スノードロップの抱擁

梨町

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2.再会

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 夕方、バイト先の居酒屋に赴くと、同じくアルバイトの女子学生である深山が先に働いていた。

「藤山くん、お疲れー!」

 深山は気さくな人で、満にも気軽に話しかけてくれる。気風が吉本に近い人だと感じていた。

「お疲れ様です。夏休みもバイト入ってるんですか?」

 たしか、歳は満の一つ上だ。夏休みは色々と忙しいのではないかと思っていたので尋ねると、深山は明るく笑う。

「うん、夏休みもガンガン入るよ。あ、もしかして受験のことを言ってる? それなら、私は進学先が専門学校だから、もう決まってるの。後は遊んでバイトするだけ!」
「ああ、なるほど。そうなんですね」

 深山の分もシフトを入れられるかと思っていたため、少々拍子抜けだった。それを悟られないように会話を切り上げようとすると、その瞬間、深山の目が光る。

「そんなことより、聞きたいことがあるの!」

 ずい、と突然目の前まで迫られる。いきなりテンションが上がった深山に腕を掴まれて、思わず一歩退いた。悪い人ではないのだが、かなりパーソナルスペースの狭い人で、時折距離感が近すぎることがあった。そこだけは、満が少し得意ではないと感じている部分だ。
 深山はそんな満の様子には気付かないまま、どこか興奮した様子で爛々とした視線を満に向ける。

「昨日、すっごい格好いい男の人が店に来たの!」
「そ、そうですか」
「それでね、その人、藤山満くんはいますかーって尋ねてきたの。でも昨日、藤山くんは他店舗のヘルプに行ってたでしょ? そのことを伝えたら、なら大丈夫ですってすぐに帰っちゃったんだけど……。その人、心当たりある?」
「ええと……」

 満に用がありそうな人物を考えてみるが、特に思い当たらない。そもそも、深山曰くすっごく格好いい男の人とのことだが、そんなふうに形容される容姿を持つ知り合いにすら心当たりがなかった。高校の同級生ということもあるかもしれないが、わざわざバイト先にまで押しかけてくる友人などはいないはずだ。

「心当たりは……ないですね」
「ええ~? そうなの? 本当に芸能人みたいに格好いい人だったんだけど」

 深山はアイドル好きを公言しており、ライブに行ったり推し活をしたりするため、バイトに励んでいるのだと聞いたことがある。
 その深山が興奮気味に瞳を輝かせて満に詰め寄るくらいなのだから、本当に相当な美形だったのだろう。しかし逆に、そうまで言われるということは絶対に知り合いではないだろうという自信を持った。そんな人がいたら、きっと満も覚えている。
 そのことを伝えると、深山はあからさまに残念そうな顔をした。

「そっかぁ、残念。藤山くんの知り合いだったら紹介してもらおうと思ったのになぁ」

 残念そうな顔をしつつも、その目はまだ獲物を逃がさないとでも言うように光っている気がして、わずかに慄く。肉食、という言葉が頭の中に浮かんできた。
 アイドルが好きというのは、遠い星を愛でるようなものかと勝手に考えていた。しかし、深山の積極性を見るに、アイドルを恋愛対象として見ているタイプなのかもしれないと思った。
 何の情報も渡せないことに若干の気まずさを覚えて、満は質問を捻り出すことにした。

「あー、ええと……。何も分からなくて申し訳ないです。でも紹介してくれってことは、俺たちと同年代くらいの人だったんですか?」

 深山はその人の姿を思い浮かべるように視線を上げた。

「ううん、歳上だったと思うよ。二十代だとは思うんだけど……雰囲気はスマートな大人って感じだった。オフィスカジュアルっていうのかな、ジャケットを着てたけど少しラフな感じでね、それが私の好みドンピシャだったの!」
「そ、そうですか」

 興奮する深山に気圧される。しかし歳を訊いても、やはり心当たりはなかった。
 そうこう話しているうちに、客が数人入ってくる。対応しに行かなければいけない。自然と会話を切り上げることになり、満は少々安堵した。
 そうして安堵したのも束の間、深山が振り返る。

「もし知り合いだったら紹介してね!」

 サムズアップをした深山に念を押される。その圧の強さに若干引きながらも曖昧に頷くと、深山は満足そうに客の案内へ向かった。
 その後すぐに別の客も入ってきて、満も案内に向かう。おしぼりと水を出して注文を受ける。そのルーティンをこなしながらも、満の頭の片隅に深山の話が引っ掛かっていた。
 わざわざバイト先にまで来た、満に用事があるという格好いい大人の男。記憶の箱をひっくり返して思い出せる人の顔をすべて洗い出しても、本当に心当たりがなかった。しかし、わざわざ名前を出して尋ねてくるのだから、関係がないとは言い切れない。
 まさか何か、満の両親の関係者だろうかと不安が頭を過る。いや、あるいは——……?

