スノードロップの抱擁

梨町

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8.学祭

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 口づけをして触れ合った日から関係が変わるかといえばそんなことはなく、満と月也の日々はつつがなく続いていた。
 月也は満の気持ちが整うのを待ってくれているのだと思う。満自身、まだ自分の気持ちが固まらないのを自覚していたため、月也の自然な態度はありがたかった。
 月也とは兄弟なのだ。あれ以上の触れ合いを許すのであれば、それ相応の覚悟が必要だった。拒むにしても受け入れるにしても、まだ時間はかかる。
 そうしているうちにも、季節はあっという間に移ろっていく。空の青と木々の緑のコントラストが鮮やかだった夏は過ぎ、いつの間にか木々は紅色や山吹色を身に纏っていた。
 九月の中頃、満の高校では文化祭が開催された。

「藤山くん、まだチョコケーキ残ってる?」
「うん、午前分はまだ十個ある。ショートケーキのほうが足りなくなりそうだけど、昼までは保つかな」
「よかったぁ、予想以上に盛況なんだもん」

 女子の学級委員である遠藤が、はあと溜め息をつく。外の木々のような山吹色のクラスTシャツを着て三つ編みをしている遠藤は、今日はほんのりメイクをしてめかしていた。
 各クラスが模擬店や出し物をするが、満のクラスは喫茶店だ。学校と毎年提携している近所の洋菓子店から冷凍ケーキを提供してもらい、それをお客様に振る舞う。特に調理などはないから気楽ではあるものの、支払いがあるため赤字は出せない。それなりの緊張感を伴いながら出店の気分も味わえる。その非日常に、クラスは大いに盛り上がっていた。
 思ったよりも盛況になり、在庫管理も大変だ。満は裏方としてその役目に従事しつつも、まだクラスの様子を眺めている余裕はあった。
 接客をしているのはクラスでも明るい部類の人たちだった。ウエイトレス役の子たちはこれ幸いとやはりめかしこんでいて、フリルのついたエプロンを身につけている。
 なぜか男子もフリルのエプロンを着ているのは完全に悪ふざけだ。野球部の厳つい男子がエプロンを身につけており、来店した他クラスの同じ野球部らしき人たちの爆笑が起きていた。ウケ狙いは成功だろう。
 さらに、派手めな女子たちの提案により、教室には可愛らしいフォトスポットができている。そこで客同士でも店員役の生徒とでも写真が撮れる。野球部たちは当然ばっちりポーズをキメて撮っていた。
 広い校舎を回るのもそれなりに疲れるようで、休憩ができるこのクラスには多くの人が訪れた。ちょうど隣のクラスがお化け屋敷を開いているため、隣のクラスでひとしきりはしゃいでから喫茶店のクラスでゆっくりする、というのが良いコースとなっているらしい。
 皆、他クラスの生徒やら保護者やらと楽しそうに話しており、教室は明るい空気に満ちている。
 去年、満はこの空気が苦手だと思っていた。去年の満のクラスは迷路のアトラクションを作ったのだが、受付以外に仕事はないためほとんどのクラスメイトは遊びに出ていた。某夢の国のような受付をこなしてみせると豪語する気合いの入った同級生から役目を取れるわけもなく、満はやることがなかった。
 遊びに来るような友人も保護者もいない満はひとりで、結局空き教室でぼうっとしていたのだった。はしゃぐ同級生が羨ましいわけではないけれど、特にそこにいる意味も感じない、ひたすら無の時間を過ごした。
 今年は模擬店でまだやることがあるため有り難い。午後の自由時間はまた暇だろうが、午前中が潰れるだけでも去年に比べたらマシだった。それにこの盛況ぶりなら、午後に手伝いで入っても構わないだろう。何もしていないのは落ち着かないのだ。
 本当は月也が文化祭に行きたいと言っていて「もし暇な時間があるなら、ちょっとでも一緒に回らない?」と言われたのだが、丁重に断った。今までどんな行事にも養親が顔を出したことがなかったため、今さら保護者が来てくれたときの反応の仕方など分からなかったということもある。
 それに、思い出すのは以前アルバイトとして勤めていた居酒屋にいた深山のことだ。月也はきっと誰がどう見ても整った容姿をしていて、しかもこの年代の女子たちが憧れる年上の余裕なんかも兼ね備えている。きっと目立つだろうし、深山のように紹介して欲しいと満に詰め寄る女子もいることだろう。それはさすがにちょっと煩わしい。

