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6.告白
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翌朝、結局ろくに眠れなかった満は早めに月也の腕の中から抜け出し、朝食を作っていた。
その最中に月也が起きてきた。横目に見遣れば、シャツはくしゃくしゃに皺が付いている。しかし、その顔には目を合わせられずにすぐ俯いた。
「満、昨日はごめん」
真っ先に謝罪をされて目を瞠る。昨日のことを覚えているのか。
「ど、どれのこと……?」
一応訊くと、月也は小首を傾げる。
「どれ? 俺が酔っ払って帰ってきたことだよ。ベッドまで連れて行ってくれたんだろ。迷惑かけたね」
「い、いや。それはいいけど」
そっちか、とどきどきして、どうにもしどろもどろな回答になってしまう。
「昨日、家に帰ってきてからの記憶がないんだよね……。玄関先で満の顔を見たのは覚えてるんだけど。他に変なことしてない?」
満は勢いよく頷いた。覚えていないのか、と安堵すると同時に複雑な気持ちになる。気まずい思いをしているのは自分だけか、と。
「あ、でも……悪夢に魘されてたっぽい、けど」
「ごめん、うるさかった? 昔から、たまに見るんだ。満と再会してからは見てなかったけど、酔って眠りが浅かったのかな」
「うるさいとかはないけど。でも、たしかにずいぶん酔っ払ってたよな……」
少しだけ、棘を乗せた声になった。月也は途端に苦虫を噛み潰したような表情をする。
「普段はセーブするんだけど、断れない相手との会食でね。ほとんど嫌がらせで酒を追加されたんだ。
……くそ、満の前であんまりみっともない姿を晒したくなかったんだけど」
それは、兄として? それとも、好きだから——? 喉まで出かかった質問の女々しさに自分で鬱陶しくなり、声を飲み込んだ。
昨晩風呂に入らないまま寝てしまっていたからか、月也は必要以上に満に近づかず、そのまま風呂場に向かった。
満は一人になってわずかに安堵する。そして、自分が緊張していたことに気が付いた。気恥ずかしさで、月也の顔を上手く見られなかった。月也に気付かれてないだろうかと思うと、少し落ち着かない気分になる。
月也がシャワーを浴びて戻ってきてから、二人で朝食をとった。無駄に早くから準備していたから、鮭の塩焼きに卵焼き、ほうれんそうの胡麻和え、味噌汁と、おかずが多くなってしまった。
部屋に入ってきて朝食のメニューを見た途端、月也は嬉しそうに歓声を上げた。
「やった、和食だ。嬉しいけど、朝早くからこんなしっかり作ってくれたの?」
「月也、昨日かなり酔っ払ってたし、しっかり栄養とったほうがいいかなって」
そう思ったのは本当だ。最初は味噌汁だけ作ろうと思ったのだが、時間があったから色々追加してしまった。
「俺のために? 嬉しい。ありがとう」
月也はてらいなく満に向かって微笑んだ。その笑みをまともに見れず、すぐに食べる振りをして目を逸らした。
しばらく黙々と食べ進めていたが、ふと昨日のことを思い出した。夜の出来事が濃すぎて頭から抜けていたが、伯父に会ったのだった。
(やっぱり、月也に言った方がいいよな?)
視線だけ月也に向けてみると、しっかりと満を見ていた月也と目が合ってしまった。月也は満と食事をするとき、いつもじっと満を見ている。見すぎだと注意するとそのとき初めて気付いたように驚いて謝られるが、気付くとまた見られているから、ほとんど無意識なのだろう。
「……月也、見すぎだってば」
「え? ああ、ごめんごめん。無意識に見ちゃうな。物を食べてる満、可愛いんだもん」
「だもん、て」
そんな子供みたいな言い方をされても。
以前は再会したての弟がちゃんと食べているか心配してくれているのか、などと思っていたが、昨日のやり取りを思い返せば庇護的な感情だけではないのかもしれない。そう考えると、ますます見つめられていることが気恥ずかしくなる。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど。恥ずかしい、から。そんなに見ないでくれない……?」
「え……」
月也がぴたりと箸を止めて固まってしまった。
「? なに?」
「なんか、満が……。いや、なんでもない」
言い淀む月也に、満は首を傾げた。
「そこまで言ったら言ってくれよ? 気になるだろ」
「なんか……恥ずかしがるの、ちょっとやらしいなって」
「!? ……っ、何言ってんだ馬鹿!」
味噌汁を噴き出してしまいそうになって焦って飲み込んだ。昨晩のことで意識をしてしまい、つい大きな声を出してしまった。
「ごめん。だから言うのやめようと思ったのに」
月也もさすがにまずいと思ったのか、咳払いをして誤魔化した。
満は火照った顔を冷ますように水を一杯飲み干した。そしてこの、ほんのり桃色を纏ってしまった空気を変えようと口を開いた。
「そ、そういえば昨日、伯父さんだっていう人に会ったんだけど……」
勢いで引っ張り出してきた話題を口にした瞬間、途端に月也が顔を顰めた。
「は? 伯父さんって……照彦さん?」
「うん。昨日、学校帰りに会って」
先ほどまで機嫌が良かった月也のテンションがみるみる下がっていくのが目に見えた。
「はぁ、なるほど。それで会食を入れられたわけか……」
「え、何?」
「いや、こっちの話。それで? あの人に何か言われた? 変なことされなかった?」
「いや、少し車に乗せてもらって話しただけ……」
そう言った瞬間、月也は身を乗り出した。
「はあ? 車!? 満、それはさすがに無防備すぎ!」
「えっ!?」
突然声を荒げた月也にたじろいでしまうと、月也はハッと我に返ったように深呼吸をして自らを落ち着ける。
「あー……、大声出してごめん。でも伯父さんとはいえ、照彦さんって初対面の人でしょ。そんなすぐに信用をして着いていっちゃダメだよ。悪い人だったらどうするの」
「それ、初手で一緒に住もうって言ってきた月也が言う?」
子供に言い聞かせるような月也の態度に少しだけ苛立って棘のある返しをすると、月也は反論できなかったようでむっつりと唇を尖らせた。
「それは、そうだけど。俺は満の兄だよ? 昔、ずっと一緒に暮らしてたんだよ? 照彦さんとは違うでしょ」
「俺にとっては、そう変わらないし」