「藤山くん、四番テーブルがお会計に行った。食器下げておいてくれる? すぐお客さん入れるよ~」

 店長に声をかけられて、はっとして満は内心かぶりを振った。今考えても解決しないことに思考のリソースを割いても仕方がない。仕事に集中しなければ。
 用事があるのであれば、また向こうからやってくるだろう。その場では深くは考えず、満は自分を探していた来訪者のことを、思考の奥に追いやった。

   ◆

 バイト後、満は帰り道にある商店街の中を歩いていた。
 商店街にはドラッグストアや八百屋などの日常生活に欠かせない店から、雑貨屋や居酒屋まで、様々な店が立ち並んでいた。若者向けのアクセサリーショップなども多いことから昼間は高校生くらいの若い客層で賑やかだ。それらが閉まった後の夜は、仕事のストレスを酒で流そうと居酒屋に足を運ぶサラリーマンなどの客層が増えて、また別の賑やかさがある。夜の十時を回る頃の商店街は、すっかりできあがった酔っ払いの大人たちで溢れていた。
 酔っ払いを避けながら焼き鳥屋の前を通ると、漂ってくる炭火の匂いの香ばしさが食欲をそそる。バイト先でまかないを食べていなければ、このままコンビニにでも直行していたことだろう。
 店先に掲げられている飲食店のメニューを横目に歩いていると、目の前に複数人で輪になって喋っている社会人の集団がいた。その横を通り過ぎる瞬間、そのうちの一人がふらりと倒れるように飛び出してきて、横を歩いていた満とぶつかった。
 すぐに「すみません」と頭を下げるが、その男性はひどく酔っ払っていて、満とぶつかったことにすら気付いていないようにへらへらと笑っている。
 「酔いすぎですよ」と部下らしき若い男性が窘めるが、その声も本人に届いているのか分からない。輪の中にいた女性が「ごめんね」と満に声を掛けてくれたので、満は会釈を返す。
 大人は大変そうだな、とその酔っ払いの部下らしき人たちに少々同情を覚えた。

「うわっ」

 通りすぎて数メートル歩いたところで、背後にいる先ほどの集団から、短い悲鳴が聞こえてきた。思わず振り返ると、千鳥足だった上司らしき人が道の真ん中に座り込んでしまっている様子が見えた。
 周りにいた同僚が、座り込んだ上司の腕を引っ張って立ち上がらせようとしている。人々が我関せずといった様子でその横を通り過ぎて行くのを見ながら、将来酒には気を付けようと密かな誓いを胸にした。酔っ払いというものは、あんなふうに迷惑をかけても翌日には忘れてけろっとしていたりするものだと聞いたことがある。もしも自分がそうなったらと思うと、ちょっとぞっとする。

(ん……?)

 満は、道の真ん中で座り込んでいる男性の向こう側に、ふと目を留める。ふと視界の中に、周りの人々から頭一つ抜けた高身長の男性が歩いているのが見えた。
 モデルのようにすらりとした体格で、その体格にフィットしたスーツを着こなしている。遠目にもわかる品の良さだ。この混沌としたこの繁華街には少々不釣り合いな気がして、なんとなく違和感を覚えたのだ。
 あまり知らない他人をじろじろと見るのも悪い気がして、満が視線を逸らそうとした瞬間だった。その高身長の男性と、ばっちり目が合ってしまう。
 遠目にも、整った鼻梁が分かる。満が少々戸惑っていると、男性は満に向かってゆるりと微笑んだ。

(うわ……)

 華やかな容姿で惜しみない笑みを向けられ、満は微かにたじろいだ。アイドル顔負けの綺麗な笑みに落ち着かない気分になる。
 男にも芸能人にも、他人の顔の造形自体にあまり興味がない満ですら、面と向かって笑みを向けられると動揺してしまったのだ。深山のような面食いではなくとも、あの微笑みを向けられたら、女性は堪らないのではないだろうか。
 無視するのも悪い気がして軽く会釈をしたところで、居酒屋からまた別のサラリーマン集団が出てきて、絡んでいた二人の視線を遮った。その隙に満はさっと振り返ると、帰ろう、と再び歩き出した。
 そして再び歩き出した瞬間、ふと深山の話を思い出した。
 満に用事があったという「芸能人みたいに格好いい人」というのは、先ほど見たような人だったのだろうか。もしかして、本人だったりして? そう思ったが、当然先ほどの男性は知り合いではないし、他にあんな雰囲気のある知り合いに心当たりはなかった。
 しばらく歩いて商店街を抜けると、繁華街らしい喧騒は段々と落ち着いていく。そのまま住宅街に入っていくと、街の雰囲気はがらりと変わる。飲み屋の喧騒はもう遠く、そこはすでに眠り始めている街だった。
 歩いている人は満の他におらず、静かな道には満一人分の足音だけが響いている。——はずだった。

(……もしかして、尾けられてる?)