「藤山、お疲れ。やっぱり昼時の喫茶店って混むなぁ」

 声を掛けてきたのは吉本だった。吉本は元々裏方で満と同じく食品の準備をしていたのだが、人手が足りず接客に出ていた。事前の打ち合わせもほとんどしていなかったのにサラッとこなせてしまうのはさすが学級委員というところか。

「去年の文化祭でも喫茶店のクラスはすごく混んでてさ、入るまで三十分待ちとかあったんだよ。テーマパークかっていうね」
「三十分はすごいな」

 思わず笑うと、釣られた様子で吉本も顔を緩めた。

「藤山も楽しそうで何よりだよ」
「え? 俺、楽しそうかな」
「うん。忙しいほうが楽しかったりする? 藤山って結構ワーホリ的なとこあるよなぁ、バイト詰め込んだりさ」
「はは……。たしかに何もしてないと落ち着かないの、バイトのせいもあるかもな。最近は減らしたけど、なんだかんだ家だと家事で動いてたりするし」
「ああ、お兄さんと一緒に住み始めたんだっけ。今日はお兄さんは来ないのか?」
「あー……ちょっと目立つ人だから、遠慮してもらった」

 乾いた笑みをこぼすと、吉本はふうん……とだけ返した。なんとなく、普段よりそわそわしているのは気のせいだろうか。文化祭の浮かれた空気のせいかもしれない。

「吉本は、さっき親御さん来てたよな?」
「見てたのか。このフリルエプロンを笑われたよ」

 数刻前、ちょうど吉本が接客に出ているタイミングで両親らしき人が来ていたのだ。母親も父親もすっと背筋が伸びていて、品が良さそうだと思った。朗らかな笑みを浮かべて話す様子から、吉本の家の様子が目に浮かぶようで、満は密かに微笑ましく思っていた。
 少し前なら、その様子を見たら暗澹たる気分に陥っていたかもしれない。どうしても全然違う自分の養親と比べてしまって、羨ましく思っただろう。しかし今は、不思議と負の感情は浮かばなかった。ただ、本当に大事にされてきたんだなと確信するだけだった。
 吉本はおもむろにエプロンを脱いだかと思うと、満に向かって差し出した。

「藤山も着てみる? フリルのエプロン」
「え?」
「ちょっと似合いそう……って、うそうそ、冗談だから! そんな嫌そうな顔するなよ」

 吉本の冗談に思わず顔を顰めていた。可愛らしいフリルのエプロンが似合う、と言われて特に嬉しいとは思わない。野球部男子軍団と違っていじられたとしても上手い返しができないだろうし、わざわざ災難に飛び込むことはしたくなかった。
 たとえば月也なら……と、自然に月也の顔が浮かぶ。たまに料理をするときにシンプルな無地のエプロンを着ているが、たとえそれがフリルのエプロンでも月也なら着こなしてしまうだろうと思った。逆に、あの整った顔に甘いフリルのギャップは面白いかもしれない。そう考えると少し面白くなり、口角が上がってしまう。一度考え始めるとなかなか頭から離れてくれなくなり、顔のにやけがなかなか治らなかった。
 吉本は興味深そうに満の顔を覗き込んで「そんなに変なこと言ったか?」と見当違いの心配をしていた。

「なあ、ところで藤山。午後って誰かと文化祭回るのか?」
「いや……特に予定はないからどうしようかなって思ってるところ。このまま手伝いしててもいいかなって」
「手伝いって……またワーホリ出てるぞ。ちゃんと休まなきゃ」