「…………」
月也は絶句していた。さすがに怒ったかと思ったが、月也はむしろ怒られた犬のように萎れていた。
「そうだよな。俺が勝手に連れてきただけで、別に満は俺のこと覚えてなかったもんな」
「お、覚えてなかったわけじゃないけど」
急にどんよりとし始めた月也に慌てて弁明する。月也は気を取り直すように背筋を伸ばした。
「はぁ、それはいいんだ。覚悟してたから。それより、初対面の照彦さんと何を話したの」
「会社のこととか聞いた。月也も葛木商事に勤めてるんだろ?」
「うん。話してなかったっけ。……ちょっと待ってて」
月也は席を立つと、鞄から小さなカードケースを取り出した。席に戻ってくると、ケースの中から名刺を取り出して満へ差し出す。
そこには照彦と同じく葛木商事株式会社の名前がある。
「経営企画部……伯父さんと同じ部署ってこと?」
「そうだよ」
「〝経営企画部ゼネラルマネージャー〟? 確か伯父さんはマネージャーだったと思うけど、これってどっちが上の役職なんだ……?」
「それは、俺だね。ゼネラルマネージャーっていうのは、マネージャーの統括役だから」
なんでもないことのようにさらっと返す月也に満は瞠目した。
「え……っ? 待って、月也って伯父さんより上の役職なのか!? まだ二十六歳なのに? 伯父さん、父さんの兄ってことは四十歳は超えてるだろ?」
「うん、まあ一応ね。爺さんが……あ、爺さんのことは訊いた?」
「お祖父さんだよな? 少しだけ」
「そう。あの人が徹底的な実力主義者だから、俺のほうが適任だと判断したらあっという間に地位を上げてくれた。照彦さんは前任なんだ。要は、降ろされたってこと」
なんとなく照彦が月也を嫌っているような空気は感じていたが、その理由が理解できた。あの人は、月也にポストを奪われたのだ。おそらくそれを妬み、月也を引き摺り下ろすためのネタを探しているのだろう。
「月也は、十三年前のあの日、俺と別れてから葛木家に引き取られたってことだよな」
「うん、そうだね」
「今まで、どうやって生きてきたんだ? 俺……、今さらかもしれないけど、月也のことちゃんと知りたい」
ぽつりと溢した言葉に月也は笑みを返した。
「知りたいの、俺のこと?」
「そりゃ……。一緒に住んでるのに、勤めてる会社すら教えてもらってなかったし。気になるだろ」
「満、あまり俺のことには興味ないのかなって思ってた。でも、知りたいなら教えるよ。何でも」
つまり、あくまで満が能動的に尋ねない限りは言わないつもりだったのだろう。月也は嬉しそうにしながら、空いた皿を重ねた。
「俺は満と別れた後、児童養護施設に送られたんだ。満もすぐに同じ場所に来ると思っていたんだけど、来なかった。俺は人殺しをしていたわけだし、幼い満と一緒にはできなかったんだろうね。そういう問題児ばかり集まってる施設に移されたんだ」
満は淡々と話し始める。目を伏せると長い睫毛の影が落ちた。
「しばらく経ったある日、施設に渋い爺さんが来たんだ。そしたらその爺さんは突然『お前は私の孫だから連れていく』って言ってきて。誰だこのジジイって思って最初は拒否したんだけど……それが父方の祖父だった。つまり、葛木商事のトップ。その日はすぐに帰ってくれたんだけど、また数日後に来た爺さんは、拒絶する俺に『弟に会いたくないのか』って言ってきた」
「え……?」
満は祖父と面識が一切ない。しかし、向こうは認識していたのか。
「俺はその頃、満に会えないことで荒んでいたから、その言葉にすぐ飛びついた。満の居所って、施設だと教えてもらえなかったんだよ。家族に対して加害した俺が一方的に離されることは、今思えば当然っちゃ当然なんだけど。当時はずっとそのことに苛々していて……とにかく、爺さんの言葉が、満に会うための一筋の光だったってわけ」
「それ、何歳くらいのときの話?」
「確か、十五歳になった頃だったかな」
かなり前の話だ。満と月也はすぐには再会できなかったということだ。満が不思議そうに眉根を寄せると、月也は苦笑した。
「爺さんはふんぞり返って、『わしの家で条件をクリアすれば満に会わせてやろう』とか偉そうに言ってきた」
「……そんな、ゲームみたいな」
「俺もそう思った。こっちは真剣なのに馬鹿にされてると思ったよ。でも信じきれない俺に、爺さんは一枚の紙切れを差し出してきた。何だと思う?」
「え? 何か証明するものだよな。戸籍謄本とか……? あるいは、家系図とか」
「あはは、そんなのじゃない。……満の写真だよ。ちょっと成長した、俺の知らない満の姿。それは爺さんが本当に、満の居場所を知っているという証拠になった」
「ちょ、ちょっと待って。俺、盗撮されてたってこと?」
月也は眉を下げて、少し申し訳なさそうに頷いた。
「爺さんは目的のために手段を選ばない人だった。俺を得るために満のことも調べたんだろう」
「どうしてそこまでして……」
満の疑問に、月也は「そう思うよね」と溜め息をついた。
「あの人は実力主義者でありながら、血筋に執着のあるややこしい人なんだ。曾祖父を深く尊敬していてね。
けれどあの人の息子二人はあまり出来が良くなかったから、新たな後継者候補として俺を育ててみようと思ったみたい。満はまだ小さかったから、とりあえず俺だけに注力したんだろう。本当に勝手だよな」
「息子二人って、父さんと伯父さんのこと? 伯父さんは、そんなに頭の悪い人のようには思わなかったけど」
「そうかもね。でも、爺さんの望むラインには届いていないみたいだった。あと、あの人やたらプライドが高いから扱いにくいんだろうね……。それに、内心爺さんに反発しているから、爺さんからしたら使いにくい駒なのかも」
「それ、月也は使いやすい駒だと思ってるって、言ってるみたいだけど」
月也の話からすると、自分の息子すら自分の損得で評価している人でなしのように聞こえる。月也はまた苦笑を漏らした。
「実際、そうだね。きっと、爺さんにとっては自分の息子よりも扱いやすい孫を拾えてラッキーだったっていうだけの話なんだよ。俺が満しかいらないってことを分かっていて、餌にすれば言うことをきくと思ったのかな。まあ、色々話すうちに俺も満と生きるためには力もお金も必要だと思っていたから納得して、利害は一致したから爺さんについていくことにしたんだけど」
満しかいらない、と何気なく言われたのをつい耳が拾ってしまった。その執着の意味するところを、今は深く考えないように努める。