 そう直感したのは、繁華街を抜けてすぐのことだった。背後から、満と同じ速度を保って歩いている足音が聞こえてきたのだ。それだけなら偶然かと思うだけなものの、しばらく歩いても距離が縮まりも遠ざかりもしない。少しだけスピードを上げて歩いてみても、あまり変わらない。相手の足音の間隔は満よりゆっくりとしているのに、距離感が変わっている気がしないのだ。
 そして静かな住宅街に入ると、少しだけ変化が現れた。
 距離感が段々と縮まってきた気がしていた。次第に近づいてくる足音に、内心冷や汗を掻く。尾行されているかもしれないと思い始めたら、なんとなく見られているかのような視線を感じるようになり、満はほぼ確信した。誰かに尾けられている、と。
 もし、このまま声を掛けられたらどうすればいいのだろう。それどころか、襲われでもしたら——?
 こんなしがない男子高校生をどうこうするわけがないだろうと、心配を嘲笑する自分がいる。
 しかし同時に、それでも、世の中何があるかわからないだろうと不安を抱く自分もいた。
 鼓動が逸っていくのを落ち着かせるように努めて深く呼吸をする。
 尾けてくる人間に、あまり刺激を与えないようにしたほうがいいだろう。そう思って視線だけで周りを見渡していると、ふと前方に公園があることに気が付いた。広い公園に逃げ込んでしまえば道端より明るいし、襲われる危険性は低くなるのではないか、という考えが頭を過る。
 この公園を通り過ぎてしまうと、その先は狭い道が続くのだ。万が一そこで何かをされそうになったとしたら、いよいよ逃げ場がない。
 満は思い切って早足になり、飛び込むようにしてその公園に足を踏み入れようとした。その瞬間——。

「待って、満」

 いよいよ近距離まで迫ってきていた人物が声を上げる。はっきりと名前を呼ばれて、満は思わずぴたりと足を止めてしまった。

「あ」

 満は思わず声を漏らした。おそるおそる振り返ったらそこには、先ほど見かけたモデルのような雰囲気の男性が立っていたからだ。
 改めて見ても、高身長でオーラのある人だった。仕立ての良いスーツ越しでも、引き締まった体をしていることが窺える。鼻筋の通った整った顔は、やはり芸能人のような華やかさがあった。髪は少し赤みのあるブラウンに染められており、ゆるくパーマの掛かった髪は風で柔らかく揺れている。決して軽薄そうには見えないが、かといってお堅くもなさそうな、なんともバランスの良い印象を受けた。
 満と目が合うと、男性は先ほど商店街で見たときと同じように、ゆるりと笑った。それは近くで見ると、少しだけ気の抜けた笑顔のような気がした。品の良い佇まいの割には、隙のある笑みを見せるものだと意外に思う。

「満?」

 もう一度名前を呼ばれて、しっかりと目が合う。
 そのとき、きっと深山が言っていたバイト先まで自分を探しに来た人というのは、この人のことだろうと察しがついた。ただ、記憶の中を探ってみても、目の前にいる男と知り合った記憶はない。

「あの、どうして俺の名前を……?」

 話は通じそうだと思ったのでおそるおそる尋ねると、男は軽く肩を竦めた。

「……やっぱり、忘れちゃった?」

 その寂しそうな顔に、ふと既視感を覚えた。
 頭の奥で何か小さな光がちらちらと明滅する。何かを思い出しそうな気がするが、核心はなかなか掴めない。
 探るようにじっと見つめたまま微動だにしない満に焦れたのか、男は一歩距離を詰めてくる。近づかれて、反射的に満が一歩退くと、男はそれ以上近付いてこなかった。
 その場で動かないまま数秒見つめ合う。意志の強そうな視線が刺さって少々気圧されながら、見れば見るほど整った顔だと妙に感心してしまった。しかし段々と気まずさを感じて、満はそっと視線を外す。
 それが合図になったかのようだった。何かを待つように押し黙っていた目の前の男が、ゆっくりと口を開く。

「覚えてないかもしれないけど……、月也だよ」

 耳を疑う言葉に、満は思わず勢いよく顔を上げた。月也だって?

「久しぶり、満」

 そう言って微笑む顔を見た瞬間、満の頭の中で朧げに記憶が蘇る。ずっと思い出したくても、思い出せなかった兄の存在というピースが、頭の中のパズルに嵌まる。
 満は狭くて古いアパートの一室で、隣にいる兄を見上げていた。中学校の黒い学ランを着た、兄を——。
 思わず、目の前の男を凝視した。本当に月也なのか?
 もし月也だったとしたら、兄が生きていて、十三年も会っていなかった満の目の前に、突然現れたということだ。信じ難い出来事に、満はまさかこれは夢の中だろうかと、自分の認識を疑った。

「本当に……?」

 幽霊でも見たかのような満の反応に対して、月也の表情はぱっと華やいだ。

「そう、そうだよ!」
「うわ……っ」

 上擦った声の肯定が聞こえたかと思えば、勢いよく抱き締められた。その瞬間、仄かにさっぱりとした匂いが鼻を掠める。香水だろうか。

「会いたかったよ、満。ああ、俺の天使……」
「て、天使……?」

 噛み締めるように囁いた月也の大仰な言葉に、満は顔を引き攣らせる。同時に、甘めのテノールに耳を擽られて体が硬直した。行き場のない満の手も、宙を掻いて固まってしまった。
 なぜ、月也を名乗る人物に急に抱き締められているのだろう。というか、天使って何?
 妙に冷静な脳内で状況分析をしてみるが、まず本当にこの男が月也なのかを確かめる必要があるだろうという結論に至った。しかし、何から聞けばいいものか、言葉が出てこない。

