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7.朧月
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その晩、月也が帰ってきてから満の作った夕食を一緒に食べた。しかし、月也は口数が少なく、この日は珍しく静かな食卓だった。いつもは月也が他愛のない話をしたり、満に色々と質問をしたりして、なんだかんだ朗らかな空気を作ってくれていたのだなと実感する。
しかし今朝のことを思えば、今日は仕方ないだろうとも思う。月也も動揺したことだろう。
てっきり夕食の折にでも朝の続きの話になるかと思ったが、月也は特に何も言わなかった。こちらから切り出すのも気が引けて、満はただ月也が話し出すのを待っていた。
夕食を終えて食器を洗おうとすると、月也がそれを止めた。
「俺がやっておくよ。満は風呂に入っておいで」
月也が諭すように言うときは、そうして欲しいという願いのようなものだというのが最近分かってきた。満は反発する理由もないため、大人しく皿洗いを任せて風呂に入ることにした。
風呂から出ると、月也はキッチンには立っていなかった。いつもならソファかダイニングに座っているのだが、いない。
少し部屋を見渡すと、珍しくベランダに出ている月也の後ろ姿が見えた。
ベランダに続く窓を開けると、優しい夜風が頬を撫でる。風呂に入って火照った体が、涼しい空気の中で落ち着いていくのは心地がよかった。
満に気付いた月也は、振り返ると「湯冷めするから中に戻ろう」とすぐに手を引こうとした。満はそれをやんわりと押し戻した。
「大丈夫だよ。俺も少し夜風に当たりたい」
「そう? あ、カーディガンを持ってこようか?」
「大丈夫だって」
どこまでも過保護な月也に、つい笑みが零れる。
「寒くなったら言うよ」
「うん、そうして」
月也はそれきり黙って外の景色を眺め始めた。満もベランダの手すりに腕を乗せて、ぼんやりと外を眺めた。
思えば、この家に来てからベランダに出たのは初めてだった。駅にほど近いマンションのため、眼下の繁華街の賑わいがよく見えた。
空を見上げても、地上がこの明るさでは星は見えない。しかし、夜空にぽっかりと浮かぶ月だけは、大きくよく見えた。
「満、朝の続き……話してもいい? 長くなるかもしれないけれど」
月也が静かに尋ねてくる。満は「うん」と返す。
「……あと、満には辛い話もあるかもしれない。前に言った通り、満の思っている父親像とは少し、違うから」
「うん……。大丈夫、今は、月也を信じるよ。月也の話が、聴きたい」
「そっか。……ありがとう」
月也はそう言うと、滔々と語り始めた。
◆
満がまだ生まれておらず、月也もまだ幼かった頃の話だ。父親が暴力を振るうようになったのは、起こした事業が失敗した後だった。酒に溺れ、母に執着し、機嫌を損ねればすぐに拳が飛んできた。
その頃にはまだ家に母もいたが、彼女は自分に振るわれる暴力に耐えることで精一杯で、子供を守るだけの余力はなかった。月也は物心ついた頃から痛みの中で生きていて、それが月也の普通だった。荒んだ世界に楽しいことなど何一つなかった。
体は傷と痣だらけ。半分割れた姿見の鏡を前にして思うのは、なんて醜いのだろうかということだけだった。幼稚園の同級生たちは皆、転んでできた擦り傷しかないのに、自分の体には赤黒い痣が点在していた。
ある日、父に顔を殴られて、痣ができたことがあった。小学校に上がった頃だった。そのまま登校すると、同級生たちの反応は二分していた。腫れ物を扱うかのように月也を避けるか、醜い顔を嗤うかのどちらかだ。
月也の顔を見てくすくすと笑う同級生を前に、堪忍袋の緒が切れて——月也は、同級生を殴り倒した。
当然、それは教師にこっぴどく叱られたし、相手の親にも叱られた。母は泣いていた。
「月也、人を殴るなんてダメよ」
「父さんは、いつもそうしてるだろ」
「そうよ。だからダメなのよ。月也はお父さんと同じにならないで。人を傷つける人にならないで……」
さめざめと泣く母を前に、月也は小首を傾げた。母は父が殴りつけても何も言わないくせに、自分には言うのかという苛立ちが募った。
外を歩けば、奇怪なものを見るかのような視線が刺さる。
「あの子、虐待されているんでしょう」
「それなのに、他の子供を殴ったの? 痛みが分からないのかしら」
近所の人の噂話が耳に入るたびに、うるさいと怒鳴りつけてしまいたくなる衝動に襲われたけれど、堪えて睨み付けるだけに抑えた。
井戸端会議をしていた近所の人たちは月也の視線に気が付くと、ばつが悪そうに口を閉ざした。
しかし月也が通り過ぎると、また後ろから顰めた声が聞こえてくる。
「やだ、さっきの目、見た?」
「怖いわ……。やっぱり悪魔の子は悪魔なのかしら」
その言葉に、胸が苦しくなる。月也に対する嫌悪感が増幅しているのがよく分かった。
好きで悪魔の子に生まれてきたわけじゃない。好きで殴りたいわけじゃない。そう叫び出したかった。それしか、分からなかったのだ。
月也はずっと宙ぶらりんで生きているような感覚だった。海に沈むような、空に浮かぶような。止まり木を失った鳥のようで、それはただ疲れるばかりで決して良い心地ではない。ずっと息苦しくて、安息の地が欲しくて、夜中には人知れず涙を流した。
そんなある日のことだった。突然、母が子供を孕んだ。母はお腹にいる子供を生むことに決め、父の暴力からずっとお腹の子を守っていた。そして運よく胎の中で大きく育った子供は、この世に誕生することとなった。月也が十歳になる頃だった。
しかし月也は、気が重かった。どうせ守りきれやしない子供なのだから、生まなければいいのにと思う。母はどこか夢見がちなところがあり、まだ自分は子供を守れるのだという幻想を抱いている節があった。
父親に殴られた後、母に「守れなくてごめんね」と泣かれることが多々あったが、月也は悲劇のヒロインのように涙を流す母に憐憫の感情など全く持てず、ただ鬱陶しく思うばかりだった。子供が二人に増えたら、その鬱陶しさも二倍だろうかと思うと、ただただ、うんざりするだけだった。
母が入院している間は地獄だった。父の怒りの矛先はすべて自分に向く。ただただ機嫌を損ねないようにすることに尽力する日々だった。けれど母親に早く帰ってこいとは思わなかった。むしろ、このまま子供と共に逃げてしまえと、願いに似た感情を抱いていた。
しかし月也の願いとは裏腹に、母親は子供を連れて帰ってきた。
まだ生まれたばかりの小さな子供をこの地獄に連れ帰ってくる考えなしの加減のなさに苛立った。遠目に見ても小さくて、脆くてすぐ死んでしまいそうだと思った。
「月也、あなたがこの子のお兄ちゃんなのよ」
そう言われても、心は動かなかった。自分が先に生まれたのだからそれはそうだろう、とただ事実として受け止めていた。
しかし何を勘違いしたのか、母は「恥ずかしがらないでいいのよ」とくすくす笑っていた。今思えば、母親はあのときが一番幸せそうだったかもしれない。
「ほら、おいで」
手を引いてくる母に逆らう強い理由もなく、月也は子供の元へ歩み寄る。
「分かったから……」
「満、あなたのお兄ちゃんよ」
弟の名前は満というのかと思いながら、何の感慨も無いまま赤子の顔を覗いてみる。
——そのとき、時が止まった気がした。じっと、子供の澄んだ瞳が月也を捉えていた。