月也は天井を仰ぎ見て、深く溜め息をついた。
「ただ、爺さんに着いていったことを最初は後悔したよ。だって満にすぐ会わせてもらえるかもって淡い期待をしていたら、『まず大学に行って、卒業まで経済を学べ』とか言うわけ。そのときの俺、十五歳だよ? 大学卒業までって、学部卒でも七年かかるでしょ。阿保かと思ったね」
「でも、行ったんだ?」
「うん、勉強してちゃんと稼いで迎えにいったほうが、満も安心するかなっていうこともあって。まあ、海外留学までさせられたときは気が気じゃなかったけどね。満のいる日本を離れるなんて冗談じゃないって猛抗議した。
結局行かないという選択肢は用意されてなくて、期間を短くしてもらったけどカリキュラムはそのままっていう、地獄を味わった」
「すごいな……」
その口振りからして、その詰め込まれたカリキュラムをすべてきちんとこなして帰国したのだろう。その胆力には感服する。同時に、祖父が月也を欲しがった理由がなんとなく分かった気もした。
「あと、結局焦れて自分で調べて、藤山の家まで辿り着いたりしたんだけど」
「え? 会いに来たことがあるのか?」
「うん。でも、会えなかった。その住所は満がいた施設の人からどうにか訊き出したんだけど、満を引き取る前の住所だったらしくて。藤山さん、満を引き取った直後に引っ越してたみたいで、その後は追えなかった。だから満の居場所も分からなかった」
「そうだったのか……」
そもそも、満は藤山家が引っ越しをしていたことすら知らなかった。ずっとあの家に住んでいるのだと、勝手に思い込んでいた。
「それで祖父に頼るしかなくて、仕方なく律儀に勉強を頑張った。家でも家庭教師がついてみっちりのカリキュラムだったけど、それをこなして無事に大学まで卒業できた。やっと満に会えるって浮かれてた」
「でも……」
その時点で、月也は二十二歳だ。満と再会した二十六歳まで、まだ四年ある。
「そう、まだ会えなかったんだ。祖父のところに乗り込んだら『条件を提示する』って言ってきて、殴りかかりそうになった。大学卒業までは前座だとか言い出したから……。
だけどあの人が満の身元の安全は確保していると言うから、もう少しだけ我慢しようと決めた。もうそこまで来たらやるだけやって会ってやろうと意地になってた」
「俺の身元の安全……? 知らないうちにボディガードでもつけられてたってわけ?」
「そうらしいよ。四六時中ってわけじゃないけど、たまに様子を見に行かせていたみたい」
会ったこともない祖父に今まで見張られていたかもしれないと思うと、少しだけ寒気がした。守られていたとはいえ、いい気分ではない。そうまでするなら、祖父自身が一回でも会いにくればいいものを。そう思ったが、月也の話からすると祖父は満にはあまり興味がなかったのだろう。
「で、結局その条件ってなんだったんだ?」
「会社のプロジェクトをいくつか立て直すこと、新規事業を成功させること、とか色々。新卒研修が終わった途端に色々なプロジェクトに放り込まれて、立て直しに尽力しろって言われた。周りはベテランも中堅もたくさんいるのにその人たちを差し置いてプロジェクトのリーダーにされたりして、まあまあしんどい日々を過ごした」
「そんなことしてたんだ……」
正直なところ、満はその仕事の大変さがよく分からない。そもそも、会社で働くということのイメージすら上手くできていないのだから、当然だ。それでも、当時を思い出してげんなりしている月也の顔を見れば、その大変さの片鱗が見える気がした。
今もそんなに多忙なのだろうかと、満は月也の激務を想像して顔を青くした。すると、月也はそれを見て軽く噴き出した。
「え、何? なんで笑ってんの?」
「いや、満は優しいなぁと思って。心配してくれてるんだろ?」
月也は心底嬉しそうだった。とにかく、満の気が自分にあることが嬉しいようだ。
「そんな無茶ぶりされてたって聞いたら、心配もするだろ。それで、そのプロジェクトは成功したのか?」
「なんとかね。……そういえばプロジェクトのひとつに照彦さんが統括して失敗させたプロジェクトがあって、それを再構築して成功させてから、あの人は俺を目の敵にしてるんだよね」
月也は照彦をプライドの高い人だと言っていた。きっと、そんな人がプロジェクトを失敗させたときの内心の落ち込みぶりはひどいものだっただろう。しかも、それを立て直すという尻拭いのようなことを、横から入ってきた若い社員にされたのだ。それは妬み嫉みも向けるようになってしまうかもしれない。
「そんなこんなで俺は条件クリア、ようやく満を迎えに来れた」
「でも、なんでそんな月也を釣るようなことしてたんだ? 先にさっさと俺と会わせてから、会わせてやったんだから会社のために尽力しろ、と言っても変わらなかったんじゃないか……?」
「それは、あの狸のみぞ知る、かな。まあ推測はできるよ、単に信用してなかったんだろ。俺は満がいればそれでいい人間だから、満と会わせたらすべてを放り投げて逃避行でもすると思ったんじゃない? 実際、もっと早く満と会ってたら、そうしてたかもね」
月也が満を見据えて顔を綻ばせた。その視線が孕む強い執着に、満は身震いしそうになった。
「……どうして、そこまでして俺を?」
ずっと、たった一人の弟だから執着を向けられているのだと思っていた。しかし、月也の愛情の中にあるものは、恐らく家族愛だけには留まらないものだ。
「どうして? そんなの、大切な弟だからに決まってる」
「それだけ?」
口に出してから一瞬で後悔した。月也が提示する大切な弟への愛情だけを享受すれば、きっとこのままの平穏さが保たれる。今までだって、そうやって言いたいことを飲み込んで、波風立たないように生きてきた。
けれど、月也に対してもそれでいいのかと思ってしまった。ずっと満を想っていてくれて、十年越しでも会いに来てくれた月也。向き合わなくていいのかと、頭の中のどこかから囁きが聞こえるようだった。
「……それだけって、どういうこと?」
月也は少し困ったように目を伏せた。何かに気付いた満に、気付いたのかもしれない。けれど、それを有耶無耶にしようとしている。このまま「やっぱり何でもない」と言ってしまえば、きっとこれ以上は進めなくなるだろう。
——自分は、この先に進みたいのだろうか?