 吉本は満の額を小突きながら困ったように笑った。月也にも同じようなことを言われそうだなと思うと、満も笑ってしまった。

「大丈夫、休憩はちゃんと入れるよ。吉本はいつも一緒にいるメンバーと回るのか?」
「あー、うん。一応その予定では、あるんだけど……」

 なぜか歯切れの悪い返答をする吉本はふと視線を泳がせる。

「吉本? なんかさっきからそわそわしてない?」
「ああ、いや。あのさ、藤山、よかったら午後……」

 吉本が何かを言いかけた瞬間、教室の入り口がにわかに騒がしくなる。

「? トラブルでもあっ……た……」

 満はざわつく入り口を見遣り、目を疑った。見間違いかと思い一瞬視線を逸らし、もう一度そちらを見る。そこにいる人物を見間違えるわけがない。遊びに行きたいという願いは却下したというのに、なぜかそこには月也が立っていた。
 月也は満のほうへ、アイドルばりの綺麗な笑顔で手を振ってくる。別方向から、女子たちの「きゃあ」という黄色い歓声が上がった。
 月也は薄手のニットにジーンズを履き、ジャケットを羽織って大人カジュアルといった雰囲気を身に纏っていた。背も高い高く顔も小さい月也はモデルのように目を引く。初めて見たとき、他人の容姿にあまり関心のない満も思わず目を留めてしまったくらいだから、やはり美形な男だと思う。
 さりげなく教室を見渡すと、その視線が満に集中していることに気が付いてしまった。突然現れた芸能人のような男が誰の知り合いでどういった関係なのか気になって仕方がないのだろう。心なしか女子たちの目がぎらぎらと光っているような気がする。やっぱり深山と同じことになるのだなと顔が引き攣った。
 月也は周囲からの熱い自然になど目もくれず、真っ直ぐに満の前まで歩み寄ってくる。

「満が教室にいる時間でよかった。ごめんね、来ないでいいって言われてたのに来ちゃって。やっぱり学校にいる満も見たくて」

 月也はへらりと笑ったかと思うと、次の瞬間にはまるで何か美術品の鑑定でもするのかという真剣さで頭の先からつま先までじっくりと満を眺める。

「それ、クラスTシャツ? 可愛いね」

 月也はじっと覗き込むように、満を真っ直ぐ見つめた。その視線の中に確かな熱を感じてしまい、頬が熱を持ってしまう。
 さらりと「可愛い」と宣う月也の、ただの兄弟にしては深すぎる溺愛を不自然に思われないだろうか。
 おそるおそる隣にいた吉本の様子をさりげなく窺うが、突然の来訪者に唖然とするばかりで言動にまでは気が付いていないように思えた。
 満と話している間にも周囲の月也への羨望やら情景やらが混じった視線は消えることがない。普段、こんなにクラスメイトに注目されることなんてないのだ。段々と謎の緊張感に襲われて手汗が気になってくる。この視線から逃れるため、満は月也を教室から追い出すことにした。
 満が月也の背を押そうとした瞬間、はっと我に返った吉本が声を掛けた。

「あの! こんにちは。もしかして藤山のお兄さん……ですか?」

 周りから「お兄さん?」「マジ?」と潜めた声が聞こえてくる。皆、耳をそばだててこの会話を聴いているに違いない。

「こんにちは。はい、満の兄の月也です」

 月也はにこやかに微笑みを湛えた。その笑みを見て、満は微かな違和感を覚える。同時に、今までにあまり見たことのない顔だと思った。
 綺麗に整いすぎている、作り物のような——と思うと満の中でしっくりきた。おそらくこれは、月也の対外的な笑みなのだろう。何の綻びもなく、他人に対して一線を引くための。
 満に対する月也の笑みは蕩けるような甘さを含んでいた。その甘さの意味を知った今は、月也の外向きの笑みにすら恥ずかしさを覚える。満に対する感情だけ、特別だだ漏れということを理解してしまった。

「俺のこと、満から聞いていたのかな?」
「あ……突然声を掛けてすみません! その通りで、最近お兄さんと暮らし始めたって聞いてました。最近藤山の顔色が良くなったのは、そのおかげかなって話していて」
「ああ、君が満のこと心配してくれるっていう……」

 そう言いながら、月也の視線がほんの少しだけ鋭利になった気がした。満しか気がつかない程度だと思ったが、対峙している吉本はそれに気がついたらしい。なぜ睨まれたのかと、一瞬たじろいだ気配を感じた。

「もちろん保護者として、体調管理はしっかりしてる。俺と暮らし始めてちゃんとご飯食べるようになったし、いい傾向ばかり。だよね? 満」
「え? う、うん」

 突然話を振られて怯んでしまったが、肯定を返すと月也は満足そうに頷いた。

「ね。だからもう、君は心配しなくて大丈夫。満の良い友達でいてね」

 それは見た者を惚れ惚れとさせる完璧な笑顔だった。
 しかしその笑みを間近に見た満と吉本だけが口角を引き攣らせていた。その目の奥が全く笑っていなかったからだ。
 吉本はまるで首元に刃物でも突きつけられたかのように固まっている。満は冷や汗を掻きながら、やっぱり早く月也を教室から出そうと決意した。