「えーっと……天使って、何ですか?」

 満の口から出てきたのは心底どうでもいい、頭にぱっと浮かんだ疑問だった。

「敬語じゃなくていいよ」

 月也の少しずれた返答に、満は拍子抜けしそうになる。なんとなく、マイペースな人だと感じた。

「天使っていうのは……昔からよく言ってただろ。満は俺の天使だーって。それも忘れちゃってる?」

 少し体を離してから、月也はとろりと蕩けるような笑みを浮かべて満を見つめた。
 記憶の中にほとんど月也との思い出が残っていないのだから、当然何を言われたかなど覚えていない。天使なんて呼ぶくらいなら可愛がられていたと考えるのが自然だが、あいにく満にそんな兄の記憶はなく、そうなんだ、と他人事のようにしか思えなかった。
 返答に窮してしばらく固まってしまったが、月也はそんな満の態度を気に留めず、再び抱き締める力を強めた。

「やっと、満にまた会えた」

 背に回った腕に力が込められ、満は顔を顰める。

「あの、苦しい……」
「え、ああ、ごめん。つい」

 すぐに、月也は体を離してくれる。しかしその手が離れる瞬間、名残惜しいとでもいうように軽く満の背を撫でていって擽ったさに体が強張った。
 体が離れると、とりあえず満は検分するように月也の頭の先から足先まで往復して眺めてみることにした。
 成長期に差し掛かった中学生当時から、月也の身長は高かった。だが、今はその頃よりもさらに大きくなってるようだ。近くで見ると余計に、自分と頭一つ分違う長身は迫力があった。おそらく、公園に設置してある自販機よりも高さがあるのではないだろうか。
 幼かった頃は兄の顔の造形など気にしたことがなかったように思うが、まさかこんな美形だったとは思いも寄らない。鏡で見る自分が平凡な顔立ちをしているから、兄もそんなものだろうと勝手に思い込んでいたのだ。

「……本当に、つき……月也なのか?」

 念を押すように、もう一度確かめる。満にとって、月也はずっと生きているか死んでいるか分からない曖昧な存在だった。それが突然目の前に現れたのだから、満は本当に亡霊と遭遇したかのような心地だ。電灯の明かりに照らされながら、「実は幽霊でした!」とネタばらしをされて目の前で静かに消えていってしまったとしても、今なら驚かないかもしれない。
 しかしそんな満の荒唐無稽な想像とは異なり、月也は確かにその場に立っている。さりげなく足元の地面を見てみても、しっかりと影があった。

「うん。本当に、俺は葛木月也だよ。……ねえ、昔みたいに〝つき兄〟って呼んでくれないの?」

 月也はそう言って苦笑を湛える。満が月也をどう呼んだらいいかと一瞬躊躇ったことに気付いたのだろうか。
 頭の中でずっと月也と呼んでいたから、正直なところ今はもう〝月也〟と名前で呼ぶほうが違和感はない。それに今さら三歳頃に使っていた愛称で呼ぶ気にもならず、満はそのまま月也と名前で呼ぶことにした。

「呼ばない。もう、そんなに子供じゃないから……」

 満の返答に、月也は「そっか」と口の中で転がしただけのような小さな声を返した。しかしすぐに、気を取り直すように笑みを浮かべた。

「全然、月也と呼んでくれて構わないよ。そうだよね、満も大きくなっているしね。……それに、綺麗になったし」

 骨張った大きな手が伸びてきたと思うと、頬をするりと撫でられて反射的に肩が跳ねる。月也はそのまま満の額に触れ、目にかかった満の前髪を横に流した。明瞭になった視界の中で近距離からじっと見つめられ、心臓が鷲掴みされたように体が動かなくなった。

「可愛いのは、あんまり変わらないけど」

 月也はにっこりと、また綺麗な笑みを浮かべた。

「あの……待って。ちょっと待って」

 満の静止に、月也は目を丸くする。
 突然現れたと思えば、満の戸惑いも構わずにぐいぐいと距離感を詰めてくる月也に戸惑い、満は一歩退いて離れた。満に触れていた月也の手が宙を彷徨う。

「満?」
「…………」

 はっきり言うべきかと視線を彷徨わせる。そして迷った末、満は意を決して月也を見据えた。

「申し訳ないけど……俺は月也のこと、本当に全然覚えてないんだ」
 だから、そんな急に近づいてこないでくれという意思表示。月也はその意図を正確に汲み取ったのか、表情が固まったのが見て取れた。
「それに……」

 言葉を続けるかまた迷いが生じた。笑みの消えた月也を見て、わずかに緊張感を覚える。
 満は一度深呼吸をすると、小さく声を絞り出した。

「本当に月也なら……どうして、そんな普通にしていられるんだ?」
 思ったよりも語気が強くなり、棘を含んでしまった自覚はあった。しかし月也はそう言われることが分かっていたとでも言うように、凪いだ表情を浮かべていた。
「父さんを殺したのに、って?」
「…………」

 満の沈黙を肯定と受け取ったのか、月也は肩を竦めていた
 何か言えよ——と、改めて月也を見据えて、その表情を前に満は固まってしまった。
 月也が、とても寂しそうな笑みを浮かべていたからだ。