後から知った話だが、生まれたばかりの子供は視界がはっきりしていないのだという。形を捉えることはできるようだが、顔の判別などはできないのだとか。それでもそのとき、はっきりと目が合ったと思った。
深い海のような青色が混じった瞳の中に、月也の姿が映っていた。吸い込まれそうになるその瞳に自分の汚い姿を映したくないような気がしてそっと顔を逸らすと、その瞬間に「ふえっ」と鳴き声が上がった。なんだ、と思ったのも束の間、そのまま子供は泣き出してしまった。
「え、え? なに? なんで泣いてるの」
思わず月也も戸惑った。子供の相手をするなんて初めてで、どうして泣いているのか、ちっとも分からない。
「あら、お腹が空いたのかしら? ミルクをあげないと。タオル持ってくるから、月也、ちょっと見ててね」
「え、ちょ……っ」
母親はさっさと立ち上がって行ってしまう。泣いている子供と二人で取り残された月也はどうしたらいいか分からず、おろおろと惑うばかりだった。
「ちょ、ちょっと待ってろよ? 今、母さんがご飯の準備してるから」
そんなことを言っても理解できないだろうということは分かっていたが、なんとなく焦って話しかけてしまう。満は「あー、あー」と意味のない声を発しながら、にぎにぎと手を動かしていた。顔をくしゃくしゃに歪ませて、瞳を潤ませて。
(……生きてる)
なんとなく、そう感じた。この子供は今、必死に生きているんだ。声を出して、必死に主張して。心を動かしているのだ。
無意識にその体温に触れたくなって手を伸ばした。
握ったり開いたりしている手にそっと指を触れさせると、満は小さな小さな手でその指をぎゅっと握った。
(あ……)
月也の指を握って、泣き声が止む。そしてくしゃくしゃの顔は、ふわりと花が綻ぶような笑みに変わっていた。
一面荒んだ砂漠の中で迷って死にかけていたとき、一輪の花という美しい希望を見つけた。そんな衝撃だった。
そうして月也は、可愛くて綺麗で、ひたすらに愛おしい存在と出会ったのだった。
◆
「思えば、あのとき俺は、満に恋をしたのかも」
生まれたての満との出会いを語りながら、月也はぽつりと呟いた。
「いや……俺、そのとき零歳じゃん」
「はは、そんな引かないで? でもね、俺はそのときに思ったんだよ。この子は、この世にいるか分からない神様ってやつが、俺に与えてくれた俺だけの天使だろうって。初めて宝物ができたんだ……。絶対守ってあげようって誓った」
月也は、こちらを見て微笑んだ。その笑みには兄としての愛情が溢れんばかりに含まれていて、なぜか泣きそうになった。
満の表情を見て、釣られたように月也も顔を歪める。
「……ねえ、満。抱き締めてもいい?」
じっと満を見つめて月也は返事を待つ。満はおずおずと腕を広げた。あんな話を聞かされて、拒絶をするほうが難しい。
「ど、どうぞ……?」
月也はふっと顔を綻ばせると、満の胸に飛び込んできた。頭一つ以上違う体躯に包み込まれるように抱き締められる。二つの心音が重なるのが心地よく、温かい。
「大きくなったね、満」
「うん……」
「それに、綺麗になった」
「前も言ってたな。そんなことは、ないけど」
耳元で、月也は擽るような笑みを零す。
「そんなことあるんだよ。だから……」
少し躊躇ってから、月也は意を決したように言葉を紡ぐ。
「だから俺は、弟への純粋な気持ち以上に、満のことを愛してしまったんだ……」
月也が、抱き寄せた満の肩に額を乗せた。ベランダの壁に押し付けるように、月也の体が凭れてくる。満が月也の背中に腕を回すと、一瞬、月也の息が詰まった。けれど、すぐに解けた空気が伝わってきた。
「本当は、満との再会は去年にはできるはずだったんだ」
「え? なら、なんで会えなかったんだ?」
「うん。その話も、しようか」
◆
月也は一年前、ようやく祖父の言う条件をクリアして満の居場所を知ることができた。今度は引っ越した後ではない。満が最近まで住んでいた藤山の家だった。
学校が終わったであろう夕方頃に藤山の家へ向かった。インターホンで呼び出して出てきたのは満の養母で、着古したゆるいシャツを着た中肉中背の女性だった。
女性は見知らぬ男の訪問に警戒しているようで、あからさまな敵意を感じた。月也はその敵意を刺激しないように、できるだけ無害そうに柔和な微笑みを浮かべた。
「初めまして。突然すみません、葛木月也といいます。満の兄なのですが……」
そう言った瞬間、満の養母は顔を顰める。
「ああ、あの悪魔の息子かい。そんなもん一人で十分だから帰ってくれ」
棘のある言葉に耳を疑った。悪魔の息子だと言われるのは初めてではない。けれど、満の養母に言われるとは思わなかった。
「満に会いに来たんです。あの子は……? そろそろ学校から帰ってくる時間かと思うのですが」
「知らないよ。バイトじゃないの」
投げやりな返答に月也はついに眉を顰めた。
「そうですか。あの子は……元気ですか?」
嫌な予感がしつつ問えば、じれったい問答に苛ついたのか、満の養母は舌打ちをした。
「知らん。のうのうと生きてるんだから、元気なんだろ」
嫌な予感は確信に変わる。満は確かにこの家の養子のはずなのに、満の養母はまるで関心がないといった様子だ。
もう話は終わったとばかりにドアを閉められて、月也は愕然とした。もしかしたら、満はこの家でひどい扱いを受けているのではないか。ずっと、自分の迎えを待っているのではないか——?
月也は、とにかく満に会いたかった。会わなければいけないと思った。きっと一人で寂しがっている満に。
思えば、そのときまでは月也の中で、満はまだ三歳の小さな子供だったのかもしれない。頭では、もう十五歳の高校生だと分かっていたはずなのに。
ひとまず満が通う学校へ向かうことに決めた。
そして通学路になっている商店街を歩いていると、前方から一組の男女が並んで歩いてくるのが見えた。満と同じ高校の制服だと気付いて顔を上げて、前から歩いてくる高校生の顔を見た瞬間、息が止まりそうになった。その男子高校生は、まさに月也が探し求めていた人物だったから。
一目で分かった。それは満だった。身長が伸びて目鼻立ちもすっきりとしたが、どこか残るあどけなさに幼い頃の面影を見た。月也は感極まってその場で咽びそうになるのを堪えながら、どう声を掛けようかと考える。
目の前にきたところで一度目が合って、——しかし、逸らされる。満が横を通り過ぎるまで、月也は呆然としてその場に立ち竦んだ。
すぐに、会うのは十三年ぶりなのだからすぐにそれが月也だと気付かなくても仕方ないだろうと気を取り直し声を掛けようと踵を返そうとした。
「藤山くん、あの雑貨屋見てもいい?」
「うん」
「お揃い買おうよ!」
振り向いた瞬間、満の横にいた女が満に腕を絡ませる。付き合っているのだろうと、一瞬にして理解した。側から見ても可愛らしい高校生カップルだった。
月也はそんな二人の様子を見て、もうすっかり吹雪の山に放り出されたかのような気分になっていた。
寂しい思いをしていないかと心を砕いていた相手は、彼女を作って楽しく過ごしている。満が幸せであることは月也の人生の第一目標で、彼女ができて幸せだというのならそれで構わない。そのはずなのに、どうしようもなく胸を掻きむしりたくなる寂しさに襲われた。
十年もあれば見た目も大きく変わる。だから今、満に気付いてもらえないのは仕方ないことだと思った。しかし、そもそも存在を忘れられていたら……? 会いに行って、もう兄はいらないと言われたら?