「月也、俺もう交代の時間だから! 一緒に出よう」
「えっ? タイミング良いなぁ。もしかして一緒に文化祭回れる?」
「回れるから! ごめん吉本、もう交代して大丈夫か?」
「あ、ああ……大丈夫。もう時間だし」

 吉本はなんとか声を絞り出して返事をした。この一瞬でどっと疲れたような顔をしていてかなり申し訳なくなった。対する月也は一瞬で機嫌を直し、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だった。

「そういえば吉本、さっき何か言いかけてた?」

 ふと思い出し振り返ると、吉本は困ったように笑って、「いや、なんでもない」と手を振った。

「あの人、藤山くんのお兄さんってほんと?」
「藤山くんと仲良くなったらお近づきになれるかなぁ?」

 月也と教室を出る寸前、背後から女子たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。

「いや……、藤山にちょっかいを出すのは、やめておいたほうがいいかもな……」

 どことなく元気をなくしつつも、女子たちを諌める吉本の声も聞こえた。帰りにでも謝ろう、と満は内心溜め息をついた。
 それから月也を引っ張って、空き教室までやってきた。
 文化祭中の空き教室は使わない机などが詰め込まれた物置になっている。少し埃っぽいが、静かで人が来ないので過ごしやすい……というのを、満は去年の文化祭のときに発見した。

「ここ、俺も入っていいの?」
「ダメかもしれないけど、人は来ないし大丈夫」
「へえ。人が来ない密室に連れ込まれて、何されちゃうんだろ?」

 にやにやと楽しそうに口角を上げる月也に覗き込まれ、反射的に睨みつけた。
 月也はあまり満を揶揄うことはしないが、今日はなんだかストッパーが外れているような感じがする。そもそも、来ないでいいと断っていたのに学校まで押しかけてきたのだから、その時点でストッパーは外れている。

「で、学校での俺を見て満足はできた?」

 適当な机の上に腰掛けて月也をじろりと睨めつけた。教室での騒動を戒める気持ちだったのだが、月也は満の鋭い視線すら愛おしいといった様子で嬉しそうに顔を綻ばせた。

「うん、それはもう。まあ、本当はお化け屋敷で怖がる満とかも見たかったけど」
「月也が目立つからダメ」
「あはは、ごめんね」

 目立っていたということは否定しない。ということは分かっていて、あえて満の教室に来たのだろう。満の兄という存在を示すために。
 月也は満の目の前の机に腰掛ける。満より長い脚が強調されて、こんなくたびれた空間でも絵になってしまうのを、今日ばかりは少々憎らしく思った。

「俺は、満が小学生だった頃も中学生だった頃も知らないからさ。正直、ちょっと心配してた部分もあったんだけど……それは杞憂だった。仲の良い友達もいるんだね」
「吉本のこと? 仲良いかは分からないけど、クラスの中では話すほう。前も話したと思うけど、色々心配してくれるんだ。育ちがいいからかな……」

 満が呟くと、月也は曖昧な笑みを湛えた。

「ふうん」
「……なんか、吉本に棘あるよな?」
「ん? まあ、横から奪われたくないからね」

 それ以上は何も言わないと示すように月也は満から視線を逸らし、外を眺めた。
 それから、しばらく二人とも何も言わないまま無言の時間が過ぎていく。それも気まずいということはなく、ただまったりしているという空気感だった。遠くから聴こえる文化祭の喧騒は、まるで映画の中のようだ。違う世界に、二人きりで逃げてきたみたいだった。
 ここは二階の空き教室で、窓の外を見遣れば、ちょうど同じくらいの背の高さの紅葉が目に入る。実は穴場な紅葉狩りスポットだったのだと、そこで気が付いた。去年は机に突っ伏して寝ていて、気にも留めていなかった。