「あのさ……月也、昨日帰ってきた後のこと、覚えてないって言ってたよな」
「え? うん。玄関先で満が迎えてくれたことは覚えてるけど……待って、俺、やっぱり何かしたの?」
月也の表情がみるみるうちに険しくなる。満は意を決して月也を見据えた。
「ベッドに月也を運んで、その後……いつも通り寝る体勢になったんだけど。月也が魘されてて、一回起こしたんだ」
「それは、さっき聞いたよね。ごめん、あんまり覚えていなくて……」
「いや、それはいいんだけど。問題はそれからで……」
体を確かめるように触れられたことを思い出し、顔が火照る。肌がざわつく感覚に、鼓動が少しだけ速くなる。
「俺のこと、触ったの……覚えてない?」
「……え」
おそるおそる吐露された満の言葉を聞いた瞬間は唖然として、けれどすぐに我に返ると、月也は椅子を蹴って立ち上がった。
愕然とした表情をしながら覚束ない足取りで歩み出し、満の前で膝を突いた。月也の顔が一気に蒼白になる。
「……夢かと、思ってたんだけど」
茫然自失に呟いた言葉から、やはり寝惚けていたのだと知る。月也はそのまま満の前で「ごめん」と頭を下げた。
まさか土下座されるとは思わず、満のほうが唖然と固まってしまう。
「気持ち悪かっただろ?」
絞り出された月也の声は震えていた。満ははっと我に返り、月也の頭を上げさせる。
「違う、違うんだ。謝って欲しいわけじゃなくて」
じっと、月也が見つめてくる。叱られた子供のように、次の言葉を真摯に待っている。
「俺の勝手かもしれないけど、ちゃんと知りたいっていうだけなんだ。月也の気持ちを。……俺は今まで他人の気持ちになんか興味なくて、全部シャットアウトしてた。期待するのも、されるのも怖くて……。
でも月也は、ずっと俺に対して真剣でいてくれただろ。なら、信じてみたい……。どういう答えを出せるかは分からないけど、ちゃんと受け止めたいと思ったんだ」
「…………」
月也は眩しそうに目を細めて、満を見上げていた。
「あの……駄目、かな」
月也はゆっくりとかぶりを振る。
「駄目なわけ、ない……。満に、全部知って欲しい。俺の気持ちを、知ってくれるの?」
真っ直ぐに満を見つめる双眸と視線が交わる。小さく頷くと、月也は泣きそうな顔で微笑んだ。
「月也、あのさ……もうひとつ、言っておきたいことがあるんだけど……」
「なに?」
「触れられたとき、気持ち悪いとか思わなかった。嫌じゃなかったよ……」
月也は目を丸くしてまた固まってしまった。
それからぐっと何かを堪えたように俯いてしまう。
「つき……」
また土下座でもするのかと焦ったが、その耳元が赤く染まっていることに気が付いて、満は目を瞠った。
月也が、照れているのか。いつも悠々としている月也のそんな様子を、初めて見た。
満は刮目して眺めてしまう。目の前にいる男がどうにも可愛く思えてしまって、自分の頭を疑った。
「……満って、やっぱりちょっと無防備だ」
「え?」
「そんなことを言われたら……。いや、ごめん。なんでもない」
月也はそっと満の手を取った。童話に出てくる王子のように膝立ちになって、両手でそっと満の手を包む。
「俺は、満がいればそれでいい。他には何もいらない。本当に、いらないんだ」
「月、也……」
月也は祈るように、その手を額に当てた。
「好きだ。家族としても一人の人間としても、満を愛してる。満が望むものは、俺が全部あげるよ。だからどうか、ずっと俺と一緒にいて……」
再会のときにも言われた言葉だ。重くて、深くて、心の奥まで染み込んでくる月也の愛情に眩暈がした。
受け止めたいという言葉は、決して軽い気持ちで言ったつもりはなかった。しかし、それでも自分の覚悟はまだ甘かったのだと思わざるを得ない。
月也は満が何も言葉を返せないのを見て、一息をついた。
「ごめん、この続きは夜にしよう。俺、今あまり冷静じゃないしね」
いつも通りの整った顔に苦笑を浮かべて、月也は満の頭を撫でていく。先ほどまで月也のほうが子供のようだったのに、突然大人の顔をするところはずるい。
立ち上がった後は月也は行動が速く、さっさとスーツを着て準備を済ませていった。
そして仕事に向かう月也を玄関で見送り、月也が出ていった後のドアが閉まると急速に体から力が抜けそうになる。へたり込んでしまいそうになるのを堪えながら、リビングに戻り、ソファに寝転んだ。今日がバイトも学校も休みの日でよかったと思う。
天井を仰ぎ見て、深呼吸をする。窓から通る風が心地よくなってきた。
(もう、夏も終わりかな……)
この濃厚なひと夏の終わりを前に、満は大きな岐路に立っていた。
月也の気持ちに対してどうするかで、きっとこの先の満の人生は大きく変わっていく。
けれど、不思議と不安はなかった。月也は、満がどんな答えを選んでも、きっと尊重してくれると、信じてしまえるほどに月也の満への愛は伝わっていた。
月也の愛情に甘えているのかもしれない。けれど、それでも許してくれるはずだという確信は、この人生で感じたことのない安心感をもたらした。いつの間にか、こんなにも月也を信頼している。
月也の言う通り、自分は少し無防備かもしれないと自嘲した。
そしてふと、照彦の言葉を思い出す。月也のことを悪魔だと称していた、伯父の言葉を頭の中で反芻する。
月也が何を考えているのか分からなかった。しかし、先ほど満に頭を垂れて懇願した月也の切実な想いは、嘘だとは思えなかった。
満は、会社に向かっているであろう月也を想い、頭の中で話しかけた。
(月也。たとえ月也が悪魔だったとしても、いいよ。その想いだけは——信じるよ)
満はそっと瞼を閉じる。月也を信じたい。それだけは、満の心の中で定まっている気持ちだった。
その最中に月也が起きてきた。横目に見遣れば、シャツはくしゃくしゃに皺が付いている。しかし、その顔には目を合わせられずにすぐ俯いた。
「満、昨日はごめん」
真っ先に謝罪をされて目を瞠る。昨日のことを覚えているのか。
「ど、どれのこと……?」
一応訊くと、月也は小首を傾げる。
「どれ? 俺が酔っ払って帰ってきたことだよ。ベッドまで連れて行ってくれたんだろ。迷惑かけたね」
