スノードロップの抱擁

梨町

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3.開扉

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 手を引いたまま月也に連れられて、満は歩いて藤山の家に戻ってきた。アパートがある団地は、あの公園から五分も歩かないところにある。
 部屋の前で満が深呼吸をする間もなく、月也は躊躇なくインターフォンを鳴らした。

『……はい?』

 スピーカー越しに聞こえたのは、養母の声だった。夜半の突然の訪問者に対して、あからさまに怪訝な声色だ。しかし、月也は気にしたふうもなく答えた。

「満を引き取りに来ました」
『は?』

 あっけらかんと言い放った月也に、満は思わず勢いよく月也の顔を振り仰いだ。
 何の説明もない唐突な宣言に、驚いたのは満だけではない。家の中の養母も同じだったのだろう、唖然とした空気が伝わってくる。
 少しすると、家の中から足音が聞こえてきて、ゆっくりとドアが開いた。
 ドアの向こうには養母が立っていた。部屋の奥から微かにテレビの音が聞こえる以外に気配がないことから、養父はまだ帰っていないのだろう。
 養母はちらりと満を見て、面倒そうに視線を逸らした。そして次に月也の姿を認めると、途端に忌々しそうに顔を歪ませて月也の顔を睨み付けた。

「あんた、また……」
「お久しぶりです。夜分遅くにすみません」

 その顔を見てようやく、月也は殊勝な態度を見せた。それでも養母は、訝しむ視線を月也に向け続けている。
 養母の「また」という言葉からしても、どうやら二人は対面したことがあるらしい。そしてそこで確執が生まれたのだろう。養母が月也を快く思っていないことが、ありありと伝わってくる。
 月也の様子を窺うと、養母の棘のある雰囲気とは対照的に、機嫌が良さそうに笑みを浮かべていた。それがむしろ癇に障ったようで、養母は苛々と貧乏ゆすりをしている。

「それで、こんな夜遅くに何。満を引き取りに来たってどういうこと?」

 荒々しい物言いにも臆さず、月也はゆるりとした微笑みを浮かべた。

「そのままの意味です。この子は今後、兄として俺が面倒を見ることにします。満の了承は得ました」

 養母は横目に満を睨みつける。また面倒事を持ってきたと思われていることだろう。その刺すような視線に、身が竦む。それに気付いたからか、月也はそっと庇うように満の肩を抱いた。
 養母は視線を月也に戻すと、ふんと鼻を鳴らした。

「別に、その子を連れていくのはどうでもいい。けどね、突然だとこっちも困るんだよ」

 自分のことをどうでもいいと言われても、もはや傷つきはしなかった。しかし、心にある瘡蓋が少し疼いたような気がした。別に、引き留めて欲しいと思っていたわけではない。引き留められたところで戻る気は起きないからだ。
 それでも、仮にも十年ほど同じ家に住んでいたのだ。それなのに、ここまで無関心になれるものかと逆に感心してしまう。
 含みのある視線を見て、ぴんときた。養母が困ることなんて一つしかない。
 月也も養母の視線の含みが何なのか分かったのだろう。表情から笑みを消すと、溜め息をついた。

「どうでもいい、ですか。ならやっぱり、満はこのまま俺が連れていきます。……満、荷物まとめておいで。藤山さんと話があるから」
「……待って。お金のことだろ?」

 満は気遣わげに肩へ添えられた月也の手を払った。話の内容は察しがついた。養母は結局、昔からそのことしか頭になかったのだから。

「俺が家を出ても戸籍上は藤山のままですから、しばらく助成金は出るはずです。それと、世話になった分のお金は俺が返します。時間はかかるかもしれないですが……月也には、関係ないですから」
「…………」

 押し黙る養母の目を、真っ直ぐに見つめた。昔から、満は養母の視線が怖かった。面倒な子供への煩わしさ、いてもいなくてもどうでもいいという無関心。目は口ほどに物を言うのだ。その感情を直接浴びせられるのが怖くて、養母の前にいると息苦しさを覚えた。
 しかし、そんな養母とも今日で最後なのだ。そう思うと、ちゃんと向き合わなければならないと思った。