「綺麗だね」

 静かに紅葉を眺める月也の横顔を見て、満はふと月也の学生時代に想いを馳せた。

「……ねえ、月也の高校時代ってどんな感じだったの。勉強ばかりしてたとは聞いたけど」

 沈黙を破った満のほうをゆるりと見遣る月也の表情は、仄かな憂いを帯びている。

「これといった思い出はないんだよね。中学の頃は大学までエレベーター式の私立に転入して、ひたすら勉強して……その私立は幼稚舎から入ってる実家が太い人間が多いから、人脈づくりにも精を出していたかな。付き合いで色々とやったけど、正直どうでもいい思い出だな……。俺にとっては全部、満に会うための手段だったから」
「その頃の友達と会ったりしないのか?」
「するよ。付き合いで飲みに行ったり。けど、今でもそういう人と話すたびに価値観の違いに辟易とするんだよね。実家が裕福な人たちってさ、貧困家庭に対する想像力がないんだ。だから簡単に、金がないのは努力不足だと嘲笑したりする。……俺は小学校の頃から結構真面目に勉強してたんだよ。良い会社に入って稼いで満を養いたいと思ってたから。でも爺さんの家に行って教育にかなり投資してもらってから思い知った。当然、貧困家庭からのし上がる人たちも多くいるだろうけど、土壌の違いは本当に大きい。土壌が整っていなければ作物は上手く実らないんだって」

 幼い頃から満のために生きてきた。月也の友人たちを想像して、その献身を笑われてはいないだろうかと不安が芽生える。そして月也の愛情を守りたいと思える自分に安堵した。月也と再会できなければ、何も知らず、ただ兄の行動を不可解に思うばかりだったのだから。

「愚痴になっちゃったな、ごめん。まあ、だからのらりくらりと過ごしてたってわけ。……ああ、でも学校に行く道にあった桜並木はよく覚えてるなぁ」

 月也は脳裏に浮かぶ桜並木の香りを追いかけるように目を伏せて天を仰ぐ。教室へ差し込む光が、スポットライトのように月也へ差し込む。絵画のような光景に、満の視線は無意識のうちに釘づけになっていた。

「桜並木の下を通るたびに泣きそうになった」
「なんでそんな感傷的に? 桜が好きなのか?」
「ううん。昔のことを思い出して。満は覚えてないと思うけど、二歳くらいのときかなぁ……二人で公園に遊びに行ったことがあってね。桜が綺麗な公園だった」

 家の近くに公園があったことはぼんやりと覚えているが、遊びに行った記憶がない。二歳の頃の記憶となると、さすがにぼんやりとも思い出せなかった。

「満が待っててって言うから、ベンチに座って見守ってたんだ。そしたら桜の木の下で何かを探し始めて、なんだろうと思ったら、何かを拾い集めて、すっごい笑顔になってね。俺のほうに走ってきて、手を差し出して『あげる!』って言うの。見てみると、その手のひらいっぱいに桜の花びらが乗ってた。落ちてる花びらの中から、比較的綺麗なものを選んで俺のために集めてくれたんだって……。ね、可愛すぎない?」

 尋ねられても、自分のことだから同意はできない。
 月也はその光景を思い浮かべているのか、顔がゆるゆるに緩みきっている。つい先ほど、月也にきゃあきゃあ歓声を上げていた女子たちにこの顔を見せてやりたい……と、つい思ってしまった。

「春を告げてくれる天使かなって、あまりの愛おしさに胸が締めつけられる想いだったのをよく覚えてる。だから高校生時代のいたいけな俺は、桜を見て泣きそうになってた。今は満が傍にいるから、また一緒に桜を見に行けるね」
「花びらは拾わないけどな」
「いいよ。今度は俺が拾ってあげる」

 月也はおもむろに立ち上がると、満の隣に来てまた机に腰を掛けた。そして満の頬にそっと手を伸ばす。

「学校では、やっぱだめかな?」

 月也が何を求めているのか、その熱を帯びた視線でわかってしまうのが悔しい。満はそっと視線を月也から外す。

「ダメに決まってる」
「ほんとに?」
「…………ダメ」
「だめじゃないって、顔してるけど?」

 どんな顔だ、と思っていると月也の顔が視界いっぱいに広がって、唇に温かさを感じた。触るだけの、優しい口づけだった。

「満が桜の花びらをくれた日も、満の額とか頬にたくさんキスをしたんだ。もう可愛くて可愛くて」
「……海外じゃないんだから」
「日本だって、母親は子供にキスをする。……俺はドラマでしか、見たことないけどね」

 二人で顔を見合わせて笑った。胸に広がる感情は、無視できないほどに身体中を満たしていく。
 気恥ずかしさと、くすぐったさと、甘さと——、それはこの世の優しい感情をすべてブレンドしたような、心地良いものだった。