考え始めると胃が気持ち悪くて堪らなくなり、近くの公衆トイレに飛び込んで嘔吐してしまった。
月也はずっと、満だけを想って生きてきた。遊ぶことなどなく、ただひたすらに勉強を重ねた苦しい日々も満を想って耐えていた。満と、二人で幸せになるために。
しかし今、満はもう自分で幸せを見つけているのかもしれない。満にとって月也の存在はもう過去のもので、むしろ思い出したくもないものかもしれない。
十三年も経っているのだから、それもおかしくない話だ。そう考えると、怖気づいた。満だけを見据えて進んでいた足が、止まってしまいそうになる。
先ほど見た二人の姿を思い返す。
満と一緒にいた、華奢で気の強そうな女の子。その姿を思い浮かべると、どうしようもない嫌悪感が湧き起こる。
——どうして、俺の知らない女が満の隣にいる? どうして、そこにいるのは俺じゃない? ずっとずっと、会いたかった。幸せになって欲しい。俺が、幸せにしたいのに。
背が伸びて、顔も少し大人びて綺麗になった満の姿が脳裏に浮かぶ。
——あの子に、笑いかけるのか。もうキスはした? それとももう、抱いたのか。
隣にいた女に負けず劣らず細身だった満が、女を抱けるのだろうかと、ふと思う。そんな下世話な想像は、すぐに塗り替えられる。いつの間にか、月也が満を押し倒している想像に。
「満、満……」
手が、昂った中心に触れる。愛する弟を想いながら性器を扱く自分に信じられない気持ちになりながらも、興奮は止まらない。
「俺だけの、満なのに」
声に出してしまえば簡単なもので、その欲望はすんなりと月也の中に入ってくる。
たった一人の弟に対する独占欲は、いつしか昏い情欲に変わっていた。
触れたい。愛してやりたい。他でもない、自分の手で。
満を想えば想うほど苦しくなる。満を犯す妄想で果てながら、ああ自分は満を性的にも愛してしまっていたのかと自覚した。
それから一年、自分の欲望に恐れを抱き、なかなか会うことはできなかった。本当に忘れられていたら、精神が保たないかもしれないという恐れもあった。なんでもないような顔をして仕事をこなしながら、頭の中はぐちゃぐちゃで、すぐにでも崩壊してしまいそうだった。
月也の精神状態にいち早く気付いたのは、皮肉にも満をずっと月也から離していた張本人だった。
「満には会いに行かなかったのか」
ある日、突然祖父の屋敷に呼び出されたかと思えば、開口一番そんなことを訊かれた。月也はすでにその家を出ており、屋敷に入るのは久々だった。
嗄れた渋く低い声、杖をつきながらも貫禄のある出立ち。まさしく葛木商事を取りまとめる祖父の光彦だった。
「……会いに行きましたよ」
無視するわけにもいかず渋々と答えると、光彦はふんと鼻で嗤う。
「それなのにその有様か? 仕事に出すぎだ」
「今月のKGIは達成しているはずですが」
「足りんわ、阿呆。先月より伸長率が下がっとるわ」
「…………」
この狸ジジイめ、と睨め付けても、光彦には全く効きやしない。この調子で、十年以上ずっと扱かれてきたのだ。いよいようんざりしてきた。
「満とは直接話したか?」
「……今さら、やけに満を気にしますね。孫に対する情をお持ちでしたか?」
「ふん。ただ、お前を釣る餌として使ったからな。行く末が気になっただけだ」
「本当に胸糞悪い。貴方がいなければもっと早く会えたかもしれないんだ。早く会いたかったのに……」
願望を口にしてしまうと、それが叶わなかった実感が月也の中に一気に溢れてくる。胸の中で血のように滲み出る悔しさにまた吐き気を催しながら、月也は苦しさを溜め息に混ぜて自分を誤魔化す。
「だが、このタイミングで会わせてやったのだからまだ温情はある」
「どういうことですか?」
「満も、あの金目当ての養親ではすぐに家を出ていくだろうからな。一人で暮らし始めたら、また居所は追いにくくなるだろう」
「は? 金目当ての養親?」
月也は愕然とする。最愛の弟があの家に引き取られたのは金のため? 確かに助成金を目当てに養子を取る親の話は耳にすることがある。そう言われると、確かにあの養母の太々しい態度にも納得がいく。しかし。
「なぜ、貴方がそんなことを知っているんです。興信所でも使って調べたんですか?」
「違う。そもそも、満はわしがあの家に預けたのだ。だから、すべて知っている」
「はぁ……?」
初めて聞かされる事実に耳を疑った。てっきり、あの養親が自ら引き取ったのだと思っていた。
「待ってください。もしかして、金目当てだと分かっていてあの家に満を渡したのですか?」
満のことに全く興味ないという雰囲気だった養母を思い出す。アパートも小さくて、あの様子では決していい暮らしはしていないだろう。
「ああ、そうだ。それどころか、金を渡して引き取らせ、引っ越しもさせた。せっかくお前を引き取るならば、満とは離しておこうと思ったのだ」
「このクソジジイ……ッ!」
思わず、胸倉を掴んで怒鳴っていた。光彦は焦りもせず、挑発するように口角を上げる。
「感情的になるな、未熟者。施設にいたところで碌な人生にはならん。屑の息子だ……ああ、お前もだったな」
「その屑は、貴方の息子でしょう」
「ふん、とっくの昔に勘当したがな……。お前は私に拾われて、高度な教育を受けられてよかっただろう」
自分のしたことを、悪いことだったなんて全く考えていないようだった。月也は舌打ちをして光彦を解放した。
「なぜ離す必要があったんですか。満も一緒に連れてきてくれたらよかったんだ。子供二人を養うくらいの金は余裕であるでしょう?」
「お前のために効率的な方法を取っただけだ。しかし、今の様子を見ているとやはりわしの選択は正解だったようだな。満は離れていた方がよかっただろう。いちいち、そう感情を乱されていては馬鹿らしい」
そう吐き捨てた光彦に対して、月也の瞳には憎悪の炎が渦巻いていた。
「あなたは、人をなんだと思っているんだ? 満の養親に会ったけれど、決して満を大事にしている様子ではなかった。俺があの子に会いたかった十三年間を、はした金に目が眩んで奪ったくせに……ッ」
腹の底から湧き上がった言葉を思わず口に出してから、それが自分の本音だったと知る。憎悪で頭が焼かれそうだ。自分から満を奪ったすべてが憎くて仕方がない。
「そうまで言うくせに、お前は今何をしている?」
ドスの効いた声が鳩尾にまで響く。鈍器で頭を殴られたような錯覚に眩暈がした。
「いつまでもそう腑抜けでいられては敵わんのよ。わしは自分の投資が無駄になるのが我慢ならん」
「なぜ今さら……」
「ふん。ここまで育てば、ある程度自分をコントロールできるだろう。まだ未熟だがな。満を迎えに行って立ち直るのであれば、そうしていい。自分で選べ」
まさか発破を掛けられるとは思わず目を瞠ると、いつも偉そうにふんぞり返っていた祖父には珍しく、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「いいか、これが最後通告だ。お前がこのままであればすぐにお前を切る。息子たちと同様にな」
光彦には二人の息子がいる。月也と満の父、そして伯父の照彦。その口振りから言うと、もう照彦にも期待していないようだ。
「父から継いできたこの会社を残すのに、わしはできれば血を残したいのだ」
なんて傲慢で勝手な話だろう。父も照彦も、会社のことしか考えていない祖父の元で、きっと強い圧力に苦しんだことだろう。見栄を張りながら光彦に怯えている照彦を見ていると、それが手に取るように分かる。
しかし、月也には父や伯父とは違うことがあった。それは、満がいることだ。
この世で一番大切な弟と一緒にいるためなら、どれほど辛酸を舐めたって構わない。祖父の駒になったって構わない。その、目的意識が強いがゆえの自我の薄さを祖父は見抜いていたのかもしれない。なんて腹立たしいのだろう。
「……満を迎えに行きます。満を大切にしない人と一緒にいるのだと知って、迎えに行かない理由がない」
満が、女の子と一緒に歩いていた姿が頭にちらつく。本当はすべて、自分が与えたかった。愛情も、初めてやることも全部、自分の手で。その傲慢さは祖父譲りかもしれないと思うと、水をかぶったように冷静さが戻ってくる。