「今まで、お世話になりました」

 そう言って深々とお辞儀をすると、頭上から少しだけ、たじろぐ気配を感じた。すぐに反応したのは月也だった。

「満、関係ないなんて言わないで。満を無事に育ててもらった恩は俺にもあるんだから。……藤山さん。謝礼は出します。それでいいですよね?」

 丁寧な口調ながら、声には有無を言わせない圧力が含まれていた。養母はその圧力に気圧されたように、一歩後退する。

「もういいわ。分かったから早く出ていってちょうだい。……せいせいする」

 ふん、とまた鼻を鳴らして養母はリビングに戻っていった。 
 養母がリビングに入るのを見送ると、月也と満は家の中に入った。満の部屋に入ると、今さら心臓が高鳴っていることに気が付く。止まっていた呼吸が一気に吹き返したように、深く息をついた。肩の力が抜けて、思わずその場に頽れそうになる。

「お疲れ様、満」

 一緒に部屋に入ってきた月也が、微笑みを浮かべて頭を撫でてくる。ぼうっと見つめていると、月也は満の様子を窺うように小首を傾げた。

「ん? どうしたの」
「月也……」
「なに?」
「なんで、俺の事情を知ってたんだ? 俺がこの家でどういう存在か、あの人たちが何を求めているか……分かっていて同居を提案したんだろ? どこで知ったんだ?」

 少しばかりの疑心を露わにする満に対して、月也は苦笑を浮かべる。

「ちょっと、あの人たちと一回話したことがあるだけだよ。そしたら満をこのままここに置いておきたくはないと思った。一度話しただけでも色々察せられるくらい、あの人たちが雑なのは満も知ってるだろ」
「それは、そうだけど。……お金、払わなくてもいいのに」

 満のために、月也がわざわざ身銭を切る必要はないのにと複雑な気持ちになる。満の沈んだ気分とは裏腹に、月也は晴れやかな顔をしていた。

「いいんだ。それで満とこの家の縁が切れるなら。満があの人たちで辛い思いをしてきたのは、俺の迎えが遅かったせいでもあるから。だから気にしないで」

 月也はまた満の頭を撫でた。その優しい手つきに、満は微かな胸の痛みを覚えた。
 藤山のこの家で今まで決して満に与えられることがなく、期待をすることすら諦めてしまった、家族から与えられる優しさ。月也は今、それを満に与えようとしているのだろうか?
 月也はなぜか嬉しそうに満の部屋の中を物色している。まるで森林浴のように、深呼吸を繰り返していた。怪訝に思って様子を見守っていると、月也はおもむろに呟いた。

「満の匂いだ……」

 ……これは、聞かなかったことにする。
 月也ははっとしたように、満に向き直った。

「満の部屋、物少ないね。もう引っ越し前みたい」
「ずっと一人暮らししようと思ってたから物は増やさなかったんだよ」

 満の部屋にはベッドも勉強机もない。極力お金を使いたくなかった養親から与えられたのはペラペラの薄い布団と、折り畳み式の小さなテーブルだけだった。

「いつも床に座って勉強してるの? 腰痛くならない?」
「こまめにストレッチはしてるから大丈夫」

 この環境を、不満に思ったことはなかった。不満に思うだけ無駄というのが前提にあったし、そもそも昔から大抵図書館や公園にいて、家にいることは少なかったからだ。
 そんなふうに時折飛んでくる月也の他愛ない質問に答えつつ、荷物をまとめていった。服と学校への持ち物くらいしか大事なものはなく、すぐに荷物はまとめ終わりそうだった。

「何か手伝おうか?」
「いや、もう終わるから」
「そう? ……あ、この小さい箱は? 持っていく?」

 部屋の隅に置いてあった小箱に、月也は何気なく触れようとする。それに気が付いた瞬間、満は瞠目して「駄目だ!」と叫んでいた。
 突然声を荒げた満に驚いたのか、月也はぴたりと固まる。

「あ……急に大声出してごめん……。でも、これには触らないで欲しい……」

 ひったくるようにして月也の手から箱を奪い取る。

「いや、いいよ。俺のほうこそ勝手に触ってごめんな」

 月也は眉を下げて苦笑を浮かべる。それからはもう何も触らないと示すように、手を背に回して組んでいた。

「それ、大事なものなんだ?」

 月也に言われて、ふと手元の小箱に視線を落とす。封をしたそれは、もうずっと開けていないものだった。しかしその中に入っているものを、月也に見せようとはまだ思えなかった。