「い、いや。それはいいけど」
そっちか、とどきどきして、どうにもしどろもどろな回答になってしまう。
「昨日、家に帰ってきてからの記憶がないんだよね……。玄関先で満の顔を見たのは覚えてるんだけど。他に変なことしてない?」
満は勢いよく頷いた。覚えていないのか、と安堵すると同時に複雑な気持ちになる。気まずい思いをしているのは自分だけか、と。
「あ、でも……悪夢に魘されてたっぽい、けど」
「ごめん、うるさかった? 昔から、たまに見るんだ。満と再会してからは見てなかったけど、酔って眠りが浅かったのかな」
「うるさいとかはないけど。でも、たしかにずいぶん酔っ払ってたよな……」
少しだけ、棘を乗せた声になった。月也は途端に苦虫を噛み潰したような表情をする。
「普段はセーブするんだけど、断れない相手との会食でね。ほとんど嫌がらせで酒を追加されたんだ。
……くそ、満の前であんまりみっともない姿を晒したくなかったんだけど」
それは、兄として? それとも、好きだから——? 喉まで出かかった質問の女々しさに自分で鬱陶しくなり、声を飲み込んだ。
昨晩風呂に入らないまま寝てしまっていたからか、月也は必要以上に満に近づかず、そのまま風呂場に向かった。
満は一人になってわずかに安堵する。そして、自分が緊張していたことに気が付いた。気恥ずかしさで、月也の顔を上手く見られなかった。月也に気付かれてないだろうかと思うと、少し落ち着かない気分になる。
月也がシャワーを浴びて戻ってきてから、二人で朝食をとった。無駄に早くから準備していたから、鮭の塩焼きに卵焼き、ほうれんそうの胡麻和え、味噌汁と、おかずが多くなってしまった。
部屋に入ってきて朝食のメニューを見た途端、月也は嬉しそうに歓声を上げた。
「やった、和食だ。嬉しいけど、朝早くからこんなしっかり作ってくれたの?」
「月也、昨日かなり酔っ払ってたし、しっかり栄養とったほうがいいかなって」
そう思ったのは本当だ。最初は味噌汁だけ作ろうと思ったのだが、時間があったから色々追加してしまった。
「俺のために? 嬉しい。ありがとう」
月也はてらいなく満に向かって微笑んだ。その笑みをまともに見れず、すぐに食べる振りをして目を逸らした。
しばらく黙々と食べ進めていたが、ふと昨日のことを思い出した。夜の出来事が濃すぎて頭から抜けていたが、伯父に会ったのだった。
(やっぱり、月也に言った方がいいよな?)
視線だけ月也に向けてみると、しっかりと満を見ていた月也と目が合ってしまった。月也は満と食事をするとき、いつもじっと満を見ている。見すぎだと注意するとそのとき初めて気付いたように驚いて謝られるが、気付くとまた見られているから、ほとんど無意識なのだろう。
「……月也、見すぎだってば」
「え? ああ、ごめんごめん。無意識に見ちゃうな。物を食べてる満、可愛いんだもん」
「だもん、て」
そんな子供みたいな言い方をされても。
以前は再会したての弟がちゃんと食べているか心配してくれているのか、などと思っていたが、昨日のやり取りを思い返せば庇護的な感情だけではないのかもしれない。そう考えると、ますます見つめられていることが気恥ずかしくなる。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど。恥ずかしい、から。そんなに見ないでくれない……?」
「え……」
月也がぴたりと箸を止めて固まってしまった。
「? なに?」
「なんか、満が……。いや、なんでもない」
言い淀む月也に、満は首を傾げた。
「そこまで言ったら言ってくれよ? 気になるだろ」
「なんか……恥ずかしがるの、ちょっとやらしいなって」
「!? ……っ、何言ってんだ馬鹿!」
味噌汁を噴き出してしまいそうになって焦って飲み込んだ。昨晩のことで意識をしてしまい、つい大きな声を出してしまった。
「ごめん。だから言うのやめようと思ったのに」
月也もさすがにまずいと思ったのか、咳払いをして誤魔化した。
満は火照った顔を冷ますように水を一杯飲み干した。そしてこの、ほんのり桃色を纏ってしまった空気を変えようと口を開いた。
「そ、そういえば昨日、伯父さんだっていう人に会ったんだけど……」
勢いで引っ張り出してきた話題を口にした瞬間、途端に月也が顔を顰めた。
「は? 伯父さんって……照彦さん?」
「うん。昨日、学校帰りに会って」
先ほどまで機嫌が良かった月也のテンションがみるみる下がっていくのが目に見えた。
「はぁ、なるほど。それで会食を入れられたわけか……」
「え、何?」
「いや、こっちの話。それで? あの人に何か言われた? 変なことされなかった?」
「いや、少し車に乗せてもらって話しただけ……」
そう言った瞬間、月也は身を乗り出した。
「はあ? 車!? 満、それはさすがに無防備すぎ!」
「えっ!?」
突然声を荒げた月也にたじろいでしまうと、月也はハッと我に返ったように深呼吸をして自らを落ち着ける。
「あー……、大声出してごめん。でも伯父さんとはいえ、照彦さんって初対面の人でしょ。そんなすぐに信用をして着いていっちゃダメだよ。悪い人だったらどうするの」
「それ、初手で一緒に住もうって言ってきた月也が言う?」
子供に言い聞かせるような月也の態度に少しだけ苛立って棘のある返しをすると、月也は反論できなかったようでむっつりと唇を尖らせた。
「それは、そうだけど。俺は満の兄だよ? 昔、ずっと一緒に暮らしてたんだよ? 照彦さんとは違うでしょ」
「俺にとっては、そう変わらないし」
「…………」
月也は絶句していた。さすがに怒ったかと思ったが、月也はむしろ怒られた犬のように萎れていた。
「そうだよな。俺が勝手に連れてきただけで、別に満は俺のこと覚えてなかったもんな」
「お、覚えてなかったわけじゃないけど」
急にどんよりとし始めた月也に慌てて弁明する。月也は気を取り直すように背筋を伸ばした。
「はぁ、それはいいんだ。覚悟してたから。それより、初対面の照彦さんと何を話したの」
「会社のこととか聞いた。月也も葛木商事に勤めてるんだろ?」