「それで仕事に張りがでるのであれば、そうしろ。どちらにせよ、先ほど言ったように腑抜けたままであれば弟と一緒に屑の人生を歩め」
「俺は、満を幸せにする道を選びます。……家族として」
満と一緒に生きていきたい。その想いはどんな形であれ変わらない。たとえ満がすでに自分の幸せを手にしていたとしても。家族だからこそ与えられるものはあると信じたい。
満と一緒に生きていくためなら、自分の欲望だって押さえつけられる。
そうして、決意のもと月也は満を迎えに行った。改めて真正面から見た満はやっぱり綺麗になっていて、でもどこかあの頃の面影もあって可愛かった。面と向かって話せる奇跡に感極まって抱き締めてしまったけれど、腕の中に収めた温もりはあの頃と変わらなかった。
◆
「同級生といたところ、見られてたんだな。告白されて断りきれなくてちょっとだけ付き合ってたんだけど、……結局何も進展しないまま、すぐ別れたんだ」
「前に言ってた子かな? ちゃんと再会した後、満に彼女はいないって言われて正直、内心すごく喜んだ」
月也は縋るように強く抱き締めながら、祈るように体を折って満の肩に額を押し付ける。
「結局、隠しきれなくてごめん。反省はしてる、けど……正直言うと、悔しいんだよね。昨日満に触れたっていうのに、俺の意識はほとんど夢の中だったから」
「そ……んなこと言われても」
「そうだよね。ごめんごめん」
肩口から月也が笑った振動が伝わってくる。
「傲慢なんだ、俺は。満の全部を知っていたいし、満をずっと見ていたい。昔から、ずっとそう思ってた。まさか離れ離れになるとは思ってなかったから」
月也は滔々と、静かに言葉を重ねていく。それのどれもが満への強い愛執によって紡がれている。
「ずっと見ていたかった。家族として傍にいるとは決めたけど、本当はその彼女にも誰にも触れさせたくなかった」
それは、月也の懺悔だった。満への想いが溢れて止まらないのだと、絞り出された声の震えが物語っている。
「月也……」
何の慰めにもならない。満が受け入れるしか、月也のこの強い感情の行き場はないのだから。
「……本当は、……本当は。十三年間、ずっと一緒にいたかった」
風に吹かれて掻き消されてしまいそうな、小さな声だった。肩口がほんの少し湿ったのを感じて、胸が締め付けられる。
もう一度はっきりと思った。月也を信じたいと。この切実な想いが嘘だというのなら、満は誰も信じられなくなってしまう。
「月也、顔上げて」
「……今、情けない顔してるから」
満は思わず、空気が抜けるような間抜けな声で笑ってしまった。
「いいよ、別に」
ゆるゆると力なく顔を上げた月也の目元は濡れていた。街の明かりか、夜空に浮かぶ月のものか分からない淡い光が月也の瞳に反射して朧月のようだった。
その名前に似合う美しい瞳に見惚れて、思わず手を伸ばしていた。微かに濡れた頬へ両手で触れる。
「月也って綺麗な目をしてるよな」
「何それ。口説いてる?」
柔く表情を崩した月也に、満も釣られて笑う。自分がこんなふうに人と笑い合えることがあるなんて、思ってもいなかった。
ずっと、流されるままに生きてきた。路傍に転がる石ころのように、人知れずひっそりそこにいて、時には知らん顔で蹴っ飛ばされた。けれどそんな石ころも、空を仰げば月が見守っていたのだ。月のように、満の姿を映してくれる眼差しがある。それは、なんと大きな救いだろうか。
「俺も、月也といたかったな……」
思わず口から溢れた言葉に、月也の瞳が揺れる。瞬きと一緒に、一粒の雫が頬を伝い落ちて満の指を濡らした。
「満……」
「なに?」
「キスしていい……?」
何を突然、と笑い飛ばすには、その表情はあまりに真剣だった。ちりちりと熱を孕んだ視線は一歩間違えれば燃え上がりそうで怖い。きっとこの視線が可視化されたなら、この夜空に散る火花は美しいだろう。
月也の想いに応えられないのであれば、ここではっきりと拒絶しなければならない、ということは満も頭の中では分かっていた。しかし、自分の中で芽吹いた小さな感情は、もう無視できないくらいには育っていたのだ。
満は月也から目を逸らせないまま、逡巡して、小さく頷いた。実兄との口づけを嫌だと思えない事実を、どう受け止めればいいのか分からないまま。
月也の顔が近づいてきて、そっと唇が触れ合う。何度か啄むように触れて、そっと月也は離れる。
てっきりまた先日のように強引に口腔を貪られるのかと思ったが、素面の口づけはひどく優しかった。けれど名残惜しむように何度も、何度も口づけを重ねる。
「ん……つき……」
「もうちょっと」
擽ったさに体を捩ると、逃がさないとばかりに満を抱き寄せる腕の力が強まった。
「ねえ、この前俺が酔ってたときもキスしたの?」
「した、けど」
「どんなだった?」
じっと覗き込んでくる月也の視線から逃れたくても、距離が近すぎて逃れられない。観念して、満は「舌、入れてきた」と白状した。
「それは、ごめん。びっくりしただろ」
「いや、びっくりはした……けど……」
「でも、ごめんね。ちゃんと覚えてないの悔しいから、舌も入れていい?」
「……それ訊かれても、いいよって言いにくいだろ」
月也の唇が弧を描き、目元も優しくゆるんだ。
「じゃあ、勝手にするね」
月也の双眸が近づいてくるのを見つめることしかできなかった。水面に映る月に思わず触れようとしてしまうかのように、吸い込まれてしまいそうだった。
唇が重なると、月也の舌が誘うように満の唇を軽く撫でる。正直、月也との一回以外にキスなどしたことがないのだ。どうすればいいか分からないまま固まっていたが、息苦しくなって軽く口を開けた瞬間、月也の舌が口腔に入り込んできた。
「ん、んぅ……っ」
舌は満の口の中に潜り込むと、その中を確かめるように撫でていく。舌全体を使って口蓋を撫で上げられると、腰のあたりがぞわぞわした。
歯列の裏を優しく擽られると、恥ずかしさと得体の知れない気持ちよさに目眩がしそうだった。
「満、鼻で息吸える?」
深い口づけに息絶え絶えになりながら、月也の言うことに必死で頷いた。そうか、鼻で息を吸えばよかったのか。
しかし、分かっていても実践できるかは別だ。慣れないことをされている中では、呼吸の仕方すら何一つ分からなくなる。
しばらくの間そうして舌を絡ませたり吸ったりしてくる月也の猛攻に耐えていた。初めて与えられる快楽に、思考がすべて溶けていくようだった。
いよいよ息が限界で月也の胸を叩いて知らせると、月也はようやく口づけを止めた。月也も少しだけ息を乱していた。
「苦しかった? ごめん、止まらなくなった」
「っはぁ……だい、じょうぶ……」
そう言いつつも呼吸はなかなか落ち着かない。一生懸命に酸素を取り込んでいると、一つの違和感に気が付いた。
(なんか、硬いものが……当たって……?)
ふと下を見ると、抱き寄せられて密着した下腹部の布が中から押し上げられていた。満に当たっていたのは月也の猛りだった。
だが、そんな状態になっているのは月也だけではなかった。満の下腹部も、月也よりささやかではあるが、しっかりとその存在を主張していた。
「……中、入ろうか」
今の今まで、マンションのベランダなんて他人に見られてもおかしくない場所で激しい口づけをしていたのかとようやく気がついて愕然とした。
部屋の中に入ると、冷房が効いていて涼しい。夜のじっとりとした空気を、今さら思い出した。
「満、触ってもいい?」
月也は何でも訊いてくる。満が決して嫌な思いをしないように気を遣ってくれているのだろうが、訊かれるということは毎回満が選択をしないといけないということだった。触れられることを選ぶ恥ずかしさに俯くと、月也の手が頬に触れる。
「だめ?」
月也の声はどこまでも優しい。満を傷つけることはしないだろうと信じられる甘い声だった。満は控えめにかぶりを振る。まるで背景に花咲くような笑顔を浮かべて、月也は手を伸ばす。浮かべた綺麗な笑みとこれからやろうとしていることの淫らさ、その温度差にくらくらする。
ソファにゆっくりと押し倒されてまた口づけられる。優しくルームウェアのボトムスを下着ごとずり下ろされて、月也は躊躇なく性器に触れ、柔く揉む。