「満、ずっと迎えに来られなくてごめん」

 静かに紡がれた言葉は、満の胸に驚くほど滑らかに沁み込んだ。月也は真っ直ぐに満を見つめてくる。

「寂しかっただろう……?」

  そう言われて、満は目を瞠った。寂しかった? その言葉を頭の中で反芻しながら、満は拳を握りしめた。

「寂しさなんて、とうの昔に忘れてる」
「…………」

 満の言葉に、月也は言葉を返さなかった。じっと、耐えるように満を見つめている。

「もし俺が寂しがっていたとしたら、それは月也のせいでもあるだろ……」

 満の中で、月也への反感がわずかに込み上げてきた。
 満は幼くして、家族を失った。新聞の記事を信じるのであれば、月也は父を殺した。母は、父が殺した。何があったにせよ、父を手に掛けて家族を壊した責任の一端は、月也にもあると考えられた。
 わずかに眦を上げて視線を向けると、月也が少したじろいだ。
 満は息を吸った。その呼吸が震えているのを悟られたくなくて、腹に力を入れた。

「月也に、聞きたいことがある」
「なに?」

 ずっと、聞きたかった。
 行方の分からなくなった月也。この世に残った唯一の家族で、あの日起きたことのすべてを、唯一知っているであろう人物。いつか会えたなら、確かめたいと思っていたことがたくさんあった。
 その答えをついに知ることができると思うと緊張して、嫌な汗が手に滲む。

「どうして……」

 そう言った途端、冷たい冬の日が頭の中に蘇った。

「月也は、どうして父さんを殺したんだ? 優しかった、あの人を……どうして?」
「優しかった……?」

 月也は満の質問を聴くと眉を顰める。そして少し逡巡してから、満を見つめ直した。

「ねえ、満は父さんを優しいと思ってたの?」

 想定していなかった質問を返されて、今度は満が眉を顰める番だった。
 その質問の意図を掴みきれないまま、満は考える。頭に浮かんだのは、顔を思い出せない父のシルエットだった。

「優しい人じゃ、なかったのか? 俺は大事にしてもらっていた……と思う。ほとんど昔のことを覚えてないけど、父さんと一緒にいたことだけは覚えているから」

 この返事にどう反応するのかと上目に月也を見遣れば、月也は困惑した表情を浮かべていた。

「俺の知ってる父さんと満が思っている父さんはちょっと違うみたいだ。どういうことだろう?」
「え?」

 どういうことだと言われても、満のほうが訊きたかった。月也の中の父親像と満の中の父親像に差異があると言われても、どちらが正解かなんて満には分からないのだから、困惑しか生まれなかった。

「なら、そういう月也は父さんをどう思ってたんだ……? 少なくとも、優しい人ではなかったと思ってるのか?」
「うん、そうだね。俺にとってはただの壊れたアル中だったよ。息を吸うように、家族にも暴力を振るう人だった。ねえ、どうして父さんを殺したのか訊いたよね。それが、ほとんど答えだよ」

 淀みなく答える月也に、満は唇を噛み締めた。アルコール中毒で、暴力的だった父——満の中にある優しく温かな父の記憶とは正反対の人物像に、脳みそがひっくり返るような衝撃を受けた。
 満と月也の認識の差異に、ますます何が正解なのか分からなくなる。もどかしい気持ちを抱えながら必死で平静を装い、満は月也の言う『答え』について考えた。

「……正当防衛だったって、言いたいのか?」
「そういうこと」

 月也は笑みを湛えて軽く手を合わせる。わざと茶目っ気を見せるような仕草に胡散臭さを感じながら、満は月也を見据えた。
 どうして月也が父を殺したのか、その答えをようやく得られた。しかし、満は釈然としない。父が暴力を振るう人だったと言われても、にわかには信じられなかった。なぜなら満の記憶の中の父は、満と一枚の毛布を分け合ってくれるような、心優しくて満を大事にしてくれる人だったからだ。
 まさか、月也にだけ暴力を振るっていたとでもいうのか。それよりも、月也が嘘をついている可能性は? 巡る思考が、出口のない洞穴の中に入っていってしまいそうになる。

(俺が、思い出せればいいのに)

 今こそ、それを強く思った。
 曖昧な満の記憶の中に、月也はほとんどいない。父のことも、一緒に過ごした日々は記憶しているが、それも顔すら思い出せないくらい頼りない記憶なのだ。それが、ひどくもどかしかった。
 月也が、小さく溜め息を零す。

「満はまだ三歳だったし、記憶があやふやで、よく覚えていないのか……。でも、それは仕方がないよ。俺のことを忘れているのも、仕方のないことだ」

 最後の言葉は、満に向けて言っているのか独り言なのか曖昧な声量だった。どこか寂しさの滲む声に、満の心中には靄が燻る。
 難しい顔をする満を見て、月也は苦笑を漏らした。

「他に、訊きたいことはある?」
「なら……俺は覚えてないんだけど……月也が父さんを殺す前、母さんを殺したっていうのは本当? それとも、月也が……?」

 新聞の記事で見ただけの、事実とされている内容を確認したかった。満には、そのときの記憶が明瞭に残っているわけではない。だからずっと、真実なのか判断できないでいたことだった。