「うん。話してなかったっけ。……ちょっと待ってて」
月也は席を立つと、鞄から小さなカードケースを取り出した。席に戻ってくると、ケースの中から名刺を取り出して満へ差し出す。
そこには照彦と同じく葛木商事株式会社の名前がある。
「経営企画部……伯父さんと同じ部署ってこと?」
「そうだよ」
「〝経営企画部ゼネラルマネージャー〟? 確か伯父さんはマネージャーだったと思うけど、これってどっちが上の役職なんだ……?」
「それは、俺だね。ゼネラルマネージャーっていうのは、マネージャーの統括役だから」
なんでもないことのようにさらっと返す月也に満は瞠目した。
「え……っ? 待って、月也って伯父さんより上の役職なのか!? まだ二十六歳なのに? 伯父さん、父さんの兄ってことは四十歳は超えてるだろ?」
「うん、まあ一応ね。爺さんが……あ、爺さんのことは訊いた?」
「お祖父さんだよな? 少しだけ」
「そう。あの人が徹底的な実力主義者だから、俺のほうが適任だと判断したらあっという間に地位を上げてくれた。照彦さんは前任なんだ。要は、降ろされたってこと」
なんとなく照彦が月也を嫌っているような空気は感じていたが、その理由が理解できた。あの人は、月也にポストを奪われたのだ。おそらくそれを妬み、月也を引き摺り下ろすためのネタを探しているのだろう。
「月也は、十三年前のあの日、俺と別れてから葛木家に引き取られたってことだよな」
「うん、そうだね」
「今まで、どうやって生きてきたんだ? 俺……、今さらかもしれないけど、月也のことちゃんと知りたい」
ぽつりと溢した言葉に月也は笑みを返した。
「知りたいの、俺のこと?」
「そりゃ……。一緒に住んでるのに、勤めてる会社すら教えてもらってなかったし。気になるだろ」
「満、あまり俺のことには興味ないのかなって思ってた。でも、知りたいなら教えるよ。何でも」
つまり、あくまで満が能動的に尋ねない限りは言わないつもりだったのだろう。月也は嬉しそうにしながら、空いた皿を重ねた。
「俺は満と別れた後、児童養護施設に送られたんだ。満もすぐに同じ場所に来ると思っていたんだけど、来なかった。俺は人殺しをしていたわけだし、幼い満と一緒にはできなかったんだろうね。そういう問題児ばかり集まってる施設に移されたんだ」
満は淡々と話し始める。目を伏せると長い睫毛の影が落ちた。
「しばらく経ったある日、施設に渋い爺さんが来たんだ。そしたらその爺さんは突然『お前は私の孫だから連れていく』って言ってきて。誰だこのジジイって思って最初は拒否したんだけど……それが父方の祖父だった。つまり、葛木商事のトップ。その日はすぐに帰ってくれたんだけど、また数日後に来た爺さんは、拒絶する俺に『弟に会いたくないのか』って言ってきた」
「え……?」
満は祖父と面識が一切ない。しかし、向こうは認識していたのか。
「俺はその頃、満に会えないことで荒んでいたから、その言葉にすぐ飛びついた。満の居所って、施設だと教えてもらえなかったんだよ。家族に対して加害した俺が一方的に離されることは、今思えば当然っちゃ当然なんだけど。当時はずっとそのことに苛々していて……とにかく、爺さんの言葉が、満に会うための一筋の光だったってわけ」
「それ、何歳くらいのときの話?」
「確か、十五歳になった頃だったかな」
かなり前の話だ。満と月也はすぐには再会できなかったということだ。満が不思議そうに眉根を寄せると、月也は苦笑した。
「爺さんはふんぞり返って、『わしの家で条件をクリアすれば満に会わせてやろう』とか偉そうに言ってきた」
「……そんな、ゲームみたいな」
「俺もそう思った。こっちは真剣なのに馬鹿にされてると思ったよ。でも信じきれない俺に、爺さんは一枚の紙切れを差し出してきた。何だと思う?」
「え? 何か証明するものだよな。戸籍謄本とか……? あるいは、家系図とか」
「あはは、そんなのじゃない。……満の写真だよ。ちょっと成長した、俺の知らない満の姿。それは爺さんが本当に、満の居場所を知っているという証拠になった」
「ちょ、ちょっと待って。俺、盗撮されてたってこと?」
月也は眉を下げて、少し申し訳なさそうに頷いた。
「爺さんは目的のために手段を選ばない人だった。俺を得るために満のことも調べたんだろう」
「どうしてそこまでして……」
満の疑問に、月也は「そう思うよね」と溜め息をついた。
「あの人は実力主義者でありながら、血筋に執着のあるややこしい人なんだ。曾祖父を深く尊敬していてね。
けれどあの人の息子二人はあまり出来が良くなかったから、新たな後継者候補として俺を育ててみようと思ったみたい。満はまだ小さかったから、とりあえず俺だけに注力したんだろう。本当に勝手だよな」
「息子二人って、父さんと伯父さんのこと? 伯父さんは、そんなに頭の悪い人のようには思わなかったけど」
「そうかもね。でも、爺さんの望むラインには届いていないみたいだった。あと、あの人やたらプライドが高いから扱いにくいんだろうね……。それに、内心爺さんに反発しているから、爺さんからしたら使いにくい駒なのかも」
「それ、月也は使いやすい駒だと思ってるって、言ってるみたいだけど」
月也の話からすると、自分の息子すら自分の損得で評価している人でなしのように聞こえる。月也はまた苦笑を漏らした。
「実際、そうだね。きっと、爺さんにとっては自分の息子よりも扱いやすい孫を拾えてラッキーだったっていうだけの話なんだよ。俺が満しかいらないってことを分かっていて、餌にすれば言うことをきくと思ったのかな。まあ、色々話すうちに俺も満と生きるためには力もお金も必要だと思っていたから納得して、利害は一致したから爺さんについていくことにしたんだけど」
満しかいらない、と何気なく言われたのをつい耳が拾ってしまった。その執着の意味するところを、今は深く考えないように努める。
月也は天井を仰ぎ見て、深く溜め息をついた。