「風呂入ったばっかりなのに、ごめんね。後で一緒に入ろうか」
「いや、それはまだ……ぁっ……」
月也は自身の性器を取り出すと、満のものと一まとめに握る。月也の性器は満のものよりも一回り大きい。触れ合った瞬間、月也のそれは硬さを増した。
大きな手のひらで覆われて扱かれると、裏筋が月也のものと擦れる。腰から背筋にかけてせり上がってくる感じたことのない熱に怖くなりながら、月也の腕に縋りついた。
「ん、んんっ……」
「可愛い。可愛い、満……」
月也のうっとりとした声が降ってくるたびに、ぞくぞくした。亀頭から零れた先走りで濡れて手元の滑りがよくなると、性器を扱く月也の手の動きが激しくなっていく。その合間に口づけをされて、こういった行為に慣れない満はただただされるがままだった。
「つき、つきや……」
与えられる快楽の大きさでキャパオーバー気味になりながら。縋るように月也の名前を呼ぶ。すると、月也が生唾を飲み込む音が聞こえてくる。
「満、これだけでこんなになっちゃうの?」
感極まったような月也の呟きに、どういうことかと見上げれば視界が滲んでいて、生理的な涙に自分の目元が濡れていたことに気がついた。
「大丈夫、まだこれ以上はしないから」
まだ、ということはいつかはするつもりなのだろうか。満は月也の手に翻弄されながら身を震わせる。
満が呆気なく高められてそのまま精を放てば、釣られるように月也も果てた。びくびくと脈打つのがダイレクトに伝わってきて、うっかりその刺激にまた勃ちそうになり慌てて意識を逸らした。
「満、可愛かった……」
可愛い可愛いと月也に言われるのにもいつの間にか慣れてきてしまっている。散らした白濁を拭いながら頬へ口づける月也を大人しく受け止めながら、満は眠気に襲われて瞼を閉じかけた。
「寝てもいいよ?」
手の甲で頬を撫でる月也の手に従って、満は瞼を閉じた。
しかし今朝のことを思えば、今日は仕方ないだろうとも思う。月也も動揺したことだろう。
てっきり夕食の折にでも朝の続きの話になるかと思ったが、月也は特に何も言わなかった。こちらから切り出すのも気が引けて、満はただ月也が話し出すのを待っていた。
夕食を終えて食器を洗おうとすると、月也がそれを止めた。
「俺がやっておくよ。満は風呂に入っておいで」
月也が諭すように言うときは、そうして欲しいという願いのようなものだというのが最近分かってきた。満は反発する理由もないため、大人しく皿洗いを任せて風呂に入ることにした。
風呂から出ると、月也はキッチンには立っていなかった。いつもならソファかダイニングに座っているのだが、いない。
少し部屋を見渡すと、珍しくベランダに出ている月也の後ろ姿が見えた。
ベランダに続く窓を開けると、優しい夜風が頬を撫でる。風呂に入って火照った体が、涼しい空気の中で落ち着いていくのは心地がよかった。
満に気付いた月也は、振り返ると「湯冷めするから中に戻ろう」とすぐに手を引こうとした。満はそれをやんわりと押し戻した。
「大丈夫だよ。俺も少し夜風に当たりたい」
「そう? あ、カーディガンを持ってこようか?」
「大丈夫だって」
どこまでも過保護な月也に、つい笑みが零れる。
「寒くなったら言うよ」
「うん、そうして」
月也はそれきり黙って外の景色を眺め始めた。満もベランダの手すりに腕を乗せて、ぼんやりと外を眺めた。
思えば、この家に来てからベランダに出たのは初めてだった。駅にほど近いマンションのため、眼下の繁華街の賑わいがよく見えた。
空を見上げても、地上がこの明るさでは星は見えない。しかし、夜空にぽっかりと浮かぶ月だけは、大きくよく見えた。
「満、朝の続き……話してもいい? 長くなるかもしれないけれど」
月也が静かに尋ねてくる。満は「うん」と返す。
「……あと、満には辛い話もあるかもしれない。前に言った通り、満の思っている父親像とは少し、違うから」
「うん……。大丈夫、今は、月也を信じるよ。月也の話が、聴きたい」
「そっか。……ありがとう」
月也はそう言うと、滔々と語り始めた。
◆
満がまだ生まれておらず、月也もまだ幼かった頃の話だ。父親が暴力を振るうようになったのは、起こした事業が失敗した後だった。酒に溺れ、母に執着し、機嫌を損ねればすぐに拳が飛んできた。
その頃にはまだ家に母もいたが、彼女は自分に振るわれる暴力に耐えることで精一杯で、子供を守るだけの余力はなかった。月也は物心ついた頃から痛みの中で生きていて、それが月也の普通だった。荒んだ世界に楽しいことなど何一つなかった。
体は傷と痣だらけ。半分割れた姿見の鏡を前にして思うのは、なんて醜いのだろうかということだけだった。幼稚園の同級生たちは皆、転んでできた擦り傷しかないのに、自分の体には赤黒い痣が点在していた。
ある日、父に顔を殴られて、痣ができたことがあった。小学校に上がった頃だった。そのまま登校すると、同級生たちの反応は二分していた。腫れ物を扱うかのように月也を避けるか、醜い顔を嗤うかのどちらかだ。
月也の顔を見てくすくすと笑う同級生を前に、堪忍袋の緒が切れて——月也は、同級生を殴り倒した。
当然、それは教師にこっぴどく叱られたし、相手の親にも叱られた。母は泣いていた。
「月也、人を殴るなんてダメよ」
「父さんは、いつもそうしてるだろ」
「そうよ。だからダメなのよ。月也はお父さんと同じにならないで。人を傷つける人にならないで……」
さめざめと泣く母を前に、月也は小首を傾げた。母は父が殴りつけても何も言わないくせに、自分には言うのかという苛立ちが募った。
外を歩けば、奇怪なものを見るかのような視線が刺さる。
「あの子、虐待されているんでしょう」
「それなのに、他の子供を殴ったの? 痛みが分からないのかしら」
近所の人の噂話が耳に入るたびに、うるさいと怒鳴りつけてしまいたくなる衝動に襲われたけれど、堪えて睨み付けるだけに抑えた。
井戸端会議をしていた近所の人たちは月也の視線に気が付くと、ばつが悪そうに口を閉ざした。
しかし月也が通り過ぎると、また後ろから顰めた声が聞こえてくる。
「やだ、さっきの目、見た?」
「怖いわ……。やっぱり悪魔の子は悪魔なのかしら」
その言葉に、胸が苦しくなる。月也に対する嫌悪感が増幅しているのがよく分かった。
好きで悪魔の子に生まれてきたわけじゃない。好きで殴りたいわけじゃない。そう叫び出したかった。それしか、分からなかったのだ。
月也はずっと宙ぶらりんで生きているような感覚だった。海に沈むような、空に浮かぶような。止まり木を失った鳥のようで、それはただ疲れるばかりで決して良い心地ではない。ずっと息苦しくて、安息の地が欲しくて、夜中には人知れず涙を流した。
そんなある日のことだった。突然、母が子供を孕んだ。母はお腹にいる子供を生むことに決め、父の暴力からずっとお腹の子を守っていた。そして運よく胎の中で大きく育った子供は、この世に誕生することとなった。月也が十歳になる頃だった。
しかし月也は、気が重かった。どうせ守りきれやしない子供なのだから、生まなければいいのにと思う。母はどこか夢見がちなところがあり、まだ自分は子供を守れるのだという幻想を抱いている節があった。
父親に殴られた後、母に「守れなくてごめんね」と泣かれることが多々あったが、月也は悲劇のヒロインのように涙を流す母に憐憫の感情など全く持てず、ただ鬱陶しく思うばかりだった。子供が二人に増えたら、その鬱陶しさも二倍だろうかと思うと、ただただ、うんざりするだけだった。
母が入院している間は地獄だった。父の怒りの矛先はすべて自分に向く。ただただ機嫌を損ねないようにすることに尽力する日々だった。けれど母親に早く帰ってこいとは思わなかった。むしろ、このまま子供と共に逃げてしまえと、願いに似た感情を抱いていた。
しかし月也の願いとは裏腹に、母親は子供を連れて帰ってきた。
まだ生まれたばかりの小さな子供をこの地獄に連れ帰ってくる考えなしの加減のなさに苛立った。遠目に見ても小さくて、脆くてすぐ死んでしまいそうだと思った。
「月也、あなたがこの子のお兄ちゃんなのよ」