「うん……大事、なんだ」
「そう」

 短い返事に思わず月也を見遣ると、一瞬どきりとした。月也がじっと強い眼差しで満を見ていたからだ。強いのに、その視線の静かさにたじろいだ。
 するりと満の中に入り込んできた月也という存在は、時折湖に映る月のように掴みきれない。そもそも再会してから二時間ほどしか経っていないのだから、理解しきれないのは当然だろうと思う。それでもその掴めなさには、異質なものを感じていた。
 それからしばらく荷物をまとめていたが、先ほどの拒絶が効いたのか、月也はただじっと黙って満を眺めているだけだった。満は月也に背を向けているのだが、じっとりとした視線が背に刺さってくる。

「……月也、外に出ててもいいよ。暇だろ?」

 このまま部屋にいるのは気まずいかと思い気を利かせたつもりだったが、月也は「いや、ここで待ってるよ」と満の提案を一蹴した。月也が部屋を出ないと言うのなら、満も無理に追い出しはしない。わずかに重い沈黙が降りているが、気にしないように努めて黙々と荷物をまとめた。

「あ、そういえば」

 不意に月やが口を開いた。なんだと問うように振り返れば、月也はやはりこちらをじっと見つめていた。

「ねえ、満って今は彼女いるの?」
「突然なに? いないけど」

 一年ほど前、告白をしてくれた女子の押しに負けて付き合ったことがあったなと思い出す。ただ、それは手すら繋がないまますぐに終わった関係だった。それを言うと色々と突っ込まれる気がして、月也には黙っていることにする。

「そっか」

 この唐突な質問は、月也なりに気まずい空気を変えようとしてくれたのだろうか。そう思って見遣れば、月也はやたらと嬉しそうな顔をしていた。

「え、なんでそんな嬉しそうな顔……?」
「うん? だって満がもう誰かと幸せになってたら、寂しいだろ」
「…………」

 てらいない心情の吐露を、他人事には思えなかった。
 満は、月也がどこで何をしているのか考えながら生きていた。思えば、不幸になっていろとは思わなかったが、対して誰かと——たとえば結婚などして、生きているとも考えたことがなかった。年齢を考えれば、ありえない話ではないのに。

「ああ、ごめん。当然、満が幸せなら何でもいいけどね。そしたら俺は、家族として見守るだけだ」

 月也は取ってつけて言ったような言葉ではなく、当たり前に思っているかのようにそう口にする。満はまだ、それを上手く飲み込めないままでいる。
 三十分もすると荷物はまとめ終わった。リュックと手提げの鞄に服や学校のものを詰め込み、折り畳みのテーブルと布団を抱える。

「ごめん。待っていてくれてありがとう」
「俺が勝手に待ってただけだから構わないよ。……それ、持っていくの?」
 月也は満が抱えたテーブルと布団が目についたようだ。
「うん。処分にも手間がかかるだろうから自分で……」

 月也はそれを聴いて、困ったように眉を下げた。

「そこまで気を遣わなくてもいいと思うけどね……。家に着いたら、俺のほうで処分しておくよ」

 月也はそう言うと、軽く満の背を叩いた。

「さ、行こうか」

 止めるなら、今が最後のチャンスだろう。このまま月也に着いて行ってしまっていいのだろうかと、一瞬迷った。けれど、優しく背を押されると自然と足が前に動いた。
 廊下からリビング方面を見ると、もう廊下の先の扉は閉まっており、満と月也を拒絶するようだった。鍵のかかっていない扉だというのに、それはもう二度と開かない重い扉のように思えた。
 満は十年ほど前、施設での生活を経てこの家に来た。養親は最初から満には興味がないようだったが、それでも十年この家に置いてくれたのだ。そのこと自体には感謝している。それでも、最後まで引かれた一線は変わることがなかった。そのことに微かな寂寥感を覚える。
 ずっと一人暮らしをしたいと思っていて、この息苦しい家からもずっと出たいと思っていた。しかし、実際に家を出るときになると、こんなにあっさりと関係すべてが終わることになると思わなかったなと感慨を抱いた。解放感はある。それでも、思っていたような清々しさはなかった。

「満、これからよろしくね」

 十年暮らした家からあっという間に満を連れ出してしまった男は破顔する。

「よろしく……お願いします」

 おそるおそる返事をすると、月也の手が伸びてきて、優しく満の手を包んだ。満の感傷に気付いているのか、月也は力強く手を引いて満を連れていった。
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