「春を告げるで思い出したんだけど、満、自分の誕生花って知ってる?」
「誕生花……? 誕生花って、そもそも何?」
「三百六十五日、その時期の旬の花とかが日付に宛てがわれてるんだよ。まあ本やサイトごとに違う花が書かれていたりするから、星座みたいに確立してるものではないみたいだけど。満の誕生日は一月十六日だろ? 俺が昔見た本だと、スノードロップっていう花だったんだ。春先に咲くから、春を告げる花って言われてる花だよ」
「スノードロップ……?」

 聞いたことがあるような、ないような。今まで生きてきた中で花に興味を持ったことがなかったため、名前を言われただけではビジュアルが思い浮かばない。チューリップだとかコスモスだとか、そこらに咲いている花なら、まだ思い浮かぶのだが。

「ていうか、月也が花に興味を持ってるのが意外だった。本を読むほど好きだったんだ?」
「いや、特別興味があったわけじゃないんだ。ただ、中学生のとき授業で絵のモチーフを決めなきゃいけない課題があって、そのときに先生がいくつか持ってきてくれた本の中のひとつに花の本があったっていうだけで」

 なるほど確かに、それなら本を読まなきゃいけないなと納得する。

「誕生花というものを知って、真っ先に満の誕生日を調べた」
「自分の誕生花は?」
「そういえば知らないな。調べなかったから。どんな花でも満の誕生花をモチーフにしようって決めていたし」

 本当に、この兄の盲目さはすごいと他人事のように感心してしまった。満だけを見つめた猪突猛進っぷりに、少し前まで何かを企んでいるのかもしれないと気が気ではなかったのが今では信じられない。

「それで、スノードロップを描いたんだ?」
「そうそう。ちょっと待ってね……ほら、この花」

 月也がスマホで画像を検索して見せてくれる。差し出された画面を覗いて、満は目を瞠った。写真に写っていたのは、下を向いて開いている小さな白い花だった。

「先生が持ってきてくれた本はカジュアルな雑学図鑑みたいな感じで、伝承とかも書いてあって。スノードロップはキリスト教の伝説があるんだ」
「そう、なんだ。……どんな?」

 満が訊くと、月也は少し得意げな顔をして満を見つめた。

「旧約聖書のアダムとイヴは分かる?」
「詳しくは知らないけど、名前は知ってる。創世記だっけ」
「そうそう。創世記に記されている、この世に創られた最初の人間たち。この二人が禁断の果実を食べて楽園を追放される……というのは有名な話だけど、スノードロップが絡むのはその後。
 二人が楽園を追放された日、地上は雪に覆われていた。冷たい雪の中で楽園追放を嘆くアダムとイヴだけど、二人を憐れんだ天使が現れて冬の後には春が訪れるのだと教えた。そして、冷たい雪を花に変えて見せたんだ。その花がスノードロップ――という伝説」

 メモした内容を読み上げているかのように淀みなく、滑らかに月也は語った。相当この話を気に入っているだろうということが察せられた。

「花言葉は『希望』。確かに降雪が激しくて冬が厳しい地域なんかでは、春の訪れっていうのは希望だよね。……俺にとっては春を告げてくれるのも、希望もすべて満だったから。スノードロップの話を知ったとき、なんてぴったりな誕生花だろうと嬉しく思ったよ」

 ひどく優しい表情で満を見つめながら、月也は滔々と語る。そっと手を握られて、満もゆるく握り返した。温かく、大きな月也の手。握られた感触にどこか既視感を覚える。 ——何か、大事なことを忘れている気がする。
 そして、考えてみれば一つ思い当たったことがある。
 満は、スノードロップという花に見覚えがあった。その真白く細い花びらが、満は好きだった。

「あのさ……課題の絵って、紙に描いたわけじゃない?」

 絞り出した声は、少しだけ震えてしまった。 なんでこんな回りくどい訊き方をしてしまったんだと顧みるが、声に出してしまったものは仕方ない。月也は小首を傾げた。

「うん。そうだよ、小さい木箱に描いた。彫刻刀を使った木版画で、最終的にはオルゴールに……」

 月也はそこまで言ってから、はっと目を瞠る。

「……そのオルゴール、満にあげたんだよ。もしかして、覚えてるの?」

 語尾が微かに震えていた。握られた手に力が籠る。伝わる体の熱が、温度を上げたような気がした。

「オルゴール、覚えてる……。今も持ってるよ。壊れちゃってるけど……ごめん、どこで壊れたのか分からなくて」
「…………っ」
「わっ」

 月也は感極まったように勢いよく満に抱き着いてきた。そのまま並んだ机の上に二人で倒れ込む。月也の体重がのしかかって重いはずなのに、それを不快には思わなかった。
 月也は微かに震える声を絞り出す。