そう言われても、心は動かなかった。自分が先に生まれたのだからそれはそうだろう、とただ事実として受け止めていた。
しかし何を勘違いしたのか、母は「恥ずかしがらないでいいのよ」とくすくす笑っていた。今思えば、母親はあのときが一番幸せそうだったかもしれない。
「ほら、おいで」
手を引いてくる母に逆らう強い理由もなく、月也は子供の元へ歩み寄る。
「分かったから……」
「満、あなたのお兄ちゃんよ」
弟の名前は満というのかと思いながら、何の感慨も無いまま赤子の顔を覗いてみる。
——そのとき、時が止まった気がした。じっと、子供の澄んだ瞳が月也を捉えていた。
後から知った話だが、生まれたばかりの子供は視界がはっきりしていないのだという。形を捉えることはできるようだが、顔の判別などはできないのだとか。それでもそのとき、はっきりと目が合ったと思った。
深い海のような青色が混じった瞳の中に、月也の姿が映っていた。吸い込まれそうになるその瞳に自分の汚い姿を映したくないような気がしてそっと顔を逸らすと、その瞬間に「ふえっ」と鳴き声が上がった。なんだ、と思ったのも束の間、そのまま子供は泣き出してしまった。
「え、え? なに? なんで泣いてるの」
思わず月也も戸惑った。子供の相手をするなんて初めてで、どうして泣いているのか、ちっとも分からない。
「あら、お腹が空いたのかしら? ミルクをあげないと。タオル持ってくるから、月也、ちょっと見ててね」
「え、ちょ……っ」
母親はさっさと立ち上がって行ってしまう。泣いている子供と二人で取り残された月也はどうしたらいいか分からず、おろおろと惑うばかりだった。
「ちょ、ちょっと待ってろよ? 今、母さんがご飯の準備してるから」
そんなことを言っても理解できないだろうということは分かっていたが、なんとなく焦って話しかけてしまう。満は「あー、あー」と意味のない声を発しながら、にぎにぎと手を動かしていた。顔をくしゃくしゃに歪ませて、瞳を潤ませて。
(……生きてる)
なんとなく、そう感じた。この子供は今、必死に生きているんだ。声を出して、必死に主張して。心を動かしているのだ。
無意識にその体温に触れたくなって手を伸ばした。
握ったり開いたりしている手にそっと指を触れさせると、満は小さな小さな手でその指をぎゅっと握った。
(あ……)
月也の指を握って、泣き声が止む。そしてくしゃくしゃの顔は、ふわりと花が綻ぶような笑みに変わっていた。
一面荒んだ砂漠の中で迷って死にかけていたとき、一輪の花という美しい希望を見つけた。そんな衝撃だった。
そうして月也は、可愛くて綺麗で、ひたすらに愛おしい存在と出会ったのだった。
◆
「思えば、あのとき俺は、満に恋をしたのかも」
生まれたての満との出会いを語りながら、月也はぽつりと呟いた。
「いや……俺、そのとき零歳じゃん」
「はは、そんな引かないで? でもね、俺はそのときに思ったんだよ。この子は、この世にいるか分からない神様ってやつが、俺に与えてくれた俺だけの天使だろうって。初めて宝物ができたんだ……。絶対守ってあげようって誓った」
月也は、こちらを見て微笑んだ。その笑みには兄としての愛情が溢れんばかりに含まれていて、なぜか泣きそうになった。
満の表情を見て、釣られたように月也も顔を歪める。
「……ねえ、満。抱き締めてもいい?」
じっと満を見つめて月也は返事を待つ。満はおずおずと腕を広げた。あんな話を聞かされて、拒絶をするほうが難しい。
「ど、どうぞ……?」
月也はふっと顔を綻ばせると、満の胸に飛び込んできた。頭一つ以上違う体躯に包み込まれるように抱き締められる。二つの心音が重なるのが心地よく、温かい。
「大きくなったね、満」
「うん……」
「それに、綺麗になった」
「前も言ってたな。そんなことは、ないけど」
耳元で、月也は擽るような笑みを零す。
「そんなことあるんだよ。だから……」
少し躊躇ってから、月也は意を決したように言葉を紡ぐ。
「だから俺は、弟への純粋な気持ち以上に、満のことを愛してしまったんだ……」
月也が、抱き寄せた満の肩に額を乗せた。ベランダの壁に押し付けるように、月也の体が凭れてくる。満が月也の背中に腕を回すと、一瞬、月也の息が詰まった。けれど、すぐに解けた空気が伝わってきた。
「本当は、満との再会は去年にはできるはずだったんだ」
「え? なら、なんで会えなかったんだ?」
「うん。その話も、しようか」
◆
月也は一年前、ようやく祖父の言う条件をクリアして満の居場所を知ることができた。今度は引っ越した後ではない。満が最近まで住んでいた藤山の家だった。
学校が終わったであろう夕方頃に藤山の家へ向かった。インターホンで呼び出して出てきたのは満の養母で、着古したゆるいシャツを着た中肉中背の女性だった。
女性は見知らぬ男の訪問に警戒しているようで、あからさまな敵意を感じた。月也はその敵意を刺激しないように、できるだけ無害そうに柔和な微笑みを浮かべた。
「初めまして。突然すみません、葛木月也といいます。満の兄なのですが……」
そう言った瞬間、満の養母は顔を顰める。
「ああ、あの悪魔の息子かい。そんなもん一人で十分だから帰ってくれ」
棘のある言葉に耳を疑った。悪魔の息子だと言われるのは初めてではない。けれど、満の養母に言われるとは思わなかった。
「満に会いに来たんです。あの子は……? そろそろ学校から帰ってくる時間かと思うのですが」
「知らないよ。バイトじゃないの」
投げやりな返答に月也はついに眉を顰めた。
「そうですか。あの子は……元気ですか?」
嫌な予感がしつつ問えば、じれったい問答に苛ついたのか、満の養母は舌打ちをした。
「知らん。のうのうと生きてるんだから、元気なんだろ」
嫌な予感は確信に変わる。満は確かにこの家の養子のはずなのに、満の養母はまるで関心がないといった様子だ。
もう話は終わったとばかりにドアを閉められて、月也は愕然とした。もしかしたら、満はこの家でひどい扱いを受けているのではないか。ずっと、自分の迎えを待っているのではないか——?
月也は、とにかく満に会いたかった。会わなければいけないと思った。きっと一人で寂しがっている満に。
思えば、そのときまでは月也の中で、満はまだ三歳の小さな子供だったのかもしれない。頭では、もう十五歳の高校生だと分かっていたはずなのに。
ひとまず満が通う学校へ向かうことに決めた。
そして通学路になっている商店街を歩いていると、前方から一組の男女が並んで歩いてくるのが見えた。満と同じ高校の制服だと気付いて顔を上げて、前から歩いてくる高校生の顔を見た瞬間、息が止まりそうになった。その男子高校生は、まさに月也が探し求めていた人物だったから。
一目で分かった。それは満だった。身長が伸びて目鼻立ちもすっきりとしたが、どこか残るあどけなさに幼い頃の面影を見た。月也は感極まってその場で咽びそうになるのを堪えながら、どう声を掛けようかと考える。
目の前にきたところで一度目が合って、——しかし、逸らされる。満が横を通り過ぎるまで、月也は呆然としてその場に立ち竦んだ。
すぐに、会うのは十三年ぶりなのだからすぐにそれが月也だと気付かなくても仕方ないだろうと気を取り直し声を掛けようと踵を返そうとした。
「藤山くん、あの雑貨屋見てもいい?」
「うん」
「お揃い買おうよ!」
振り向いた瞬間、満の横にいた女が満に腕を絡ませる。付き合っているのだろうと、一瞬にして理解した。側から見ても可愛らしい高校生カップルだった。
月也はそんな二人の様子を見て、もうすっかり吹雪の山に放り出されたかのような気分になっていた。
寂しい思いをしていないかと心を砕いていた相手は、彼女を作って楽しく過ごしている。満が幸せであることは月也の人生の第一目標で、彼女ができて幸せだというのならそれで構わない。そのはずなのに、どうしようもなく胸を掻きむしりたくなる寂しさに襲われた。
十年もあれば見た目も大きく変わる。だから今、満に気付いてもらえないのは仕方ないことだと思った。しかし、そもそも存在を忘れられていたら……? 会いに行って、もう兄はいらないと言われたら?