「父さんが母さんを殺したっていうのは、本当だよ」

 月也は静かに、けれどはっきりと答えた。満の中の何かが、軋むような音を立てる。

「満は、母さんが出て行ったことは覚えてる?」
「ずっと家にいなかったのは覚えてる。でもあの日、なぜか帰ってきた、と、思う……」
「母さんが出て行ってから、父さんは母さんにずっと怒っていた。あの日、母さんが突然家に来た。俺たちの顔を見てすぐ帰るつもりだったみたいだけど、タイミング悪く父さんと鉢合わせして、父さんは爆発しちゃったみたい。そのまま包丁を持ち出して……」

 淡々と語る月也を前に、視界が一瞬揺れた気がした。胃のあたりがきりきりと痛む。

「……満?」

 胸の中に、重い鉛を投げられたみたいだった。あの日の光景を思い出そうとすると眩暈がする。悪夢を見た朝のように、額に脂汗が滲んだ。

「満、大丈夫? 顔が青い」

 脚から力が抜けそうになったが、月也が体を支えてくれる。
 今にも頽れそうな満の体を支えながら、月也はひどく優しい声色で満を気遣う。

「ごめん。嫌なことは思い出させたくなかったのに、話しすぎた」
「いや……。俺が訊いたことだから……」

 月也に連れられて、公園の中のベンチに腰をかける。月也は落ち着かせるように、優しく背を撫でてくれていた。背に感じる手の温かさに戸惑う。父を殺した手は、もっと冷たいものだと思っていた。
 ベンチに座って少しの間黙って休んでいると、次第に呼吸が落ち着いてくる。
 「もう大丈夫」と言って支えてくれた腕から離れると、月也は安堵からか表情を緩めた。
 そんな月也の様子を、満はぼんやりと眺めた。ずっと、月也のことが分からなかった。両親を殺したのは月也だと思っていたから、それこそ悪魔のような人物なのではと考えていたこともある。しかし今、満の目の前にいる月也は、満を心から案じているようにしか思えなかった。
 もしかしたら、月也が言っていることは本当に真実なのかもしれない——そんな疑念が芽生える。しかし、そうすると、満が知っている優しい父は何なのだろう。今まで信じていた世界がひっくり返されるような感覚に、満は足元が歪む恐ろしさを覚えた。

「……今日はもう、この話は終わりにしよう」

 月也は満の目を真っ直ぐに見つめていた。

「本題は別にあるんだ」

 そう言われて、そういえば月也がなぜ今さら満に会いに来たのか、その理由を尋ねていなかったことに思い至る。

「バイト先まで俺を訪ねて来たっていうのは、やっぱり月也のことだったのか?」
「ああ、聞いたんだ? そうだよ」
「その用事が、本題?」
「そうそう」

 一体どういった用事なのか見当がつかず、大人しく月也の言葉を待った。

「満に提案があるんだ」

 月也は妙に晴れやかな顔で言う。

「一緒に暮らさない?」
「は……?」

 満は目を瞠る。あまりに唐突で、その意味を理解するのに時間がかかった。

「一緒に暮らす……? 誰が? 月也と……?」
「満と、俺で。それ以外ないでしょ?」

 月也はそう言うと、花が綻ぶような優しい笑みを湛えた。先ほどまで凄惨な記憶について話していたはずなのに、一気に流れが変わってしまった。
 満は頭が痛む気がして、軽く額を押さえる。月也のペースに、頭が着いていけていない。
「はい分かりました、と言えると思うか……? さっき再会したばかりなのに。そもそも、なんで俺と月也で一緒に住む必要が?」
「だって、家族だろ。それに、今まで離れていた分を取り戻したくて」
 そう言われて、満は怯んだ。事件がなければ、その言葉も素直に嬉しく受け止められたのかもしれないが、様々な疑念が満の中にある今、素直に喜ばしい言葉とは受け取れなかった。そもそも、事件がなければこんな状況にはなっていないのだろうが。

「それに、満は今の家から出たいと思ってない?」

 続いた月也の言葉に、満は目を瞠る。満の今の家庭環境の話などしていないはずなのに、月也は訳知り顔だ。
 だがすぐに、はっと気が付く。そもそもアルバイト先に訪ねてきている時点で、満の身辺情報をいくらか知っているのだろう。興信所などで調べたのだろうか。そう考えると少し座りが悪い心地になる。
 しかし、月也の言葉に違うとは返せず、躊躇する。
 空気の重い藤山家の中、自分を透明人間のようだと錯覚してしまう息苦しさを思い出して、言葉に詰まった。出られるものなら、すぐに出て行きたい。そのために、必死でバイトを詰めてお金を貯めようとしているのだから。
 月也は満の気持ちを見透かしているようだった。何もかも分かっているのだと言いたげだ。
 しかし、兄とはいえ再会したばかりのほとんど見知らぬ男にほいほい着いていけるほど、満もおめでたい頭はしていなかった。

