、
 「それでなんだか木のいい香りがするんだ」
と、返した。
 「ん?ああこの匂いは香水」
 「そうなんですか。すごく自然な気がしたので。なんて香水ですか」
 「エゴイスト」
  緋紗はきっと彼女のプレゼントだろうと思いながら話す。
 「有名なやつですね。でも香りと名前があんまりあってる気がしないですね」
 「うーん。もらいものなんだけど。僕に香りじゃなくて名前がぴったりと言ってくれたんだ」
  ちょっと回想しているように男は言う。
 「彼女からするとすごく個性的に思えたんですかね」
 「どうなのかな。最後のプレゼントだったから」
  ――最後……?

  緋紗は気がついて、「ごめんなさい」と、わびた。
 「いいんですよ。もう何年も前のことだから」
 「まあ名称はともかく香りは気に入っているからそのままつけ続けているんだ」
 「似合ってますよ」

  うんうんうなずいて緋紗は空になったグラスと壁の丸い時計を見た。
 「マスター、おかわり!」
 「終電、大丈夫?」
  グラスを下げながらマスターが気遣う。
 「もう一杯はいけそう」
 「お酒強いですね」
 「強いというより単に好きなんです」

  男はロングスタイルのカクテルをゆっくり飲んでいる。ライムのグリーンが彼にとても似合っている。
 緋紗は盗み見しているのを気づかれないように、下目使いで軽く男の上から下まで一瞥した。
 柔らかそうな黒い髪、優しそうな眉と切れ長の目。
 眼鏡で今一つ目の表情が読みにくいがすっきりしていそうだ。
 形のいい鼻に大きめで肉厚だけど引き締まった口元。
 体格はスマートな感じだろうか。
スーツと店内の暗さでわかりにくい。
 恐らく中肉中背というやつであろう。
 綺麗に切り揃えられた爪甲が器用そうにみえる。
しかし見れば見るほど普通だ。
 特徴のなさが逆に緋紗に色々想像させ探究心が沸いてきてしまう。――どこら辺がエゴイスト……?

  物色しているのを悟られまいと緋紗は訊ねた。
 「岡山の方じゃないですよね。出張ですか?」
  足元には滑らかそうな革のボストンバッグがある。
 「静岡です。今日はチェーンソーの講習会を受けに来たんだ」
 「へー。わざわざこんな遠くに」
 「うん。開催していればどこでもいいんだけど、こっち方面は来たことがなかったから。岡山の山を見に来たようなものですかね」
  ――山ってどこも同じ気がするけど……。

  気が付くとグラスは空で時間も十一時を過ぎている。
 「そろそろ帰らないと」
  なんだか帰りたくない気分になっていたがタイムリミットだ。
 「僕もホテルに行かないとすっかり長居をしてしまった」
  もう少し一緒に過ごせるかもと期待して席を立った。
 「マスターごちそうさまー」
 「ありがとう。また来てねー。こちらの彼も岡山にお越しの際にはぜひ!」
 「ええ。また寄りますよ」
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