考え始めると胃が気持ち悪くて堪らなくなり、近くの公衆トイレに飛び込んで嘔吐してしまった。
月也はずっと、満だけを想って生きてきた。遊ぶことなどなく、ただひたすらに勉強を重ねた苦しい日々も満を想って耐えていた。満と、二人で幸せになるために。
しかし今、満はもう自分で幸せを見つけているのかもしれない。満にとって月也の存在はもう過去のもので、むしろ思い出したくもないものかもしれない。
十三年も経っているのだから、それもおかしくない話だ。そう考えると、怖気づいた。満だけを見据えて進んでいた足が、止まってしまいそうになる。
先ほど見た二人の姿を思い返す。
満と一緒にいた、華奢で気の強そうな女の子。その姿を思い浮かべると、どうしようもない嫌悪感が湧き起こる。
——どうして、俺の知らない女が満の隣にいる? どうして、そこにいるのは俺じゃない? ずっとずっと、会いたかった。幸せになって欲しい。俺が、幸せにしたいのに。
背が伸びて、顔も少し大人びて綺麗になった満の姿が脳裏に浮かぶ。
——あの子に、笑いかけるのか。もうキスはした? それとももう、抱いたのか。
隣にいた女に負けず劣らず細身だった満が、女を抱けるのだろうかと、ふと思う。そんな下世話な想像は、すぐに塗り替えられる。いつの間にか、月也が満を押し倒している想像に。
「満、満……」
手が、昂った中心に触れる。愛する弟を想いながら性器を扱く自分に信じられない気持ちになりながらも、興奮は止まらない。
「俺だけの、満なのに」
声に出してしまえば簡単なもので、その欲望はすんなりと月也の中に入ってくる。
たった一人の弟に対する独占欲は、いつしか昏い情欲に変わっていた。
触れたい。愛してやりたい。他でもない、自分の手で。
満を想えば想うほど苦しくなる。満を犯す妄想で果てながら、ああ自分は満を性的にも愛してしまっていたのかと自覚した。
それから一年、自分の欲望に恐れを抱き、なかなか会うことはできなかった。本当に忘れられていたら、精神が保たないかもしれないという恐れもあった。なんでもないような顔をして仕事をこなしながら、頭の中はぐちゃぐちゃで、すぐにでも崩壊してしまいそうだった。
月也の精神状態にいち早く気付いたのは、皮肉にも満をずっと月也から離していた張本人だった。
「満には会いに行かなかったのか」
ある日、突然祖父の屋敷に呼び出されたかと思えば、開口一番そんなことを訊かれた。月也はすでにその家を出ており、屋敷に入るのは久々だった。
嗄れた渋く低い声、杖をつきながらも貫禄のある出立ち。まさしく葛木商事を取りまとめる祖父の光彦だった。
「……会いに行きましたよ」
無視するわけにもいかず渋々と答えると、光彦はふんと鼻で嗤う。
「それなのにその有様か? 仕事に出すぎだ」
「今月のKGIは達成しているはずですが」
「足りんわ、阿呆。先月より伸長率が下がっとるわ」
「…………」
この狸ジジイめ、と睨め付けても、光彦には全く効きやしない。この調子で、十年以上ずっと扱かれてきたのだ。いよいようんざりしてきた。
「満とは直接話したか?」
「……今さら、やけに満を気にしますね。孫に対する情をお持ちでしたか?」
「ふん。ただ、お前を釣る餌として使ったからな。行く末が気になっただけだ」
「本当に胸糞悪い。貴方がいなければもっと早く会えたかもしれないんだ。早く会いたかったのに……」
願望を口にしてしまうと、それが叶わなかった実感が月也の中に一気に溢れてくる。胸の中で血のように滲み出る悔しさにまた吐き気を催しながら、月也は苦しさを溜め息に混ぜて自分を誤魔化す。
「だが、このタイミングで会わせてやったのだからまだ温情はある」
「どういうことですか?」
「満も、あの金目当ての養親ではすぐに家を出ていくだろうからな。一人で暮らし始めたら、また居所は追いにくくなるだろう」
「は? 金目当ての養親?」
月也は愕然とする。最愛の弟があの家に引き取られたのは金のため? 確かに助成金を目当てに養子を取る親の話は耳にすることがある。そう言われると、確かにあの養母の太々しい態度にも納得がいく。しかし。
「なぜ、貴方がそんなことを知っているんです。興信所でも使って調べたんですか?」
「違う。そもそも、満はわしがあの家に預けたのだ。だから、すべて知っている」
「はぁ……?」
初めて聞かされる事実に耳を疑った。てっきり、あの養親が自ら引き取ったのだと思っていた。
「待ってください。もしかして、金目当てだと分かっていてあの家に満を渡したのですか?」
満のことに全く興味ないという雰囲気だった養母を思い出す。アパートも小さくて、あの様子では決していい暮らしはしていないだろう。
「ああ、そうだ。それどころか、金を渡して引き取らせ、引っ越しもさせた。せっかくお前を引き取るならば、満とは離しておこうと思ったのだ」
「このクソジジイ……ッ!」
思わず、胸倉を掴んで怒鳴っていた。光彦は焦りもせず、挑発するように口角を上げる。
「感情的になるな、未熟者。施設にいたところで碌な人生にはならん。屑の息子だ……ああ、お前もだったな」
「その屑は、貴方の息子でしょう」
「ふん、とっくの昔に勘当したがな……。お前は私に拾われて、高度な教育を受けられてよかっただろう」
自分のしたことを、悪いことだったなんて全く考えていないようだった。月也は舌打ちをして光彦を解放した。
「なぜ離す必要があったんですか。満も一緒に連れてきてくれたらよかったんだ。子供二人を養うくらいの金は余裕であるでしょう?」
「お前のために効率的な方法を取っただけだ。しかし、今の様子を見ているとやはりわしの選択は正解だったようだな。満は離れていた方がよかっただろう。いちいち、そう感情を乱されていては馬鹿らしい」
そう吐き捨てた光彦に対して、月也の瞳には憎悪の炎が渦巻いていた。
「あなたは、人をなんだと思っているんだ? 満の養親に会ったけれど、決して満を大事にしている様子ではなかった。俺があの子に会いたかった十三年間を、はした金に目が眩んで奪ったくせに……ッ」
腹の底から湧き上がった言葉を思わず口に出してから、それが自分の本音だったと知る。憎悪で頭が焼かれそうだ。自分から満を奪ったすべてが憎くて仕方がない。
「そうまで言うくせに、お前は今何をしている?」
ドスの効いた声が鳩尾にまで響く。鈍器で頭を殴られたような錯覚に眩暈がした。
「いつまでもそう腑抜けでいられては敵わんのよ。わしは自分の投資が無駄になるのが我慢ならん」
「なぜ今さら……」
「ふん。ここまで育てば、ある程度自分をコントロールできるだろう。まだ未熟だがな。満を迎えに行って立ち直るのであれば、そうしていい。自分で選べ」
まさか発破を掛けられるとは思わず目を瞠ると、いつも偉そうにふんぞり返っていた祖父には珍しく、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「いいか、これが最後通告だ。お前がこのままであればすぐにお前を切る。息子たちと同様にな」
光彦には二人の息子がいる。月也と満の父、そして伯父の照彦。その口振りから言うと、もう照彦にも期待していないようだ。
「父から継いできたこの会社を残すのに、わしはできれば血を残したいのだ」
なんて傲慢で勝手な話だろう。父も照彦も、会社のことしか考えていない祖父の元で、きっと強い圧力に苦しんだことだろう。見栄を張りながら光彦に怯えている照彦を見ていると、それが手に取るように分かる。
しかし、月也には父や伯父とは違うことがあった。それは、満がいることだ。
この世で一番大切な弟と一緒にいるためなら、どれほど辛酸を舐めたって構わない。祖父の駒になったって構わない。その、目的意識が強いがゆえの自我の薄さを祖父は見抜いていたのかもしれない。なんて腹立たしいのだろう。
「……満を迎えに行きます。満を大切にしない人と一緒にいるのだと知って、迎えに行かない理由がない」
満が、女の子と一緒に歩いていた姿が頭にちらつく。本当はすべて、自分が与えたかった。愛情も、初めてやることも全部、自分の手で。その傲慢さは祖父譲りかもしれないと思うと、水をかぶったように冷静さが戻ってくる。
「それで仕事に張りがでるのであれば、そうしろ。どちらにせよ、先ほど言ったように腑抜けたままであれば弟と一緒に屑の人生を歩め」
「俺は、満を幸せにする道を選びます。……家族として」
満と一緒に生きていきたい。その想いはどんな形であれ変わらない。たとえ満がすでに自分の幸せを手にしていたとしても。家族だからこそ与えられるものはあると信じたい。
満と一緒に生きていくためなら、自分の欲望だって押さえつけられる。
そうして、決意のもと月也は満を迎えに行った。改めて真正面から見た満はやっぱり綺麗になっていて、でもどこかあの頃の面影もあって可愛かった。面と向かって話せる奇跡に感極まって抱き締めてしまったけれど、腕の中に収めた温もりはあの頃と変わらなかった。
◆
「同級生といたところ、見られてたんだな。告白されて断りきれなくてちょっとだけ付き合ってたんだけど、……結局何も進展しないまま、すぐ別れたんだ」