「たしかにあの家からは出たい、けど。まだ再会したばかりだし、月也のことを完全には信用できてないから……」

 信用云々を本人に伝えるのはどうかと迷いつつ、結局口に出す。はっきり言わないと、分かってもらえないだろうと思った。
 月也は一瞬唇を噛んで、けれどすぐに笑みを浮かべた。作り物みたいな、完璧な美しい笑みだった。

「そう、だよね。満が俺のことを覚えていないだろうなっていうのは分かってる。すぐには信用できないよね」

 そう理解を示されると、満が意地の悪いことを言っているような気がしてくる。どうしたものかと思っているうちに、月也の完璧な笑みがふっと曇った。

「でも……面と向かって言われると結構きついものだな」

 月也は神妙な表情で呟いた。
 そうは言われても覚えていないものは覚えていないのだから仕方ない——と切り捨ててしまうこともできず、満の中にはむくむくと申し訳なさが募っていく。
 再会したばかりなのは月也も同じはずなのだ。それなのに、月也はまるでブランクなどないかのように満に接してくる。ずっと一緒にいたかのように満を案じてくる。そして一緒に暮らしたいとまで言ってくるのだから、この世に残った唯一の家族の存在が、月也にはよほど重要なのだろうか?
 満にはあまり月也の記憶がなく、それは幼少期、兄弟でありながらあまり関わりを持っていなかったせいだと考えていた。しかし月也の態度を見ていると、そういうわけでもなさそうだった。満が忘れているだけで、月也とも普通に過ごしていたのだろうか。満の中で、月也の存在が余計に謎めいてくる。
 必死に思い出そうとしても、どうしても思い出せない。もどかしさに奥歯を噛み締めた。
 月也の顔を見ることができなくて視線を泳がせながら、率直な気持ちを口にする。

「思い出せなくて、ごめん……」

 すると月也の顔は少しだけ嬉しそうな表情に変わった。「満は優しいな」と言う月也に、頭を優しく撫でられる。
 そのとき、幼い頃住んでいたアパートの映像が目に浮かんだ。薄い毛布に包まって、優しい父とたくさん話したはずだ。しかし、父の優しさは、幻想だったのだろうか? 
 突然、支柱を抜かれたように体の力が抜けた。座ったまま体を丸めて両手で顔を覆うと、月也が「満?」と心配そうに覗き込んでくる。あやすように頭を撫でられるが、特に抵抗はせずされるがままになった。月也の手は、温かかった。
 先ほど背を撫でられていたときもそう思った。なんとなく、満を撫でるその手の温度や優しさが、記憶の中の父に似ている気がして、不覚にも目頭が熱くなる。
 幼い頃は、最後に見た光景の恐ろしさを思い出して震える夜を過ごした。悪夢を見るたびに、辛かった。
 しかし、あの夢を見るときは必ず一緒に父と過ごした優しい記憶も蘇るのだ。恐ろしさと恋しさで、頭がおかしくなりそうだった。
 月也に撫でられていると、その恋しさを思い出してしまう。体感を伴った記憶の反芻は、ただ思い出すよりも胸の奥深くに沁み込んできた。今まで、父を思い出しても泣くことなどなかったのに――と、戸惑った。
 月也を父に重ねて思い出している。そのことを自覚すると少しだけ可笑しくて、自嘲した。父を殺したのは、この月也だというのに。
 自分の感情に混乱を覚えながら、満はふと思う。このまま月也と別れたら、二度と会えないのだろうか。
 満は、自分の中にそれを惜しむ気持ちが芽生え始めていることに気が付いていた。一緒にいると、懸念以上に懐かしさが込み上げてくる、兄の存在を惜しんでいる。
 不意に、月也が満の手を優しく握った。温かい手に包まれて、満は鼻を啜りそうになってしまった。それをぐっと堪えながら、月也を見つめた。
 満、と呼ばれて顔を上げると、月也の真剣な眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめていた。月也の向こうに、煌々と空に輝く月が見える。
 その瞬間にふと、思い出した。学校で「月夜」という漢字を見るたびに、間違えて「つきや」と読んでしまったことを。
 子供の頃、自分は兄をどう思っていたのだろう。分からないけれど、決して嫌な感情だった気はしないのだ。目の前にいる月也の真っ直ぐな表情を、今、満の心は好ましく思っている。

「俺は、もう満と離れたくない」

 力強い言葉だった。それとは裏腹に、そっと手を取った所作は恭しい。そのことに戸惑って、振り払うこともできずに固まってしまう。
 満が抵抗しないのを見ると、月也は両手で満の手を握り込む。七月の夜は暑く、満の手はじわりと汗ばんでいるだろうに、気にせず月也はその手を撫でた。

「お願いだ……満」

 まるでお辞儀でもするかのように軽く屈んで、握った満の手を額に当てた。まるで祈るように、月也は懇願する。

「少しでもいいから、俺のことを信じて欲しい。それで、どうか……俺と一緒にいて……」

 あまりに切実な願いの吐露に、胸が痛んだ。
 月也は仕立てのいいスーツを着ていて、品のいい佇まいをしている。見た目だけならば、一人で立派に働く社会人をしているのだろうと推測できた。経済的な要因が大きく、まだ一人で生きていくことができない満とは違う。
 それなのに、この世に残っているたった一人だとしても、兄弟に拘る理由がどこにあるのだろう。
 十年以上も会っていなかったはずなのに、月也はあからさまに満に執着している。その理由は、なんだろう。兄弟だからと、責任感を抱いているのだろうか。