「あれは父さんが壊したんだ。それでも、ずっと持っていてくれたの?」
「そう、だったのか……。音は鳴らないけど、ずっとお守りみたいに持ってたよ。あれ、てっきり父さんに貰ったものだと思ってたんだ。月也だったんだな……」
「うん、そう……。満はもうどこかで手放してしまってるものだと思ってた」
「荷物をまとめてたときに触らないで欲しいって言った箱があったの覚えてる? あの中に、入ってるんだ」
「大事なものだからって言ってた箱だよね? そっか……大事にしてくれてたんだ」

 月也に強く抱き締められて、月也の顔は見えなかった。しかし、その表情は想像できる。泣きそうな、どこか拗ねた子供のような顔。前に部屋のベランダで見た、瞳の中に浮かぶ朧月を思い出す。

「俺のこと、何も覚えていないのかと思ってた。でも、一緒にいた頃はまだ小さい子供だったんだから仕方ないって、それは納得してた。でも、たった一つでも、残っているものがあるのなら……嬉しい」

 ぼんやりと天井を眺めながら、満は思い出す。発条を巻いてもらって、音が鳴るのを今か今かと待っていた。発条を巻いてくれたのも、月也だったのだろうか?
 あれは月也だったのだ——そう思うと、途端に曖昧にぼやけていた記憶の輪郭が浮かび上がってくる。
 箱を開けると繊細な音で音楽が鳴る。それまで満が貰ったことのなかった特別なプレゼント。嬉しくて隣にいる月也に何度も何度も発条を巻いてもらうようにせがんだ。見上げると、少しあどけない、けれど滲んだ愛情は変わらない笑みを湛えた月也の顔があった。満は、その顔を見上げるのが、何よりも好きだった。
 あれ、と思う。満を見守る優しい眼差しが月也のものだったなら、満が父だと思っていた人は——?
 深い思考の中に沈み込みそうになった瞬間、頭上のスピーカーから突然チャイムの音が鳴り響いた。文化祭終了間際の合図だった。時計を見遣ればいつの間にかもう十六時で、一般来訪者は校舎を出なければならない時間だ。
 結局、ずっと空き教室に居座ってしまっていた。

「月也、とりあえずこの教室を出よう。片付けの時間になったらこの教室使うから、人が来る」

 のしかかっていた月也の体を退かして立ち上がる。机に寝そべったままの月也の手を引いて、無理やり立ち上がらせる。月也はまるで夢でも見ているかのように、ぼんやりと満を見つめていた。

「……満とたくさん話せてよかった」

 月也の囁きに、満も頷いた。自然と繋ぎっぱなしになっていた手を、振り解くのが惜しいと思ってしまうほどに、二人で過ごした時間は心地よかった。

「片付けが終わった後、文化祭の打ち上げとかあるの?」
「あるけど、俺は行かないって言ってある。お金、あんまり使いたくないし」
「そっか。お金なら出すから気にせず行きなよって、言ってあげたいところなんだけどさ……本音を言うと、早く帰ってきて欲しいな」

 月也は甘えるように、満の肩に額を摺り寄せた。腰を撫でられて、ぞわりと肌が粟立つ。意図しているのかしていないのか、その甘い声色に含みを感じて顔に火照りを感じた。

「わ……かった、から、放して……人が来るから……」

 あまり近付いていると高鳴る鼓動の音が聞こえてしまいそうで、満はやんわりと月也の体を押した。月也は存外あっさりと満の体を放す。表情はもう、平常運転の葛木月也の顔になっていた。

「さ、出ようか」

 繋いでいた手が離れていった瞬間、思わずその手を追ってしまいそうになって、気付いた瞬間に手を引っ込める。 
 月也の体温が、まだ手の中に残っている。満はその手を握りしめながら逸る鼓動と火照る頬を抑えようとしていた。
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「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

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