「ただ、爺さんに着いていったことを最初は後悔したよ。だって満にすぐ会わせてもらえるかもって淡い期待をしていたら、『まず大学に行って、卒業まで経済を学べ』とか言うわけ。そのときの俺、十五歳だよ? 大学卒業までって、学部卒でも七年かかるでしょ。阿保かと思ったね」
「でも、行ったんだ?」
「うん、勉強してちゃんと稼いで迎えにいったほうが、満も安心するかなっていうこともあって。まあ、海外留学までさせられたときは気が気じゃなかったけどね。満のいる日本を離れるなんて冗談じゃないって猛抗議した。
結局行かないという選択肢は用意されてなくて、期間を短くしてもらったけどカリキュラムはそのままっていう、地獄を味わった」
「すごいな……」
その口振りからして、その詰め込まれたカリキュラムをすべてきちんとこなして帰国したのだろう。その胆力には感服する。同時に、祖父が月也を欲しがった理由がなんとなく分かった気もした。
「あと、結局焦れて自分で調べて、藤山の家まで辿り着いたりしたんだけど」
「え? 会いに来たことがあるのか?」
「うん。でも、会えなかった。その住所は満がいた施設の人からどうにか訊き出したんだけど、満を引き取る前の住所だったらしくて。藤山さん、満を引き取った直後に引っ越してたみたいで、その後は追えなかった。だから満の居場所も分からなかった」
「そうだったのか……」
そもそも、満は藤山家が引っ越しをしていたことすら知らなかった。ずっとあの家に住んでいるのだと、勝手に思い込んでいた。
「それで祖父に頼るしかなくて、仕方なく律儀に勉強を頑張った。家でも家庭教師がついてみっちりのカリキュラムだったけど、それをこなして無事に大学まで卒業できた。やっと満に会えるって浮かれてた」
「でも……」
その時点で、月也は二十二歳だ。満と再会した二十六歳まで、まだ四年ある。
「そう、まだ会えなかったんだ。祖父のところに乗り込んだら『条件を提示する』って言ってきて、殴りかかりそうになった。大学卒業までは前座だとか言い出したから……。
だけどあの人が満の身元の安全は確保していると言うから、もう少しだけ我慢しようと決めた。もうそこまで来たらやるだけやって会ってやろうと意地になってた」
「俺の身元の安全……? 知らないうちにボディガードでもつけられてたってわけ?」
「そうらしいよ。四六時中ってわけじゃないけど、たまに様子を見に行かせていたみたい」
会ったこともない祖父に今まで見張られていたかもしれないと思うと、少しだけ寒気がした。守られていたとはいえ、いい気分ではない。そうまでするなら、祖父自身が一回でも会いにくればいいものを。そう思ったが、月也の話からすると祖父は満にはあまり興味がなかったのだろう。
「で、結局その条件ってなんだったんだ?」
「会社のプロジェクトをいくつか立て直すこと、新規事業を成功させること、とか色々。新卒研修が終わった途端に色々なプロジェクトに放り込まれて、立て直しに尽力しろって言われた。周りはベテランも中堅もたくさんいるのにその人たちを差し置いてプロジェクトのリーダーにされたりして、まあまあしんどい日々を過ごした」
「そんなことしてたんだ……」
正直なところ、満はその仕事の大変さがよく分からない。そもそも、会社で働くということのイメージすら上手くできていないのだから、当然だ。それでも、当時を思い出してげんなりしている月也の顔を見れば、その大変さの片鱗が見える気がした。
今もそんなに多忙なのだろうかと、満は月也の激務を想像して顔を青くした。すると、月也はそれを見て軽く噴き出した。
「え、何? なんで笑ってんの?」
「いや、満は優しいなぁと思って。心配してくれてるんだろ?」
月也は心底嬉しそうだった。とにかく、満の気が自分にあることが嬉しいようだ。
「そんな無茶ぶりされてたって聞いたら、心配もするだろ。それで、そのプロジェクトは成功したのか?」
「なんとかね。……そういえばプロジェクトのひとつに照彦さんが統括して失敗させたプロジェクトがあって、それを再構築して成功させてから、あの人は俺を目の敵にしてるんだよね」
月也は照彦をプライドの高い人だと言っていた。きっと、そんな人がプロジェクトを失敗させたときの内心の落ち込みぶりはひどいものだっただろう。しかも、それを立て直すという尻拭いのようなことを、横から入ってきた若い社員にされたのだ。それは妬み嫉みも向けるようになってしまうかもしれない。
「そんなこんなで俺は条件クリア、ようやく満を迎えに来れた」
「でも、なんでそんな月也を釣るようなことしてたんだ? 先にさっさと俺と会わせてから、会わせてやったんだから会社のために尽力しろ、と言っても変わらなかったんじゃないか……?」
「それは、あの狸のみぞ知る、かな。まあ推測はできるよ、単に信用してなかったんだろ。俺は満がいればそれでいい人間だから、満と会わせたらすべてを放り投げて逃避行でもすると思ったんじゃない? 実際、もっと早く満と会ってたら、そうしてたかもね」
月也が満を見据えて顔を綻ばせた。その視線が孕む強い執着に、満は身震いしそうになった。
「……どうして、そこまでして俺を?」
ずっと、たった一人の弟だから執着を向けられているのだと思っていた。しかし、月也の愛情の中にあるものは、恐らく家族愛だけには留まらないものだ。
「どうして? そんなの、大切な弟だからに決まってる」
「それだけ?」
口に出してから一瞬で後悔した。月也が提示する大切な弟への愛情だけを享受すれば、きっとこのままの平穏さが保たれる。今までだって、そうやって言いたいことを飲み込んで、波風立たないように生きてきた。
けれど、月也に対してもそれでいいのかと思ってしまった。ずっと満を想っていてくれて、十年越しでも会いに来てくれた月也。向き合わなくていいのかと、頭の中のどこかから囁きが聞こえるようだった。
「……それだけって、どういうこと?」
月也は少し困ったように目を伏せた。何かに気付いた満に、気付いたのかもしれない。けれど、それを有耶無耶にしようとしている。このまま「やっぱり何でもない」と言ってしまえば、きっとこれ以上は進めなくなるだろう。
——自分は、この先に進みたいのだろうか?