「前に言ってた子かな? ちゃんと再会した後、満に彼女はいないって言われて正直、内心すごく喜んだ」
月也は縋るように強く抱き締めながら、祈るように体を折って満の肩に額を押し付ける。
「結局、隠しきれなくてごめん。反省はしてる、けど……正直言うと、悔しいんだよね。昨日満に触れたっていうのに、俺の意識はほとんど夢の中だったから」
「そ……んなこと言われても」
「そうだよね。ごめんごめん」
肩口から月也が笑った振動が伝わってくる。
「傲慢なんだ、俺は。満の全部を知っていたいし、満をずっと見ていたい。昔から、ずっとそう思ってた。まさか離れ離れになるとは思ってなかったから」
月也は滔々と、静かに言葉を重ねていく。それのどれもが満への強い愛執によって紡がれている。
「ずっと見ていたかった。家族として傍にいるとは決めたけど、本当はその彼女にも誰にも触れさせたくなかった」
それは、月也の懺悔だった。満への想いが溢れて止まらないのだと、絞り出された声の震えが物語っている。
「月也……」
何の慰めにもならない。満が受け入れるしか、月也のこの強い感情の行き場はないのだから。
「……本当は、……本当は。十三年間、ずっと一緒にいたかった」
風に吹かれて掻き消されてしまいそうな、小さな声だった。肩口がほんの少し湿ったのを感じて、胸が締め付けられる。
もう一度はっきりと思った。月也を信じたいと。この切実な想いが嘘だというのなら、満は誰も信じられなくなってしまう。
「月也、顔上げて」
「……今、情けない顔してるから」
満は思わず、空気が抜けるような間抜けな声で笑ってしまった。
「いいよ、別に」
ゆるゆると力なく顔を上げた月也の目元は濡れていた。街の明かりか、夜空に浮かぶ月のものか分からない淡い光が月也の瞳に反射して朧月のようだった。
その名前に似合う美しい瞳に見惚れて、思わず手を伸ばしていた。微かに濡れた頬へ両手で触れる。
「月也って綺麗な目をしてるよな」
「何それ。口説いてる?」
柔く表情を崩した月也に、満も釣られて笑う。自分がこんなふうに人と笑い合えることがあるなんて、思ってもいなかった。
ずっと、流されるままに生きてきた。路傍に転がる石ころのように、人知れずひっそりそこにいて、時には知らん顔で蹴っ飛ばされた。けれどそんな石ころも、空を仰げば月が見守っていたのだ。月のように、満の姿を映してくれる眼差しがある。それは、なんと大きな救いだろうか。
「俺も、月也といたかったな……」
思わず口から溢れた言葉に、月也の瞳が揺れる。瞬きと一緒に、一粒の雫が頬を伝い落ちて満の指を濡らした。
「満……」
「なに?」
「キスしていい……?」
何を突然、と笑い飛ばすには、その表情はあまりに真剣だった。ちりちりと熱を孕んだ視線は一歩間違えれば燃え上がりそうで怖い。きっとこの視線が可視化されたなら、この夜空に散る火花は美しいだろう。
月也の想いに応えられないのであれば、ここではっきりと拒絶しなければならない、ということは満も頭の中では分かっていた。しかし、自分の中で芽吹いた小さな感情は、もう無視できないくらいには育っていたのだ。
満は月也から目を逸らせないまま、逡巡して、小さく頷いた。実兄との口づけを嫌だと思えない事実を、どう受け止めればいいのか分からないまま。
月也の顔が近づいてきて、そっと唇が触れ合う。何度か啄むように触れて、そっと月也は離れる。
てっきりまた先日のように強引に口腔を貪られるのかと思ったが、素面の口づけはひどく優しかった。けれど名残惜しむように何度も、何度も口づけを重ねる。
「ん……つき……」
「もうちょっと」
擽ったさに体を捩ると、逃がさないとばかりに満を抱き寄せる腕の力が強まった。
「ねえ、この前俺が酔ってたときもキスしたの?」
「した、けど」
「どんなだった?」
じっと覗き込んでくる月也の視線から逃れたくても、距離が近すぎて逃れられない。観念して、満は「舌、入れてきた」と白状した。
「それは、ごめん。びっくりしただろ」
「いや、びっくりはした……けど……」
「でも、ごめんね。ちゃんと覚えてないの悔しいから、舌も入れていい?」
「……それ訊かれても、いいよって言いにくいだろ」
月也の唇が弧を描き、目元も優しくゆるんだ。
「じゃあ、勝手にするね」
月也の双眸が近づいてくるのを見つめることしかできなかった。水面に映る月に思わず触れようとしてしまうかのように、吸い込まれてしまいそうだった。
唇が重なると、月也の舌が誘うように満の唇を軽く撫でる。正直、月也との一回以外にキスなどしたことがないのだ。どうすればいいか分からないまま固まっていたが、息苦しくなって軽く口を開けた瞬間、月也の舌が口腔に入り込んできた。
「ん、んぅ……っ」
舌は満の口の中に潜り込むと、その中を確かめるように撫でていく。舌全体を使って口蓋を撫で上げられると、腰のあたりがぞわぞわした。
歯列の裏を優しく擽られると、恥ずかしさと得体の知れない気持ちよさに目眩がしそうだった。
「満、鼻で息吸える?」
深い口づけに息絶え絶えになりながら、月也の言うことに必死で頷いた。そうか、鼻で息を吸えばよかったのか。
しかし、分かっていても実践できるかは別だ。慣れないことをされている中では、呼吸の仕方すら何一つ分からなくなる。
しばらくの間そうして舌を絡ませたり吸ったりしてくる月也の猛攻に耐えていた。初めて与えられる快楽に、思考がすべて溶けていくようだった。
いよいよ息が限界で月也の胸を叩いて知らせると、月也はようやく口づけを止めた。月也も少しだけ息を乱していた。
「苦しかった? ごめん、止まらなくなった」
「っはぁ……だい、じょうぶ……」
そう言いつつも呼吸はなかなか落ち着かない。一生懸命に酸素を取り込んでいると、一つの違和感に気が付いた。
(なんか、硬いものが……当たって……?)
ふと下を見ると、抱き寄せられて密着した下腹部の布が中から押し上げられていた。満に当たっていたのは月也の猛りだった。
だが、そんな状態になっているのは月也だけではなかった。満の下腹部も、月也よりささやかではあるが、しっかりとその存在を主張していた。
「……中、入ろうか」
今の今まで、マンションのベランダなんて他人に見られてもおかしくない場所で激しい口づけをしていたのかとようやく気がついて愕然とした。
部屋の中に入ると、冷房が効いていて涼しい。夜のじっとりとした空気を、今さら思い出した。
「満、触ってもいい?」
月也は何でも訊いてくる。満が決して嫌な思いをしないように気を遣ってくれているのだろうが、訊かれるということは毎回満が選択をしないといけないということだった。触れられることを選ぶ恥ずかしさに俯くと、月也の手が頬に触れる。
「だめ?」
月也の声はどこまでも優しい。満を傷つけることはしないだろうと信じられる甘い声だった。満は控えめにかぶりを振る。まるで背景に花咲くような笑顔を浮かべて、月也は手を伸ばす。浮かべた綺麗な笑みとこれからやろうとしていることの淫らさ、その温度差にくらくらする。
ソファにゆっくりと押し倒されてまた口づけられる。優しくルームウェアのボトムスを下着ごとずり下ろされて、月也は躊躇なく性器に触れ、柔く揉む。
「風呂入ったばっかりなのに、ごめんね。後で一緒に入ろうか」
「いや、それはまだ……ぁっ……」
月也は自身の性器を取り出すと、満のものと一まとめに握る。月也の性器は満のものよりも一回り大きい。触れ合った瞬間、月也のそれは硬さを増した。
大きな手のひらで覆われて扱かれると、裏筋が月也のものと擦れる。腰から背筋にかけてせり上がってくる感じたことのない熱に怖くなりながら、月也の腕に縋りついた。
「ん、んんっ……」
「可愛い。可愛い、満……」
月也のうっとりとした声が降ってくるたびに、ぞくぞくした。亀頭から零れた先走りで濡れて手元の滑りがよくなると、性器を扱く月也の手の動きが激しくなっていく。その合間に口づけをされて、こういった行為に慣れない満はただただされるがままだった。
「つき、つきや……」
与えられる快楽の大きさでキャパオーバー気味になりながら。縋るように月也の名前を呼ぶ。すると、月也が生唾を飲み込む音が聞こえてくる。
「満、これだけでこんなになっちゃうの?」
感極まったような月也の呟きに、どういうことかと見上げれば視界が滲んでいて、生理的な涙に自分の目元が濡れていたことに気がついた。
「大丈夫、まだこれ以上はしないから」
まだ、ということはいつかはするつもりなのだろうか。満は月也の手に翻弄されながら身を震わせる。
満が呆気なく高められてそのまま精を放てば、釣られるように月也も果てた。びくびくと脈打つのがダイレクトに伝わってきて、うっかりその刺激にまた勃ちそうになり慌てて意識を逸らした。
「満、可愛かった……」
可愛い可愛いと月也に言われるのにもいつの間にか慣れてきてしまっている。散らした白濁を拭いながら頬へ口づける月也を大人しく受け止めながら、満は眠気に襲われて瞼を閉じかけた。
「寝てもいいよ?」
手の甲で頬を撫でる月也の手に従って、満は瞼を閉じた。
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