 十六年間生きてきた中で、こんなふうに他人に何かを望まれたことなんて一度もない。満を求める月也の姿は、満の目に新鮮に映った。同時に、寄辺がないような物悲しさも感じた。
 そして、その物悲しさに満は覚えがあった。息苦しい日々の中で、誰かが理解を示してくれたなら、どんなに救われるだろうかと考えては打ち消していた幼少期を思い出した。
 満の中の寂しい息苦しさと同じものを、月也も感じていたのだろうか? もし月也がずっと寂しさを忘れられず、誰かと一緒にいたいと願っているのなら——。
 満は迷っていた。このまま別れたら二度と会えなくなるような気がする。そうしたらきっと、もう何も知ることはできないのではないか。どうして兄は父を手にかけたのかという理由や、そもそもたった一人の兄がどういう人間なのか、まだ分からないことだらけなのに、すべてが終わってしまう。
 しかし、頭の中にもう一つの選択肢が浮かぶ。改めて月也のことを知って、兄弟二人で支え合って生きていくという道もあるのではないかと、満はそんなことを考えてしまった。
 じっと動かず、祈りを捧げるように満の返事を待つ月也の旋毛を眺めながら、選択肢を頭の中の秤に乗せる。あの家から出られるという最大のメリットが提示された。それを受け入れられれば、今はまだ何も分からない兄について知ることもできる。
 ただし、兄がどんな人間か掴みきれない部分は懸念点だった。もし、月也に何か企みがあったら? ないとは言い切れない。冷静に考えれば、満に会いに来たのも唐突だ。
 これまで、兄に恐れを抱いていた。父を殺した月也は、悪魔のような男かもしれないと思っていた。もしも満の考えていた通りだったら、何をされるか分からないだろう。
 しかし、目の前で切実に満を求めてくる月也は、どうしても、悪人のようには思えなかった。本当に父を手にかけた兄と同一人物なのかと、そのことに疑念が湧いてくるほどに。
 頭の中の秤を揺らめかせながら、満は悩んだ。十分ほど黙っていたかもしれない。それでも、月也はじっと動かず満の返答を待っていた。
 そして、満は一度生唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。

「……高校卒業まで、とか」

 ぽつりと呟くと、勢いよく月也が顔を上げる。その顔はまさに旱天慈雨というような歓喜に満ちていた。

「本当?」
「それに、無理だと思ったらすぐに出ていく。それでいいなら……わっ」

 言いきる前に、再び月也の腕が伸びてくる。突然温もりに包み込まれて、心臓が跳ねた。

「うれしい」

 短い言葉は宝箱のようで、その中に煌めきが詰め込まれている——そんな声色だった。
 満を包み込む体格も、品のある佇まいも、たしかに大人のものだ。しかし、満に向けられた反応はまるで欲しかった憧れのおもちゃを買ってもらった子供のように素直だった。
 そうあからさまに嬉しそうな反応をされては邪険にもしにくい。満はその抱擁を享受することしかできなかった。

「じゃあ、藤山さんに挨拶に行かなきゃね」
「そう、だな……」

 月也の提案に、満は早速怖気づきそうになってしまった。
 家を出ると話すことは、一人暮らしをするときでも、いつかは絶対に必要になることだった。しかし、こんなにも急にその機会が訪れるとは。心の準備を急いで整えなければならない。
 おそらく一度あの家を出たら、もう戻れないだろうと思う。月也と共に暮らすということは、今の居場所を捨てるということを意味する。相応の覚悟が必要だった。
 そう考えてから、元々居場所なんてなかっただろうと自嘲する。満が何をしようが、恐らく養親は特に関心を持たない。助成金を得るために満を家に置いているのだから、金銭の心配はするかもしれないが。
 胸が、じくじくと痛む気がした。もうとっくに、養親への期待などは消え失せている。それでも、心ない言葉を浴びせられたとき、毎回しっかり傷ついてしまうのだから我ながら呆れてしまうのだ。

「大丈夫だよ、満」
「え?」

 満の心を見透かしたように告げられた言葉は、あの日、月也が父を手にかけた後に呼びかけられたときと同じ言葉だった。しかしそれは、あの日とは全く違う、優しい色を纏っている。
 一緒に暮らしたら、どちらの月也が本当なのか、分かるだろうか?
 月也は立ち上がると、満に手を差した。

「さ、行こう。満」
「え?」

 月也は自然な動作で満の手を引いて歩き出そうとする。

「いや、待て待て待て。今から!?」
「え? うん」

 さらりと答える月也に、満は絶句する。
 話し込んでいるうちに、もう夜の十一時を超えていた。こんな夜遅くにいきなり押しかけるなど失礼……というような思考はなさそうだった。
 しっかりとした社会人という風体のくせに、案外突飛なことをするのだなと思う。やはりどうにもマイペースで、満はまだ月也を掴みきれていなかった。
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