「あのさ……月也、昨日帰ってきた後のこと、覚えてないって言ってたよな」
「え? うん。玄関先で満が迎えてくれたことは覚えてるけど……待って、俺、やっぱり何かしたの?」
月也の表情がみるみるうちに険しくなる。満は意を決して月也を見据えた。
「ベッドに月也を運んで、その後……いつも通り寝る体勢になったんだけど。月也が魘されてて、一回起こしたんだ」
「それは、さっき聞いたよね。ごめん、あんまり覚えていなくて……」
「いや、それはいいんだけど。問題はそれからで……」
体を確かめるように触れられたことを思い出し、顔が火照る。肌がざわつく感覚に、鼓動が少しだけ速くなる。
「俺のこと、触ったの……覚えてない?」
「……え」
おそるおそる吐露された満の言葉を聞いた瞬間は唖然として、けれどすぐに我に返ると、月也は椅子を蹴って立ち上がった。
愕然とした表情をしながら覚束ない足取りで歩み出し、満の前で膝を突いた。月也の顔が一気に蒼白になる。
「……夢かと、思ってたんだけど」
茫然自失に呟いた言葉から、やはり寝惚けていたのだと知る。月也はそのまま満の前で「ごめん」と頭を下げた。
まさか土下座されるとは思わず、満のほうが唖然と固まってしまう。
「気持ち悪かっただろ?」
絞り出された月也の声は震えていた。満ははっと我に返り、月也の頭を上げさせる。
「違う、違うんだ。謝って欲しいわけじゃなくて」
じっと、月也が見つめてくる。叱られた子供のように、次の言葉を真摯に待っている。
「俺の勝手かもしれないけど、ちゃんと知りたいっていうだけなんだ。月也の気持ちを。……俺は今まで他人の気持ちになんか興味なくて、全部シャットアウトしてた。期待するのも、されるのも怖くて……。
でも月也は、ずっと俺に対して真剣でいてくれただろ。なら、信じてみたい……。どういう答えを出せるかは分からないけど、ちゃんと受け止めたいと思ったんだ」
「…………」
月也は眩しそうに目を細めて、満を見上げていた。
「あの……駄目、かな」
月也はゆっくりとかぶりを振る。
「駄目なわけ、ない……。満に、全部知って欲しい。俺の気持ちを、知ってくれるの?」
真っ直ぐに満を見つめる双眸と視線が交わる。小さく頷くと、月也は泣きそうな顔で微笑んだ。
「月也、あのさ……もうひとつ、言っておきたいことがあるんだけど……」
「なに?」
「触れられたとき、気持ち悪いとか思わなかった。嫌じゃなかったよ……」
月也は目を丸くしてまた固まってしまった。
それからぐっと何かを堪えたように俯いてしまう。
「つき……」
また土下座でもするのかと焦ったが、その耳元が赤く染まっていることに気が付いて、満は目を瞠った。
月也が、照れているのか。いつも悠々としている月也のそんな様子を、初めて見た。
満は刮目して眺めてしまう。目の前にいる男がどうにも可愛く思えてしまって、自分の頭を疑った。
「……満って、やっぱりちょっと無防備だ」
「え?」
「そんなことを言われたら……。いや、ごめん。なんでもない」
月也はそっと満の手を取った。童話に出てくる王子のように膝立ちになって、両手でそっと満の手を包む。
「俺は、満がいればそれでいい。他には何もいらない。本当に、いらないんだ」
「月、也……」
月也は祈るように、その手を額に当てた。
「好きだ。家族としても一人の人間としても、満を愛してる。満が望むものは、俺が全部あげるよ。だからどうか、ずっと俺と一緒にいて……」
再会のときにも言われた言葉だ。重くて、深くて、心の奥まで染み込んでくる月也の愛情に眩暈がした。
受け止めたいという言葉は、決して軽い気持ちで言ったつもりはなかった。しかし、それでも自分の覚悟はまだ甘かったのだと思わざるを得ない。
月也は満が何も言葉を返せないのを見て、一息をついた。
「ごめん、この続きは夜にしよう。俺、今あまり冷静じゃないしね」
いつも通りの整った顔に苦笑を浮かべて、月也は満の頭を撫でていく。先ほどまで月也のほうが子供のようだったのに、突然大人の顔をするところはずるい。
立ち上がった後は月也は行動が速く、さっさとスーツを着て準備を済ませていった。
そして仕事に向かう月也を玄関で見送り、月也が出ていった後のドアが閉まると急速に体から力が抜けそうになる。へたり込んでしまいそうになるのを堪えながら、リビングに戻り、ソファに寝転んだ。今日がバイトも学校も休みの日でよかったと思う。
天井を仰ぎ見て、深呼吸をする。窓から通る風が心地よくなってきた。
(もう、夏も終わりかな……)
この濃厚なひと夏の終わりを前に、満は大きな岐路に立っていた。
月也の気持ちに対してどうするかで、きっとこの先の満の人生は大きく変わっていく。
けれど、不思議と不安はなかった。月也は、満がどんな答えを選んでも、きっと尊重してくれると、信じてしまえるほどに月也の満への愛は伝わっていた。
月也の愛情に甘えているのかもしれない。けれど、それでも許してくれるはずだという確信は、この人生で感じたことのない安心感をもたらした。いつの間にか、こんなにも月也を信頼している。
月也の言う通り、自分は少し無防備かもしれないと自嘲した。
そしてふと、照彦の言葉を思い出す。月也のことを悪魔だと称していた、伯父の言葉を頭の中で反芻する。
月也が何を考えているのか分からなかった。しかし、先ほど満に頭を垂れて懇願した月也の切実な想いは、嘘だとは思えなかった。
満は、会社に向かっているであろう月也を想い、頭の中で話しかけた。
(月也。たとえ月也が悪魔だったとしても、いいよ。その想いだけは——信じるよ)
満はそっと瞼を閉じる。月也を信じたい。それだけは、満の心の中で定まっている気持ちだった。
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